六
上座に座った男は目を閉じている。しばらく扇子で手を叩いたのち、目を開け、
「白川。これは期待以上だな」
と顔を右に向けた。齢は三十二だと聞いているが、落ち着いて見えるのは名家の御曹司として育てられてきたからだろう。狐のような顔だちでけっして美男と言うわけではなかったが、気品を感じさせる不思議な魅力の持ち主だ。
「は、ご家老。うまく事をはこべば、柳沢をとらえることも可能かもしれませぬ」
久保外記の質問に白川が低頭して答える。白川は顔を上げて久保と目を合わせたあと、にやりと笑った。当然、派閥の長である久保も笑みを浮かべている。権力が自分たちのもとに転がり込んでくる瞬間を想像しているのだ。
(いやな笑いをするやつらだ)
惣介は胸のうちで毒づく。だが、態度に出してはならない。清次郎の安否がかかっているのだ。
城下に戻った惣介を迎えに来たのは、またしても金吾だった。金吾は、久保が惣介に会うことを了承した旨を伝えると、
「屋敷までお連れするようにとのことでございました」
と惣介を巨大な邸宅に案内した。広間に通された惣介を待っていたのは、家老の久保となぜか学塾の師範をしている白川だった。惣介は、白川が同席することに疑問とそれ以上の嫌悪を抱いたが、清次郎のためと自分を殺し、柳沢派が一揆を利用しようとしていることを語って聞かせた。
「なるほどの」
惣介が話し終えると、久保は白川のほうを向いた。それに応えて白川が、なぜか惣介を糾弾するような口調で質問を浴びせかけ、惣介が答えると、突如、久保が細い目を見開いたのである。
「さすがだ。やはり加瀬に動いてもらってよかった」
「ご家老がこの白川の提案を飲んでくれたおかげです。時がないことを知りながらも、あえて待たれるご英断。感服いたします」
まるで自分の手柄であるかのように話す白川に惣介はあきれた。それでも感情を表に出さずに話をすすめ、大目付を芦田村に向かわせることを提案すると、久保は、
「これは、期待以上だな」
と先ほどの感想を述べたのである。久保は、市原新之丞だけではなく、そこから柳沢まで芋づる式にとらえられると考えたようだ。久保の頭の中では、今、自らが筆頭家老にのぼったあとのめくるめく輝かしい日々が展開されているに違いない。
「しかしですな、ご家老」
惣介が釘を刺す。
「我が倅、清次郎とほか五名を助けていただくこともお忘れなきようお願いしたい」
「わかっておる。そちらも抜かりなく行うつもりだ」
久保は面倒くさそうに手を振ったあと、白川を振り向いた。
「加瀬が言った通り、大目付の加賀山に伝えろ。芦田村で市原をひっとらえるのだ」
返事をする白川にうなずくと、久保は惣介に向きなおった。
「ところで、加瀬。その会合には加瀬が案内してくれるということでよいか?」
「それがしが向かわなければ、百姓も信用いたしますまい。すでに明日の配備も、庄屋の作造と打ち合わせております」
「さすがだな。今も、名郡奉行、加瀬の名はすたれておらぬようだ」
からからと笑うと、久保は扇子を手のひらに打ち付けた。
「よし。市原をとらえたのち、すぐにでも柳沢邸を急襲しよう。柳沢をとらえてしまえば、牢に入れられた者の処遇など、どうにでもなる。いざとなれば加瀬が申すように、玄庵さまの前に柳沢を突き出すこともできるのだ。あのお方が黒だと判断されれば、柳沢も言い返すことはできまい」
「少々よろしいでしょうか」
口をはさんだのは白川だ。白川は家老に膝を向けると、すまし顔で言った。
「加瀬清次郎たちの裁きが行われるのは明後日。こちらはすでに発表されているため変更はかないますまい。どうせなら、そこへ証人として市原を突き出し、柳沢の悪事を暴きたててはいかがでしょう」
「うむ。それもそうだな」
久保が思案顔をする。
「そうなれば、とらわれている者の無実も証明できるし、柳沢派の悪行も明るみに出すことができる。まさに一石二鳥というわけだ」
「それでよいな、加瀬」
白川がまるで上役のような物言いで告げる。二日前に会ったときとはまるで別人だ。惣介はむっとしたが、ここは黙って頭を下げるしかなかった。白川が側近として久保に仕えていることは明らかだ。
白川は、久保に深い信頼を寄せられているようだった。柳沢家老と市原新之丞の間柄のように、二人も表には久保が立ち、陰から白川が知恵をつけてきたという関係ができているのかもしれない。となると、久保が実権を握ったあとの藩政には白川の意見が反映されることになるというわけだ。白川が農政をどれだけ重視しているかはわからないが、もし百姓を軽視しているようだったら、作造たちの暮らしを向上させるのは少し骨が折れそうである。白川は明らかに自分の考えに固執しそうだし、なにより、白川の説得は惣介には難しい。白川とは水が合わないことを理解している。柳沢凋落後、自分が農政の現場に復帰するのは当然として、その話をするのが白川であれば、自分の考えをどれだけ受け入れてくれるかは未知数だ。
(だが、それは、まだ先のこと)
惣介は自らに言い聞かせる。まずは、清次郎を助けること。それから今の柳沢独裁体制をつぶす。今は、そのことだけを考えなければならない。柳沢と新之丞を引きずり下ろさない限り、福備藩が変わることはないのだ。
「ご家老のおっしゃる通り、裁きの場で市原新之丞を問いただすのがよかろうと思います」
惣介はさも久保の手柄のように言った。久保が満足顔でうなずく。こうして自分を持ち上げてくれるならば、なんでも鷹揚に受け入れる。そうしたところも、上に立つ者としての資質なのかもしれなかった。つくづく白川がいなければ、と惣介は思う。農政の場に戻ることができれば、現場をたばねる者として久保を説得することはたやすそうだ。
「これで、お上の後継も継通さまで決まりだな」
久保が白川に向かって言う。惣介は目を見開いて、上座を見返した。
「どういうことにござりましょう?」
久保は眉をひそめたあと、
「なんだ、知らぬのか?」
白川をもう一度見た。
「加瀬は、我が派に属しておりませぬので」
白川が目を伏せながら答える。
「だが、もうこちら側の人間だろう? 加瀬は、我々のために探ってくれたのだ」
「加瀬がどのように考えて動いたのかはわかりませぬ。結果的に、我々を助けることになったというだけです」
「聞かせてやれ。そのほうがなにかと都合がよい」
久保が言うと、白川はしばらく考えたのち、
「加瀬、聞きたいか」
と惣介に言った。
「目の前でそのようなやり取りをされ、聞かぬと申せば、臆したかと笑われる」
惣介の口調は自然と厳しくなる。久保を介していないのであれば、かしこまる必要はない。
「つまり、聞くのだな」
白川がため息交じりに言う。惣介が、
「そうだと言っている」
と返すと、白川は、やれやれ、と首を振った。
「お上は今、病を得ている。こう言ってはなんだが、それほど長くはないだろうとの見立てだ」
「聞いている。そのために柳沢家老が焦って無茶な行動を起こされた。それが今回の事件なのだろう?」
「どこで聞いた?」
「とあるお方からだ」
惣介がにらみつけると、白川は、
「相変わらずですねぇ」
と突然、学者風のしゃべり方に戻った。言葉を丁寧にされたほうが、バカにされている感が強くなるのが不思議だ。
「まあ、どなたから聞かれたかは特に関係ございません。藩上層部の人間にとってはほとんど周知の事実ですから。知らないのは下士ばかりです」
「しゃべりたいのか、しゃべりたくないのか、どちらだ」
「しゃべりますよ。なぜならそれが私の役目ですからね」
白川はおどけたように眉をあげると、口角をきゅっと持ち上げた。
「お上には二人のお子がおられることはご存じですよね。長男の政友さまと三男の継通さまです。政友さまは二十六歳。継通さまは十九歳。次男の菊丸さまは三つのころに夭逝されて残念でした」
「それで、その二人のお子が後継を争っておるというのだな」
「端的に言えばそういうことです。このうち、長男の政友さまというのが、なかなかわがままな性分でしてな。浪費も激しく、藩士に対しても厳しい。およそ藩主の資質を備えているとは思えませぬ」
「確か政友さまはおもとさまのお子だったはずだ」
「側室です。そして、おもとさまは家老の柳沢と昵懇の間柄です。おもとさまがいるからこそ、柳沢は権力を握ることができているのです」
「継通さまは、正室の義姫さまのお子か」
「こちらにおられる久保さまは江戸で長らく暮らしておられましたが、そのころ継通さまと親しく交わられましてな。学問、武芸、人品。どれも優れたお方だということは久保さまがよく理解されています。不肖、この白川も継通さまに講義をさせていただいたことがございます。これぞ名君になるという器の持ち主でした」
「つまり、柳沢家老と久保さまは、次期藩主をめぐっても争っているというわけか」
「今、かじ取りを誤れば、福備藩は崩れます。老中として必要な出費がやはり多い。かといって、老中を目指さないというわけにも参りませぬ。老中を三代勤めてきて、金がないからやめる、とはさすがに言い出せませぬ。老中の勤めを果たしながらも、支出をおさえるよう工夫しなければならぬのです」
「それはわかった。今、柳沢家老が失脚すれば、継通さまが後継に据えられることが確実なのだな」
惣介が目を鋭くすると、白川は鼻で笑い、言った。
「江戸家老の三浦さまも継通さまを推されています。継通さまが藩主になれば、久保さまや三浦さまといった有能なご仁が実力をいかんなく発揮し、福備を盛り立てることができます」
「それで、そなたはどうなのだ? 継通さまが藩主になられれば、士分にでも取り立ててもらうのか?」
「さようなことはどうでもよろしい!」
白川が激したところで、久保が、まあまあ、となだめた。
「白川は組頭になる。血筋が途絶えている古い家があってな。古いがかつての名門だ。そこを再興させるという名目で、白川が継ぐ。ゆくゆくは、わしの右腕として執政に入ってもらうつもりだ」
「なるほど。そういうことにございますか」
惣介は白川から久保に視線を移した。久保はなんの疑いもない目を惣介に向けている。
「どうだ加瀬。おぬしも我が派に入らぬか? こたびのおぬしの働き、わしは高く評価しておるのだぞ。新参者のためすぐに取り立ててやることはできぬが、郡奉行に戻してやるぐらいはできる」
久保はすでに自分が為政者であるかのような口ぶりで言った。若い久保の表情が生き生きとしているのは玩具を与えられた子どものように見える。惣介は、ふと底のない寂しさを覚えた。
(若き俊英と期待されていたはずなのに……)
藩の上層部にはこんな人間しかいないのか。
久保は自分が力を得られるかどうかしか興味がないようだった。清次郎たち藩士の生死がかかっているのに、それよりも、自分が出世したあとの日々にしか思いをはせることができていない。久保からしてそうなのだから、もはや福備藩にはまともな人間などいないのではないか。
(あるいは上に進むと、そうした人間になってしまうのかもしれぬな)
惣介は、かつての友のことを思った。異例の出世を遂げた新之丞に、この時、同情のような気持ちを抱いたのは、久保や白川と一緒にいることに息苦しさを覚えたからかもしれなかった。
惣介は一度咳払いすると、
「今しばらく、考えさせてくだされ。今は、息子のことで頭がいっぱいです」
と礼をした。久保が、
「そうか。それはそうだな」
と薄く笑い、すぐに白川が追従した。惣介は二人のしらじらしい笑みを見ながら、なんとも言えない無力感を噛みしめた。
七
自室の文机の前で考える。
新之丞は本当に来るだろうか。ほかの者を代理に立てたりしないだろうか。
不安が頭の中に浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返す。だが、惣介は息を吐き出すと、それらあぶくのような思考を打ち消した。
(新之丞は来る)
新之丞にとっても岐路に違いなかった。柳沢派が残るか、久保派が残るか。二つに一つなのだ。なにより時がない。清次郎たちの裁きは二日後である。直前になって百姓たちが反発したなら、自ら説得にあたらずにはいられない。完璧を目指す性格からして人には任せられないはずだった。
惣介は、文机に視線を落とした。田中林蔵の屋敷の間取り図が置かれている。大目付と連携し、百姓一揆を扇動した罪で新之丞をとらえるのだ。大捕物になるだろう。あらゆる事態を想定しておかなければならない。
惣介が図面を指でなぞっていると、ふいに後ろから声がした。
「お前さま、よろしいでしょうか」
か細い声は妻の美津だ。惣介は図面を裏返すと、
「入れ」
と言った。
「お休みになられるところ、申し訳ございません」
美津はしおらしく言い、部屋に入って惣介の前に座った。
「構わぬ。どうせうまく眠れるはずがないのだ。美津と話した方が、気がまぎれてよいかもしれぬ」
思いがけず柔らかい声が出たのは、明日を前にして気持ちが張り詰めているからかもしれない。それに、昼間、作造と向き合いながら家族の大切さに気付いたところでもある。明日の襲撃が失敗すればもう会えなくなるのだ、そう思うと、長年連れ添ってきた妻に対してある種の感慨も湧く。
「お前さまも……」
美津は言いかけたあと、畳の縁に視線を落とした。だがしばらくして意を決したように顔を上げると、惣介に決然としたまなざしを向けた。
「今日、清次郎さんに会ってきました」
「なに、会えたのか?」
惣介は腰を浮かした。裁きに臨む囚人に会えるなど、通常では考えられないことだ。
「ええ。一度目は、会ってはならぬ、と言われて外に出されました。それでもあきらめきれずに待っていると、昼過ぎに門番の方が声をかけてくれました」
「門番?」
「若いころお前さまに世話になったとか、そのようなことを言っておられました。名は名乗られませんでしたが、ご存じですか?」
「川口か……」
惣介は湊組で門番を務めている川口を思い出す。
「道場時代の弟弟子だ」
「そのお方が、牢奉行に話を通してくれたのです。しばらくして牢奉行が出てこられ、本来は認められぬが、と言いながら奥に通してくれました」
惣介は目を見開いた。牢奉行の沢田が認めてくれたということが信じられなかった。囚人を預かるという性質上、もっとも規則にうるさくなければならない。規則が守られなくなると、牢内の秩序が乱れるからだ。その沢田が許したとなると、なにかしらの指示が友浦牢に行っていたと考えてよさそうだった。それがなんなのか。内容によっては明日の襲撃にも影響が出るかもしれない。
「それで?」
惣介は眉間に皺を刻みながら続きをうながした。
「清次郎さんはお元気そうでした。牢では朝夕二食ちゃんと与えられ、他の囚人と混ざることもなく、とらえられた六人で一緒におられるようです。ひどい扱いを受けることもない、とのことでした」
「それはよかった」
惣介は胸をなでおろした。清次郎の牢内での処遇は常に心配していたことだった。まっとうな扱いを受けているのであれば、友浦牢に柳沢の手が回っているとは考えにくい。森山文七が言っていたとおり、沢田は柳沢と距離を取っているようだ。
「その清次郎さんが私に言いました」
美津は言葉を切った。少し逡巡したあと、顔を上向け急に涙声になった。
「父上を信じています、と」
「清次郎が、か……」
「はい。父上は私を信じてくれています。だから、私も父上を信じて待つのです、と。力強く、そう言いました」
「……さようか」
惣介は、友浦牢で清次郎と別れた日を思い出す。あのとき清次郎は、
「どうか、父上。私を信じてください!」
と叫んだのだ。牢役人に引かれながらも、そのことだけは伝えたいと必死で叫んでいた。惣介は、それに返事をしてやることができなかった。ただ一言、
「信じる」
と言ってやれなかったことが後悔として残っている。そのために清次郎を不安にさせているのではないか、と考え、自分を殴りたい衝動に駆られたこともある。
だが清次郎は、返事などなくても父を信じていたのだ。父なら動いてくれるに違いない、そう信じてくれた。
「かたじけない」
つぶやく惣介の中で、清次郎への思いが弾けた。それは夜空を埋め尽くす星のように、無限の広がりとなって惣介を満たしていく。もうほとんど自分の手から離れているけれど、それでもやはり息子だ。なによりも大切な息子なのだ。
惣介は洟をすすり上げ、切れ切れの息を吐いた。洟をすすっていなければ、自分を保てなくなってしまいそうだった。
「お前さま、どうか清次郎さんをお助けください。お前さましかおりませぬ」
美津が顔を覆って言う。震える声で、
「清次郎さんを……。どうか……」
と絞り出し、声をあげて泣く。
武士の妻女としては、あまりにみっともない姿だ。
このように泣きわめくなど、屋敷の女中や下男に聞こえれば示しがつかない。
だが、惣介は美津をとがめることはできなかった。久しぶりに自分が知っている美津に出会えたような気がしたのだ。
惣介は少しためらったあと、美津に手を伸ばした。
一瞬、白川のことが頭をよぎった。美津と白川になにかしら関係があることは明らかだ。
だが、惣介は首を振り、白川を自分の中から追いだす。
(今はそのことはどうでもよい)
美津が自分を頼っている。清次郎と雪乃の母である美津が頼っているのだ。今の自分が優先すべきは、醜い嫉妬心に突き動かされることではなく、清次郎が牢から出されたときに、戻ってこられる場所を……。帰るべき家族を保っておくことだ。
伸ばした手が美津の肩に触れると、胸が強く打った。力強く引き寄せ妻を抱きしめる。
美津の体は痩せて骨ばっていた。これまで過ごしてきた日々がそうさせたのだ、と惣介は思う。それでも腕に抱いていると、若かりしころの美津が思い出されてきた。