「久保がどのような男か、加瀬は知っておるな」
栗山が座り直して言う。
「多少は」
「久保は、関ケ原以前から多部家に仕えてきた、わが藩きっての名家だ」
福備藩主の多部家は徳川が三河の一領主だったころからの家臣だ。戦国の世では城持ちにはなれなかったが、江戸で家康公が幕府を開いてのち、旗本から昇進し、ついに十万石を領する大名にまで昇り詰めた。そして今では老中を三代続けて出すなど、譜代の名門として知られるようになっている。
その多部家が出世していく過程をそばで支えてきたのが歴代の久保家の当主である。その忠勤ぶりは藩主側も信頼を寄せてきたらしく、今から幾代か前に多部家の血が久保家に混ざることがあった。屋敷は福備城の表門を出てすぐのところに広大な敷地を与えられ、そこで下手な小大名よりも立派な暮らしを送っている。多部家が譜代の名門ならば、久保家は福備藩の名門だった。
「その久保さまと、うちの清次郎がどうしてかかわりがあるのですか?」
惣介が首をかしげると、栗山はやれやれといった様子で額をおさえた。
「ここまで疎いとはの。いくら僻地勤めが長かったとはいえ、城内の動きにも意識を向けておくのが藩士の心得ぞ。城の意向によっては、我々家中だけでなく、民の暮らしにも影響が及ぶのだからな」
「はあ、以後気をつけます」
「それで、久保のことだが、お前も知っての通り久保外記はまだ若い。三十一だ。そこが若い者から人気があるゆえんだ。今までの古い政治を変えてくれるのではないか、そう期待されておる」
「それで清次郎は?」
「まあ、話を聞け」
栗山は両手で押しとどめるしぐさをすると、思い出したように咳込んでから、懐紙で口を拭った。
「どうもこの咳が邪魔をするな。まあ、よい。つまり久保はだな、今、柳沢を追い落とそうとしているのだ。そして、柳沢はそれに危機感を抱き身内を固めようとしている。久保は柳沢に対抗するために派閥をふくらませなければならぬのだが、その中で取り込もうとしているのが、家格に関係なく若い藩士だ。手当たり次第に声をかけているという噂だ」
「清次郎も、そのうちのひとりだと?」
「久保は急いている。今が好機だからな。というのも、江戸家老がお代わりになられたことは知っておるな。江戸家老の三浦は柳沢嫌いで有名だ」
三浦という名を聞いて、惣介は、あ、という顔をした。森山文七から聞かされた話を思い出したのである。
「三浦さまは国元の政治に疑問を抱いている、そう聞いております。それで大目付の加賀山さまを派遣されたとか」
「そうだ。今までは国元の人事に江戸が介入するなどありえなかった。というのも、三浦の前の江戸家老、都築が柳沢とべったりだったからだ。柳沢がなにをしようと都築は黙認し続けた。江戸も国元も一枚岩だったのだ」
「三浦さまはどのようなお方なのですか?」
「わしもよくは知らん。ただ、殿からの信頼は厚いと聞く。小姓から側用人になり、そのまま江戸家老になった。福備でも異例の出世を遂げた者がいるが、それよりもはるかにすごい」
栗山は暗に市原新之丞のことをほのめかしたが、惣介は気づかないふりをした。隠居後の栗山は、時々こうやって、冗談のつもりで人を試すようなことを言ってくる。情報を握ることを得意としてきた栗山は、惣介と新之丞の関係をつつけばなにか出てくるかもしれないと考えているのかもしれなかった。あるいは隠居暮らしに入り、他人から相手にされることが少なくなって偏屈になっているのかもしれない。そうしたところがなんとなく煩わしくて、惣介は栗山のもとに足を向けなくなったのだ。
「江戸家老とは、確かにすごいですな」
惣介は湯呑を手に取り、話を戻す。
「わが藩では特にな」
栗山が茶を飲んでから、そう答えた。
「殿が幕閣に加わり江戸定府であられる以上、国元よりも江戸のほうに重きが置かれている。江戸の指示で国元が動かなければならないことが幾度もあった。そのような意味では、柳沢と都築の関係は珍しかったと言えるの。いがみ合うことなく、一緒になって藩を動かしてきた。だが、そのために、お互いやりたい放題になってしまったのも事実だ。それを正そうとしているのが三浦であろう」
「ですが、三浦さまはなかなか手をこまねいておられるのだと思います。いまだ柳沢家老の力はいささかも衰えておりませぬ」
「そこは仕方あるまい。やはり、江戸から国元に影響を及ぼすには限界がある。そのために久保を復活させたのだ」
「三浦さまと久保さまはつながっておられるのですか?」
「久保家は二代前から無役だった。禄が五千石あるため役がなくとも一向に困らぬのだが、それでも藩主家を支えてきた家柄だ。忸怩たる思いはあったろう。そのような中、久保外記が組頭に就いたのが四年前。それから、二年前の……。お前が郡奉行を外された騒動で家老に返り咲いたのだ。切腹した中沢の代わりだ」
「久保さまの家老就任に三浦さまがかかわっておられると?」
「三浦の指示に見せておきながら、実は殿の考えによるものだとも考えられる」
「お上の?」
「ここだけの話だぞ」
栗山は二人しかいないだだっ広い部屋で声をひそめた。
「殿は病を得られておる。それがどうもよくないらしいのだ。そのことを知った殿は、今になって国元を正そうという思いを持たれた。今まで、公儀の勤めにばかり奔走されて福備のことは二の次だったのが、命が尽きる間近になって、自分が領する藩の悲惨な内情に気づかれたのだ。もっとも、気づかせたのは三浦だがな」
「確かに、柳沢家老に対抗できるのは、家格が高く、歳も若い久保さまを置いてほかにはいないかもしれませぬ」
「さまざまな事情が絡んでおるがな。だが、やはり久保こそが適任だろう。だからこそ、柳沢は焦っているのだ。今までなんだかんだで権力をかさに自分の考えを押し通すことができた。柳沢と違う考えを持つ者もいたが、それらは奴からしたらとるに足らない存在だった。小細工ひとつ弄せば弾き飛ばすことができる。ところが、今回は殿の支持を得た強力な対抗者があらわれたのだ。柳沢は久保を脅威に思い、落ち度がないかを探っている。その一方で久保も必死だ。殿がご健在のうちに勝ちを得なければ、また柳沢の方に流れが傾く恐れがある。今、柳沢派と久保派は激しくやり合っている。それが表にあらわれたのが、今回のお前の倅がとらえられた事件というわけだ」
「柳沢家老と久保家老の争いに清次郎が巻き込まれた、と?」
「加瀬の倅が、どうして久保派についていたのかはわしにもわからぬ」
栗山は目頭をもみながら言った。
「おおむね、若い者の間で人気がある久保にそそのかされたのだろうて。だが、これだけは確かに言える。柳沢の狙いは、つかまった六人ではない。六人を使って、久保をおとしめることだ」
「それには……」
惣介は一度言いよどんだあと顔を上げた。
「それには、市原中老がかかわっていると、栗山さんはお考えになりますか?」
「市原? まぁ、そうだの……」
栗山は顎の先を撫でたあと、湯呑を取り、音を立ててすすった。
「市原は柳沢の懐刀だ。こう言ってはなんだが、なにかしらの形でかかわっていると考えるのが自然だろうの」
「やはり」
惣介は乗り出していた身をすっと引き、姿勢を正した。
(新之丞め)
怒りが湧き上がってくる。市原新之丞とは、そうした卑劣な手を平気で取る男なのだ。自らの出世のために兄のように慕っていた男を斬り、その後、幼馴染の女をもてあそび自死に追い込んでいる。そして今回は、かつての友であった俺の息子を捕縛し、背後に控える久保をおびき出す餌にしようとしているのだ。新之丞は久保を追い落としたのちは、家老に昇るつもりだろう。久保を除けば、久保派が占めている席が空く。功績をたてた自分が入り込むのはたやすいに違いない。それが新之丞の狙いだ。
「清次郎を救うには、どうすればよろしいでしょう?」
新之丞は畳に両手をついて教えを乞うた。そんな惣介を、栗山ははかるように見つめたが、乾いた咳を二度すると、
「ふむ」
と視線を畳に落とした。咳は本物の咳ではなく、二人の間に漂う重い空気を変えるためのものらしかった。
「久保を動かすしかないだろうの」
やがて栗山がぼそりと言った。
「久保にとっても、加瀬の倅の捕縛を無視はできない。むざむざ失脚の材料を柳沢に与えておくようなバカはせぬ」
「久保さまが動いてくれたとして、その後はどうなりましょうか?」
「久保は柳沢と談判するだろうな。久保も柳沢がこれまで行った悪事の証拠を集めている。それを放棄する代わりに、今回の件を水に流してくれないか、ま、こう決着をつけるのが妥当なところかな。久保としては後退だが、失脚させられるよりはいい」
「久保さまは果たしてそこまでなさるでしょうか。清次郎たちのことはなにも知らぬ、と切り捨てることも考えられるのでは?」
「それは、まずないな。よいか、加瀬。久保は若い者の支持が勢いの源なのだ。とらえられた六人を見捨てたら、若い者の気持ちは一気に冷める。それを久保はもっとも怖れるはずだ。だからこそ動かないわけにはいかないのだ」
栗山は、ふとものを考える目をした。そして、低い声になって言う。
「だが、今回に限って言えば、逆に働くことも考えられるの。つまり六人を、久保を守るために死んだ忠臣として柳沢への怒りをあおり、派閥の結束を固めるというやりかただ。……ま、そのような危険な賭けはせぬとは思うがな。下手をすれば、派閥にいる全員の心が離れる」
栗山は白い鬢に指を絡ませた。
「……しかし、そうだな。どちらに転がるかはわしにもわからぬ。久保の考え方一つというところかもしれぬの」
「では、久保さまのお心に直接訴えるしかないというわけですな」
「親であるお前が行けば、久保は柳沢と談判するほうに傾くかもしれぬ。聞いた話では、人の心がまるでわからぬわけでもないらしい。むしろ情は深いようだ。そうしたところも若い者から人気を集める原因だろうて」
「久保さまに会わせていただけませぬか」
惣介が頼むと、栗山はしばらく天井を見つめたあと首を振った。
「すでにわしは隠居した身。久保派に連なる者で、そのようなことを頼める者を知らぬ」
言うと、激しく咳き込みだした。背を曲げて顔を赤らめる姿は、いかにも苦しそうに見えた。だが、惣介は、どことなくわざとらしいな、と思った。病を得たことは本当だろうが、それも、ほとんど回復しているのではなかろうか。
(相変わらずだ)
惣介は栗山の背をさすりながら、そう思う。栗山は線を引いたのである。久保に会う方法を知っていながらも、この件に足を突っ込むことを避けようとしている。郡代の頃も、情報の出し入れをするために相手にうそをつくことを平気でした男だ。惣介はそのような場に下役として何度も立ち合っている。栗山は、いくら歳を取ってもそこは衰えていないらしかった。
「加瀬、倅のことをもう少し調べてみよ。そこから久保に行き着く手段が見つかるとわしは思うぞ」
咳が落ち着くと、栗山は胸のあたりをおさえながら顔をしかめた。だが、そのしかめた顔の中で細い目だけは親し気に緩められている。惣介は栗山を見て、姿勢を正し、目礼した。なんだかんだ言って進むべき道を示してくれるところが栗山らしい。惣介は、最終的には優しさを見せてくれる元上役を慕い続けてきたのである。
「ありがとうございます。確かに、そこからたどっていくのが筋だろうと思います」
「なに、五日あるのだ。このことをよく考えるのだぞ、加瀬。少なくとも五日の間は、身の保証はされているということになる。本気を出せば、久保に会うことぐらいかなうはずだ」
栗山は、惣介が伝えなかった裁きの日取りを口にした。驚く惣介を無視して湯呑の茶をすすり、小さな笑みを目元に刻んだ。
四
門弟たちの激しい気合が道場の壁を震わせる。ドタドタと踏み鳴らされる床。ピシャリと放たれる竹刀。
(変わらぬな)
稽古を眺めながら惣介は懐かしさにひたる。同時に清次郎もここで汗を流していたのだ、と感慨を抱く。清次郎も、目の前の青年たちに交ざって腕を磨こうと懸命に励んでいたのだ。
(清次郎こそ、今、この道場の住人だ)
俺ではなく清次郎だ、そう思う。よく磨かれた床板。外からの光で真っ白に塗りつぶされた武者窓。刀架にかけられた木剣。それらひとつひとつが清次郎の青春を彩っているはずである。
「知っていることと言ってもな」
隣の男が腕を組み、つぶやいた。近寄るだけで肌にひしひしと伝わってくる威圧感は、若いころよりもさらに増している。青々とした髭の剃り跡が目立つ目つきの鋭い男は、道場の師範、仁田馬之助だ。惣介は、このかつての兄弟子だった仁田を栗山の屋敷を出た足で訪ねた。清次郎のことをたどろうと思ったとき、真っ先に浮かんだのが、かつて自分も通っていた仁田道場である。というより、清次郎にかかわるほかのことを惣介はほとんど知らなかった。仁田道場は惣介が強く勧めて通わせるようにしたが、ほかのことは妻に任せっきりだったのである。
惣介は仁田に、清次郎がつかまったことでなにか知っていることはないか、と尋ねた。
「俺が驚いているぐらいだ。まさか清次郎が、あのようなことをしでかすとはな」
仁田は稽古を見守りながらそう答えた。だが、その声音には久しぶりに会った弟弟子に対して少し距離を置こうとしているようなところがある。惣介は、すかさず言い返した。
「藩を転覆させるという話なら、それは無実です」
「門人の間にも動揺がある」
仁田は惣介を制するように言った。
「清次郎はどうなったのか、と聞きに来た者が何人もおった。清次郎は好かれていたからな。俺は、なにも知らぬ、と答え、不安に思う気持ちはわかるが自分の手出しできぬことに心を惑わされてはならん、そう伝えた。稽古前にも全員を集めて改めて言っている」
「ご迷惑をおかけします」
「清次郎はここの門人だ。清次郎がなにかしら問題を起こしたのであれば、それは師である俺の責任でもある」
言われて惣介は胸が熱くなった。このようなことをさらりと言ってくるあたり、さすがは仁田だ、と思った。惣介がまだ道場に通っていたころ、稽古で熱くなり、門弟同士で喧嘩をすることがあった。そのとき、きつく叱りながらも双方の言い分を聞いて裁いてくれたのが、当時師範代だった仁田である。自分があのころ受けていた度量の深さを清次郎も受けているのだと思うと、惣介は、やはり仁田道場に通わせてよかったとの思いで満たされるのだった。
「清次郎は道場ではどのような様子でしたか?」
惣介は話題を変えた。信頼を寄せていた兄弟子が、息子のことをどう見ていたかを知りたい、と思った。それに、自分がほとんど知らない清次郎に触れることができれば、栗山が言った通り、久保にたどり着く足がかりが得られるかもしれなかった。
「先ほども申したが、好かれていた」
仁田は遠くを見ながら言った。
「あれは正義漢そのもののような男だ。腑に落ちぬことや、道理に外れたことは絶対に許さない。道場で後輩いびりがあったときも、あいつが率先して止めた。しっかりと両者と話し合い、あとくされないよううまく収めていた。そうしたところがやはり好かれておったのだろうな。道場の中心にはいつも清次郎がいた」
「さようですか」
惣介はほっとしたような、そのくせ少しだけ寂しさを含んだ気持ちに襲われた。清次郎は、いつの間にか成長してひとりの男になっていたのだ、そう思った。
「清次郎の席次は何番でしたか?」
惣介は打ち合い稽古をする門弟たちを見ながら、そう尋ねる。
「四番だ。剣の腕も確かだ。着実に伸びている。そうしたところも、他の者から慕われる理由だったのかもしれん」
「四番ですか……」
「不服か? たしかに、お前は同じ齢で、次席に進んでおったからな。実力だけなら師範代の俺より上だと言われていた。実際に、俺もそのように思っている。ま、先代の息子ということで俺がこの道場を継いだのだが、俺になにかあったときは、お前が継いでもおかしくなかったはずだ。先代もそのような思いを持たれたことがあったようだし、俺もそうなってもいいと思っていた。だが、さまざまな巡りあわせで今の形になった。そして俺はこれでよかったのではないか、と思っている。お前は、剣士としては優れているが、人に教えるには向かぬ。一つのことにのめり込むと、周りが見えなくなるからな」
「はあ。気を付けてはおるのですが……」
「ま、剣士としては確かにお前に劣るな、清次郎は。それは清次郎の努力が不足しているからではないぞ。なかなか加瀬惣介を超えられる傑物は出てこぬということだ。だが、才はしっかりと受け継いでおる。四席というのは、同年では一番進んでいる。親父は不服かもしれぬが、褒めてやっていい」
「いえ、けっして不服というわけでは……」
惣介は口ごもった。清次郎が四席だということにむしろ喜びを感じているのだ。子どもの成長というのは自分のそれとは違って、また別の喜びがある。そのことに改めて気づかされた気がした。
惣介は目を閉じ、汗の匂いをはらんだ道場の風を胸いっぱい吸い込んだ。
「はじめて席次をいただきましたよ」
瞬間、耳の奥で声が鳴った。まだ幼い清次郎の声である。
(たしかあのころ……)
あのころ清次郎は十二歳だった。惣介は半年ぶりに帰った自宅で息子にそう話しかけられたのである。家に戻っても以前のように喜んで迎え入れてくれるようなことはなく、娘の雪乃とは違ってむっつりと押し黙ったまま、仕方なくそばにいるという感じになっていた。それが、二泊して、いよいよ代官所に戻ろうという直前になって向こうから話しかけてきたのである。
「そうか。それはよかった。励んでいるようだな」
惣介が答えると、清次郎は途端に顔を輝かせ、道場の同年では席次をもらったのは自分だけだということ。誰それという先輩に立ち合い稽古で勝ったこと。西澤道場との対抗試合の年少者の部に出ることが決まったこと。それらをまるで堰を切ったようにまくしたてた。惣介は、清次郎が今になって話し出したことを不思議に思いながらも、最初のうちは出立の支度を中断して聞いていたが、なかなか止まらない話にまごつき、途中で制したのだ。奥弥一と待ち合わせていることが頭をよぎった。城の北門で落ち合う下役を待たせることは、上役として避けなければならなかった。
「よくわかった。だが、席次は三番に入るまでは、みな、大差ないと思え。上がった下がったで一喜一憂しているようでは、まだまだだ。気持ちはわかるぞ。清次郎の気持ちはよくわかるが、それを口に出すことでいらぬ敵をつくることもある。他の者から、その程度で天狗になっておると軽んじられてもおもしろくなかろう。三番に入って初めて人に語ってもよくなるというものだ」
「……申し訳ございませぬ」
清次郎は途端に顔から色を消した。視線を外し、地面を見つめる。そんな息子に、惣介は肩に手を置き、笑顔を作った。
「だが、道場の話は面白かった。俺も、かつて経験したことだ。昔を思い出すようだったぞ。また今度、暇のあるときに話せ」
「わかりました」
清次郎はそう返事をしたが、声には先ほどまでの勢いがなくなっていた。惣介は、少し冷たかったかな、と反省したが、それでも、自分が年長者から受けた仕打ちはこれよりも厳しいものだった、と考え直した。惣介は、清次郎を部屋に戻らせてから慌てて支度にとりかかり、それが終わってからは簡単な挨拶だけを残して家族の前から発った。
その後、惣介は家に帰るたび、道場の様子を清次郎に聞いた。清次郎から返ってくるのは、誠心誠意励んでおります、や、特に変わりはございませぬ、といった通り一辺の答えだった。席次の話は以後、一度も出てこず、惣介も、あえて聞くようなことはしなかった。いつからか道場の話が父と子の間で交わされることはなくなっていった。
(三番まであとひとつだったか)
惣介は立ち合い稽古を眺めながら、そんなことを考える。竹刀を振り回す少年たちは、型が崩れたりしている分、懐かしさを呼び覚ますようだった。この中に清次郎も交じっていたのだと思うと、なんだかその様子まで目の裏に浮かんできそうになる。
(だが、清次郎はおそらく伝えてはくれなかっただろう)
清次郎との間にできた溝を考えると、それは間違いない気がした。もう、道場の席次を話題にするような年齢でもない。惣介が聞かない限り、清次郎は教えてくることはなかっただろう。そして、惣介は清次郎に席次を聞くなどしなかったはずだ。年に数回しか会わない十八の息子に、そうしたことを聞いていいのかわからなくなっている。
「あれが香芝金吾だ」
物思いに沈んでいたが、仁田の言葉で現実に引き戻された。視線の先を目で追うと、長身の男が竹刀を八双に構えてたたずんでいる。男は立ち合いの相手に渾身の気合とともに飛びかかると、すさまじい一撃を振り下ろした。間一髪のところで相手に防がれる。だが、男は攻撃をやめない。長身を活かした大ぶりの攻撃を繰り返す。こうなっては型もなにもない。ほとんど力任せだ。そのくせ、剣は鋭かった。この攻め方こそ男の特長なのだろう。やがて、男の竹刀が相手の額に届いた。強烈な一撃に相手が倒れてしまうのではないかと思ったが、そうはならなかった。長身の男は額に届く寸前に力を抜いたようで、竹刀はぺしりと乾いた音を発しただけで、相手は膝をつくことさえしなかった。
「香芝金吾でござりますか」
勝敗を見届けた惣介は顎をつまみながら仁田に聞いた。ずいぶん荒っぽい剣をつかうが、踏み込みの鋭さは道場の中では一歩も二歩も抜けていた。夕雲流の基本を我慢して学べば、一気に全員を飛び越えて行ってしまう資質がありそうだ。もっとも、型を学ぶことで男の特徴がそがれてしまう恐れがある。そこはやってみなければわからなかったが、惣介は、型を身に着けた方が強くなるという確信を抱いていた。自分も剣の腕がみるみる伸びていったのは、いつも跳ね返されてばかりいた市原新之丞の守りの剣に勝つために型を重視して学び直したからだ。金吾も自分と同じような雰囲気を持っている気がする。
「席次は六番だ。清次郎と同い歳で、仲もいい」
「のびますな、あれは。夕雲流をしっかり身に着けられれば、ですが」
「そうか。型に押し込めていいものかどうか悩んでいたところだ。だが、お前が言うなら間違いないのだろう。しっかりと叩き込まねばならぬな」
「清次郎のこと、なにか知っていますかね?」
「話してみるか?」
惣介が頼むと、仁田は香芝金吾を呼びつけた。立ち合いを終えて一息ついていた金吾は、師範から呼ばれて、小首をかしげながら走ってきた。
「今日はやけに激しかったな。清次郎のことがあったからか? 怒りをぶつけているように見えたぞ。もっとも、金吾が道場に来たことには俺も驚いたがな」
仁田が目を細めながら言うと、金吾は、
「はあ。家にいてもすることがないので」
ぼそぼそした声で言い、師範の隣に座る惣介にちらりと目を向けた。
「こいつは清次郎の父親だ。お前に聞きたいことがあるそうだ」
「え? 清次郎の?」
金吾は食い入るように惣介を見つめた。そんな金吾に惣介はうなずいてから尋ねる。
「清次郎がつかまったことで、俺は今、いろいろと心当たりを探っている。このままでは清次郎はおそらく処刑されてしまうだろう。そなたのほうで、清次郎を救う手立てに心当たりはないか? 清次郎の裁きは四日後だ」
惣介の発言を聞いて、驚いたのは仁田だ。
「四日後? それはまた急だ」
だが、金吾の方は特別な反応を示さなかった。値踏みするような目で惣介を見つめている。