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第三幕 ~加瀬惣介~

 

暁の光

 

一

 

 風と一体になって駆けている。潮と海藻の臭いが鼻腔に流れ、もう海岸がすぐそこだということに気づく。馬だからさすがに速い。いや、いい馬なのだ。中老の市原新之丞が用意した三頭の馬は疲れたそぶりも見せず、城下から友浦までを駆けた。先頭に新之丞、続いて惣介、最後尾は文七である。毎日を一緒に過ごした三人が、今、福備に垂れこめる闇を取り除くため、波御殿を目指している。

 加瀬惣介は先頭を駆ける新之丞を見ながら、

(それにしても……)

 と手綱を握り締めた。

 ひとりで抱え続けてきたというのか。

 二十年だぞ。

 二十年もの間、ひとり、戦い続けてきたのだ。

 惣介は新之丞のこれまでを思う。孤独だったろう。不安だったろう。

 それでも新之丞は戦ってきたのだ。怒りを力に変え、強大な敵に立ち向かい続けた。

 新之丞でなければできなかった。守りの剣でひたすら隙ができるのを待ち、ひとたび好機が訪れれば神速の一撃を放つ。惣介ではとてもできない芸当だ。自分なら、巴恵が体を捧げたことを知ると同時に波御殿に乗り込んでいただろう。それを新之丞はぐっとこらえ、二十年の時を超えた今、復讐に乗り出したのだ。

(玄庵さまがこの藩の陰の支配者だったとはな)

 街道を駆ける惣介は、壮大な御殿が左にあらわれるのを認めた。

 黒い壁に黒い屋根。うっそうと茂る周囲の木立が、屋敷を厳重に守っている。

 藩随一の景勝地だった。その秀麗さは訪れた者を陶酔させるという。

(俺は、かつて……)

 海岸沿いの道を右に行くか左に行くかで地獄と極楽に分かれると考えたことがあった。右に行けば友浦牢。左に向かえば波御殿である。二つはまさに対極に位置している。

 惣介は海風を浴びた。新之丞が馬の脚を緩めたので、惣介も同じように手綱をひく。新之丞は右を確認したあと、惣介を振り返った。新之丞が見ていた先には、友浦牢がある。そこには今、息子の清次郎がとらえられている。

(清次郎、もう少し辛抱してくれ)

 すべてを済ませ、迎えに行く。

 牢に向かって思いを伝えた惣介は、今度は左を向いた。

(結局……)

 新之丞の隣に馬を並べながら思う。

 この道を右に行こうが、左に行こうが、向かう先は地獄だったのだ。

 女どもは、左の道を進み、心と体を壊された。男たちの性欲のはけ口にされ、自分を殺された。

 胸が張り裂けそうだ。

 巴恵はどのような思いで、この青い海を眺めたのだろう。

 どんな顔をして、磯の香りを嗅ぎ、絶え間ない潮騒を聞いたのだろう。

「波御殿に連れていかれた娘たちの中には……」

 新之丞が、ぼそりとつぶやく。

「解き放たれたあと、海を怖いと言う者が何人もいたそうだ。自分が連れてこられた日を思い出すからだ。そのくせ、女郎屋を渡り歩いた挙句、行き着く先は友浦湊の料理茶屋。あまりの辛さに、正気を失った娘が何人もいる」

 新之丞は固く目を閉じると、なにかを振り切るように海に顔を向けた。

「けっして許してはならぬ」

 惣介はうなずいた。思いは同じだ。

「多部玄庵を討つ」

 惣介が言うと、新之丞が目を向け、ふっと頬を緩めた。

「やはり、惣介が指示を出すのが一番よい。昔から、いつもお前が先頭だった」

「というより、気づいたときには駆け出している」

 文七が応じる。

「俺たちは、それに慣れてしまっているのだ」

 惣介は、波御殿を見据えた。森閑とたたずむ館は堂々としていていかめしい。だが恐怖は感じなかった。三人そろっているのだ。勇気はこんこんと湧いてくる。

 惣介は海風で肺腑を満たすと、

「行こう」

 二人の友に改めて言った。

 

二

 

 門に乗り付けたところで止められた。

「玄庵さまに急ぎお伝えしたき用がある。通されよ」

 新之丞が言うと、門番は新之丞に気づいて、

「あ、ご中老さま。これはこれは、失礼つかまつりました。さ、お通りください」

 と道を開けた。まだ若い男だ。新之丞が馬から降り、手綱を預けると、若い門番は同じように下馬した惣介と文七を見て、おや、と眉を持ち上げた。

「この方々は?」

「湊組の加瀬惣介と徒目付の森山文七だ」

「え? 加瀬どの?」

 波御殿の警固は湊組が勤めることになっている。若い門番は、同じ所属の惣介を知っているようだった。誰ともなじもうとしない惣介は、とかく悪い噂を立てられていた。若い門番はそんな惣介が中老の新之丞と一緒にいることに疑問を抱いたようである。

「しかも、徒目付まで……」

 つぶやく門番に、新之丞が言う。

「二人は俺の連れだ。玄庵さまに伝える用は、彼らがいなければ果たせぬ」

「しかしながら、それがしの一存では……」

「加瀬は農業、森山は……」

 言うと、新之丞は門番に顔を近づけた。

「大きな声では申せぬが、執政のうちのひとりが気になる動きをしておってな。百姓どもに一揆を起こすよう焚きつけておるのだ。そのことを急ぎ玄庵さまに相談せねばならぬ」

「一揆ですか? それは一大事でござる」

「では、通るぞ」

「お待ちくだされ。一応、上役の松永に確認してまいります。執政以外は許可なく通してはならぬという決まりですので」

「どれくらい待つ?」

「今、松永は裏門の詰所に控えております。四半刻(約三十分)もかからないだろうと思いますので、門番小屋でお待ちくだされ」

「ちっ、面倒だな」

 新之丞が舌打ちすると、若い門番は顔面蒼白になった。中老の機嫌を損ねて、ゆくゆく自分の身に災いが降りかかってこないか案じたようだ。

「おい、なにをしている」

 反対側から小走りに駆けてくる者がいる。一緒に任についている、もう一人の門番だ。男は駆けつけるなり、若い門番を叱った。

「なにをもたもたしている。早くお通しせぬか。市原さまだぞ」

「しかし、お連れの方々が……」

 駆けつけた門番が惣介たちに目を向ける。それを見た文七が、

「お?」

 と目を丸くしたが、惣介は素早く身を寄せて腹に肘打ちを入れた。文七が声を詰まらせる。惣介は門番をじっと見つめた。よく知った顔である。先日、友浦牢で案内してくれた仁田道場の後輩、川口だ。

「この方々はよいのだ。話は聞いている」

 川口が惣介に向かってうなずく。

「え? そうなのですか?」

「波御殿さまから松永どのに話があった。お前は聞いておらぬのか?」

 波御殿さまというのは多部玄庵のことだ。下級藩士たちにとって、藩主一門の玄庵は名を呼ぶのもはばかられる存在だ。

「聞いておりませぬ」

 若い門番が疑わしそうに川口を見る。

「そもそも本当のことなのですか? 川口さんは昨日、同じように嘘をついて、中年女と娘を牢屋敷に入れ、叱責を受けたではありませんか。それで、今日も牢の警備だったはずが、こちらに回されることになったのでしょう。昨日の今日では、さすがに信用できませぬ」

「だが、咎められなかった。実際は叱責も受けなかったのだが、他に示しがつかぬということで形だけの配置換えを命じられたのだ。実は昨日も、牢奉行が内々で俺に伝えていたことでな。女と娘を通すように、とな。それに従ったまでなのだが、どういうわけか間違った噂が流れたようだ。ま、そういうことで、今回も同じだ」

「いやいや、信じられませぬ。やはり松永さまに確認いたします」

「ご中老を待たせるつもりか?」

 川口が振り返ると、気づいた新之丞がぐっと進み出た。

「貴公らの上役は、確か松永と言ったな。よくよく申し伝えておくぞ」

「ほれ、こう言っておられる。なに、何か起これば俺のせいにすればよい。お前に咎が及ぶようなことには決してせぬ」

 川口は青ざめている若者を手で払うしぐさをした。

「おい、今から俺が言うことを繰り返せ。私はなにも見ておりませぬし、なにも聞いておりませぬ。さぁ」

「……私はなにも見ておらぬし、なにも聞いておりませぬ」

「ほら、行け」

「しかしながら……」

 若い門番はおびえるような目をしたが、新之丞が溜息をつくと身をすくませ、反対側へと走っていった。冷酷無情と称される中老に怖れを抱いたようだ。

「さ、お通りくだされ」

 川口が笑顔を向けてきた。

「すまぬな、川口。妻のことといい、今日のことといい。お前には迷惑をかけてばかりだ」

 惣介が手綱を渡すと、川口は素早く馬止めにひもを結び付け、続いて、文七、新之丞の馬も預かった。

「いえ、別に構わんのです。それよりも、お三方がそろわれるのを目にするなんて久しぶりで……」

 言うと、なにを思ったか、川口は途端に目頭を赤くし始めた。

「私にとって、お三方は特別でした。青春時代、私は憧れていました」

「俺といるときとは態度が違うな、川口。湊組に来て以来、ちょこちょこ会っていたぞ。新之丞が一緒だからか?」

 惣介が言うと、川口は惣介を見て目じりを拭った。

「加瀬さんが湊組に来られた当初は、こんな感じでした。懐かしさもあって、あまりうまく話せませんでしたが……。顔を合わせるうち、少しずつ慣れていきました」

「そうだったか?」

「そうです。ご中老さまにも何度か波御殿の門を守っている際にお目にかかっています。身分が違ううえに、ご中老さまはお忙しそうで……。言葉は交わすことはございませんでしたが」

 川口が上目遣いに見ると、新之丞は咳ばらいをして顔をそむけた。それを見て惣介は苦笑する。

「新之丞が忙しかったのは本当だ。それに少しばかり真面目過ぎるところがある。川口のことを忘れたわけではなかろうが、やはり気安く話しかけるわけには参らなかったのだろう」

「そうです、そうです。そうだろうと思います」

 川口が勢いよくうなずく。それから目を細めるようにして、改めて三人を見る。

「いつも一緒のお三方を、私は、格好いいと思っておりました。剣の腕も確かで、そのうえ、とても仲がよろしかった。互いを信頼し合っていることが、はたから見ても伝わってきました。森山さんは剣のほうは私と同じぐらいか、むしろ劣るぐらいでしたが……」

「おい、最後のは余計だぞ。どうしてあえて俺を外しにかかる」

 文七が言う。川口はそんな文七にもきらきら輝く目を向ける。

「やはり憧れでした。私もいつか、お三方のような友を持ちたい、そう思っていました。ただ、なかなかそういう者もあらわれず……。どちらかというと私は同年代の者たちの輪に入るのが苦手で、ひとりのほうが多かったのです。だからこそ、お三方から目をかけていただいたときはうれしく思いました。いろいろあったと噂では聞いています。ですがやはり、私としてはお三方がそろっておられるのを見るとうれしくてたまらなくなってしまうのです」

 少年のように語る川口を見て、三人は互いに顔を見合わせた。

「いつの間にか俺たちは四十を超えた」

 文七が言いながら腹を撫で、惣介と新之丞がうなずく。

「お前が言うほど格好いいものではない」

 そんな文七に川口は首を振る。

「今、見ても、やはりお三方は色褪せません。さ、お通りくだされ。先ほども申しましたが私がすべての責任をかぶります。なんなら、ほかにご用があるのでしたら、申し付けくだされ。私にできることであれば、ご協力します」

「いや、十分だ川口。助かるぞ」

 惣介が言い、川口の腕をたたく。そのまま門へと進む。

「川口に責任は取らせぬよ。安心いたせ」

 続いて新之丞が通った。

「俺が一番活躍してやるからな。あとで驚くなよ」

 最後に文七が声をかけ、三人は波御殿に入る。門の内側で並び、広大な前庭とその向こうに建つ黒壁の屋敷を見つめる。

「川口、すぐに戻る。しばし待て」

 新之丞が背後に向かって言う。

「はい。お待ちいたします」

 川口の返事を背中で聞いた三人は波御殿に向かって踏み出した。

 

三

 

 縁側を進む。磨き込まれた床板。手入れの行き届いた枯山水。反対側は精緻な襖絵が続いている。

(まるで別世界だ)

 そう思うのも無理はない。一生をどれだけ働いても、このような場所に足を踏み入れるのは難しい。限られた者だけの場所なのだ。あまりの壮麗さに気持ちが萎縮してしまいそうになる。それでも自分を励まして足を運ぶ。

 やがて奥の襖の前で新之丞が止まった。手をかけ、惣介と文七と目を交わしたあと、音を立てて開ける。

「誰だ!」

 中から声が上がる。発したのは広間の左側に座る男だ。腰を上げた中年の武士。それを見た惣介は全身の毛が逆立つのを感じる。

(西澤又八……)

 刀を手にしているのは西澤道場の師範、西澤又八だ。かつて惣介と御前試合で戦った山口又八は、今、西澤又八と名を改め、鋭い殺気を放っている。そのまがまがしい気迫に惣介の手のひらに汗がにじむ。

「おお、市原か。今、話していたところだ」

 西澤を制したのは上座の男だ。いかにも老人らしいしわがれ声で、よい西澤、と呼びかける。それを聞いた西澤が腰をおろす。殺気は少しも消えていない。上座の男になにかあれば、すぐにでも飛びかかる姿勢を崩さない。

「玄庵さま、ことは仰せの通り運びました」

 新之丞が広間の中ほどまで進む。上座の男が、ふふふ、と笑みを漏らして白い顎髭を撫でた。

(あれが……)

 惣介は新之丞に続きながら思う。

 あれが多部玄庵か。

 小柄で柔和な顔だちの玄庵は、髪も眉も白に覆われていた。まったく力など持たない好々爺に見えた。だが、それは見た目だけのようで、玄庵が手をあげ、

「お前らは下がれ。市原、そこに座れ」

 言うと、正面で向かい合っていた二人の武士が腰を上げ、そそくさと右に寄った。その二人を見て惣介は思わず、

「あっ」

 と声を上げる。

 家老の久保と、学塾の師範、白川だった。惣介などまるで視界に入っていないようで、すました表情のまま前を向いている。その能面のような顔がどことなく不気味に思えた。

(どうして、久保と白川が?)

 惣介が考え始めたとき、玄庵が声を上げた。

「そうか、うまく行ったか。これで柳沢も終わりだな」

 新之丞が座るのを待って玄庵は脇息にもたれかかった。惣介と文七は新之丞の背後で畳に両手をついてこうべを垂れる。

「その者どもは?」

 玄庵が聞く。新之丞が返事をする。

「湊組の加瀬惣介と大目付配下の森山文七にございます。今回の件には二人が深く関わっておりますゆえ、玄庵さまにことの成り行きを直接お聞かせいたそうと、こうして連れて参ったしだいです」

「わしも忍びからいくらか聞いた。だが、柳沢の最後だ。詳しく聞くのも悪くはない。あいつとも長い付き合いだったからの」

「その長い付き合いの柳沢さまの失脚を許可されたのは、ほかならぬ玄庵さまご自身でございましょう」

 新之丞が言うと、玄庵はくすくすと笑った。

「人に取り入るのが得意だったな、柳沢は。最初のころはかわいいやつと思っていたが、やはりあいつも歳を取った。最近は、目新しいことを考えられなくなった。あいつといても退屈だ」

「玄庵さまにそう思われるようでは、柳沢さまも、やきが回ったとしか言いようがありませぬ。ま、柳沢さまは、所詮その程度のお方。私も長らくご一緒させていただきましたが、ご自分で考えるということがお世辞にも得意ではございませんでした。筆頭家老としては致命的です。まぁ、確かに愛嬌はございましたが」

「柳沢のことはもうよい。それよりも市原。これからはお前や、そこに控えている久保が中心になって藩を盛り立てていかねばならぬぞ」

 玄庵が顎を向けると、久保は軽く一礼したあと、ちらりと新之丞に目をやった。久保の目は対抗意識で燃えていた。新之丞を明確に競争相手として意識している。

「久保さまを呼ばれたのは玄庵さまでございますか?」

 新之丞が久保には目もくれず、そう尋ねる。

「いや、久保からだ。昨夜、柳沢を追い落とすよい策を思いついたと伝えてきた。ついては、柳沢失脚後のことを相談したいと言うてな。わしは、面白い、と思ったぞ。ちょうど、市原も柳沢を失脚させる算段がついたと申してきたところだ。二人がどのようなことを考えたか、比べてやろうと思った」

「まさか、市原どのが柳沢を裏切るとは思いもしませんでした」

 久保が早口に言い、新之丞を横目でにらみつける。新之丞よりもなんとかして自分を印象づけようと必死なのだ。

「それがしは市原どのをとらえたうえで、柳沢を追いつめようと考えておりました。それが、市原どのも玄庵さまとつながっていようとは……。ちょうど今、聞かされたところでしたが、驚きのあまり声を失ったほどです。いやはや、蛇の道は蛇と申しますか……。藩政というのは多種多様なことが絡み合っているようで、やはり面白いですな」

「どうじゃ」

 玄庵が身を乗り出す。

「福備を担っていく二人が、同じ日に自分を高みに昇らせようとわしを訪れた。どちらがよりわしを満足させてくれるか。これから二人は競い合いながら、互いに励むのだぞ。それがわしは楽しみだ」

「誠心誠意、力を尽くしとうございます」

 久保が頭を下げる。声には、自分が負けるはずがないという自信がみなぎっている。

「柳沢さまは、どうなりましょう?」

 だが新之丞はまっすぐ玄庵を向いたままだった。

「ん、柳沢か? そりゃ、まず、切腹だろう。やつの罪は、とてつもなく大きそうだ。なんせ二十年間も、藩を私的に動かしてきたのだからな」

 玄庵が、忍び笑いを洩らす。そして、

「いや、腹を切らさず、領内の人も踏み入らぬ地に百姓もろとも送り込むのもよいかもしれぬ。新田開発という名目でな。散々、百姓をいたぶってきた柳沢じゃ。田に鍬を入れるまで命があるか、見ものだな」

 そう続ける。

「飽きたから捨てる。まるでこの波御殿に連れてこられた娘たちのようですな」

 新之丞が声を鋭くすると玄庵は笑いを引っ込め、ぴくりと右の眉を動かした。

「人聞きの悪いことを言うでない、市原。娘どもと柳沢は違う。柳沢は役に立たなくなったから代えた……。いや、そうなると娘たちと同じになってしまうな。ふむ。所詮、娘も柳沢も同じだということか」

 玄庵が再び笑う。同調するように新之丞も高らかに笑った。久保も白川も、それから西澤も続く。

「ところで、玄庵さま」

 新之丞は居住まいをただした。

「赤木巴恵という女子をご存じでしょうか?」

「いや、知らぬ。なんだ市原。評判にでもなっておるのか、その女子は」

 玄庵が瞳の奥を光らせる。好々爺といった穏やかな風貌は消え、好色そうな卑しい顔があらわれた。

「失礼つかまつりました。今は、村岡巴恵に名が変わっております」

「なんだ、妻女か? 別に妻女でもかまわぬが……」

 玄庵は顎に手をやり、ふと首をかしげた。

「齢はいくつだ?」

「確か、二十一」

「そうか。悪くはない。村岡というのはどの村岡だ。……まあ、そんなことはどうでもいい。一度連れて参れ。わしの目で見定め、もしよければ、いいように取りはからってやる」

「お忘れでしょうか、玄庵さま……」

「ん?」

「かつて、この館に連れてこられた女たち……」

 言いながら新之丞が膝を立てる。

「その中のひとりに巴恵は交ざっておりました」

「な、なんだ市原! 立てた膝をおろせ! 無礼であるぞ!」

 玄庵が立ちあがり、新之丞に指を突き立てる。新之丞は全身を震わせ、玄庵を見据える。

「あなた方がさんざんもてあそんで捨てた女……。そのために自ら命を絶った女がいたことを……。二十年前、そうした女がいたことを、あなたはお忘れでございましょうか」

「……なるほど、そういうわけか」

 玄庵が鼻を鳴らす。

「わかったぞ、市原。さては、おぬし、その女に懸想しておったのだな。わしに体を捧げた女だ。それでわしに恨みを抱き続けてきたと……。そういうことか!」

「確かに……。俺は、貴様を恨んできた」

「しかし、二十年前と言ったか……。少し理解に苦しむな。二十年のうちに女などいくらでも会っておろう。しかも、お前は曲がりなりにも中老だ。代わりの女など吐いて捨てるほどいたはず。それを二十年もの間、ひとりの女を想い続けたというのか?」

「理解してくれずとも結構。ですが、そのおかげで、この福備にはびこる闇を、俺の手で取り払う覚悟を失わずにすみました。巴恵と同じように傷を負った女人が幾人もいる。俺のように自分の無力さに打ちひしがれた男も、また幾人もいる。その大元にいたのが多部玄庵、あなただ! 貴様だけはけっして許さぬ!」

 新之丞が叫ぶと、左側に座る男が立ちあがり、素早く玄庵の前に走った。

「ここは拙者が」

 西澤又八である。西澤が玄庵を背後にかばうのを確認した久保と白川が、襖まで走り奥に叫んだ。

「乱心じゃ! 中老の市原が乱心を起こした!」

 ただちに足音がして、十五、六人の武士が飛び込んできた。惣介たちは、たちまち周囲を取り囲まれてしまう。

「やはり、こうなったか市原」

 西澤の向こうで、玄庵が眉をつり上げる。その顔はまるで悪鬼のようで、藩主の叔父という高貴な血筋の者とは思えない。

「最初から貴様は信用ならぬ、と思っていた。なにかあれば、ただちにとらえるよう、大目付の……。確か加賀山とか言ったか。あやつに周辺を探らせていた」

「加賀山はこちら側の人間です」

「……なにを言っておる?」

「江戸家老の三浦さまとともに、多部玄庵を取り除くため動いていたのだ」

「江戸の三浦と?」

 玄庵は少しの間考えたあと、急に唇をわななかせた。

「貴様ら……。このわしに隠れてこそこそと……」

 玄庵が怒鳴る。

「一藩士の分際でこのわしに向かって、なんたる無礼! ただちに斬りすててくれる」

 周りの藩士が一斉に刀を抜く。

「お待ちくだされ!」

 止めたのは、西澤である。西澤はゆっくり刀を抜くと、玄庵の前から下座へ進んだ。

「この者どもとそれがしは少しばかり因縁があります。まずは、それがしひとりに立ち合わせていただきとう存じます」

 西澤の願いを、玄庵が大きく腕を払って却下した。

「勝手を言うな、西澤!」

「ご無礼は承知の上、なにとぞお頼み申し上げます。その代わりと言ってはなんですが、我が西澤道場の無明流をとくとお楽しみくだされ。なに、こやつらなど、それがしひとりで十分でございます」

「……なるほど、そういうことか。さては手柄を独り占めしたいのだな。お前も、なかなか欲深いの」

 玄庵は少しばかり機嫌を直したようだった。真っ赤だった顔を元に戻して、再び上座に腰をおろす。

「では、西澤、見せてみろ。お前が自慢する無明流とやらを」

「またとないご機会をいただき、ありがたき幸せにござります」

 ニヤリと笑う西澤を見て、惣介は進み出た。

「俺がやる」

 刀を抜き、正眼に構える。

「惣介……」

 新之丞が言うが、惣介はそれを片手で制した。

「西澤の敵だったのは、この俺だ。仁田道場と西澤道場。どちらがすぐれているか、もう一度はっきりさせてやる」

 構える惣介を見て、西澤が満足そうに笑う。狂喜を帯びた目つきに変わる。

「そうこなくてはな、加瀬惣介。仁田道場一の使い手は、後にも先にもお前しかいなかった。師範の仁田馬之助ではなくお前だ。加瀬を倒してこそ、我が無明流が一番だと証明される」

 惣介は刀を握り直し、足を軽く開いた。二十年の時を超えた決闘が今、始まろうとしている。

 

四

 

「佐保という娘に会ったぞ」

 惣介はじりじりと右に移る。

「お前が善処してくれたと聞いたが、本当か?」

「本当だ」

 西澤が鼻で笑う。

「柳沢に渡すわけにはいかぬ。佐保は玄庵さまが奉納試合を見て所望されたのだ。俺が直接届けねば意味がない」

「くずだな。教え子を自らの出世のために差し出そうというのか」

「お前は今から俺に斬られる。死にゆく者になにを言われようと、まったく響かぬな」

「斬られるのはお前だ」

 怒りで全身が熱くなる。

「相変わらずだな、加瀬惣介。少しは自分の立場をわきまえろ。どうあってもお前はこの場から生きて帰れぬ」

「俺はかつてお前に勝ったことがある」

「奉納試合か? 確かにあれは油断した。だが、それが契機になったのだ。俺はひたすら剣を磨くことに専念した。お前ごときに敗れたことで、己に対する怒りに苛まれずにはいられなかった。ある意味感謝しているのだぞ、加瀬。お前のまぐれ勝ちのおかげで、俺は誰よりも強くなることができた。礼を言わせてもらおう」

「威勢のいいことを言っておきながら、後ろの老人に尻尾を振らずにはいられぬというのが悲しいな。お前など、所詮、その程度ということだ」

「ほざけ」

 言い捨てるなり飛びかかってきた。惣介が刀を降ろそうとした瞬間、すでに目の前に白い光が迫っている。

(速い)

 咄嗟に刀を立てて、西澤の一撃を防ぐ。だが、西澤は腕を蛇のようにしならせて、下段から撥ね上げてきた。

「ぐっ」

 後ろに飛ぶ。胸のあたりに焼けるような痛みが走った。斬られたのだ。切っ先だけだったが、確かに肉に届いている。

(言うだけのことはあるな)

 痛みを忘れ、全身が寒気に覆われる。危険だ、と体が反応している。今の一撃は皮膚をかすめただけで済んだが、次は確実に届くだろう。西澤は二十年前よりも腕を上げている。

(どうにかしなければ……)

 考えがまとまる前に、ふたたび迫られた。地を這うように滑り、胴に伸びてくる。避けようとしたところ、刀は軌道を変え、籠手に襲いかかってきた。惣介が防ごうとすると、いつの間にか顔の真横で白い光がまたたいている。

「むっ」

 上半身をひいてぎりぎり避ける。そのまま後ろに飛んで距離を開けようとしたが、止まってくれない。畳みかけるように斬撃を放ってくる。

 防戦一方になった。なんとか致命傷を避けているが、刀は確実に惣介に届いている。腕や足にいくつも傷を負った。それらをいちいち気にしていては斬られる。西澤の速さが群を抜いているからだ。目に映すことさえできない。

 上段から降ってきた刀を弾いた惣介は、逃げるようにして畳を転がった。胸が喘ぎ、汗がどっと溢れる。勝利を確信したのか、西澤が口の端をニッと持ち上げる。

(くそっ)

 これが剣に生きた者の強さか。

 惣介は西澤の人生に羨望を覚えていた。同じ選択をしていれば、自分も今ごろ、最強の剣を手に入れていたかもしれない。あのころの惣介であれば、願えばかなえられたはずだった。だが、出仕する道を選んだ。剣に生きる人生など考えたことがなかった。つまり、それだけの覚悟がなかったということだ。一方で西澤は剣に生きることを誓ったのである。己の腕を極限まで高めることに一生を捧げた。俺などとうていかなうはずがない。ここで斬られて終わるのだ。

(別に価値のある命でもないしな)

 重要な役職についたわけではなかった。なにかを成し遂げたわけでもない。自分が消えたところで、特に世の中は変わることもなく動いていくだろう。家族には迷惑をかけるかもしれないが、ここまで探って多部玄庵という黒幕にたどり着いたことは評価してほしい。できれば、なんとか命を取り留め、どこかでつつましくでも生きてもらいたいが……。

 そう半ばあきらめかけたが、飛び込んできた西澤の胴を防いだあと、わずかに足が流れるのを見て、惣介は反撃を試みた。体が勝手に反応したといった具合だった。その反撃は簡単に西澤に弾かれたが、攻撃に転じることができたという出来事に惣介は勇気を取り戻すことができた。

(そうだ。負けるわけにはいかぬのだ)

 惣介が反撃に転じても、西澤は涼しい顔を崩さない。余裕たっぷりで、ことごとく弾いてくる。不格好に刀を振りながら惣介は、どういうわけか佐保という娘のことを考えていた。凜とした顔が印象的だった。あの子と清次郎が仲良くしていることが、なぜだか自分のことのようにうれしく、少しだけ気恥ずかしく思えた。

(清次郎……)

 自分がたどった青春を今まさに生きている息子。

(清次郎……)

 かけがえのない一つの命。

 そして希望。

 未来。

 瞬間、清次郎と一緒に美津と雪乃があらわれた。さらに作造や林蔵といった百姓たち。奥弥一や森山文七、市原新之丞もあらわれている。そして、そこには巴恵も……。

 巴恵もいたのだ。

(あぁ)

 走馬灯というやつかもしれなかった。

 自分は死ぬのか、そう思った。

 だが惣介は思う。しみじみ思う。

 この人たちに出会えてよかった、と。

 剣に生きる人生もあったかもしれない。その方が、自分にはむいていたのかもしれない。

 だが、今さら、そんなことを考えてなんになる。

 これまで歩んできた人生こそ俺なのだ。

 出会いがあり、別れがあり。それでも、同じ時を一緒に過ごしてくれた者たちがいる。

 大そうな一生ではないかもしれない。役職もたかだか郡奉行だし、名声を得ることもできなかった。

 それでも断言することができる。

 俺は、この人生を生きられてよかった。

「感謝してもし尽くせぬな」

 惣介がつぶやいたときである。

「死ねっ!」

 西澤が叫んだ。ついにとどめを刺すことを決めたようだ。

 刀が降ってくる。

 惣介の体がぐっと沈んだ。

 西澤の一撃が肩をかすめる。

 同時に懐に潜り込む。

 伸びあがるようにして突きあげた。

 一瞬の沈黙。

「ぐはっ」

 西澤が短くこぼす。口から血が溢れ出る。手から刀が離れる。前のめりに西澤が倒れかかってくる。

 西澤が倒れるより先に、腕をひき、刀を抜いた。

 西澤がとどめを刺そうとした、まさにその一瞬だ。

 渾身の一撃をかわした惣介は西澤の胸に刀を突き立てていた。

 天へ駆け昇るような突きだ。龍の飛翔を思わせる鮮やかな一撃。しかし、惣介は自分がどのようにしてその技を放ったのかわからなかった。無意識の技だった。

 足元に倒れ込んだ西澤の下を、赤黒い血が広がっていく。金臭い匂いが鼻に届く。やがてぴくぴくとした痙攣がおさまり、西澤は動かなくなった。あたりに静寂が訪れる。

「あれを使ったのだな」

 語りかけてきたのは新之丞だ。惣介の隣に進み肩に手を乗せる。

「あれとはなんだ?」

 惣介は痛みに顔をしかめたあと、そう聞く。

「飛龍というのだろう、今の技は」

「知らぬ」

「前に使ったことがある。何度か練習したこともあった。忘れたのか?」

 はっとなる。かつて新之丞と立ち合ったとき、一度だけ突きで吹き飛ばしたことがあった。

(あのときの技を?)

 だが、自分がどう動いたかわからない以上、本当に同じ技をつかったのかは自信がない。

「お前は、あの頃の強さに戻っていたのだ」

 茫然とする惣介に新之丞は続ける。

「いや、西澤又八を倒したのだから、あのころより強いのかもしれぬな」

「俺はずっと押されていた……」

「押されていたかどうかなど関係ない。勝ったのはお前だ。さすがは仁田道場一の遣い手、加瀬惣介だ」

 背中を叩かれる。前によろめいたが、手が当たった場所から感覚がよみがえってきた。惣介は新之丞を見つめ返すと、力なく頬を緩めた。

「勝ったな」

「ああ、勝った」

 新之丞も微笑み返してくる。二人は互いを見ながら、込み上げてくる歓喜を噛みしめていた。

 そんな二人に文七が言う。

「ニヤついている場合ではないぞ」

 惣介と新之丞に告げた文七は、周りをぐるりと見渡した。

「この人数を相手にせねばならぬ」

 刀を抜いた藩士が取り囲んでいる。惣介と西澤が戦っている間に、さらに駆けつけたようだ。三十人は超えている。部屋の奥の玄庵が喚く。

「西澤など使い物にならぬ! ひとりで勝手に負けおった!」

 藩士たちがじりじりと間合いを詰めてくる。

「このわしに歯向かった逆臣だ。けっして生かすな!」

「うぉおおお!」

 唸り。目の色を変えた三十人が殺到してくる。

「ここまでか」

 文七はそう嘆いたが、惣介と新之丞は黙ったままだ。敵をじっと見据えながら、刀を返す。

「斬ってはならぬ」

 惣介が言う。

「わかっておる」

 新之丞が返事する。

「やはりそうなるよな」

 文七は愚痴ったが、

「チクショウ!」

 絶叫した。

 三人は、襲い掛かってくる藩士の群れに飛び込んだ。

 

(つづく)