第一幕 ~加瀬惣介​~

 

友浦湊

 

 

 青に飲み込まれてしまうのではないかと思った。

 鏡のようにきらめく海と、雲一つない空のちょうど境界にあたる部分。すぅっと滑っては、ひらひらと舞い上がるそれはあまりに非力に見えた。風が吹けば、海に引きずりこまれてしまうのではないか。穏やかな青でさえも脅威に映ってしまうほどのちっぽけな存在だ。

 蝶である。

 岩場のずっと向こう、凪いだ海の上を飛んでいる。山の木々が赤く染まり始めるこの季節、瀬戸内海に接するふく藩ではその飛翔を度々目にすることができた。秋を運んできてくれるかのように。

(あぁ、今年もあの蝶がやってきたか)

 青い蝶を見かけるたび、福備の領民は季節の移ろいに思いを馳せることができる。

 加瀬かせ惣介そうすけもそのうちの一人だった。

 白波がちゃぷちゃぷとぶつかる岩場に腰かけた惣介は、竹筒を口に当てて喉を潤す。

(稲刈りは、無事済んだだろうか)

 遠くに目を向ける。同時に胸がちくりと痛むのを感じた。その痛みが過去へと意識を連れ去っていく。惣介の頭の中の情景が潮の香り漂う湊町から、緑に覆われた山深い村々へと切り変わる。一年のほとんどを過ごしてきた郷村だ。

 村の暮らしは惣介に合っていた。民はよくなついたし、そんな百姓たちを救おうと、惣介は勤めに情熱を傾けてきた。農政こそ自分が生涯耕していく大地だと思っていた。それだけに、湊町で勤めるよう言い渡されたときの衝撃は、人生が終わったと思わせるほど強いものだった。

(どうして俺が)

 まだ納得していない。郡奉行の任を解かれ、湊組への役替えを申し渡されたのは、惣介が百姓の側に立って物を考える人間だからに違いなかった。年貢の引き下げや、普請工事の労賃の支払いを藩の上層部に訴えてきた。その言動が疎まれたようである。執政衆は、そのころ発生した百姓一揆に惣介を説得役として駆り出し、うまく話をまとめられなかったとして責任を押し付け、農政から引きはがしたのである。達しを受けたとき、惣介は、怒り以上に無念を感じたのだった。

 目を閉じ、再び竹筒に口をつける。たちまち冷たい水が臓腑に流れ込んできた。歩き回る勤めのためか、喉が渇いてしようがない。息もすぐに上がり、休みをはさみながらでないと一日の勤めを果たすことができなくなっている。それはあるいは慣れない気候のせいかもしれなかった。海からの潮を含んだ風は乾いていて、毎日浴びていると体の奥の方がからからになってしまう。やはり自分は、緑の風、草と土の匂いの中で生きることが性に合っているのだ、と惣介は思う。福備藩の海の玄関口である友浦ともうらみなとで暮らして二年。いまだに他藩に一人放り込まれたような、落ち着かない調子が続いている。

(いや、住む場所だけが原因ではないな)

 惣介は腰を叩いた。

(齢だ)

 惣介は今年、四十二歳になった。かつては田畑のあぜ道を、それこそ一日中歩き通しても疲れを感じなかったが、今はだめだ。一応、毎朝、木剣を振る稽古は続けていたが、それでも齢の影響は大きい。惣介のおなか回りには指でつまめるほどの肉がつくようになっている。同年代よりは引き締まった体をしているが、それでも時の経過に寂しさを感じてしまう。

 ふっと溜息を洩らした惣介は、

「おや?」

 突如、身を乗り出した。

 海の上を飛んでいた蝶が、いつの間にか姿を消していたのだ。それはまさしく忽然と消えたと言ってよかった。海と空が交わるあたりを左から右へ目を走らせたが、蝶はやはりどこにもいない。

 狐につままれたようにまばたきを繰り返した惣介だったが、海からの潮風を浴びて苦笑を浮かべた。

「さて、勤めに戻るとするか」

 岩場から腰を上げ、尻のあたりをはたきながら袴の折れ目を直す。

(感傷的になるような齢でもないな)

 そう自嘲する。蝶が実際にいたかなど、どうでもいいことだった。ただ、蝶を見たと思い、そこからさまざまな感情を呼び覚まされたことが問題だ。惣介は農政から離されたいきどおりだけではなく、かつて、未来には希望ばかりが満ちていると信じていた時代のことまで思い出していたようである。

 だが、藩という組織で働くうち、まるでとがっている部分にやすりをあてられるように、徐々に丸くなっていった。その中で唯一とがらせたままにしていた「百姓のために人生を費やす」という思いも、郡奉行から降ろされたことで消えた。今、惣介は、自分がなんの特徴もない人間になってしまったことを痛感している。そんな自分にできることは、不本意な勤めであっても禄のために役目をこなすことだけだ。

 岩場から離れた惣介は友浦の湊町を目指して歩いた。そして、大小さまざまな船が停泊する湊が見えたところで右に折れる。途端に人々が行きかうにぎやかな町に出た。これほどまでに活気が満ちているのは、友浦が全国でも有数の湊町だからだろう。瀬戸内海の複雑な潮がぶつかる友浦の海は、潮の流れで上方かみがたに向かうか、九州に向かうかが異なってしまう。そのため、多くの帆船が潮を待つための寄港地として利用するのだ。

 自然、人も物も集まる繁華な湊町へと発展した。町には店が立ち並び、それはどこも活況を呈しているのだったが、中でも料理茶屋と女郎屋は隆盛を極めている。船から上がった男たちがまず求めるのは酒である。そして、酒を飲んで気分が良くなった男たちは女のぬくもりが欲しくなる。それは、日中でも関係なかった。

 そのため友浦は、いついかなる時でも酔客がうろつく、一見賑やかに見える半面、風紀が乱れがちな町になっている。それらを取り締まるのが、惣介たち湊組の人間である。友浦に立ち寄るのは腕っぷしのいい水夫がほとんどで、騒ぎが大きくなれば仲間が駆けつけ、拳や蹴りが乱れ飛ぶ恐れがあった。争いの火種を見つけては即座に踏み消しておくことを惣介たちは求められている。

 惣介が、通りから一歩入った路地を進み始めたときである。さっそく、その火種に出くわした。

「ふざけるな!」

「お客様、そんなに大きな声を出さないでくださいまし」

「あんな、骨と皮だけの女を出してきやがって。いったいどういう了見だ!」

 店の土間で腕まくりしているのは、着流し姿の、屈強な体つきをした男である。商家の番頭らしい男を相手に、顔を真っ赤にして唾を飛ばしている。

「お客さま、お静かに。他の方々にご迷惑になります」

 物言いは丁寧だったが、番頭風の男は明らかに客をあざけっていた。こういった場面に慣れているのだ。

「やい、番頭。他の方々だと? 今、お前に物を申してるのはこの俺だ。ほかの奴らなど関係ない」

「なにをおっしゃいます。散々楽しまれた後ではございませんか」

「楽しいもんか。なにも反応せんではないか。まるで木像でくを抱いているようだ」

「それはお客さまが、あまり、その……。手管のほうがなんというか、上手ではないからではございませぬか?」

 番頭は手で口を覆って女のような声で笑った。

「貴様、俺をバカにするのか!」

 男が飛びかかろうとする。惣介は素早く土間に滑り込み男の前で身を沈めた。

 そのまま当て身を食らわす。後ろによろめいた男を追いかけ、腕を取って後ろにひねり上げた。男の腕は想像以上にたくましい。船乗りは力仕事なのだ。

「き、貴様……。いきなりなにしやがる!」

「大きな声を出すな。さすれば、これ以上いためつけぬ」

 耳元でささやく惣介に、男は、いてて、と気弱な声を出した。

「貴様、この店の用心棒だな。だったら、この店がどんな商売をしているか知ってるだろう」

 歯を食いしばりながら語りかけてくる男に、惣介は首を振った。

「いや、拙者は福備藩士だ。湊組所属で町の巡回を担っておる」

「湊組?」

 途端に男の顔色が変わる。

「なおもなにか言いたいことがあるなら、牢の中で聞いてやるぞ」

「申し訳ございませんでした」

 男が急にしおらしくなった。船乗りにとって、他藩の領内で捕まることほど恐ろしいことはない。出航する船に乗れなくなるばかりか、家にも帰れなくなる。藩によって裁きが違うため、どのように扱われるかも不安なのだ。

「さっさと行け」

 惣介が解放すると、男は急になにか思い出した様子で懐から金包みを出し土間に置いた。後ろをちらちらと振り返りながら出ていく男を惣介は腕を組んで見守る。

「ありがとうございます。お武家さま」

 番頭が土間に降りてきた。

「見事なお裁き。おかげで助かりました」

「お前に任せていたら、騒ぎが大きくなってしょうがない」

 番頭は、ほっほっ、と女のように笑ってから、さらに体を近づけてきた。

「お名前をうかがってもよろしいでしょうか」

「加瀬惣介だ」

「え。あなたが加瀬さま」

 番頭が目を丸くする。

「ごろつきをことごとくこらしめてくれると評判の、あの加瀬さまでございましたか。どうりで、どうりで。先ほどの動き、尋常な方ではないと思いました」

「昼日中から店を開けることは控えるよう達しが出ておるはずだぞ」

 惣介は男の軽口を無視して言った。

「はあ、まあ、そうなんですが」

 藩では昼の女郎屋の営業を自粛するよう指示している。ただ、潮の関係で昼しか滞在しない船乗りも多く、そうした客の欲をかなえることで湊町全体が潤っている実状もあるため、藩は、あくまで自粛という形にして判断は店側に任せていた。そうしたあいまいな態度が女郎屋を営む者たちを大胆にさせているのである。

「我々も、なかなか厳しいやりくりをしているもので」

 番頭がにじり寄ってくる。

「だが、決まりには従ってもらわねばならぬ。以後、気を付けるように」

「まあ、そうおっしゃらずに」

 番頭が懐から何かを取り出し、素早く惣介の手に握らせた。確認するまでもなく金である。

 瞬間、惣介は頭の奥が熱くなるのを感じた。

「おい、番頭。あまり図に乗るなよ」

 惣介が胸に金をたたきつけると、番頭はよろよろと後ろにさがってしりもちをついた。一分金が音を立てて転がる中、へらへらとしたしまりのない笑みを浮かべている。世間全般を嘲笑しているような濁った目をしていた。

(このような男がのうのうと生きているのに)

 惣介は番頭をにらみつける。惣介の怒りには、今も、その日暮らしで精一杯の人たちがいるのだ、という思いが含まれている。福備藩の百姓は、皆、貧しさに喘いでいる。そうした暮らしを少しでもよくするために、自分のすべてを注ぎ込んできたつもりだった。にもかかわらず、志を果たすことができないまま、農政とは関係のない湊組へ移された。その鬱屈が、番頭に対する怒りを掻きたてていく。

「もう一度言う。以後、慎むように」

 惣介は短く言い捨てた。聞いているのかいないのか、番頭はへらへらと笑ったままだ。

「ちっ」

 惣介は舌打ちして、踵を返した。戸の前まで進んだとき、

「加瀬さん?」

 そう声をかけられた。惣介は怒りを消して、しまったという顔をする。

「このようなところでなにをされているのですか?」

「勤めだ」

 惣介は答えると、足早に外に出て中を見られないよう戸を閉めた。それから目の前の男に困ったような笑みを漏らす。

「早かったではないか」

 男は郡奉行をしていたころの下役であるおくいちだ。今日は、その弥一から相談があると言われて勤めのあとに会う約束をしていたのだ。

「湊町というのが珍しくて、少し見学してみようと思ったのです。ただ、どうにも迷ってしまいまして……」

 きょろきょろとあたりを見回す弥一の背中を惣介は押す。なんとなく退廃的な空気が漂う女郎街を部下の弥一の目にさらしたくない、と思った。

「では、行くとするか」

「勤めはよろしいのですか?」

「ちょうど終わったところだ」

 惣介は弥一を連れて裏通りから出た。そのまま小料理屋に向かった。

「改めまして、お久しぶりでございます」

 小料理屋につき奥の座敷に通されると、弥一が手をついてあいさつした。

「堅苦しくせずともよい。今は、そなたの方が役職は上だ」

「そうは言っても加瀬さん……。私は加瀬さんのことを今でも師と仰いでおるのですよ」

 湊組の平藩士に更迭されてからというもの、同組の者たちとの間に見えない壁のようなものを感じていた。そんな惣介にとって、弥一の変わらぬ信頼は胸に迫るものがある。

「それでどうだ。郡奉行助役には慣れたか?」

 惣介はあえて軽い調子で聞いた。

「はあ、なかなか難しいものです。この半年間、郡奉行の宮下みやしたさまと百姓の間に挟まれて、右往左往するばかりでした」

「宮下げんろうか。あれは、昔から百姓に厳しい男だった」

「最近、特に、その傾向が強くなっている気がします。宮下さまの民への当たり方は峻烈しゆんれつ極まるものがございます」

「さようか……」

「まるで、牛馬を扱うようです。百姓たちはますますおびえています」

「お前が楯になってやらねばならぬぞ、弥一」

「わかっております。わかってはおるのですが、宮下さまはなかなか陰湿なところがありまして。私が百姓の側に立つことをやめないと見るや、外に出してくれなくなりました。大量の書類の作成を命じ、そのどれもが、私に言わせればほとんど意味のないものばかりです」

「ううむ。それはきついの」

 惣介はうなる。久しぶりに顔を合わせたというのに、すぐに愚痴をこぼすあたり、弥一の不満は相当溜まっているのだろう。なんとか励ましてやろうと言葉を探したが、一方で苦しんでいる百姓のことを考えると、安易に慰めを口にすべきではないとも思えた。自分が口を出したところで状況を変えることはできないのだ。そのことを突きつけられるのも嫌だ。

 女中が料理を運んできた。湊町ならではの、海の幸をふんだんに使った料理だ。惣介の気持ちは束の間ゆるみ、出て行こうとする女中を呼び止めた。

「すまぬが、酒を持ってきてくれぬか」

 女中は、惣介を振り返った後、

「はい、かしこまりました」

 と言い残して奥に消えていったが、すぐに戻ってきて、銚子を何本か並べた。どうやら客からいつ頼まれてもいいように、用意していたらしい。昼なのに、と思った惣介だったが銚子を取ると、

「ま、飲め」

 弥一に盃を持たせて注いだ。今日は弥一と二人、村を回っていた頃の思い出をとことん語り合おう、そう思っている。

「今日、友浦までおうかがいしたのは、なにも愚痴を聞いてもらいたかったからではございません」

 弥一は惣介に返盃したあと、自分の盃をぐいっとあけてから言った。

「ぜひとも、加瀬さんに聞いてもらいたい話があるのです」

「お前のつらい立場だけでも、十分聞く価値はありそうだがな」

 盃の酒をすすりながら惣介が言うと、弥一はあたりをうかがってから急に声を低くした。

「一揆の気配があります」

「なに?」

 惣介は飯台に手をついた。振動で、銚子と小皿がかたかたと揺れる。弥一は人差し指を口に当てると、

「加瀬さん」

 と惣介にいっそう顔を近づけた。

「一揆とは、どういうことだ?」

 惣介が囁き声で聞く。

あし村、もと村、それから山南やまなみ村、ばら村です。城下に接する北の四村で、夜中にひそかに会合がもたれているようです。鍬やら鎌やらもひとところに集められているのを最近突き止めました」

「芦田村のなか林蔵りんぞうだな」

 惣介は眉間にしわを寄せた。林蔵は城下近隣の村々を束ねる大百姓だ。藩主である多部たべ家が宝永年間に福備に移封してきたとき、国替えによる出費で財政が窮乏していたところ、多額の金銭と米を寄進して名字を与えられた。以来、藩と村をつなぐ仲介役としての役割を担い、それを子孫に残していく中で特別な地位を得るようになっている。

「おっしゃる通り田中林蔵です。ただ、さすがは林蔵で、人も武器も、我々郡奉行配下に気づかれないよう、少しずつ集めているようです」

「よくわかったの、弥一は」

「昼、なかなか外に出られないもので……。そんなときは夜にふらりと村に向かうことがあるのです。勤めというわけではなく、百姓の声を聞いてやろうと思ってしていることなのですが……」

 惣介は弥一をまじまじと見た。頭を掻くかつての下役からは、不遇に抗おうとする反骨心が透けて見えた。弥一は、宮下に邪険に扱われる毎日の中で、なんとか自分らしくいられる方法はないかと模索しているようだった。性格が真面目なだけに、その姿は痛々しく映る。

「村に向かった夜に、会合が行われているのを見つけたということだな」

「はい」

 弥一が言うには、四村の庄屋をはじめ、五人組頭なども林蔵の家に集められているとのことである。下っ端の村役人まで出席しているあたり、いかにも不穏な空気が漂っている。

「二年前もこのような集まりがあったと聞いております」

「二年前、か……」

 

(つづく)