五
敵は実力者ばかりだった。常に陰の存在でいたにもかかわらず、これだけの者たちを集めた玄庵の力は計り知れない。怖気を覚えてしまうほどだ。
それでも、惣介は襲い掛かってくる敵を難なく退けている。まるで姿のない導き手でもいるかのように敵の動きがはっきり見える。
(西澤と戦ったからか)
攻撃を弾き、刀を振り下ろしながら思う。まさか四十を超えて、もう一段階成長できるなど思ってもみなかった。それでも確信する。
(俺は今、人生で一番強い)
己の強さに、逆に驚きさえ覚えるほどだ。
惣介が次々と切り崩していく一方で、新之丞は敵を引き付けていた。それは追いつめられているからではなく、攻撃を放った際に生まれる隙を狙っているためだ。
新之丞が得意とする戦い方である。
「新之丞、つき合うぞ、最後まで!」
惣介が叫ぶと、新之丞は表情一つ変えずに敵の腕を打った。峰打ちである。玄庵に操られているだけで、藩士を斬る必要はない。悪いのはすべて玄庵なのだ。
敵が刀を落とした。惣介は笑みを浮かべながら、迫ってきた敵の肩を打つ。
こうして新之丞と一緒に戦っていることに、惣介は今、高揚を感じている。
敵のわき腹を打ちながら、ふと過去を振り返った。
隣にはいつも新之丞がいた。無鉄砲な俺をいさめ、それでも結局は一緒になって行動してくれた。あのころ俺は新之丞に対して絶対的な信頼を寄せていた。常に冷静で、けっして道を踏み外さない新之丞がいたからこそ、俺はなにも恐れることなく飛び込んでいくことができたのだ。
「くっ!」
過去に意識を向けていた惣介は、もうひとりの友の声を聞いてうつつに戻る。
文七は苦戦していた。
敵に囲まれ、次から次に襲い掛かる攻撃をなんとか防いでいる。
(文七のやつ、稽古を怠ってきたな)
惣介は舌打ちした。文七がドタドタと刀を振り回す姿は、不格好な中年そのものである。
「大目付配下のくせに」
惣介は目の前の藩士の籠手を打つと、畳を蹴って文七のもとに向かった。
「無事か!」
「ムリだ!」
叫び返しているうちに敵のひとりが文七に斬りかかる。
「うあぁあああ!」
文七が絶叫した。喚きながら一歩前に出て相手の攻撃を防ぐ。そして返す刀で、
「おりゃぁあ!」
斬り下げた。文七の刀は敵の肩に届き、ごつっという鈍い音が響いた。敵が膝をつく。文七は険しい目のまま固まっている。
「なかなかやるではないか」
惣介は文七の隣にならんで、そう言った。
「俺も仁田道場で学んだひとりだからな」
「では、切り抜けられるな」
「ムリだ」
即答する文七に、ふん、と鼻を鳴らす。二人並んで敵の攻撃を防ぎ、反撃に移る。
三人は敵を圧倒した。惣介は豪快に相手を倒し、新之丞は飛びかかってきた敵を返り討ちにする。文七はなにごとかを叫びながら、惣介にぴったりとくっついている。
その強さにおののいたのか、敵が徐々に下がり始めた。上座のほうへ追いやられていく。
それを見た玄庵が顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。
「お前ら、たった三人を相手になにをしておる! 退くな。斬れ!」
その叱咤に応じて二人が飛び出してきた。だが、ひとりは惣介が肩を打ち、もうひとりは新之丞があばらを叩いて動けなくなった。呻く藩士を見て、玄庵の顔が青黒く変わる。
玄庵に耳打ちする者があらわれた。学塾の師範白川だ。白川からなにかを伝えられた玄庵は、なるほど、とうなずいた。
「その方、加瀬惣介というそうだな」
指差された惣介は、眉をひそめながら動きを止める。
「そうだが、それがどうした」
返事をすると、反応があったことに気をよくしたのか、玄庵の顔にたちまち喜色が広がった。
「みなの者、刀を下げよ。わしは加瀬と話がしたい」
玄庵の護衛は、それでも刀を構えて警戒する。玄庵は怒りをぶちまけた。
「わしの命令が聞けぬか! 刀をおろせ!」
藩士が構えを解き、後ろにさがって道を開ける。玄庵は、
「犬どもめ。最初から素直に従え」
そう吐き捨てたが、惣介と目が合うと、途端に柔和な笑みを浮かべて声色を変えた。
「加瀬惣介。そなた、農業にずいぶん詳しいそうだな」
惣介は刀を下げて一歩前に出る。
「今は湊組だ」
「そのことも聞いておる。どうだ、もう一度農政にたずさわりたいとは思わぬか?」
「いずれ戻るつもりだ」
「家老にしてやる」
「は?」
思わず問い返す。玄庵が鷹揚にうなずく。
「ただの家老ではない。農業を専門とする家老だ。わしがそうした役職を作る」
「執政の決定は合議制のはず。農業専門と言われても、どういうことになるのかまったく見当がつかぬ」
惣介が言うと、玄庵は両手を広げた。
「なに、わしにかかればたやすいこと。農業はすべて加瀬に任せよ、そう言えばよい。口を出した者はけっして許さぬ、と申せば執政どもはお前に従うだろう」
「農政に関わる権限を、それがしひとりが握れるというのか?」
「そういうことだな」
「年貢を六公四民に変えると言うかもしれぬぞ。村だけではなく、藩全体の収入にかかわる」
「代案があるのだろう?」
覗き込むような視線に惣介は生唾を飲み下した。
(ある)
畳表の原料であるいぐさ、絣にするための木綿の栽培。城下への青物の流通経路の確立と販売網の整備。それらに取りかかり、まずは百姓が金を稼げるようにする。そのうえで年貢納入を金でもよいと認める。そうなれば米よりも商品価値の高い作物に栽培を切り替えることができるはずだし、百姓も励めば励むだけ豊かになれるはずだ。藩の実質的な収入増加にもつながる。
それらを実現するための筋道を惣介は長年考えてきた。実現にはある程度の期間が必要だが、長期的な視点を持って取り組めば必ずや藩の、そして領民のためになるという自信がある。
藩とは、すなわち民なのだ。惣介はそう考えている。
民が満ち足りた暮らしを送っていれば、藩は潤うのである。そこのところが、柳沢をはじめ、執政衆には理解できていなかった。惣介が主張する農政改革に何の興味も示さず、民から搾り取ることばかり考えていた。
「加瀬、貴様が家老になり、福備を変えろ」
揺れる惣介の心を射止めようとするかのように、玄庵がぴしゃりと言う。
惣介は刀をおさめると、ふいに久保のほうへ目を向けた。自分でもどうしてそのような行動を取ったのかわからなかったが、あるいは執政に惣介が加わると聞き、名家生まれの久保がどのような反応をするのか確かめたいと思ったのかもしれなかった。
久保は青ざめていた。おびえるような目で惣介を見つめ、目が合うと、あわててそらす。ひどく小さな人間に見えた。
「久保も理解しておるぞ」
玄庵が言った。久保を横目で見ながら、押さえつけるような声で付け足す。
「農業に関してはなにも意見を申さぬ。すべて加瀬に任せる。そうだな、久保」
久保が慌てて頭を下げる。
「は。仰せの通りにございます」
「どうだ、加瀬。わしはお前が長年培ってきた農業の知識を最大限活かしてもらいたいと思っている。手を貸してくれぬか」
言いながら一歩近づいてきた。いかにも人のよさそうな顔をしている。このようにして、多くの人を抱き込んできたのだろう。
「惣介、気をつけろ……。多部玄庵の罠だ」
新之丞がたしなめる。惣介の気持ちが玄庵のほうに傾きかけていると感じたようだ。惣介は、心配する新之丞に向かって、
「しかしだな、新之丞……」
と迷うようなそぶりを見せた。そして、顎を上げ、片目を閉じる。
「惣介、お前、なにを考え……」
言いかける新之丞を制して、惣介は玄庵に問いかける。
「我が倅の清次郎が友浦牢にとらえられております。解き放っていただけますか?」
「なに、加瀬の息子が?」
驚く玄庵に、再び白川が耳打ちする。聞いた玄庵は、ふむふむとうなずくと、また一歩近づいた。
「よかろう。すぐに牢から出す」
「倅を助けていただいた上、家老にまで昇進させてくださると?」
「加瀬が望むのであれば、ほかにもくれてやる。禄か? 金か? 女か? すべてを与える力をわしは持っている。そしてお主はそれを受け取るだけの価値がある。わしのもとに来い、加瀬」
「もったいなきお言葉、ありがたき幸せにござります」
惣介は両手を頭の上にあげた。その状態で一歩ずつ進み出る。藩士たちは惣介が近づくと、さらに後ろにさがった。
「おい、惣介」
文七が後ろから呼びかける。歩き始めた惣介の肩をつかむ。
「よせ」
文七の手を払い落としたのは新之丞だ。
「惣介が選んだことだ」
「新之丞……」
「俺たちは黙って見守るしかない」
二人を振り返った惣介は、鼻で笑ったあと、再びゆっくりと進み始めた。上座で玄庵が待っている。近づくたび存在感が増していく。小柄だが、圧倒されるほど巨大な男。まさに、福備藩の頂点である。
玄庵の前で止まった惣介は、その場で片膝をついた。それは惣介が屈したことを部屋中に知らしめるものだった。途端に空気が緩んだ。藩士たちは肩を下げ、久保と白川は惣介を黙って見つめる。惣介は膝をついた状態で玄庵を見上げた。
「玄庵さま。加瀬惣介、この身を福備藩のためにささげることを誓います」
玄庵が白いひげを撫でる。
「そなたの働きに期待しておる」
そのときである。
惣介は上半身をかがめると、伸びあがるようにして背を伸ばした。
白い閃光が放たれる。
惣介が再び片膝立ちに戻り、鞘に刀をおさめると、部屋中を静寂が満たした。誰も動かなかった。周りの者には、惣介がただ身じろぎしたように思えたのかもしれなかった。
「ぐっ……。うぅ……」
呻いたのは玄庵だ。胸の衣が切れ、肌に赤い線が走り、血がドッと噴き出る。
「あなたがいると福備藩のためになりませぬ」
惣介が言い放つ。玄庵が後ろに倒れた。枯れた木が倒れたような軽い音しかしなかった。小柄だったことも関係しているだろう。血を溢れさせていたことも影響していたかもしれない。だが、所詮その程度の男だったのだ。これが自分の欲望のために生きた人間の死だ。
倒れた玄庵は仰向けのまま動かない。なにが起こったかわからないといった表情で、天井を眺めている。惣介のあまりの素早い剣に命が絶たれたことにさえ気づかなかったようだ。
「あ、貴様!」
藩士たちが騒然とする。
「玄庵さま!」
久保と白川が玄庵に駆け寄り、体を起こす。
「亡くなられている」
久保のつぶやきを聞いた藩士の目が吊り上がる。
だが惣介は、それらを手で制し、腹の底から声を出した。
「そなたらの主人は誰か!」
今だけは声を張らなければならない、そう思う。
「福備藩士の主人は江戸におられる多部備中守政通さまをおいて、ほかにはおらぬ!」
藩士たちが静まる。刀を構えたまま、動けなくなる。
「そして、殿の願いはただひとつ。国元福備が安泰であること。そのために、そこにおられる市原さまにひそかに指示を出された。国元を我がもの顔で操る、多部玄庵と柳沢作兵衛を討つこと。大目付の加賀山さまを遣わされたのもそのためだ!」
言ったあと、惣介は新之丞に目を向けた。
「そうでしたな。ご中老さま」
新之丞は驚いたように目を丸くしたあと、唇を引き結んで、コクコクとうなずいた。
「さよう。突然のことゆえ本日は持参しておらぬが、上意書きを保管しておる」
今度は惣介が目を丸くする番だ。新之丞の予想外の嘘に冷や汗をかいたのだ。
(よく、中老にまで昇れたものだ)
そう思ったが、取り囲む藩士たちは動揺し始めている。百姓と共に暮らしてきた惣介とは違って武士社会では、こうしたまっすぐな嘘のほうが信じられやすいのかもしれない。
惣介はふいに笑いが込み上げてくるのを感じた。中老の言葉の重さを実感したのだ。だが、今笑ってはすべてが台無しになる。まじめな表情を取り繕って言う。
「上意にござる。おとなしく刀をひかれよ。ひかねば、殿の名代たる市原さまと我々がお相手いたす」
にらみつけると、藩士たちは刀を下げた。惣介と新之丞の剣を、今、見せつけられたばかりだ。しかも後ろには藩主が控えているのである。歯向かえるわけがない。
藩士の中のひとりが刀を鞘に納め、腰をおろした。そして額を畳につける。
「かしこまって候」
恭順の意だ。すぐに広まっていく。
部屋中の藩士が平伏する。
惣介は頭を下げた藩士たちを見渡したあと、腕を組んで後ろを振り返った。
「そなたらはどうする?」
玄庵を抱えて固まっている久保と白川が、突如、苦悶の表情を浮かべた。特に久保の変化がすさまじい。端麗な容姿が、みるみるゆがんでいく。
「貴様ら、よくもぬけぬけと……」
食いしばった歯の隙間から、そう呻く。
「殿の名を持ち出すなど、ただでは済まされぬぞ」
「玄庵のもと、藩政を思いのまま動かすつもりでいたか久保外記」
惣介は顎を上げて言う。
「わしこそが藩を率いるにふさわしい男だ。わしは久保家の頭領……」
「藩を率いるのは備中守政通さまだ。そんな簡単なことがわからぬのか、久保家の頭領よ」
惣介は後ろを親指でさした。先ほどまで玄庵に従っていた藩士たちが、うかがうような目を向けている。惣介は久保に向かって、
「我ら、福備藩士を敵に回すつもりか!」
叫んだ。久保の顔が朱に染まる。鼻に皺を寄せ、目が飛び出そうなほど見開き、ぶるぶると震えながら拳を持ち上げようとする。が、やがてそれは力なく腿の横に垂れた。
「仰せのままに……」
久保は片膝ずつ座り、両手を畳につけた。名門の血がこの屈辱に耐えられなかったのだろう。こうべを垂れる久保から小さな嗚咽が聞こえる。
「わ、私も……」
あわてて白川も続こうとする。
「お前はいい」
惣介は膝をついた白川に手のひらを向けた。
「お前は武士ではない。空理空論をひけらかすただの学者だ」
白川の目が見開かれた。武士ではないと言われたことが屈辱らしかった。だが、白川が怒ろうが惣介にはどうでもよいのだ。儒教を教えているくせに、白川はまったく武士の心がわかっていない。所詮、武士とは程遠い存在なのだ。
惣介はわなわなと震える白川を無視して新之丞に視線を移した。目が合ったあと、口元を緩め、手を差し出す。
「さ、ご中老。こちらへ」
「うむ」
新之丞が藩士たちの間を縫って歩く。上座に立った新之丞は、ひれ伏す藩士たちを見て、大きく息を吸い込んだ。
「福備の禍根は今、絶たれた。苦しき日々は終わりを迎えたのだ」
新之丞の声はよく通る。誰もがかたずをのんで新之丞を見つめる。
「しかし、本当の意味で終わったのではない。けっして終わりではないぞ。この先にこそ困難は待ち受けている。我らが積み重ねてきた過ちを、我らの手でひとつずつ取り除き、その上に新たなものを築き上げていかなければならぬ。やるべきことのあまりの多さに足がすくむこともあるだろう。放り投げたくなるほどの果てしなき道に自信を失うこともあるはずだ。それでも未来は必ず訪れる。そして、遠く果てしない未来へ向かって進む者のもとに光は届くのだ。だからこそ進もう。……怖気づく必要はどこにもない。一人ではなく、そばには仲間がいるのだ。人はけっして一人ではない。俺はそのことを身をもって知ることができた。だからこそ……。どうか各々精進し、新しき福備藩を作ってまいろうぞ」
「はっ」
藩士が一斉に返事する。急な展開になにが起こっているかわからなくてもいいはずなのに、それでも新之丞の言葉は胸に届いたのだ。
かくいう惣介も唇を震わせていた。藩士たちの後方に立つ文七も同じである。
新之丞の言葉には熱があった。理屈ではない。胸に迫る思いが確かに存在していた。
だからだろう。聞きながら、過去のあれこれが一気によみがえってくるのを惣介は感じた。
幼少期を過ごし、青春時代を経て、大人になった。
いろいろなことがあったし、いろいろな人に会った。
いろいろな思いも経験した。
だが、どんな過去も、過ちも、すべては流れ去り、未来へ向かっていくのだ。
そのように、どうあがいても未来が訪れるのであれば、未来のために生きた方がいいに決まっている。
まだ見ぬ未来に、希望のかけらがちりばめられていると信じ、前に進んでいったほうがいいに決まっているのだ。
そうやって生きた者にこそ、光は訪れる。
新之丞の言葉はそのことに思いを馳せさせる名演説だった。
(こうしたところは、さすがだな)
洟をすすりながら惣介は思う。上に立つ者としての資質を新之丞は備えていたのだ。生まれは普請組四十石だったが、こうして異例の出世を遂げたのも、その資質によるところが大きい。市原新之丞とは、天がこのすさんだ福備を立て直すために遣わした英傑だったのかもしれない。
「ふぅ」
新之丞が顔を天井に向けた。放心したような表情を浮かべている。
「長かったな」
惣介は隣に並んだ。
「長かった。だが、思いは果たせた」
「思い、か……」
言ったあと、惣介は首を振った。
「だが、まだ終わりではないぞ。重要なことが残っている」
「これからの福備をどう作るかということか?」
新之丞が横目で見てくる。
「いや。清次郎を助けることだ。なによりも先にそれを果たしてもらわねば困る」
惣介が肩をぶつけると、新之丞は驚いたような顔をしたあと、
「そうだな」
とほほ笑んだ。
「まことに。それがまずは最優先だ」
二人同時に笑う。二十年という年月を超え、今、声を合わせて笑うことができた。それは福備藩にはびこっていた闇が取り払われたことをみなに示そうとでもいうように、朗らかに響き続けたのだった。