二
一年が過ぎた。季節は再び秋を迎えた。惣介は高台から芦田村全体を眺めながら、
「今年はよく実ったな」
そうつぶやいた。吊り下げられた稲が黄金色に輝いている。田んぼの中央を南北に連なる稲の天日干しは秋の風物詩だ。
「加瀬さまが郡代になられた最初の年が豊作に恵まれたことは、天の思し召しであろうと思います」
応じたのは庄屋の作造だ。言葉遣いは丁寧だが、どこからも緊張感は伝わってこない。気心知れた間柄が、郡代と庄屋という立場になっても変わることなく続いている。
惣介はこの日、豪農の田中林蔵の屋敷で近隣の庄屋たちから稲の収穫高を聞いた。天気に恵まれたこともあって、どこも例年よりも多く実っていた。庄屋たちの明るい表情を見て気分をよくした惣介は、作造の案内で芦田村を訪れた。
(久しぶりに村を回る機会を得た)
郡代になってからというもの、書類仕事ばかりで、以前のように村を見て回ることができなくなっている。土を踏みしめながら、のんびりと福備を感じたい。常々思っていた惣介は、丘を上ったところで、田園地帯の清冽な風を胸いっぱいに吸い込んだ。
「世辞を言わずともよい。お前らが汗水流して育てた結果だ」
言うと、作造が小さく笑みを洩らした。
「私たちを育てたのは郡代さまでございますよ」
「それも世辞だな。お前たちは最初からたくましかった。育てられたのは俺のほうだ」
「まあ、そうですな。ご無礼を承知で言わせてもらうなら、お互いに育ったのかもしれませぬな。加瀬さまも、私たちも」
「そういうことにしておくか」
鼻を鳴らす。顎の先をつまみ、村に目を向けて言う。
「育つと言えば、あれはどうだ? 少しは使えるようになったか?」
「あれというのはなんのことでございましょう?」
とぼける作造に渋面を浮かべる。
「あれと言ったらあれだ。……ほれ、清次郎のことだ」
「ああ」
作造がわざとらしく手を叩いた。
「だいぶ、農業を理解するようになってきたようです。指導役がしっかりと手ほどきされますので」
「弥一には今度、酒を馳走せねばならぬな」
息子の清次郎は年が明けるとともに郷方勤めを命じられていた。以来、郡代に昇進した惣介の下で見習いとして勤めている。城下で育った清次郎は、農村の暮らしをほとんど知らず、勤め始めたころは、百姓との付き合いや、土との向き合い方にずいぶん戸惑いを覚えたようだった。それでも、郡奉行への昇進を拒否した奥弥一の指導のおかげで、少しずつ慣れ始めている。それどころか、もともと学塾で優秀だとうたわれた清次郎は、過去の文献や他藩での事例などを片っ端から調べ、時に、惣介と夜食を共にしながら質問を浴びせかけてくることがあった。そんなとき、惣介は自らの経験を踏まえながら問いに答えるのだが、そこに新しい視点からの切り返しを受けたりして驚かされることがある。二人の議論は白熱した。親子であることの遠慮や、その逆の図々しさもまったく介在しない、同役による話し合いだ。今や二人は、福備の農業の発展を一緒に目指す同志になっている。
「今年から徐々に年貢が減らされていくことが決まった。少しずつだが、お前たちの暮らしもよくなるはずだ。柳沢とお前たちが交わした二年以内という約束が守れなかったことは申し訳ないが……」
作造を連れて丘を下りる。後ろを歩く作造が、ありがとうございます、と礼を述べたあと、明るい調子になって語りかけてきた。
「市原さまがご家老に就かれたことは、我々にとって幸いでした。郡代のころから、私どもの暮らしを理解しようとしてくださいました。私どもはそのために市原さまを信じようと思ったのです」
「俺も郡代時代のご家老の話は耳にしている。初めて農政にたずさわったとは思えぬほど、理にかなった仕事をしておったと、どの村も言っていた。もともと頭がよかったからな、ご家老は。なにをやっても、どこに行っても、成果を出す。そういうお方だ」
「確かに市原さまは優秀でございました。ですが、それだけで私どもが市原さまを信頼したかというと、そういうわけではございません」
「なんだ。なにかあったのか?」
作造を振り返る。
「市原さまは加瀬さまのことを熱心に聞いてこられました」
「俺のことを? ご家老が?」
「市原さまは郡代になられた当初、加瀬さまの仕事をずいぶん調べられました。私たちにも、加瀬さまがどのように我々を指導していたか、百姓との付き合いはどうだったかを丹念に聞かれました。郡代さまが直々に我らのもとに来て、教えを乞いたいと言うのです。私たちは驚くとともに、この方はほかの方とは違うな、と思いました」
作造は言葉を切ったあと目を遠くに向けた。空は見事な秋晴れで、一面の青の中にちぎれ雲が漂っている。
「それからも、なにか問題にぶつかるたび、市原さまは村に来て、加瀬さまならどうしていたと思う、と聞かれました。そして、一通り話を聞くと、さすがは惣介だな、と。そう加瀬さまのことを申して帰って行かれるのです」
思わず苦笑する。柳沢がとらえられた一件。あの事件に、初めから自分はかかわっていたのかもしれないな、と思った。新之丞は、柳沢を失脚させるには百姓に騒動を起こさせる以外に方法はない、と仕込んできたのだ。それは百姓からの信頼を得ていたからこそできたのだった。そして、いつでも偽装一揆を起こせるよう段取りを付けたうえで機会を待ち続けた。その機会は、清次郎たちを柳沢につかまえさせたことで訪れる。あのころ柳沢は、江戸から見放され、玄庵のもとに久保が出入りし始めたことに焦りを感じていた。そのために新之丞の罠に飛びついたのである。そしてとらえられ、すべてを白状させられたうえ切腹を申し渡された。
「市原新之丞はできた男だ。……いや、今は市原左内と名を改めておるのだったな。……うむ、左内は昔から頭の切れる男だった」
新之丞と過ごした日々を思い出す。
「思い返してみれば納得がいく。あいつは心が真雪のようにまっさらだった。それをむやみに汚させはせぬという強靱な意志を持っていた」
惣介は、黙って聞く作造に微笑みかけた。
「自分をいつまでも失わなかったところが、いかにも市原左内らしい。自然、堅苦しく映る。周りからは、どうしてそんなにも苦労を背負い込むのか、とあきれられてしまう。だが、左内からしたら、そうする以外には考えられなかったのだろう」
「不思議なお方ですな」
「楽をするのが嫌いなのだ。勘定奉行に、上総から田島五郎右衛門を呼び戻したのも、そうした性格ゆえだろう。田島もまた堅物で、左内が金の都合を相談しても、ことさら厳しく、使い道から見込まれる成果まで根掘り葉掘り聞くそうだ。自分の言いなりになる者を勘定奉行に据えておけば、もっと自由に金は使えただろうがな」
惣介は、金のやりくりに頭を悩ませる新之丞を想像して、ほくそ笑んだ。
「まぁ、紆余曲折はあるかもしれぬが、この藩は確実によくなっていく。まもなくお上の代替わりも行われるしな。あとを継がれる三男の継通さまはしっかりとした信念をお持ちのお方だそうだ。左内から聞いた話だが、継通さまは老中を辞退しようかという考えをお持ちらしい。三代続いた老中を辞めるとなれば相当な覚悟がいる。それなりの騒動も生まれるはずだ。だが、もし実現すれば国元もだいぶ楽になるに違いない」
いつの間にか丘を下り終え、田に挟まれた小川沿いを歩いていた。赤く色づいたもみじが水面を流れていくのが目に鮮やかだ。
「作造、けっしてくじけるなよ」
作造を見て、力強く言い放つ。
「お前たちの強さはよくわかっている。だが、あえて言う。くじけるな。さすれば、俺たちはけっしてお前たちを見捨てはせぬ。左内は藩をまとめる立場から、そして俺は郷村という現場から、この福備に暮らす民のため励み続ける。長い年月をかけてでも必ずや福備をよい形にしていこう、俺たちは強く思っている」
「我々も、誠心誠意がんばります」
作造が見つめ返してくる。特に感極まったという様子はない。いくら前向きな言葉を投げかけられても、言い返したいことは山ほどあるに違いなかった。そう思わずにはいられないほど百姓は弱い立場にいる。虐げられてきた過去がある。簡単には武士の政を信じることができないのは当然だ。だが、作造の瞳にはかすかな光が宿っていた。これからの自分たちに対する期待に違いなかった。ようやく未来を思い描くことができるようになったのだ。
「ま、藩を変えるのは俺と新之丞だけではないがな」
惣介は田んぼの中ほどを指さした。百姓たちに交じって二人の武士が働いている。吊るした稲をひっくり返し、裏面を日に当てようとしているのだ。こうして、あと数日も乾かせば、稲の中に残った水分は完全に抜け、良質な米になる。
百姓たちにはやされながら、慣れない手つきで横木に稲をかけようとしている若者は清次郎だ。夏の間に真っ黒に焼けた肌は、秋になっても抜けることなく浅黒い。郷方勤めらしい風貌も、ようやく見慣れたものになってきた。
「あいつらも、福備の民のために働く。その考えは少しずつ広まっていき、藩士たち全員が同じ方向を向くようになる。そうならなければいけないし、そうした人間を育てていかなければならない。それが、郡代としての俺の役割のひとつなのだろう、そう考えている」
清次郎が稲をかけ終えて額の汗をぬぐうと、隣で作業していた弥一がなにか声をかけた。清次郎を冷やかしたらしい。周りの百姓から、どっと笑いが起こった。清次郎も清次郎で、後頭部を掻きながら恥ずかしそうに笑っている。
「どれ、俺も交ざるとするか」
歓声の方へ歩み始める。
「お待ちください、郡代さま」
「作造、お前も手伝え。最近、少し太ったのではないか? 庄屋だからといって、なにもせず眺めてばかりではならぬぞ。汗をかくのだ、汗を」
そう言って作造の肩を叩いたが、そこには意外にも筋肉の厚い盛り上がりがあって惣介を驚かせた。惣介は苦笑を洩らすと、
「弥一、清次郎。俺も手伝うぞ」
腕まくりをして乾いた田んぼに降り立つ。
「加瀬さん、大丈夫ですか」
すぐに弥一が言う。清次郎が抱えた稲束の間からこちらを見る。泥土を踏みしめながら近づく惣介を見て、弥一が再びからかうように言った。
「最近は城での仕事ばかり忙しくて、村に来るのも久しぶりではないですか。無理しなくていいですよ」
「なにを言う。いくら忙しかろうと、木剣の素振りは毎日欠かさず行っておる。体はなまっておらぬわ。それに、俺は二十年近く、この仕事を続けてきたのだぞ。同僚から、あいつは田んぼに入ってなにをしておるのだ、と白い目を向けられていた頃からずっとな。コツはつかんでおる」
清次郎に近づく。清次郎が真顔に戻り目を伏せる。
「よいか、清次郎。稲はこうやってひっくり返すのだ」
惣介は稲束を受け取ると、それを腕の中で手早く回し、そのまま肩に担いで木の棒にかけた。
「どうだ。俺もまだまだやれるだろう」
胸を張ると、百姓たちの間から賞賛の声が沸いた。それにこたえ、
「ほれ、お前もやってみろ」
清次郎をうながす。清次郎がぐっと顎を引き、稲を抱え、地面につけないように注意しながらひっくり返す。手つきはぎこちなかったが、それでもちゃんと木の棒にかけることができた。
「これでよろしいでしょうか、郡代さま……」
息子に言われて、
「うむ」
と腕を組んだ。
(そういえば……)
清次郎と村でこうして顔を合わせたのは初めてだな。惣介は急に恥ずかしいような、くすぐったいような感覚に襲われて、
「ま、最初はそんなもんだろうな」
小川の方に視線を向けた。
その惣介の目に飛び込んでくるものがあった。
「あ」
つぶやいた瞬間、全身に鳥肌が走った。清次郎のことも、弥一のことも、百姓たちのことも、まったく頭から消え、ただある一点にだけ瞳が吸い寄せられていく。
(まさか……)
青い蝶が飛んでいた。
しかも群れだ。
二十ほどの蝶がひとかたまりになって小川の上流へと羽ばたいている。
(戻って来たのか?)
惣介は呼吸も忘れて青い群れに見入った。晩秋の色あせた田園風景の中、ひらひらと漂う蝶の群れは、そこだけ色彩を得ているように際立っていた。
「どうかされましたか?」
清次郎が惣介の視線を追って、蝶の群れに目をやる。
「あぁ、蝶ですか。また来たようですね」
「また?」
惣介は目を見開いて息子を見た。
「え、えぇ」
驚いたらしい清次郎だったが、すぐに落ち着きを取り戻して、上流の森を指さす。
「森の中に、藤袴の群生地があります。そこにこの蝶たちは集っているようです」
「藤袴というのは薄紅色の、小さな花がいくつもついている、あの花のことか?」
惣介が手で丸い形を作ると、清次郎はこくりとうなずいた。
「五日ぐらい前でしたでしょうか。それがしも蝶を見つけて、あれはどこに向かうのか、と村の者に尋ねました。それで教えてもらったのです」
「森の中と言ったな……」
「あのときも相当な数の蝶がおりましたが、さらに増えているはずです。こうしてやって来るのをたびたび見かけておりますから」
清次郎は小川沿いを飛ぶ蝶を眺めたあと、唾を飲み込んで父を見た。
「よろしければ、ご案内いたしましょうか」
「いや……」
案内してもらうまでもなく、その場所なら知っている。若かりしころ、新之丞、文七、巴恵と連れだって訪れた場所だ。郷方勤めをするようになってからも、何度か晩秋のこの季節に足を運んだことがある。三年前の豪雨で流されたはずのあの花畑こそ、清次郎が言っている場所で間違いないだろう。
だが惣介は、知っているはずのその場所に、ひとりではなく、清次郎と一緒に行ってみたい、という気持ちに襲われた。理由は特にない。理由など見つけられるはずがないのだ。ただ息子と蝶の群れを眺めてみたい、その思いが溢れている。
「すまぬが、頼んでもよいか?」
言い直すと、清次郎はふいに目を伏せた。一瞬あらわれた親子の親密さを清次郎は自ら閉じようとしたらしかった。
「郡代さまの仰せであれば……」
惣介は弥一に声をかける。
「弥一! 清次郎を借りていくぞ。よいな」
弥一は惣介の思いを理解したらしく、朗らかな笑みを浮かべて、
「どうぞ、どうぞ」
と両手を差し出すしぐさをした。周りの百姓たちも微笑んでいる。
惣介は、夕方までには帰る旨を伝え、清次郎と連れだって上流へ歩き始めた。先ほどの蝶はすでに見失っていたが、蝶が飛ぶ軌跡は惣介の目にしっかりと焼き付いていた。
息子もまた、うなずき返してきた。