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 正面に座る娘には凛とした雰囲気があった。色白の肌は滑らかで、大きな瞳は猫のように丸い。顔は小さく、頬だけふっくらとしているのが愛らしさを引き立てている。

「清次郎が久保派にかかわりを持つようになったのは、そういうわけか」

 話を聞き終えた惣介はうつむいている娘から目を離し、金吾を振り返った。

「はい」

 金吾が決意のこもったまなざしで答える。

「私たちは、もともと畑中さんの集まりに出ることには消極的でした。畑中さんという人がどちらかというと苦手だったのです。ですが、この@@@佐保(さ ほ)のことがあって、頼るべきは畑中さんしかいないという考えに至りました」

「清次郎も同意見か?」

 惣介が念を押すと、金吾はこくりとうなずく。

「清次郎がそう言ったのです。佐保の身に危険が迫っている以上、久保派に入ってかくまってもらうしかないと」

「清次郎から言い出したのだな」

「はい」

 惣介は腕を組みながら、佐保と呼ばれる娘をもう一度見る。佐保は、清次郎がつかまったことは自分のせいだと思っているらしく、話の間中、瞳から大粒の涙をあふれさせていた。

(清次郎はこの娘のことを想っていたのか)

 どうもそういうことらしかった。惣介の好敵手だった西澤又八の道場で剣を学んでいるという佐保は芯の強い女に見えた。その一方で、こらえきれなくなった途端、涙を流してしまう。その強さと弱さの相違が男をひきつけるのだろう。

 清次郎は佐保に頼まれ居ても立ってもいられなくなったようだった。自分が守らなければならない、と若者らしく考え、だからこそ久保に近づき助けてもらおうと考えた。

(できれば……)

 と惣介は思う。清次郎には自分と同じ人生を歩んでほしくはない。金吾とはずっと友人でいてほしいし、佐保とも悲しい別れを経験してほしくない。少し考えた惣介は、そのためには柳沢と対立する久保に頼るのがやはり正解なようだ、という結論を導き出す。

「なんとかしよう」

 惣介は顔を上げて言った。金吾は目を見開き、佐保はさらに嗚咽を激しくする。二人を見て、

(清次郎、よい友を持ったな)

 と惣介は息子に語りかける。

「佐保どのは必ずお助けいたす。だから、安心されよ」

 惣介は決然と言い放った。俺が清次郎の思いを果たしてやらなければならない。父として当然の役目だ。同時に、佐保を助けることは、ある種、運命のようだな、と感じてしまう。

 惣介は二人を見比べる。

 若い二人からは確かな緊張と、押しつぶされそうなほど巨大な不安に悩まされていることが伝わってきた。生唾を飲み下した惣介は、先ほど佐保と金吾から聞かされた話を思い返す。確かに、佐保の身に降りかかってきたことは闇が深そうだった。藩上層部に関わる、その闇が、城下で暮らしている佐保のような人間にまで及んでいることを考えると、おぞましさを覚える。やはり柳沢派は悪で間違いなさそうだ。

 金吾は、

「佐保が、道場の先輩から柳沢派の会合に出席するよう誘われた」

 と語った。佐保の美しさが目に留まり、柳沢が会いたいと望んだのだ。佐保は西澤道場の女剣士として奉納試合にも出たことがある実力者である。

 佐保は会合に出席することを拒んだ。誘ってきた先輩が平瀬と高原だったからである。平瀬も高原も剣の腕は確かだが、軽薄な性格の持ち主だった。佐保は二人の先輩を嫌っていたし、誘われたことに警戒を示した。

 柳沢派の会合の話を、佐保は清次郎と金吾に相談した。清次郎と金吾が通う仁田道場と佐保が通う西澤道場は競い合っていたが、近年では互いの腕を高めるために交流試合が多く行われるようになっている。同い年の清次郎たちと佐保は、初めは互いに敵対心を抱いていたが、剣を交えるうち心が通じるようになり、同じ道場の人間よりもむしろ深い付き合いになっていった。寺や川原で剣の稽古に励んだり、甘酒屋に寄ってとりとめのない会話をして過ごすことが度々あった。

 佐保から相談を受けた二人は憤慨した。若い娘が権力者の会合に誘われるなど狙いは明らかである。金吾はすぐさま、

「平瀬と高原をやっつけよう」

 と息巻いた。二人は年上ではあったが清次郎たちにとって事あるごとにぶつかってきた相手である。実力ももう少しで届きそうなところまで来ている。だが、清次郎は興奮する金吾をいさめた。

「二人を倒したとしても、次はもっと強い奴が出てくるかもしれない。佐保が強引に連れていかれることも考えられるぞ。ほかの方法を検討すべきだ」

 そうして頭を悩ませたが考えはまとまらず、結局、佐保の師範である西澤に相談を持ちかけるしかないということになったのだった。

 話を聞いた西澤はすぐに平瀬と高原を呼び出した。すると二人はぷっつりと、道場に来なくなってしまった。周りには、道場をやめる、と言いふらしているそうである。平瀬は市原新之丞の家士として、高原は小納戸組への出仕が決まるなど、それぞれ行く先が定まっていた。進路が決まった今となっては道場に通う必要などない、そう考えたのかもしれない。

 西澤も門弟ではなくなってしまうのであれば、それ以上、強く言うことはできないようだった。また、平瀬と高原が柳沢の指示で動いていることも西澤を消極的にさせた可能性がある。西澤は道場主でありながら、藩から禄を得ていた。仁田道場とは違って高禄の子弟を受けることが多いのは、そうした藩上層部とのつながりがあるからだ。

 西澤は佐保が足に怪我をしたことにし、家から出ないようにしたが、

「それでは何の解決にもならない」

 と清次郎は言った。このころにはもう、清次郎は金吾とともに久保派に入る決意を固めていたようである。柳沢と対立する久保に近づき、久保派という傘の下で佐保の安全をはかってもらおう、と考えたのだ。

 清次郎は学塾の先輩である畑中が開く若手の会合に出席した。もともと学問が得意で、剣の腕も立つ清次郎は熱心な誘いを受けていたようだ。すぐに信頼を得、いよいよ佐保のことを畑中に話そうとしたその日に、捕縛されてしまったのだという。

「私は学問があまりできなかったので、そこまで期待されておりませんでした」

 そう金吾は自嘲気味に言った。清次郎がつかまった日、金吾は市原新之丞の見張り役に回されていた。それまで清次郎と一緒に参加していたのに、たまたま会合から外されていたのだ。襲撃があったのは、清次郎が畑中の集まりに参加して三回目のことだった。

「俺の考えが正しければ……」

 惣介は佐保と金吾を交互に見ながら言う。目を真っ赤にした佐保と、口を引き結んだ金吾からは若々しい活力が感じられた。けっして諦めようとしない、人生に対する真剣さが溢れている。

(清次郎もここに……)

 交じっていたのだな、そう思うと、胸にしんみりとしたものが流れ込んできた。このような人物たちが清次郎の近くにいたことが素直にうれしい。

「市原新之丞が動く。そこをおさえれば、柳沢を引っ張り出すことができるかもしれない」

 惣介は二人を元気づけるように声に力を込めて言った。

「どういうことです?」

 金吾が聞く。

「柳沢と談判する。談判してもらうのは久保さまだ。それしか道はない」

「それで清次郎さんは?」

 佐保が心配そうな声で言う。

「助ける、当然だ。それが親としての務めだ。そして、そなたも助ける。助けなければ、俺は清次郎に顔向けできそうにない」

「あぁ……」

 一瞬言葉を詰まらせたあと、佐保は手をついた。

「まことにありがとうございます」

「加瀬さま、なにとぞよろしくお願いいたします」

 礼をする若い二人を前に、なぜか惣介は唇が震えるのを止めることができなかった。

 

 

 惣介は昼前に芦田村に入った。村はまさに実りの季節を迎えたところだった。ぴんと伸びた稲穂が、風に吹かれて一斉になびく。その風には草と土の匂いが混ざっていた。村の風である。惣介は郷愁を覚えながら道の真ん中に立ち尽くす。稲はしっかりと実をつけていた。今年は例年以上に多くの収穫を見込めそうだ。

 代官所に向かった惣介は、そこで奥弥一と会った。

「すまぬ、遅くなった」

 手代からの案内を受けて執務部屋に入った惣介は、まず謝った。

「いえ、ちょうど打ち合わせから戻ってきたところでして。早く来られても待たせてしまうところでした」

 弥一は机から離れると惣介の前に座った。机にも畳にも書類がびっしりと積み重ねられており、弥一が立った瞬間崩れてしまうのではないかと思った。郡奉行助役の仕事はかなり忙しそうだ。

「これだけの書類に囲まれていると窮屈だろう」

 惣介が書類のひとつをめくりながら言うと、弥一は後頭部に手をやりながら苦笑を浮かべた。

「お奉行が書類のあちこちまで細かく指摘してくるので、どうしても調べものが多くなってしまいます」

「宮下源九郎だな。村には出ず、書類の中ですべてを解決しようとする。それでは大切なことは見えぬぞ、と言い続けてきたのだがな。いや、弥一は苦労しておるようだ」

「はあ。まあ、それもそうなのですが、私は加瀬さんのように農業を知悉しているわけではございません。いちいち書類に目を通さないと、どれが正しいのか理解できぬのです」

「俺もわからぬことは多かったぞ」

「ですが、勘がよかった。それでいて間違いも少ない。一種の才能としか思えませぬ」

「いや、才能ではなく、やはり村を知っていたからだろうな。百姓の話を聞き、一緒に土を見て、作物に触れた。だから書類を眺めていても村の景色が浮かんでくる。たいがい、問題はそんなところに隠れているものだ。弥一もたくさん村に出ておるのだから、そうした感覚はわかるはずだぞ」

「いえ、私はやはり順を追って確認しなければなりませぬ。加瀬さんとは違う。それでもなんとかやっていこうと、今、あらゆる書類に目を通しながら、改めて知識を入れ直しているところです」

「せっかく農政に携われる立場にあるのだ。弥一のことだから大丈夫だとは思うが、村を回らずに代官所にこもってばかりではもったいないぞ。百姓の声を聞けるのは俺たちだけだからな」

 惣介が、さも自分も郷方組のひとりであるかのような口調で励ますと、弥一は目を下に向け、

「はあ。私なりにがんばってみます」

 とだけ答えた。

「ところで、加瀬さん。ご用というのは、やはり、ご子息のことですか」

 弥一が顔を上げて言う。

「芦田村にいるお前にも噂は届いておるか」

「昨夜、文が届きました。栗山さまからです」

「栗山さんが?」

「加瀬さんの息子さんの件が語られ、そのあと、加瀬さんの力になるように、と書き添えられていました。今回の一揆の件を少し調べてみろ、そうも書かれていましたな」

「そこまで見抜いておったのか」

 惣介は栗山のおっとりとした顔を思い出した。何食わぬふうを装って、こうして惣介に助けの手を差し伸べてくれるあたり、現役の頃と変わらない優しさが残っているようだ。そして、目の付け所がやはり鋭い。栗山は自身が握っている情報を組み合わせ、新之丞が清次郎の事件に百姓一揆を絡ませるという考えを導き出したのだ。惣介よりも早くそのことに気づいたのはさすがであり、村の暮らしも含め、執政衆とのつながりなど、経験豊富な栗山ならではのことだった。

「そうか、栗山さんは一揆の気配があることまで知っておったか」

 惣介は背筋を伸ばし、そうつぶやいた。

「あ、それは私が話しました。元郡代として、どのように考えるかご助言をいただきに参ったのです」

「それで、栗山さんはなんと言われた?」

「気にすることはなかろう、と笑っておられました。ひどく楽観的なご様子でした」

「引っかかる部分があったからこそ、わざとはぐらかしたのだ。栗山さんらしい」

 惣介は弥一に今回の事件について語った。柳沢が清次郎たちをとらえさせるために大目付配下を動かしたこと。柳沢と藩主政通との関係がうまくいっていないこと。久保が柳沢の不正を暴くために証拠集めをしていること。柳沢派も柳沢派で対抗手段を取ろうとしていること。

 語ったあと惣介は自分の考えを述べた。

「柳沢家老の懐刀と言われる市原新之丞が動く。新之丞はこうしたことを処理する中で地位を得てきた男だ。今回、動かないわけがない。では、どう動くかというと、おそらく芦田村を中心に一揆を起こさせ、それを扇動した罪を清次郎たち久保派の連中にかぶせるのだろう。拷問でもなんでもして、たとえ無実だったとしても、強引に認めさせる。とらえられた二人のうち一人でも認めれば、全員罪に落とすことができる。そして、それは久保さまの指示によるものだとするのだ。久保さまにはその責任を取らせ、執政から追い出す、こういう筋書きだろう」

「派閥の争いに百姓を巻き込むのですか?」

 弥一は、顔を真っ赤にして怒りをあらわした。真面目な弥一らしい反応である。

「本当は弥一が友浦まで相談しに来てくれたとき気づくべきだった。新之丞が今回の件に絡んでいるとな。一昨日、林蔵の家に入っていくのを見かけた者がいるそうだ」

「林蔵の家に? それは気づきませんでした、申し訳ございませぬ」

「夜に向かったのだ。特に、弥一など、勤めに真面目な人間がいない時期を狙って動いたようなふしがある。郷方組にも柳沢派はいるからな。宮下など、典型的な柳沢派だ」

「宮下さんが裏で動いているのですか?」

「その可能性は高い。案外、お前のその膨大な仕事も、村に頻繁に出させないためかもしれぬな」

「そんな……」

 弥一は部屋を見渡した。山と積まれた書類を見て、肩を震わせる。

「私はなにをすればよいのでしょう?」

 怒気を含んだ声で弥一は言った。書類を調べるのは自分のためのように言っていたが、実際はやはり宮下から仕事を押し付けられていたようである。額に青筋が浮いている。

「作造のもとに案内してくれ。湊組の俺がひとりでたずねるのはまずい。郡奉行助役が一緒であれば、郷方組の連中に見つかっても言いつくろうことができる。作造に会わせてくれさえすれば、あとは俺が話す」

 惣介が言うと、弥一は、わかりました、と言って立ちあがった。

 

 

 薄暗い板間で、真っ黒に日焼けした男がぼそぼそとつぶやく。

「そりゃ、私たちも加瀬さまにはお世話になりましたよ。知っていることならなんでも話すつもりです。ですが、本当になにもないのです。一揆など起きようはずがありません」

「では、どうしてたびたび集まっておるのだ」

 惣介の横から弥一が聞く。

 指摘された芦田村の庄屋作造は一瞬視線を泳がせたが、そそくさと茶を飲むと、落ち着きを取り戻した様子で言った。

「稲刈りの相談をしておるのです。今年は久しぶりに豊作になりそうでしてね。みな、気合が入っております。棒や鍬を集めているのは、ほら、あのためです。祭りで踊りを披露しようと思いましてね。百姓踊りです。その練習も兼ねて集まっておるのです」

「別に俺は、棒のことなど聞いておらぬぞ。わざわざ教えてくれたのには、なにかわけがあるのか?」

「いえ、けっしてそんな。お二方にも、ぜひ祭りを見にきていただきたい。そう思っただけでして……」

 作造が首からぶら下げた手拭いで額の汗を拭く。弥一は惣介に顔を向け、首を左右に振った。

「なあ、作造よ」

 惣介は作造に向かって膝をすすめる。

「俺とお前は出仕する前からの仲だ。出仕してからは、農業をなにも知らない俺はお前たちに教えてもらいながら郷方役人としての基礎を身につけた」

「懐かしい話ですな」

 作造は昔のように語りかけてくる惣介と接して少しだけ緊張を解いたようだった。目がいくらか柔らかくなっている。

「加瀬さまは、さも当たり前のように私たち百姓の中に入ってこられました。こんなお役人がおられるのかと、最初は驚きましたが、すぐに加瀬さまがいてくれることが当たり前になりました。加瀬さまが農政を担ってくれるようになれば、村の暮らしもよくなるのではないか、と、そんな希望を抱きました」

「あの頃はお互い若かったな。俺も歳をとった。そして、お前も結構な歳だ。俺の倅は十八になってな。作造の息子は六つほど上だったから、二十四か。村を回っているとき、俺を相撲に誘ってくれたことがある。確か六歳とかそれぐらいのころだ」

「あれにも、もう子どもがおります。三人です。今でも、ときどき加瀬さまのことを話しますよ。一緒になって遊んでくれた役人は加瀬さまが初めてだった、と。それから、奥さまのような方が少しずつ増えてこられた。加瀬さまが、そうした役人も育ててくれた、と喜んでいます」

「だが、俺を育てたのは、作造、お前たちだ。この村の担当になって、すぐに宴に招いてくれたな。そこで俺を必要だと言ってくれた。俺はうれしかったぞ。お前たちのために働きたいと心の底から思った」

「もとはと言えば、加瀬さまが高田川の決壊から村を救ってくださったからです。お若いのに、私たちのために身を挺して進言されました。それを聞いたとき、胸が熱くなりました。当時郡奉行だった栗山さまに、どうにか感謝を伝えるすべはないかと相談したところ、加瀬さまを芦田村の担当に変えてくださった。我々はおおいに喜びました」

「それは……」

 惣介は、口を開きかけたが、出かけた言葉を喉の奥で押しとどめた。作造が語る過去の本当のいきさつは誰にも語っておらず、それは作造が信じ込んでいるような美しい話では決してないのだ。結果としては作造たちを救った形になったが、惣介の行動は後ろ向きな気持ちから引き起こされたものだったのである。

(あれから、二十年か)

 惣介は胸に重いものを感じながら高田川の決壊の日を思い出す。途端に過去がありありと目の前に浮かびあがってくるようになった。

 二十年前の春の終わりのその日。昼頃から降り始めた雨は夜になってもやまず、翌日の朝になってさらに激しさが増すようになった。桶をひっくり返したような豪雨は道に穴を穿つほどで、軒下に出て眺めても水の壁で先を見通せないほどだった。

 さすがに危険を感じた藩上層部は各奉行に連絡して領内に被害が出ていないかを確認させた。そこで郡奉行から高田川の水位が異常なまでに高くなっていると報告が入ったのである。高田川は大河だが、今まで決壊したという記録はなかった。だが記録は記録で、どこにも安全だという保証はない。この豪雨さえ、過去に例がないほどの激しさだ。高田川は城下の西側に接していて、そのあたりで決壊すれば、たちまち城下が水浸しになる。藩上層部はそのことを危惧した。

 すぐに普請奉行に指示が出た。近隣の農家から人が駆り出されて高田川の堰を切ることが決められたのである。場所は芦田村だ。本来ならもっと上流で切るべきであろうが、大勢の人足を連れてそこまで駆けつけるのは至難の業だった。事態は一刻の猶予もならないのである。芦田村に多少の被害が出ても城下を守ることが優先された。

 そのとき惣介は二十二歳だった。父を亡くして家督を継いでから一年しか経っておらず、郡奉行配下郷方組の勤めにもようやく慣れてきたところだ。その若い惣介が普請奉行に異を唱えたことは人々を驚嘆させた。普請組に交ざって作業を手伝うよう指示された惣介は、現場を見て堰を切る場所の変更を申し出たのだ。

「芦田村が流される恐れがあります。もう少し上流の曲がり口で切れば、水は林を突っ切って沼沢川にそそぐでしょう」

 藩は芦田村の北東で堰を切る計画を立てていた。近くに小高い山があり、流れ出た水はその山にぶつかって城下の東側へそれていくという目論見だ。堰を切る位置、山の形状からしても十中八九うまく行くだろうと思われたが、しかし、相手は自然である。予期せず山の西側に流れ込むこともないとは言えなかった。そうなると芦田村は水に飲み込まれることになる。

 惣介が主張したのは、さらに上流に進み、領内を流れるもう一つの大河、沼沢川に接近するあたりで堰を切ろうというものである。沼沢川は城下から離れながら海へ注ぐ川である。曲がりくねる高田川とは違い比較的まっすぐ進むため決壊することもありえない。

 このとき、惣介と同じ考えを持っていた人間はほかにも何人かいたはずだった。だが、誰も口に出して言うことができなかったのである。ちょうど政変が起こって柳沢作兵衛が筆頭家老になったときだった。執政衆は、それまでの大黒典膳を頂点とした大黒派から、ほぼ総入れ替えという形になっている。今、柳沢たちの決定に異を唱えれば、大黒派に属していたとみなされ処罰の対象になる恐れがあった。そのことをみな怖れていたのだ。藩政を握ってすぐの柳沢たち執政が見当違いな指示を出したとしても、文句を言わずに従わなければならない状況だった。

「変更はかなわん」

 案の定、普請奉行は声を張り上げて惣介に言った。雨がひどいため、叫ばなければ聞こえないのだ。

「間に合います。ここで堰を切って村に万一のことがあれば、領内の百姓たちは城下に押し寄せますぞ」

 惣介は言い返した。まるで藩のことを切実に考えたかのような言い草だった。

 だが、惣介を駆り立てたのは、まったく違う考えによるものだったのだ。

 

(つづく)