「ならぬ!」
そのとき、惣介は腕をひかれて後方に退いた。足をもつれさせながらあらわれたのは、芦田村の庄屋作造である。
「このお方をとらえてはならん! さきの郡奉行、加瀬惣介さまだぞ!」
作造が両手を広げると、百姓たちの動きが一瞬緩んだ。それでも迫ろうとする百姓に、
「お前たちもよく知っている、あの加瀬さまだ!」
もう一度叫ぶ。その声で百姓たちは足を止めた。怪訝そうな顔をして、作造と、その後ろの惣介を見比べる。
「いつも俺たちのために働いてくれた加瀬惣介さまだ。俺たちの苦しみを聞き、一緒に悩み、藩の上の方たちに意見してくれた。忘れたなんて言わせねぇ! 絶対に忘れたなんて言わせねぇぞ!」
作造の叫びに、百姓たちの声が徐々に静まっていく。そして、
「本当だ」
「加瀬さまだ」
とつぶやく声が上がり始めた。
すかさず弥一が作造の隣に立つ。
「みなの衆、鎮まれ。加瀬どのと柳沢家老、どちらがお前たちの味方であるか、しかと考えよ」
弥一は戸惑う百姓たちを見渡すと、さらに声を張り上げた。
「そもそも高い年貢を課しているのは誰だ? 安い普請手当てしか払ってこなかったのはいったい誰なのだ?」
弥一はふいに肩の力を抜き、両手を上にあげた。
「私と加瀬どのはお前たちを信じている。だから、とらえようというのであれば抵抗せぬ。それがお前たちの望みならな。ただ、私と加瀬さまは、お前たちをけっして裏切ることはせぬ。いつだってお前たち百姓の味方であり続ける。そこだけは理解してほしい」
張り詰めていた空気が一気にしぼんだ。百姓たちの背後では柳沢が、
「なにをしておる! 年貢が上がってもよいのか!」
と喚いているが、その声は百姓の耳には届いていないようだった。百姓は惣介だけを見つめている。惣介をじっと見つめ、その間、自分の中のなにかと懸命に闘っているようだった。
やがて、群れの中から苦しみにも似た声が上がり始めた。理性が貧困による苦悩をおさえ込もうとしているのだ。その咆哮である。
「やめだ、やめだ」
言ったのは、集団の中ほどの男である。惣介は男を見て、
「八郎太」
と呼びかける。芦田村の隣、山南村の庄屋だ。山南村は水の巡りが悪く、惣介は八郎太と一緒に水路の整備でさんざん意見を戦わせてきた。失敗と挫折を繰り返しながら少しずつ水路は整い、今では山南村は、福備でも有数の米所として名が通るようになっている。
その山南村の庄屋八郎太が腕を組み、座って胡坐を組んだ。
「加瀬さまが出てきたんじゃ、俺は動けねえ。二年前に不義理を働いた手前もあるしな」
八郎太は二年前、一揆を指導したうちの一人だった。説得に当たった惣介に、
「いくら加瀬さまの頼みでも、止まれねぇ。村の者は明日にも飢え死にする状況なんだ」
と突っぱねた。その八郎太のひと言で百姓たちは城下まで進む決意を固めたのである。八郎太は、そのことをわだかまりとしてずっと持ち続けてきたのかもしれない。
「俺もだ。加瀬さまはいつも俺たちのことを考えてくれた」
八郎太に続く者があらわれる。
「巳之吉……」
惣介はこの男もよく知っている。新たに煙草の植え付けをするため一緒に畑を耕した。煙草の栽培をしてみたい、という惣介の思い付きを、
「まずは俺の畑で試してみなせぇ」
と巳之吉は菜畑を提供してくれたのだ。今や煙草は作付けする面積も広がり、その収穫のほとんどは江戸に出荷されている。福備の立派な名産のひとつにまで成長しそうな勢いがあった。
「そうだな。今回は無理だな」
「加瀬さまとは争えねぇ」
次々と百姓が座り込む。それはすぐに広まり、部屋中の百姓すべてが腰をおろしていった。
(百姓としての誇りだ)
惣介は居座った百姓たちを見て唇を震わせる。
筆頭家老を前にしても、仲間を優先しようとする。
貧苦にあえぎながらも、自然を相手に、百姓たちは手を取り合って暮らしてきた。その絆は簡単にほどけるものではない。それこそが百姓としての誇りなのだ。
そして、惣介はその仲間の輪に加えられているのである。
「加瀬さま」
作造が惣介の前に手を差し出す。自分たちは惣介を信じる、そう言ってくれているようだった。
惣介はうなずくと、一歩前に踏み出した。
百姓たちの目が向けられる。加瀬惣介だけを見つめてくれている。
(俺の人生には意味があった)
瞬間、惣介は込み上げてくるものを感じた。悩み、立ち止まり、それでも歩き続けようと誓った人生。なにもかもが無意味だったと絶望にかられた日もあったが、だがこうして今につながっているではないか。
百姓たちのまなざしこそ、俺の人生のひとつの答えだ。
「感謝いたす」
惣介は短く言った。そして、百姓たちを見渡し、もうひとこと付け加える。
「お前たちの思い、確かに受け取った。あとは俺たち武士の仕事だ」
八郎太が笑った。加瀬さまらしい、そう鼻の下をこする。ほかの者も頬を緩める。惣介を迎え入れる笑みがそこここに咲き乱れていく。
「おぬしら、覚悟の上だろうな!」
上座で柳沢が歯ぎしりする。それでも微動だにしない百姓たちを見て、
「警護の者はどうした。なぜ駆けつけぬ!」
苛立たし気に腕を振った。そのとき、ちょうど襖が開いて、中年の武士が転がるようにして飛び込んできた。
「ご家老、お逃げくだされ」
息を切らせながら言う。
「なにゆえだ?」
柳沢がぎょっとしながら藩士を見下ろす。
「大目付です。大目付の配下が押し寄せています」
「大目付?」
「我らも迎え撃っておりますが、とてもおさえきれませぬ。まもなく、こちらに来る模様」
「加賀山か……」
柳沢が拳を握りしめ、顔を赤黒く変える。そんな柳沢の前に出て、
「ご家老、ここはひとまず」
そう言ったのは、惣介がかつて見たことのある男だった。
「待て、平瀬!」
反応したのは、金吾である。平瀬甚之助を呼び止めると、百姓のあいだを縫って駆けつける。
「お前の相手は俺だ」
上座から降りる者。高原善太だ。高原は刀を抜くと、
「平瀬! 早くご家老をお連れしろ!」
正眼に構えながら声を張り上げた。そこに金吾が殺到する。振り下ろした金吾の刀は、高原の刀と正面から衝突し、冷たい金属音を響かせた。
「ご家老、急ぎましょう」
金吾が斬り込んでいる間に、柳沢は平瀬に連れられて部屋から出て行く。柳沢に、逃げろ、と忠告しにきた男も立ち上がり、金吾に横から斬りつけた。
金吾は男の一撃を防ぐと同時に、怒声を発した。
「加瀬さま、追ってください!」
「ひとりで大丈夫か、金吾!」
「お任せください」
そう答えたが、さすがに二人を相手にするのは分が悪そうだった。というより、高原の剣が鋭すぎて、もうひとりに意識を向けられないのだ。新手の男に少しでも気を取られた途端、決定的な斬り込みが飛んでくることはわかりきっている。
「助太刀いたす」
そう言って金吾の元に駆けつけたのは、奥弥一である。弥一は刀を抜くと、勢いよく飛び込んで、中年男に斬りつけた。敵の中年は間一髪で防いだが、弥一の力強い一撃にたじろいだようである。足を一歩、二歩と引いて思わず間合いを開けた。弥一は構えからして、剣が得意そうではなかったが、打ち込みは強烈である。村を回り、百姓と一緒に鍬を振ってきた成果かもしれない。あの打ち込みを続けていれば、敵の中年ともいい勝負ができそうだ。
「惣介、追うぞ」
腕をひかれる。文七が険しい形相で、柳沢が出て行ったほうに進み始める。
「やつらを信じてやれ。柳沢を追わせるために飛び込んだのだ。その思いを無駄にするな!」
「わかった!」
惣介は身をかがめると、金吾と弥一が斬り合っている横を通って襖に向かった。惣介が部屋から出ようとした瞬間、ひときわ甲高い金属音が響いた。惣介を逃がすまいと駆けつける高原を金吾が止めたのだ。
(金吾といい弥一といい……)
頼りになる、そう思いながら惣介は、廊下を走り、離れから出たところで柳沢の背中をとらえた。柳沢は渡り廊下で立ち止まっていた。
「柳沢! 覚悟いたせ」
惣介が駆けつけると、柳沢が顔だけ振り返って惣介を見る。瞬間、惣介は奇妙な感覚を抱いた。柳沢がニヤリと笑っていたのだ。
身構えた惣介だったが、しかし視線はすぐに、柳沢の太った体の背後に吸い寄せられていく。
痩せた体がちらりと見えた。太い眉。鼻筋が通り唇が薄い。久しぶりに再会した男は、いくぶん疲れているように見えた。だが、若いころの怜悧な面影は残っている。
中老の市原新之丞だった。新之丞は柳沢から惣介に目を移すと、なぜか寂しげに目を伏せた。
三
なぜ新之丞がいるのか。
その意味がつかめなくて一瞬思考が中断しかけた。だが、すぐに底のない怒りが湧き上がった。
「市原新之丞! 貴様!」
新之丞にとって柳沢は自らを引き立ててくれた恩人だ。助けに来るのは当然なのだ。
「おお、市原。よいところにきた」
両手を広げて新之丞に近づいた柳沢は、親し気に新之丞の肩に手を置いた。それを見て、平瀬甚之助が惣介に向きなおり、刀に手をかける。仕えている新之丞を命に代えても守ろうとしているのだ。
平瀬の剣を惣介は知っている。並みの剣士ではない。平瀬は主人を前にして気が張り詰めているのか、肌がひりひり痛むほどの気迫を放っている。一分の隙も見当たらない構えは若いのにさすがとしか言いようがなかった。容易に近づくことはできそうにない。
「謀られた。加賀山が動いた」
柳沢がすがるようにして新之丞に告げる。新之丞は惣介から柳沢に目を移すと、
「まずはこの場を切り抜けねばなりませぬ。さすれば、あとは知らぬ存ぜぬで押し通すことができます。百姓どもがなにを喚こうがこちらはそれでよいのです。一揆を焚きつけた証拠などどこにも残っておりませぬ。念書はご家老がお持ちでしょう?」
早口に言った。柳沢が何度もうなずく。
「持っておる。この中だ。お前が耳打ちしたとおり、これは市原が戻るまで渡さぬ、と言ってしまっておいた」
胸のあたりをさする柳沢を見て、新之丞は口を引き結んだ。
「逃げましょう。それがしは郡代のころ、この屋敷に出入りしておりました。その際、屋敷の主人から人目につかず外に出る道を聞いております。そこを通って、ひとまず城下に戻ります」
「しかしな、市原。田中林蔵はあちら側の人間だったぞ。先ほど、わしがそこの藩士をとらえようとしたとき、どういうわけか、反抗してきおった」
柳沢の懸念に、
「ふむ、それは妙ですな」
新之丞は顎をつまんだあと、惣介をちらりと見て、なるほど、とつぶやいた。
「加瀬がいたからかもしれませぬ。林蔵は確かにそれがしの味方で間違いございませんが、加瀬を見て計画を変えたのでしょう。加瀬は百姓を甘やかしておりましたゆえ、やつらになつかれておりました。林蔵は、目の前で加瀬がつかまれば百姓どもが動揺すると怖れ、とっさに打ち合わせとは別の行動をとったのかもしれませぬ」
新之丞は言ったあと、だらりと腕を下げた。
「どちらにせよ、今から行く道の無事は確かです。先ほど見て参りましたが、大目付配下はどこにも潜んでおりませんでした。入念に確認したゆえ駆けつけるのが遅くなりまして、申し訳ございませぬ」
「その慎重さ、市原らしいな。それでこそ、わしの右腕と呼ばれるにふさわしい」
「参りましょう。例の文書も手に入れましたゆえ」
「さようか。これで、百姓の言い分を飲まなくて済むな」
「まずは城下に戻ります。あいつらのことは平瀬に任せておけばよいでしょう」
新之丞が柳沢の背中を押し、惣介と文七の前から去ろうとする。
「待て、市原新之丞」
惣介は刀を抜いた。平瀬が前をふさいでいようが関係ない。今、新之丞と柳沢を逃がせば、ここ数日のことがすべて水泡に帰す。清次郎を救い出すことも叶わない。
(いや、それもあるが……)
やはりこの二人を野放しにしておくわけにはいかないのだ。権力に取りつかれた家老と、その腰巾着の中老が好き勝手に藩政を動かしている以上、福備の上空には常に黒雲が垂れこめることになる。
「お待ちくだされ!」
だが、惣介が飛びかかろうとするより先に、目の前の若者が声を上げた。
「どうした、平瀬」
柳沢が足を止める。平瀬は、惣介に目を据えたまま、新之丞に向かって左手を差し出した。
「ご中老、お手持ちの文書とやら、先にお渡し願えませぬか」
平瀬の申し出に新之丞が眉をしかめる。
「なにゆえだ、甚之助?」
「その文書は、二年前の一揆を鎮めた際、ご家老と田中林蔵が交わした誓約。確か、そういうことでございましたな」
「いかにもそうだが」
「内容は三年以内に年貢を六公四民にすること。青物、根菜での年貢納入を認めること。それから藩庫に保管されている米の放出を行い、飢饉を回避するというものだったはず」
「ほかにも普請工事に対する労賃の取り決め、藩主導での水路整備とそれに伴う新田開発の奨励、また、そうして開かれた田からは向こう二十年は年貢を取らぬことも盛り込まれていた。すべて三年以内に実行するという取り決めだ。守られたのは米の放出だけだがな」
「その誓約をもって、二年前の一揆を鎮められたのでしたな」
「交渉にあたったのは俺だ。その場には玄庵さまもおられた」
「ですが、あくまで署名は柳沢ご家老のもの。その文書がおおやけにされれば、ご家老はなにがあっても百姓との約束を守らねばなりませぬ。もし守らなければ、ご家老は百姓と、できもしない誓約を交わしたとして糾弾されます」
「そうしたことも懸念して、俺は今まで書庫でこの文書を探していたのだが? そして、手の内に入れることができた」
新之丞がさらりと言う。惣介は二人の話を聞いて、
「あっ」
と思い出した。先ほど、母屋で物音を聞いたが、それは書庫の前だったのだ。あのとき惣介は、藩士が文書を探している、と考えたのだったが、実際は新之丞本人が探していたのである。
「果たしてそうでしょうか?」
平瀬が首をかしげながら言う。惣介は平瀬の口調がぞんざいになっているのを聞いて、二人の会話に興味を持った。
「ご中老は、その文書を自らのものにするお考えではございませぬか?」
「なぜ、俺がこれを必要とする?」
「ご中老はそれを大目付に差し出すのではないかと、私はそう疑っているのです。百姓とご家老のかかわりを示す文書が大目付に渡れば、ご家老はすこぶる不利な立場に立ちます。久保派が活発に動きを始めた今、その文書の存在は、まさに致命傷になりかねません」
「甚之助、お前、俺がご家老を裏切るとでもいうのか? お前をさんざん世話してきてやったこの俺を信じられぬと?」
「私は最初からご家老の命を受けて、あなたを見張っておりました」
「……そうだろうな。うすうす気づいてはおったが……」
新之丞はさも疲れたといった様子で鼻から息を洩らした。それは暗い孤独を噛みしめてでもいるように、とてつもなく冷ややかなものだった。