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 店を出たのは夜も更けてからになった。提灯を借り、星が燦然と輝く道を金吾と共に歩く。酒を飲んだからか、多少体が重かった。清次郎がとらえられてからというもの、溜め込んできた疲労が一気に押し寄せくるのを感じる。

 屋敷に入った惣介が式台で足袋を脱いでいると、奥から女中のきぬがやってきた。提灯の灯りにぼうっと浮かびあがるきぬを見て、まだ家に帰っていなかったのか、と惣介は聞く。

「清次郎さんのことを母に話しましたら、加瀬さまのおうちにいてやりなさい、と言われまして」

「さようか。面倒をかけるな」

「母はご近所さんが見てくれることになっています」

「かたじけない」

 部屋に戻った惣介は、きぬに食事はいらないことを伝えると、着替えを済まして夜具に腰をおろした。早く寝るつもりだった。明日は久保のところに出かけなければならない。寝不足のまま臨んでいい相手ではなかった。現在どれほどの権力を持っているのかはわからなかったが、家格だけなら藩主家に次ぐ存在だ。それ以上に清次郎の命がかかっている。清次郎のためにも久保には話を真剣に聞いてもらわなければならない。

「よろしいでしょうか」

 惣介が夜具に入ろうとしたとき、襖の向こうから声がした。惣介は顔をしかめる。妻の美津だ。

 こちらが眠れなかったときにはすやすや寝ていたくせに、いざ寝ようと思ったら邪魔をする。

(勝手な女だ)

 もっとも、そう思うのは、今朝、白川がほのめかした話に原因があるかもしれなかった。美津と白川にはなにかしらの関係がある。自分の知らない妻の存在に怒りをかき立てられている。

「なんだ?」

 惣介が聞くと、襖が開いて美津と雪乃が入ってきた。

「もう、おやすみになるおつもりでしたか?」

 美津が、惣介を見下ろして冷たい目で言う。

「そうだが?」

 立ち上がった惣介は突き放すように答えた。

「清次郎がみじめな思いをさせられているというのに、よくもまあ、ご自分だけのんびりと」

「ふん」

 お前こそ二日間寝ていたではないか、と言いかけた口を惣介はふさいだ。喧嘩になると面倒くさい。こちらは明日大事な用が控えているのだ。

「あら?」

 惣介をじっと見ていた美津は、急に驚いたような表情をして鼻をつまんだ。

「お酒をお召しになられたのですか?」

「だから、どうした」

「清次郎が……」

「つかまっているのに、自分だけ、か?」

 惣介は美津の言葉を先取りして言った。

「俺も、飲みたいと思って飲んだわけではない。ただ、飲まなければ話を聞き出せなかったから飲んだのだ」

 惣介は、次々と徳利をあけた畑中を思い出す。あれは相当な酒好きだ。そして酒好きによくあるように、酒を飲まなければ話の半分も語らない男のようだった。現に、酒を飲むことで畑中は饒舌になり、あれこれ教えてくれたのだ。

「どこで、誰とお会いになられていたんですの?」

「言えぬ」

「言えぬ? これまたご大層な」

「どこから洩れるかわからぬからな。相手も知られてはまずい立場の人間だ」

「妻の私を信じられぬと?」

「そうではない。ただ、お前に話すと、俺の中で気持ちが緩むというのだ。いざというとき、ほかの誰かにしゃべる恐れが出てしまう。そのことを俺は恐れている」

「なにをおっしゃっているのか、さっぱりわかりませんね」

 バカにしたように言う美津に、惣介は奥歯を噛み締めた。だが、激昂する前に、妻の斜め後ろに控える娘に目がいって、どうにか気持ちをおさえこむことができた。雪乃は居心地悪げに体を小さくしていた。

「雪乃はさがっておれ。父と母で話す」

 惣介が言うと、美津が首を振った。

「いいえ、雪乃にも聞いてもらいます。雪乃は今日、私と一緒に清次郎のところへ行ったのですから」

「なに? 清次郎のところに?」

 惣介は目を丸くした。

「九兵衛にもついてきてもらいました」

「会えなかっただろう、清次郎には」

「ええ。会えませんでした」

「会えるはずがないのだ。裁きを控えている身。それぐらい常識だ」

「知っていても会いに行かずにはいられない。それが親の情けというもの。そうではございませんか!」

 突然、美津が声を張り上げた。目を吊り上げ、惣介をにらみつける。

「なんだ、俺が親として失格だとでもいうのか!」

「そうではないとお考えなのですか? あなたさまが?」

「養っておるのは誰だと思っている!」

「養う、養う、そのことばかり! それを言い訳にすれば、すべて済むと思っておられる」

 美津が気色ばむ。惣介は首を振り、盛大に溜息を洩らした。

「家族のことも考えておる。現に、今、清次郎を救う方法がないかと、あれこれ探っているところなのだ」

「清次郎のためではないでしょう? あなたはご自身のために動いているのでしょう?」

「なに!」

「あなたは、自分にも累が及ぶのを恐れて必死なのです。そうでございましょう?」

「貴様……」

 惣介は口をつぐんだ。言いたいことは山ほどある。だが、口では美津に勝てないのだ。美津が言ったことがまったく見当はずれではないからである。確かに惣介は、清次郎の無事よりも、清次郎が処刑されることで自分もまきこまれてしまうのではないかと恐れたことがあった。家禄を召し上げられ、家族を路頭に迷わせてしまう。それは、一家を支える主人として当然の心配だと惣介は思ったが、美津はまったく別のものを見ていたようである。

(そして、俺も、そこが見えるようになってきている)

 城下を駆け回るうち、清次郎に触れることができた、と惣介は思っている。今は、清次郎のことをなによりも優先して考えなければならない、その思いでいっぱいだ。父である自分こそが責任を持たなければならない、そう思っている。

「言い返せないのですね。図星だからです。あなたはそうした考えの持ち主なのです」

 だが美津は、惣介の思いなどお構いなしにずけずけと言ってくる。

「お母さま……」

 雪乃がたしなめるように美津の袖を引っ張った。それを美津は力任せに振り払う。

「雪乃は黙ってなさい!」

 そう怒鳴り、惣介に憎悪の目を向けた。

「そもそも勤めと言っておきながら、あなたのやっていることは……」

「もうよい」

「なにがよいのです! 酒ばかりでなく、女の匂いもぷんぷんさせて。こんなときになにをなさっておるのです、恥ずかしくないのですか!」

「なっ……」

 惣介はとっさに美津のうしろに視線を走らせた。雪乃は惣介と目が合った瞬間、さっと下を向いた。

 惣介は愕然とする。雪乃も自分を疑っているのだ。確かに畑中と話をした女郎屋は、すえた匂いが立ち込める部屋だった。家に帰り、着替えを済ませたにもかかわらずその匂いに気づく女の勘には驚かされるが、それ以上に年頃の娘の前で糾弾してくる妻に愕然とする。

「女はいなかった。茶屋町で飲みはしたが、相手は男ばかりだ」

「見苦しい」

「貴様!」

 惣介は一歩踏み出した。頭の奥がガンガン鳴っている。小皺だらけの痩せた中年女に目を剥いて詰め寄る。

「貴様だってな!」

 惣介は美津の前に立ちはだかり、指を突きつけた。

(言うな)

 心の中で叫んでいる。雪乃がいるのだぞ。ここで言えば、取り返しがつかなくなる。そうもうひとりの自分が訴えてくる。

 だが、美津の顔を見ると憎しみが溢れてくる。そこにいるのは、長年夫婦として連れ添ってきた女ではない。ただの憎しみの対象だ。怒りをぶつけないわけにはいかない。

「学塾の白川とはどういう関係だ!」

 惣介は怒鳴った。

(言ってしまった)

 と思った。もう後には戻れなくなってしまった。だからこそ、もう止められない。

「亭主の知らぬところで、隠れてこそこそと! 息子が通う学塾だぞ! 汚らわしいとは思わぬか!」

「なにを申しておりますの?」

 美津が目を見開いて言い返す。だが、その表情には明らかな動揺の色が浮かんでいた。惣介の怒りは頂点に達する。

「女狐め! もともと、あの男が目当てで清次郎を入れたのだろう! 俺は反対したのだ。学塾にこだわる必要はないと何度も言った。それを、清次郎のためにと強引に入れたのはお前だ! 月々のかかりもほかの塾より高い!」

 そうだった。そうだったのだ。清次郎が十歳になったとき、学問をどうするかということを夫婦で話し合った。惣介は藩校に近い存在である大井甚内の塾に通わせるのがよいという意見だった。家中の子弟が多く通っている大井塾は、四書五経を基本に教える私塾で、他の子どもと一緒に切磋琢磨できる環境が望ましい、と思ったのだ。比較的家禄の低い子が通う大井塾は、そのため多様な人材が集まり、人との付き合い方も自然と身につくのではないか、と考えた。

 だが、美津は納得しなかった。難しい本を読むことが好きな美津は、江戸から帰ってきたばかりの白川の塾に通わせたい、と主張した。惣介は、

「武士は、学問より剣術だ」

 と仁田道場での稽古に影響が及ぶことを懸念した。学問にばかり専念し、道場から心が離れてしまっては本末転倒だ、と考えたのである。人としての芯は道場の稽古でこそ培うことができる。その芯がしっかりしていれば、出仕した後、現場で出会ったたくさんの人から学ぶことができる。惣介は、自身がそうしてきたために、清次郎にもそれが当てはまると考えていた。

 だが、惣介が領内北部の代官所に移り、家を空けている間に、美津は勝手に白川塾への入塾を決めてしまった。帰ってその話を聞いた惣介は、激しい怒りに襲われたが、結局はなにも言わなかった。すでに清次郎は白川塾に通っているのだから、文句を言ったところで無駄な軋轢あつれきを生むだけだ、そう諦めた。

(あのころを機に、家族は俺から離れたのだ)

 八年も昔のことである。思い出した惣介は、冷たい悲哀が胸の奥に生まれるのを感じる。この家族はもう、あの日より以前に戻ることはない、と漠然とそんなことを思ってしまう。

「あなた、ずっとそのような考えをお持ちだったのですか!」

 惣介が、気持ちを沈ませかけたのとは対照的に、美津は感情をたかぶらせていた。顔を紅潮させ、惣介に詰め寄る。

「あなたは、私のすることすべてが気に入らぬのです! 私は清次郎のためを思ってしただけなのに……」

「話がすり替わっておる。俺は、白川との関係を聞いておるのだ」

「なにもございませぬ。あなたさまのところに嫁いでからというもの、そのようなこと考えたこともございませぬ。それを、あなたさまは……」

 美津の頬を、涙がこぼれた。乾いた肌を流れる涙は、奇妙な生き物のように、その場にそぐわなく思えた。惣介は、同情よりもうろたえを強く感じたが、美津は惣介を無視して顔を両手で覆った。

「おい……」

 惣介は妻に手を伸ばした。しかし美津は、さっと顔を上げ、夫の手をぱしりと叩き落とした。

「触らないでください! 汚らわしい」

 金切り声で叫ぶと、踵を返して去っていく。

「こら、待て!」

 惣介が呼びかけても美津は止まらない。足早に進み、襖をぴしゃりと閉めた。物言わぬ襖を惣介は茫然と見つめた。なにも言葉が浮かんでこないとはまさにこのことだ、そう思った。

「お父さま」

 か細い声に惣介は振り返る。一人残った雪乃が、惣介を見つめていた。

「なんだ、雪乃?」

 惣介はうろたえながら聞いた。

「お兄さまは……」

「清次郎か?」

「お兄さまは、無事に戻ってこられるのでしょうか?」

 二日前にも聞かれたことだった。だが今は、そこにさまざまな意味が含まれているのを感じる。もちろん、惣介に対する非難も混ざっている。そのことが胸に痛い。

「必ず助ける」

 惣介は気づかないふりをして、これまた以前と同じ回答を繰り返した。

「どんなことがあっても俺が連れ戻す。雪乃は案じずともよい」

「そうですか……。なら安心です……」

 雪乃は顔を上げて笑顔を作ると、おやすみなさい、と言って部屋から出ていった。惣介は、なにか声をかけなければならない、と思ったが、結局何を言えばいいのかわからず口を閉ざしたまま立ち尽くした。

(この家はもう無理かもしれぬな)

 雪乃が出て行った襖を見ながら、惣介は唐突に思う。

 たとえ、清次郎が戻ってきたとしても、もう無理だ。

 いつの間にか、こんなにも崩れていた。今、そのことを痛感させられている。

 惣介は夜具に視線を落とした。今日も眠れそうにないな、と思った。いや、安眠など自分の人生ではもう望めないのかもしれない。そのことを思って、惣介は額をおさえた。

 

大切なもの

 

 

 朝、家の奥から物音が聞こえた。目をあけた惣介は、

(また、友浦にでも行くつもりか)

 と舌打ちした。ドタドタという足音は二人分だ。ひとつは、こちらにわざと聞こえるようにしているのか、やかましい。惣介は仰向けに寝たままで、二人の前に顔を出すつもりはなかった。昨夜の言い合いのせいで一睡もできていない。そのことが苛立ちを強めている。

(勝手にしろ)

 雪乃が巻き込まれていることはかわいそうだったが、だからといって妻を注意しようとは思わない。美津と顔を合わせれば、また喧嘩になるに違いなかった。清次郎のために残されているのはあと二日しかない。美津の癇気にかまってなどいられないのだ。

 人が出ていく音がして、家の中に静けさが戻った。なおもしばらくじっとしていると、見送りに出たらしい女中のきぬが台所に入った音が聞こえた。惣介はおもむろに起き上がり、着替えを済まして居間に向かった。昨日、畑中につき合って酒を飲んだためか腹が減っている。ただでさえ、今日はいろいろと歩き回らなければならないのだ。朝食をしっかりとっておこう、と思った。

 きぬの給仕で飯を食べていると、襖の向こうから下男の九兵衛が、旦那さま、と声をかけてきた。

「入れ」

 惣介は茶碗を膳に戻して膝に手を置く。老僕が礼をして入ってきた。

「どうだった?」

 惣介が聞くと、九兵衛は、ええ、ええ、と言いながら手拭いで顔を拭った。

「奥弥一さまは、芦田村に泊まっておられるとのことでございました。今日も、そちらにおられるはずだから、申し訳ございませんが、直接芦田村に向かわれた方がよいのではないか、とのお仰せでございます」

「それはむしろ都合がよいな」

 惣介が答える。

「さっそく奥方さまの方から使いを出してくれました。郷方組の若いので、今朝、芦田村に向かうものがおられるそうです。奥弥一さまに代官所で待つよう伝えてくれるとのことでした」

「気の利く女房だ」

 惣介は弥一の女房の丸っこい顔を思い出す。明るくはきはきとした性格の女房で、惣介が家を訪れるたび笑顔で迎え入れ、食べきれないほどの料理を用意してくれた。幼い息子を一人で育てながらも、なかなか家に帰らない弥一とも仲むつまじくやっているらしい。

「弥一の女房は迷惑がってなかったか?」

 惣介は九兵衛をにらみつけるようにして聞いた。先日、町で向けられた白い目を思い出している。弥一の家族が他の人々と同じように惣介のことを罪人扱いしていたとしたら胸が痛む。弥一に会いに行ったとしても、うまく話が進まないのではないか、という気もする。弥一に限ってそんなことはない、と思ったが、それでも女房の反応は気になった。

「いえ。なにかお手伝いできることがございましたら、なんなりとお申し付けください、とおっしゃられました。旦那さまには世話になりっぱなしだったから今こそ力になりたいのです、と申されたほどです」

「そうか。そう、申しておったか」

 思いがけなく触れた人のやさしさに、目頭が熱くなった。誰の支えもないまま、柳沢という巨大な権力に立ち向かおうとしていたのだ。不安よりも孤独を感じていたらしい。それだけに弥一の女房の言葉はうれしかった。

 朝食を食べ終えた惣介はさっそく家を出た。芦田村は普通に歩けば、一刻(約二時間)ほどで着ける距離だ。弥一に、一揆の兆候についてもっと詳しく聞くつもりでいる。十中八九、新之丞が絡んでいるに違いない、とにらんでいる。その情報を持って久保に会いにいけば久保は小躍りして喜ぶだろう。柳沢の懐刀が一揆を扇動していたなど、派閥の長の罪を問うには十分すぎる証拠になる。

 歩き始めた惣介は、家を出てすぐのところで止まった。角から男があらわれ、

「加瀬さま」

 と呼びかけてきた。

「むっ……」

 身構えた惣介だったが、目の前の男を見てすぐに肩の力を抜く。

「どうしたのだ、金吾」

 惣介が問うと、金吾は長身をかがめながら気ぜわしく視線を泳がせた。

「加瀬さまにお伝えしたいことがございます」

 金吾が息を飲み込むようにして告げる。

「というより、会ってほしい者がおるのです」

「誰だ?」

「今から、その者のところへお連れいたします」

「今からか?」

「お忙しいですか?」

「北の村に向かおうと思っていた。いそぐか?」

「できれば……」

「……まさか、そのお方というのは久保さまではないだろうな」

 目を光らせた惣介だったが、金吾は小さく首を振った。

「久保さまではございませぬ」

 惣介は腕を組んで考えた。できれば、早めに芦田村に行きたかった。弥一が待っているだろうし、なにより疑惑を確証に変えたいという思いが強い。新之丞が百姓を扇動している事実を突き止めることは、清次郎のこともあるが、かつて友として過ごした自分だからこそ果たさなければならない使命に思える。

 だが、今、目の前でたたずんでいる金吾を見捨てることはできそうになかった。思いつめた様子の金吾からは、よほど重大ななにかを抱えているのだろうことが伝わってくる。その思いを無視はできない。

(清次郎の友だしな)

 惣介は金吾に向かってうなずいた。

「案内いたせ。だが、そんなに悠長にはできぬぞ」

 惣介が言うと、金吾は表情を輝かせた。あまり口数の多くない、どちらかというとそっけないような男が、ひとりの若者としての姿をあらわしたように見えた。惣介は、金吾の隣で一緒に笑っている息子を見たような気がした。

(俺は、この若者のことが嫌いではないな)

 何度も礼を言う金吾を見ながら、惣介は思った。金吾が清次郎の友だちでいてくれることに感謝したい気持ちが湧いた。そして無二の親友がいる清次郎にどことなく懐かしい思いを呼び覚まされた気がした。

「いそげ、金吾」

 惣介は若者を急き立てると、長身の男の背中を追った。

 

(つづく)