花が散る
一
「そんなやり取りがあったのか……」
文七が新之丞の肩に手を置き、
「さぞかし辛かったろうな」
軽く叩く。新之丞は文七の手に目をやると、いや、と言った。
「辰さんのおかげで知ることができた。あの日から始まったのだ。今となっては、俺に託してくれた辰さんに感謝している」
「だがな、新之丞。誰よりお前が辰さんのことを慕っていた。その辰さんを斬らねばならなかったことに同情する。それに、あの後、お前は……」
「出世のために辰さんを斬った。そう噂をたてられた」
黙っていた惣介が口を挟んだ。落ち葉が敷き詰められた桜の木の下、三人はしばしの休息を取っていた。速足できたためにさすがに息が上がりかけている。
「俺もその噂を信じた……」
絞り出すように言う惣介に、新之丞は視線を向ける。
「惣介は、あのころ、親父どのが亡くなられたばかりだった。お前は親父どのを慕っていた。心が乱れていたはずだ。そんなときに辰さんが死に、俺の噂を聞いた。信じたとしても不思議ではない。お前は城下にいなかったしな。北の国境いの代官所に赴任していた」
「信じる信じないは別の話だ」
「噂は嘘ではなかったのだ。俺は討手の任を受ける前、勘定組への役替えの話を持ち出されていた。そして、現に、辰さんを斬ったことで勘定組に移っている」
「辰さんの遺志を継ぐためだろう?」
「そうだ。そのつもりだった。……だが、すぐに目的は変わった。巴恵のことが起こったからだ」
「まさか、巴恵もこの件に絡んでおるのか?」
驚く惣介に鋭いまなざしを向ける。惣介が息を呑み込む。文七も同じだ。
(巴恵……)
笑っている姿を思い出したかったのに、浮かんでくるのは寂しげに目を伏せる巴恵ばかりだ。いつもそうだ。笑っている巴恵には、もう二十年も会えていない。
だが、それでいいのだ、と新之丞は思い直す。
笑った巴恵を思い出せなかったことで、自分がやるべきことを見失わずに済んだのだ。巴恵から笑顔を奪った相手をこの手で誅さなければならない。それが生きる目的になっていた。
二
赤木辰之進が死んだあと大黒派の面々は次々と処罰された。
嘘かまことか、商人との癒着であったり、藩金の使い込みであったりといった黒い証拠が次々と出てきて、大黒典膳は稀代の悪徳家老として嫌われ者になった。
(柳沢が作り上げたのだ)
市原新之丞はそのことを知っている。大黒の不利になる話をこしらえ、それを幾日も続く勾留、絶えまない暴力によって大黒派藩士に認めさせた。こうした自白により大黒の罪を固めてしまうと、柳沢はさっさと大黒典膳を処刑した。藩政の頂点に立った大黒家老だったが、権力を失った途端、いともあっけなくこの世から消えてしまった。
新之丞は柳沢と交わした約束通り、勘定組に移った。禄も増やされ百五十石となり、屋敷も内堀のそばへと移った。勘定組は、いつか就きたいと思っていた勤めだったが、移ってもまったくうれしくなかった。それどころか、自分の増えた家禄は、赤木辰之進から取り上げたものかもしれない、と思うと気持ちは沈んだ。
それでも新之丞は表面上は冷静さを装って職務に励んだのである。与えられた仕事を誰よりも早く、そして正確にこなした。辰之進との約束をかなえるためだった。なんとしても出世して執政に加わらなければならない、そう思っていた。
職務に没頭する新之丞は、家中藩士の噂になった。
「出世のために、兄弟子の赤木辰之進を斬った男」
「さらに出世をもくろんでいるらしい」
新之丞の仕事ぶりは、柳沢派の者たち、とくにその頂点にいる柳沢を満足させた。それに伴い、与えられる仕事も複雑なものになっていく。表に出してはならない金の工面もやらされた。新之丞は嫌な顔ひとつせず、淡々とこなした。辰之進の遺志を継ぐにはそれしかないと思っていた。そんなときに巴恵と再会したのである。蝶が舞う花畑での別れ以来、四年ぶりのことだった。
陽は完全に没し、あたりに薄闇が漂い始めた。屋敷の外まで見送りに来た平瀬忠吾が地面にのびる影を目にして、一度引き返し、提灯を持って出てきた。
「使え」
「かたじけない」
ほのかな灯に浮かび上がった平瀬は表情を変えないまま新之丞を見据えていた。
「早急に仕上げてくれたのに、主人が不在で悪かった」
平瀬が口だけを動かして言う。
「構わぬ。ご家老はご多忙の身。こちらこそ、連絡せず届けにきて悪かった」
「しかと預かった。主人に代わって礼を言う」
「また、なにかあったら言ってくれ」
新之丞は柳沢から頼まれて作成した帳簿を届けに来たのだった。柳沢派で使った料亭での支出を藩金で賄うために細工した帳簿だ。最近ではこうした不正と出くわしても憤りを感じなくなっている。麻痺しているのかもしれなかったが、今はそれを歓迎した。こんなことでいちいち腹を立てていては、上に登り詰めることができないのだ。
「ご家老は今日は?」
新之丞は、帰りかけた足を止めて平瀬に聞いた。
「大切なご用だ」
「大切なご用?」
「大切なご用だ」
平瀬は繰り返した。内容は言えないということなのだろう。おおかた、人に知られてはならない人物と会っているといったところか。そうした事情を知れるようになるまで柳沢の信頼を勝ち取らなければならない、そう新之丞は当面の目標を定める。
「お前は同行しなくてよかったのか?」
新之丞は平瀬に聞いた。
「別の者がお連れした。俺は明け方近くにお迎えに上がる」
「明け方? 一晩かけて、なにをなさるというのだ?」
「……すまぬ。今のは失言だ。忘れてくれ」
平瀬が目つきを鋭くする。新之丞はその視線を受け止め、
「わかった。忘れよう」
と言った。新之丞と平瀬のあいだには、いつからか友情のようなものが芽生えていた。平瀬は、柳沢の命令に忠実だったが、それ以外のところでは誠実な男だった。新之丞と柳沢の間をうまく取り次いでくれるなど仕事もそつなくこなし、そのおかげもあって新之丞は柳沢にさらに近づくことができたのだ。心を許しているわけではなかったが、仕事の相手としては信頼を寄せることができた。
「そういえば……、近々、俺も一家を持たせてもらえるかもしれぬぞ」
平瀬が先ほどの失言を取り繕うように声の調子を高めて言った。
「平瀬どのは、ご家老のもとに勤めて何年になる?」
「十八のころからだから、五年だな。そろそろ妻をめとるよう言われている」
「それはめでたいな」
新之丞よりひとつ歳上の平瀬は、小納戸組平瀬家の次男だ。独立すれば祐筆組であったり近習組であったり、柳沢に近い位置で勤めることになるのだろう。ただ、禄はそれほどはもらえないはずだ。家士から独立するとなれば、せいぜい五十石が関の山だろう。それでも平瀬はうれしそうだった。引き締まった口元がほんのり緩み、若々しい微笑をのぞかせていた。武士にとって一家のあるじになることはやはり重要な意味を持つのだ。
新之丞は平瀬に、
「話に進展があれば教えてくれ」
と言って別れた。平瀬が柳沢の家士から外れることがいいことか悪いことか、考えながら通りを歩く。取り次いでくれる者がいなくなることは不利に働くかもしれなかったが、平瀬が占めていた位置を自分が奪えるかもしれない、と考えると逆に好機にも思えた。
新之丞は、ふと、ある人物を思い出した。中老の中沢織部である。大黒が失脚した今、中沢は露骨に柳沢への接近を強めている。その中沢のそばにいれば、自分も、より柳沢の深くに入っていくことができるのではないか。中沢は、近習組のときに世話をした人物だ。柳沢に近づく方策を一緒に考えてやれば喜ぶに違いない。
新之丞は自宅に向かいかけた足を止め、武家町を東に進んだ。白壁が両側を埋め尽くす通りを少し行くと中沢の屋敷が見えてくる。その手前で新之丞は足を止めた。
門から人が出てくるところだった。複数いる。壁に身を寄せた新之丞は、息を吹きかけて提灯の灯を消すと、じっと様子をうかがった。門の前にたむろする人々がそわそわと落ち着かないのが新之丞に警戒心を抱かせた。なにかが行われる、とっさに思った。
潜り戸が開き、奥から人に連れられて女があらわれた。瞬間、新之丞は、あっ、と息を呑む。通りの駕籠にいざなっているのは中老の中沢織部だ。そして、中沢のうしろを歩くのは……。
(巴恵)
間違いなかった。四年前より痩せている。だが、高張提灯に映し出された顔は雪のように白く、引き締まった体は逆に色気をまとっていた。巴恵はうつむき加減に歩き、先を進む中沢から声をかけられると、足を止め、ふいに後ろを振り返った。
(どうして巴恵が?)
新之丞のこめかみを汗が伝う。門の前の男たちは、中沢をはじめ、巴恵を手厚くもてなしているようだったが、巴恵は少しもうれしそうではなかった。振り返った巴恵は潜り戸の向こうにいる人物になにかを告げられたらしく、次の瞬間、蒼白な顔で中沢に向き直った。
(助けるべきか?)
そう思う。なにがどうなっているのかわからなかったが、巴恵がうれしそうではないことがすべてだ、と思った。巴恵は今、誰かの助けを求めている、そんな気がしてしようがなかった。
だが新之丞はその場を動けなかったのだ。ただぼんやりと見つめることしかできない。巴恵は芸妓のような派手な衣装で着飾っていた。薄闇の中でもそれはまばゆく映り、提灯の灯を弾いて輝くようすは、まるで牡丹の花のようだった。幼少時に着ていた擦り切れた衣装とは異なる、高価な小袖に包まれた巴恵は言葉を忘れてしまうほどきれいだった。それが新之丞の心にためらいを生じさせた。
(今、出て行けば巴恵に迷惑がかかるかもしれない)
上士たちの付き合いの中に自分が入って行ってもいいのか、と思った。百五十石に出世したとはいえ、上士との間にはまだ厳然たる差がある。巴恵は、上士同士の会合に参加しただけかもしれなかった。そこに飛び入っては、やはり迷惑になる。なにより新之丞は気品さえ感じさせる巴恵の姿に圧倒されていた。自分がひどく小さな存在に思えた。
「巴恵」
誰にも聞こえないほどの声でつぶやく。
瞬間、巴恵が顔を上げ、こちらを見た。闇の奥にじっと視線を注ぎ、なにが潜んでいるのか確かめようとする。新之丞はその場に釘づけになった。俺に気づいている、そう思った。それは新之丞の勘違いかもしれなかった。今宵は新月で闇が深かった。一寸先も見通せないほど暗い。巴恵が気づくはずはなかった。だが、それでも、闇を介してだが巴恵と視線を交わしているのだ。そのことが、胸をいっぱいにさせる。
しばらく見つめ合ったが、やはり巴恵は新之丞が壁際に立っていることまではわからなかったようだ。中沢に促されると、さっと視線を落とし、通りに待つ駕籠に乗り込んだ。
「あっ」
瞬間、巴恵は消えた。
駕籠が出発する。駕籠だけではなく何人かの武士が宵闇の通りを一緒に駆けていく。
新之丞は茫然と見送った。
ひどい後悔が襲ってきたのは、駕籠が角を曲がってからだ。
(巴恵が離れてしまった)
決定的な別れだったのではないか、と思った。理屈ではなく、そんな気がしてならなかった。新之丞は全身の血が凍るのを感じた。そのくせ汗はとめどなく溢れ、心の臓が張り裂けんばかりに打ち始める。
そのとき、潜り戸の中からもうひとり出てきた。上等な衣をまとった二本差しは、困ったような笑みを浮かべながら、中沢に近づく。
「ありがとうございました、中沢さま」
猫が鳴くような声で言う。
「いや、こちらこそ、無理を申した」
「いえいえ、あれも望んでいたことです。これで村岡家が救われるのですから、あれとしても本望でございましょう」
「しかし、徳左衛門の嫁御は別嬪だの。うらやましい」
「はあ……」
「今までさんざんあの体を愛でてきたのであろう?」
中沢が身をすり寄せても、男はなにも答えなかった。そんな男に中沢は声をあげて笑うと、
「どれ、酒にしよう。これからのことも相談せねばならぬ」
肩を叩いて中にいざなった。
「よろしくお願いします」
男が首のうしろに手をやりながら頭を下げ、中沢と連れだって、門の向こうに消えていった。
(徳左衛門……?)
村岡徳左衛門か。
潜り戸が閉まるのを見て、新之丞は通りに出た。中沢の家士たちも門の内側に引っ込んでいる。通りには誰もいない。
ねばつくような温かい風が吹いた。夏の夜風を浴びながら、新之丞は村岡徳左衛門という名を口の中で反芻した。
顔を見たことはなかった。相手は組頭で身分が違うし、なにより大黒派に属していたため近づけなかった。柳沢に目を留められていた新之丞は大黒派の人間とはなるべくかかわらないようにしてきたのだ。だが、村岡徳左衛門という名はしっかりと胸に刻み込んでいたのである。
巴恵が嫁いだ男だ。
(今のが、村岡か……)
いつか対面するだろうと思っていた。臆病そうに見えたが、底に冷たさが潜んでいるような男だった。遠目にもかかわらず見た瞬間から気に食わない、と感じた。
新之丞は中沢屋敷を見上げ、続いて駕籠が去った通りに目を向けた。なぜか全身ががくがくと震え始めた。
(取り返しのつかないことをしてしまった)
その思いがふつふつと湧いてきたのは、通りがあまりに静かすぎたせいかもしれない。巴恵を目にしたことさえ幻だったのではないか、そう思えるほど、町は静まり返っている。
新之丞はその場を離れ、無我夢中で駆けた。巴恵が向かった方角に駆け、あたりを探したが、駕籠はどこにも見当たらなかった。それからも城下を当てもなくさまよったが、巴恵の姿はどこにも見当たらなかった。
駕籠は忽然と城下から消えてしまっていた。どこに消えたのか、新之丞にはまったく見当がつかない。月のない夜の城下はただひたすらに暗かった。
三
巴恵がどこに連れていかれたかを知ったのは、さらに月日が過ぎて三か月後のことだ。知らせは意外なところからもたらされた。
その間、平瀬忠吾の祝言が行われた。平瀬は六十石を得て祐筆組に勤めることが決まったが、その妻は新之丞が三年前に秋田彦四郎という男から救ったおるいだった。新之丞はこのおるいを助けたことをきっかけに中沢に呼ばれて近習組に移り、出世の糸口をつかんだのだったが、そのとき新之丞は、おるいはどこかの名家の娘だろうと考えていた。そのおるいが、平瀬のもとに嫁いできたことは意外だった。能力次第で出世できる祐筆組とはいえ、名家の出であれば六十石では釣り合わないだろう。あまりの生活差に辟易するはずだ。
だが、おるいは名家の生まれなどではなかった。祝言が終わり、新之丞は平瀬家を訪ねた。付き合いがある以上、あいさつしなければならない、と考えていた。
あいにく平瀬は留守だった。平瀬は女中を雇っておらず、出迎えたのはおるいだ。
最初、新之丞は平瀬の妻が、あのときのおるいだとは気づかなかった。おるいは身にまとう雰囲気が変わっていた。三年前はおとなしく、しとやかな娘という感じがしたが、今は成熟した女に変わっていた。美貌にはさらに磨きがかかり、豊かなふくらみをおびた胸やしなやかな腰回りからは男が放っておけないだろう色気を放っていた。
おるいは病を得ているのか、しきりに咳をした。その咳の合間で、
「どちらさまでしょうか」
と聞いた。新之丞が名乗ると、おるいは、
「あら」
と顔を上げた。そして、濡れたような瞳をじっと注いできた。
「たしか、秋田彦四郎のときの……」
かすれ声だった。女としては見事な花を咲かせているおるいだったが、声だけは焼かれたみたいに低かった。新之丞が合点がいかず戸惑っていると、おるいは、
「ほら、あのとき……」
と過去を語った。それで新之丞も思い出した。目を見開くと、平瀬の細君はなにかをあきらめたような笑みを浮かべた。
新之丞はおるいに、その後なにがあって平瀬の妻になったのかを聞いた。おるいは、自嘲気味に笑うと、
「いろいろあったのです。いろいろあって、平瀬のもとに来ました」
と声を落として答えた。新之丞は口をつぐんだ。これ以上、聞いてはならないのだ、と思った。
おるいはすぐに話を転じた。新之丞を覗き込み、
「巴恵さんという方をご存じでしょうか?」
と聞いてきた。
「え、巴恵?」
新之丞は全身を跳ね上げた。
「巴恵を知っておるのか?」
思わず肩をつかむ。その肩が思いのほかきゃしゃで、新之丞は驚いたように手を離した。
「ある場所で一緒でした」
おるいはそう言うと、肩をさすりながら巴恵のことを語った。
おるいがかつていた場所に巴恵がやってきたのは三か月前。おるいはつい先日まで一緒に過ごしていたのだという。控えめな巴恵をおるいは妹のようにかわいがった。そうして接しているうち巴恵も少しずつ心を開いていき、ついに新之丞のことを語ってきたのである。出会ってから二か月後、おるいは平瀬のもとに嫁ぐことが決まり、巴恵と離れ離れになった。そのころ巴恵は病を患い、床から起き上がれなくなっていた。おるいは平瀬のもとに嫁ぐことを受け入れたが、その一方で巴恵を置いて行くことに憂慮を抱いていた。だが、おるいにはどうすることもできない。巴恵を励まして別れたおるいは、そのまま城下に戻ってきた。
「そ、それで……?」
新之丞は息を呑みながら聞いた。おるいは明言こそしなかったが、おるいや巴恵のいた場所がどのようなところかぼんやりとわかった。
「巴恵は、今もそこにいるのか?」
言った瞬間、巴恵を最後に見た日がよみがえった。あのとき巴恵は、目を伏せていた。それはおびえからだったのではなかろうか。これから自分に降りかかってくる過酷な日々を前に、絶望を噛みしめていたのだ。
目を泳がせる新之丞に、
「あるいは、あそこかもしれませぬ」
おるいは言った。
「巴恵さんは病を得ていました。病を得た者は、療養のため外に出されます。そこで治れば、また戻されるのですが、そうではない方もおられます。たとえば心が壊れた方……」
「心が……?」
「巴恵さんは私のように気持ちが強いほうではございませんでした」
新之丞は胸がつぶれる思いを抱いた。いつも自分のうしろに控えていた巴恵。柔らかい笑顔を向けてくれた巴恵が?
「それで巴恵はどこにいるのだ?」
呼吸を速めながら聞く。おるいはちらりと新之丞に目を向け、それから激しく咳き込み、咳がおさまると小さく首を振った。
「あなたを罠にかけようとしているのかもしれませんよ」
おるいの声は、やはり枯れていた。新之丞はじっとたたずんだまま動かなかった。
「秋田彦四郎があのあと、どうなったかご存じですか?」
秋田のその後は聞いている。とらえられたあと、秋田はひと月の謹慎を言い渡された。そして、謹慎を終えた日に殿中で刀を抜いたのである。正当な理由もなく殿中で抜刀することはすなわち死罪と定められていた。秋田はたちまち数人に取りおさえられ、その場で斬られた。秋田は刀を抜いたが、藩士を斬ろうとは思っていなかったようだ。けが人はひとりも出なかった。むしろ自刃しようとしていたように見えた、と目撃者の何人かが語っている。そのとき、新之丞はちょうど使いを頼まれて中沢中老の屋敷に出かけていた。城に帰って事の顛末を聞き、あの夜の男が……、と思った。
「彦四郎さんと私は思い合っていました。いずれは夫婦になろうと約束していたのです。ですが、父がそれを許しませんでした。いえ、許すことができなかったのです。私の実家は賄組、四十五石。ご家老からのご指示であれば、断るわけには参りませぬ」
「ご家老というと?」
「柳沢作兵衛さま」
「柳沢さま、か……」
深い穴に放り込まれる感覚を抱く。全身をおぞけが走った。
「俺を恨んで、罠にかけようと?」
「そうも、とらえることができましょう?」
おるいの瞳は濡れていた。色っぽい目だった。だがよく見ると、奥の方に暗い闇が漂っている。
「俺は巴恵に会わねばならぬ。そして、巴恵の居場所を知る手がかりは、今のところ、そなたしかおらぬのだ」
新之丞が言うと、おるいは新之丞を見つめ、やがて、ふっと息を吐きだし、茶屋町の桔梗屋という店を口にした。
「そこに行けば巴恵さんがいるかもしれませぬ。確かではございませんよ。それでもたずねるというのであればおたずねください」
言うなり、おるいは奥に引っ込んだ。しばらくして、忍び泣くような声が洩れてきた。おるいはしきりに咳をした。自分で自分の喉を痛めつけ、悲しさを打ち消そうとしているように聞こえた。一人残った新之丞は膝の上の拳を握りしめながら、おるいの空咳を聞いた。
四
桔梗屋は茶屋町の西はずれにあった。茶屋町は東西にのびていて、西側は上士も利用する料理茶屋が並んでおり、東にいけばいくほどいかがわしい店が増えた。桔梗屋は女郎屋とは一線を画していたが、それでも店の奥には男と女が肌を重ねる部屋が用意されているという、いわば、そういうたぐいの店だった。
新之丞は平瀬忠吾の使いということで店を訪れた。応対に出た男は、平瀬の名を聞いた途端、新之丞を信じ、巴恵を預かっていることを伝えた。さらに要求すると、多少不思議がりながらも巴恵がいる部屋に案内してくれた。
二階に上がったところで店の者と別れた。新之丞は、呼吸を整え、部屋の襖を開ける。
瞬間、声を失った。
巴恵は仰向けに寝かされていた。目は開いているのに反応がなかった。瞬きを忘れた目が、じっと天井を見つめている。
「巴恵……?」
呼びかけても動かない。新之丞は巴恵の枕元に膝から崩れると、
「巴恵、すまなかった」
込み上げてくるまま言った。
世界から色が抜け落ちていくのを感じた。目の前の女は巴恵であり巴恵ではなかった。唇は乾き、頬はげっそりとこけ、目の下には深いくまが刻まれている。ぴくりとも動かない瞳が廃人を思わせた。心が壊れているのだ。
「巴恵、俺だ。新之丞だ、わかるか」
優しく語りかける。巴恵に対するいたたまれなさでいっぱいになっている。呼びかけ続けると、巴恵の開いた目から涙がこぼれ落ちた。カサカサの肌にあとが残った。
ふいに巴恵が瞬きをする。泣いたことで目が覚めたというように黒目を新之丞に向ける。急に瞳が光を帯びた。
とめどなく涙があふれ始めた。巴恵は顔を覆ってそれを隠し、ただひたすらに嗚咽し続けた。
新之丞は拳を握りしめて耐えた。なにもできない、と思った。どんな慰めも通じない、とも思った。それでもなんとか気持ちをわかろうとしたが、それはやはり巴恵にしかわからない痛みで、新之丞はそのことがいたたまれなくなるほど辛かった。
しばらく泣いた巴恵がようやく静かになった。
「ごめんなさい、新之丞さん」
涙を人差し指ですくって言う。そこには昔の巴恵がいた。顔には生気が戻り、頬にも赤みがさしている。面変わりはしているが、巴恵はやはり巴恵だった。ずっと会いたいと思っていた巴恵が目の前にいる。
「無事か、巴恵」
新之丞がかがみこむと、巴恵は寂しそうに首を振った。
(失言だったか)
新之丞の胸がどきりとしたが、巴恵は目を閉じると小さな声で、
「ごめんなさい」
と繰り返し、肘を立てた。上半身を持ち上げようと体に力を入れたがうまくいかず、もう一度挑戦しても結果は同じだった。
いてもたってもいられず巴恵の肩に手をまわす。
だが、新之丞の手が肩に触れた瞬間、巴恵は全身を跳ね上がらせた。
「いやぁああ!」
叫びながら腕を払う。病気の女とは思えないほど力強かった。
しりもちをついた新之丞は茫然と巴恵を見た。
巴恵は上半身を起こしていた。起き上がり、両肩を抱いている。顔は青白く、目は見開かれ、痙攣するように全身をはげしく震わせている。
「すまぬ」
部屋のどこかを見つめる巴恵に新之丞は言った。言いながら無意識のうちに手を伸ばしたが、はっと気づいてそれをおろした。正座に戻った新之丞は、
「すまぬ、巴恵」
もう一度謝った。
巴恵は新之丞を横目で見ると、
「私こそ……」
とか細い声で言った。
「私こそ、ごめんなさい……」
「巴恵はなにも悪くない。悪いはずがないのだ!」
どす黒い怒りが込み上げてきた。巴恵が自分を拒んだことが辛くて仕方なかった。だが、それ以上に、巴恵をこんな女に変えたものを激しく憎悪した。新之丞は、巴恵を見ながら細く息を吐きだした。
「今のは俺が悪かった。急に触ったりしたから」
なかったことにしよう、そう思う。でなければ、巴恵も、それから自分もあまりにうかばれない。
「違うんです……」
巴恵が首を振る。
「病だものな。いきなり触れられたら、そりゃ誰だって驚く」
「そうじゃありません……」
「きっと、この薄暗い部屋のせいだ。こんなところに閉じ込められていたら、気がめいってしようがない」
「新之丞さん、違います」
「なにも違わぬぞ!」
動きを止めた巴恵を射貫くような目で見つめる。
「なにも違わないだろう? 巴恵は巴恵だ。そして、お前の前にいるのは、俺だ。あの頃と、なにも違わぬではないか……」
唇を噛むと、巴恵は目をそらしてうつむいた。その顔が今まで見たどんな巴恵よりも悲しそうに見えて、新之丞は思わず頭を抱えそうになった。
それでもあえて明るい声を出す。
「そうだ、外に出てみないか。このままここにいても病が治るとは思えぬ。外の空気を吸えばいくらか気分も晴れるかもしれぬぞ。体にも、きっといいはずだ」
巴恵は黙ったが、外に出るという提案には興味を惹かれたようで、
「はい」
と返事した。その顔が昔の巴恵とはどうしても重ならなくて、新之丞はいつのまにか分岐してしまった道程に、どうしようもないほどのやるせなさを感じた。
新之丞は巴恵を部屋から出した。たどたどしい足取りの巴恵を支えようとしたが、また叫ばれてはいけないと思って階段を降りるときだけ手を貸した。店から出る際に先ほど案内してくれた男があらわれ、どこに行くのか、と尋ねてきた。新之丞は、少しだけ外の風に当たらせてくる、と答えた。さすがに男は渋面を作ったが、新之丞が、
「柳沢さまには拙者から説明しておく。なにかあれば、すべて拙者のせいにしてもらっていい」
と言い、強引に押しきった。
(平瀬には迷惑をかけるな)
新之丞は店を出ながら考えた。店が柳沢に、不審な男が来た、と告げるのは間違いなかった。そうなれば平瀬も問いただされるに違いない。新之丞は今日、平瀬の使いとして訪れたことになっている。平瀬は新之丞のことを柳沢に告げるかもしれなかったし、しないかもしれない。おそらく伝えないだろう、と思った。平瀬は、憶測で語ることはしない男だ。だが、そんなことはどうでもよかった。これからのことなんて、本当にどうでもいい。
通りに出てしばらく歩くと、遅れてついてきているはずの巴恵の気配が消えていた。
巴恵は店の前に立ち止まって新之丞とは反対方向に顔を向けていた。
「どうした?」
「いえ、今……。惣介さんがおられたような気がして」
「惣介?」
巴恵のもとまで戻り、通りを見渡す。昼の茶屋町は人通りがまばらだった。両刀を差した惣介がいればすぐにわかるはずである。だが、惣介はどこを探しても見当たらず、それどころか武士の気配を感じることさえなかった。
「確かか?」
新之丞が聞くと、巴恵は、
「いえ、気のせいかもしれませぬ」
と答えた。
「そうだな。きっとそうだ」
返事をしたが、しかし新之丞は、急に沸き上がってくる感情にとらわれた。惣介の名を聞いたからだった。
(惣介ならどうする?)
その問いを新之丞は胸のうちで繰り返す。すぐに新之丞は、このまま巴恵を連れ去るべきだ、との結論を得た。まずは巴恵を、この悲惨な状況から抜けさせなければならない。それからのことはゆっくり考えればいい。惣介なら、そうするはずだった。そして俺は、今、巴恵を救い出せる唯一の男だ。
「巴恵」
声をかたくして呼びかける。
「行くぞ」
巴恵は返事をしなかった。体を小さくしてうつむくばかりだ。そんな巴恵を歩かせようと、新之丞は巴恵の肩に手をまわしかけた。
だが、ダメだった。
新之丞は肩から少し離れたところで手を止め、
「さあ」
と言った。それから通りの角まで進み、巴恵が間違いなく歩いてくるのを確認すると、今度は腕を組んで前を歩き始めた。
自然と速足になる。巴恵はそれでもついてきた。何度か振り返りながら巴恵を確認し、新之丞は川沿いに出た。
「巴恵」
病持ちの巴恵は苦しそうに喘いでいたが、新之丞が呼びかけると、うつむけていた顔を上げ、新之丞を見た。
「巴恵、よく聞け……」
言いかけたとき、目の端をなにかがかすめた。鮮やかすぎる色彩だった。
(蝶?)
青い蝶である。
突如、新之丞は、いつか見たことのある風景を思い出した。
蝶は空を滑っては、羽をひらめかせ、川の向こうを目指そうとしている。川の向こう、北の山を目指す蝶は、時の存在を忘れてしまうほど華やいでいた。
新之丞は蝶に向けていた目を巴恵に戻した。巴恵も放心したように蝶を見つめている。
途端に、胸の奥で思いが弾けた。巴恵と過ごした日々のあれこれが、まるでその時代がよみがえってきたように、溢れてきて止まらない。
(俺が守るのだ)
なぜもっと早く、この気持ちに気づかなかったのか。
激しい悔恨に苛まれる。
巴恵が嫁に行く前にこの思いをつかみ、伝えるべきだった。
(だが、まだ遅くはない)
きっと、まだ間に合うはずだ。
俺は進むべき道を、今、見つけた。
青い蝶が示してくれた。
巴恵を守るのだ。
「巴恵、逃げるぞ」
巴恵がはっとしたように顔を上げた。だが、なにも言わなかった。川の瀬音が大きくなった。新之丞は巴恵を正面から見据え、さらに声を強くする。
「巴恵、逃げよう! なにもかもを捨て、俺と一緒に逃げるんだ」
巴恵で胸の内が満たされている。巴恵とこうして一緒にいることこそ俺のすべてだ。
「ですが……」
巴恵が下唇を噛む。新之丞から視線をそらし、川の方に目を向ける。
「ですが、ではない! すべて俺に任せればよいのだ。いつもそうしてきたではないか。子どものころから、ずっとそうだった。行くぞ、巴恵。俺についてこい!」
新之丞は巴恵に近づき手を差しだした。だが、巴恵は一歩下がるとうつむいた。
「亭主に迷惑がかかります……」
「亭主?」
新之丞は棒立ちになった。突然、憤怒が体内を駆け巡った。
「村岡こそすべての元凶ではないか! 村岡がまともであれば、こんなことにはならなかったはずだ」
「村岡にはどうすることもできませんでした」
巴恵がいやいやをするように首を振る。
「なぜ、村岡の肩を持つ! 俺なら巴恵をこんな目に遭わせはせぬ。必ずや巴恵を守る。巴恵をけっして離しはせぬ」
「……ですが、私と村岡は夫婦です」
巴恵が消え入りそうな声で言う。声が震えていた。だが、力はあった。新之丞は目を見開いた。
「夫婦? 夫婦だからなんだという。望まずに嫁いだ夫ではないか」
「それでも夫婦でした。四年間、私たちは夫婦として過ごしてきたのです」
巴恵の声は涙でにじんでいる。
「私が望んだことなのです。村岡の家を残すには、こうなるしかありませんでした」
「そんなたわけたこと……」
「村岡のために身を捧げることを、私は喜んで引き受けました」
巴恵が声をかぶせて言う。新之丞はもう一度手を上げかけ、それを力なく落とした。
「……巴恵は、それでよいのか?」
先ほどまで床に臥せっていたとは思えないほど、巴恵は意志の強い顔つきをしている。
「私は村岡の幸せを願っております」
巴恵が顔を上げ、新之丞をまっすぐ見据えた。
「私は村岡を……」
巴恵の目に涙が浮かぶ。それはこぼれ落ちることなく、下瞼にたまり続ける。
「心よりお慕い申し上げております」
巴恵は顔をそむけた。肩が小刻みに揺れる。新之丞は巴恵の前で立ち尽くし、村岡の妻女を茫然と見た。
「だから、新之丞さん……」
巴恵がなおも声を振り絞る。
「どうか私を……。あの店に戻して」
巴恵は最後までうつむいたままだった。そのことに新之丞は石で殴られたような衝撃を覚える。
(俺はなにをしているのだ)
ひとりで勝手に舞い上がって、なにをしている。ずっと巴恵のことを思っていたのに、巴恵は俺のことなどなんとも思わなくなっていた。上士の暮らしになじみ、そこにいる自分こそ当たり前だと思うようになっていたのだ。
新之丞は、足裏からなにかが抜け落ちていく感覚に襲われた。巴恵は変わってしまったのだ、そう思った。もう、一緒に生きていくことはできないのだろう。
「わかった、送ろう」
かろうじてつぶやいた言葉に、新之丞は深い絶望を感じた。巴恵の肩に手をまわし、来た道を引き返す。巴恵は新之丞に触れられても叫ぶこともなければ、身を固くすることもなかった。だが、そのほうが巴恵が遠くに離れたことを感じさせた。今、巴恵は腕の中にいるのに、その距離は、はてしがなかった。
歩きながら川に目を転じる。蝶の姿はどこにも見当たらなかった。どこか見知らぬ場所へ羽ばたいていったのかもしれなかった。新之丞は足元に目を移すと、桔梗屋に続く地面ばかり見つめて歩いた。
店に戻った新之丞は、土間に出てきた男に暗澹たる思いで巴恵を引き渡した。
「巴恵、達者でな」
巴恵は顔を上げずに、
「はい」
とつぶやいただけだった。新之丞は固く目を閉じ、店の男がなにか言うのを無視して、そのまま桔梗屋から走り去った。