最初から読む

 

 

 新之丞は巴恵が嫁入りしてから半年後に出仕を言い渡された。役は普請組見習いだった。下っ端だったが出仕してからの新之丞は熱心に勤めた。なにかしらの形で出世の糸口をつかめるかもしれない。辰之進だって普請組見習いから始めて近習組小頭に進み、その後、町奉行に抜擢されたのだ。

 新之丞は勤めが終わってから、調べ物をするため城に残り、夜更けてから家路についたある日、待ち望んでいた出世の糸口をつかむことになるのだった。

 

 三日月が浮いていた。空の一点が青白く輝いている。昼間、あれほど騒がしかった蝉も、夜の訪れとともにどこかに潜んだようだ。代わりに蛙と蝗の声が町中に響いている。どことなく物寂しさを覚える、そんな夏の夜道である。

「すっかり遅くなってしまったな」

 新之丞は、書類をわきに抱え、城下の西を目指した。仕事のために城に残っていたのだから、そこまで急く必要はなかったが、ただ遅くなった理由を父に説明するのが面倒だった。

 言い訳はある。

 秋から取りかかる友浦湊の普請工事の工程を確認していたのだ。湊の拡張は、今、藩が率先して取り組む事業になっている。湊町を広げ、店を増やすことで、友浦に寄る船乗りたちの金をさらに吸い上げようという考えだ。そのための敷地造成普請である。海もいくらかは埋め立てなければならない。その工事に普請組の者は総出で取りかかることになっていた。

 経験が乏しい新之丞からしたら、失敗を犯さないために工程を確認するのは当然のことだった。むしろ勤勉だと言われていい。だが、やりすぎると、父がよい顔をしないのだ。

「出仕して一年半の新之丞が、そこまで調べる必要はない。普請工事の指揮はお奉行が取られる。我らはその指示に従うだけだ」

 そもそもお前は学問が少しできるからと言ってな、と父の愚痴は続く。父は普請組に勤めている限り学問など必要ない、と考える男だった。現場に出、百姓を働かせながら、決められたやり方で工事を行う、そう信じ込んでいる。そんな父は、新之丞が熱心に文書を調べることが気に入らないらしかった。過去の文書をほじくり返され、万が一問題を発見されれば、自分たちの働き方を否定される、そう思っている。父は夜遅くまで城に勤める息子の努力を、

「無駄だ」

 と切り捨ててきた。

(確かに無駄だ)

 新之丞もわかっている。普請組の工事は、受け継がれてきたやり方を踏襲し続けていた。百年以上、ほとんど変わっていない。新之丞は出仕を認められてから一年半、これまで福備藩が行ってきた普請記録を手に入れられる限り調べ尽くし、必要とされる工事は大別すれば十数個にわけることができそうだと気づいた。細かいところは現場で判断しなければならなかったが、工事の大枠を頭に叩き込んでおけば、いくら経験が乏しい新之丞でも間違いを犯すことは少なそうだ。

 学問好きな新之丞は、そうしたことを調べるのが得意だった。普請組のひとりとして過去の工事をすべて頭に入れることが必要かと問われれば、必ずしもそうとは言えない。それでも、自分がたずさわる以上、仕事の全容を把握してから臨みたい、と思うのが新之丞なのである。

 そして今、新之丞は、すでに普請組の仕事の大部分を理解している。今なら、普請奉行より上手に工事を指示できるのではないかという自信があった。周りからは過信だと揶揄されるだろうが、それは新之丞にとって価値のあることなのである。なにかの拍子に工事を指揮する立場に立たされないとも限らない。そこで上手に指揮を執れば、出世の道が開けるかもしれないのだ。そう考える新之丞の頭には辰之進のことがある。辰之進は、普請奉行が急に現場に来るのが遅れたとき、ただ待ちぼうけをする藩士たちをしり目に、百姓を指揮して普請を進めたことで評価されたのだった。新之丞にとって、たとえ組頭まで昇れなかったとしても、巴恵がいる上士の世界に少しでも近づくことが重要だった。

 この日も新之丞は、過去の工事記録を調べていて遅くなったのだ。かかった費用をすべて確認したため、気づくと夜も更けていた。

「しかし、よい月だ」

 新之丞は足を速めながらも、空に浮かぶ月を見上げた。満月は青白さを増すばかりだ。肌寒ささえ覚える輝きである。

「巴恵もこの月を見ているかな」

 ふと新之丞はそんなことを思った。月があまりに白すぎて、感傷的になってしまったようである。巴恵が今、どんな暮らしを送っているかは想像もつかなかった。だが、巴恵はこの同じ福備城下に暮らしているのだ。同じ空を見上げていても不思議はない。

(早く。一刻も早く。巴恵が遠くにかすまないうちに……)

 出世を果たさなければ。新之丞はいつの間にか夜道を駆けていた。巴恵のもとに速くたどり着きたいとの思いでいっぱいだった。

 勢いよく角を曲がる。薄暗い道が一直線に伸びている。そこは寺に挟まれた通りで、人通りはほとんどなかった。少し不気味に思える道だったが、ここを抜けた方が家に帰るには近い。新之丞は、父に小言を言われることなどとうに忘れて、持ち帰った書類を自室で早く調べたいという衝動に駆られていた。

 しかし、少し駆けたところで立ち止まった。

 人の声がした。

 男だ。そして、すぐに冷たい金属音が響いた。

(斬り合いか)

 新之丞は刀を握り締め、走った。再び路地を曲がったところで三人の男たちに出くわす。

「おい、なにをしておる!」

 新之丞は手前の男に呼びかけた。敵と向かい合っていた二人の男は、背中から声をかけられて飛びあがったが、新之丞を認めるとすぐに緊張を解いた。後ろから斬りかかってくるわけではないことを悟ったらしかった。

「乱心だ」

 手前の男が左腕を垂らしながら言う。着物が裂け、赤く染まった二の腕があらわになっている。

「乱心?」

 新之丞は警戒を強めながら、そう尋ねた。

「あのお方を送り届けようとしたところ、突然襲い掛かってきた」

 新之丞は指さされたほうを向いた。壁の暗がりに人影がある。ほっそりとした体つきから女だとわかった。女は編み笠をかぶっていた。

「そなたらは?」

 新之丞は男に目を戻した。

「町奉行配下、同心の岡田善太」

「同じく、本山三助」

「町奉行?」

 新之丞は聞き返した。町奉行ということは辰之進のもとで働いている男たちだ。

「そして、かの者は?」

 新之丞は道の先に顎を向ける。反対側の男は刀を右手に提げたまま、なにかぶつぶつとつぶやいていた。ただ、岡田と本山を睨みつける目が据わっていた。危険な香りがした。

「わからぬ。道の向こうから現れ、斬りかかってきた」

 岡田が斬られた腕を持ち上げながら言う。

「あれは、秋田彦四郎。無限流の遣い手だ」

 本山が首を振って、付け加える。

「無限流? 広山道場の?」

 新之丞は聞き返す。福備城下には仁田道場と西澤道場が二大道場として君臨していたが、そのほかにも小さな道場がいくつかあった。その中のひとつに無限流を教える広山道場がある。門人は少ないが、激しい剣を教えると評判だった。どうやら秋田というのは、そこで鍛えた男らしい。

「渡さぬ。おるいは絶対に渡さぬ」

 秋田がつぶやく。腹の底に響くような声だ。それを聞いて、壁際の女が身を小さくする。どうやら女はおるいというようで、秋田はおるいを奪おうとしているらしかった。

「さあ、おるい。戻ってこい。今ならまだ間に合う」

 秋田が手を差し出す。血走った目をしていたが、表情は泣き笑いのように崩れていた。だが、女はさらに後ずさりし、左肩を右手で抱いた。

「もう無理でございます、彦四郎さん。堪忍してください。どうか……」

 か細く震える声を聞き、新之丞はだいたいの状況を理解した。

 おそらく女は身分の高い出自なのだろう。町奉行同心が警固していることからも、そのことがわかる。そして、秋田という武士は、女に身分違いの恋心を抱いてしまった男らしい。ひょっとしたら女の家の家士かもしれない。女を自らのものにしようと思いつめ、夜道で襲ったというところか。

(当たっているかどうかはわからぬが……)

 辰さんを助けることにはなるな、と新之丞は思う。町奉行同心に手を貸せば辰之進はきっと喜んでくれるだろう、そのことが新之丞の頭によぎった。

(それに……)

 惣介ならどうする? と新之丞は考えた。惣介であればどう動くだろうか。この差し迫った状況で、新之丞はどういうわけか友のことを考えたのである。蝶が舞う花畑に連れて行かれて以来、新之丞の中で惣介が行動の指針になることが増えていた。とっさの判断が必要なとき、惣介ならどうするかを考えることが癖になりつつある。

(女を助けるに決まっている)

 答えはすぐに導き出された。正しいことを為すために、後先考えずに飛び込んでいく。惣介とはそういう男だ。

 新之丞は心を決めた。

「拙者が引き受けよう」

 言うなり、岡田と本山の前に進み出る。

「おい、秋田とやら。なにゆえ、この娘を連れ去ろうとする」

 新之丞は刀の鯉口を切った。秋田はおるいから新之丞に目を移し、瞳を小刻みに揺らしながら呻く。

「おるいを返せ! 俺のおるいを……」

 突然、猛進してきた。まるで新之丞がおるいをさらったと言わんばかりだ。

 秋田の剣は速かった。正眼の構えから、いきなり降ってきた。新之丞は額の前で受けたが、手に鈍い衝撃が残った。

 跳ね返して距離を開けようとする。今度は、縦横を斬り裂く剣が襲ってきた。新之丞は後退をやめ、その場に踏みとどまって攻撃を防ぐ。

(確かに強いな)

 新之丞は秋田の攻撃をさばきながら思う。一瞬でも反応が遅れれば、たちまち致命傷を負わされるに違いない。

(だが……)

 新之丞は秋田が振り下ろそうとしたところ、懐に潜り込んで刀を下段に移した。

「加瀬惣介のほうが上だ」

 新之丞は右手を払った。肉を斬り裂く感触が手に伝わる。続いて地面から刀を撥ね上げる。秋田の手から刀が離れ、後方の闇へ消えていった。

「さあ、観念しろ」

 惣介は秋田の前で刀を八双に構えた。茫然自失の態になった秋田は膝から崩れ、両手を地面につく。

「どうして……。どうして、こんな目に……」

 絞り出すように言う。

「そこもとの事情は知らぬ。だが、もうあきらめた方がよいぞ。そこの女人も、そう申したではないか」

「あきらめられるわけがなかろう。おるいは……。おるいは、俺の……」

 秋田は声を震わせている。そのとき、突如、同心の本山が秋田に体当たりした。

「あ、おい!」

 新之丞が制止する暇もなく、本山は秋田をねじ伏せ、手をひねり上げる。

「こら、なにをする。貴様。放せ、この野郎!」

 秋田が口汚くののしるが、本山は一向に動じない。手拭いを口に噛ませて声を出せなくすると、素早く縄をかけて取り押さえた。

 新之丞は立ち尽くして見守った。縄で縛られてもなおあがき続ける秋田からは、鬼気迫るものを感じた。

「秋田という男はあの女人とどういう関係だ?」

 さすがに同情を感じて新之丞が尋ねると、本山は冷めた目を向けて言い放った。

「身分違いの恋だ」

 その言葉が新之丞の頭にがんと響いた。やはり想像は当たっていたのだ。だが、それ以上に、身分違いの恋がどれだけみじめであるかを突きつけられた気がした。自分も上士に嫁いだ巴恵に対する恋心を引きずっている。

「彦四郎さん、堪忍してください。どうか、わたしのことはお忘れに……」

 おるいと呼ばれた女が二歩、三歩と進み出て、編み笠を上げる。振り向いた新之丞は、はっと息を飲んだ。女は目を見張るほどの美貌の持ち主だった。このような女が本当にいるのかと思ってしまうほど美しい。その女が泣いている。月明りを浴び、白い頬を涙が伝う。

 新之丞はおるいが、岡田という同心に促されて背を向けるのを、なにかに憑かれたように見守った。か細い肩を震わせながら、一歩一歩遠ざかっていくおるいはあまりにもか弱く、なぜか胸の奥を切なさがよぎった。

「失礼ながら、そなたは?」

 後ろから声がする。涙で顔をぐしゃぐしゃにした秋田を連れ、本山が立っている。

「拙者は、普請組の市原新之丞と申す。仁田道場で学び申した」

 新之丞が名乗ると、本山は一度だけうなずいた。

「仁田道場の市原と言えば、誰もが知る遣い手だ。先ほどの剣も見事でござった」

「そう言ってくれてありがたい。だが、しかし……」

「今日見たことは内密に頼むぞ」

 本山が新之丞の言葉にかぶせて言う。

「噂になると困る方がおられるのでな」

「わかり申した」

 首を縦に振る新之丞に本山は背を向けた。それから、秋田を連れ、女たちとは反対方向へと歩いて行く。しばらくして、路地から人の気配が消えた。あとに残ったのは地面に漂う闇と、新之丞の中のもやもやした気持ちだけだった。

 

 

 その事件があってから十日ほどして新之丞に呼び出しがかかった。迎えに来たのは下僕風の男で、ついていくと豪壮な屋敷があらわれた。広間で待っていると、出てきたのは恰幅のいい男で、中老の中沢織部だと名乗った。中沢は大黒派にも柳沢派にも属していない、いわゆる中立の立場の人間である。その中沢は、先日の女を助けた礼を述べ、新之丞に剣や学問などの経歴を尋ねた。聞かれるままに答えていると、中沢は、ふむふむ、と応じ、

「剣の腕が立ち、学塾での成績も優秀。これは普請組でもっこを担がせておくにはもったいないな」

 と褒めそやした。

「ところで、ご中老さま。この間の秋田どのとあの女人のあいだにはいかようなことがあったのでございましょうか」

 新之丞は気にしていたことを聞いた。中沢は細めていた目を見開くと、再び笑い皺の中に隠した。

「なに、あの秋田という男が勝手に懸想しておっただけのこと。女の行く先が決まった。それを阻もうとして、いきり立ったのだ」

 新之丞が想像した通りのことを言った。なんとなく納得できないものを感じたが、それでも言い返すことはしなかった。中沢との会見は、その後、二、三質問のやり取りをして終わった。

 それからは何事もなく過ぎた。新之丞は、事件を忘れて友浦湊の普請工事の手配に忙しくしていた。そこへ近習組への役替えの話が舞い込んで来たのである。中沢に会ってからちょうどひと月が経過したころだった。

 新之丞の突然の役替えに、普請組組屋敷は騒然となった。近習組といえば、土にまみれて働く自分たちとは違い、藩の中枢に近い役職である。立ち回りようによっては出世も見込めると聞く。現に、今、町奉行を勤めている赤木辰之進は、近習組に勤めたことを皮切りに昇進していったのだ。普請組から近習組への役替えは、その赤木辰之進以来のことである。

 近習組に勤めるようになった新之丞は、すぐに職務に精通するようになった。近習といっても藩主が江戸在府のため、やることと言えばもっぱら執政衆が行う政務の補佐である。新之丞は中老の中沢織部につき、家老衆などへの連絡や会合の調整、執政会議で決まった案件を文書にまとめる事務を担った。そして時には、中沢の外出先の警護も務めた。

 新之丞は近習組の勤めに励んだ。普請組勤めの父も新之丞の近習組への役替えを機に口を出さなくなり、新之丞は家に帰ればひとり部屋にこもって書物を読み漁り、寝るのも、食べるのも惜しいという状態になった。次第に新之丞に任される仕事も重要度が増すようになった。そして、ついにお側衆へ名を連ねることが決まったのである。これは、本来なら藩主の側近を務める者を指す役職だが、福備藩では近習組の藩士を数名束ねる者のことをいう。新之丞は七名の下役を持った。半年でのお側衆入りは異例のことだ、とみんなに言われた。

 新之丞は近習組お側衆としてますます勤めに打ち込んだ。仕事の中身も藩政に直接関わることが増え、つき合う相手も変わった。組頭級以上に従って料理茶屋に向かい、別部屋で今まで食べたこともないような豪華な料理を提供された。新之丞は、そうした上流の暮らしに触れ、自分もそこを当然のごとく目指さなければならない、と思った。

 こうしてお側衆として上士ともつき合いが生まれた新之丞だったが、その中で家老の柳沢ともかかわることが増えた。中沢織部は表面上は中立を保っていたが、軸足は柳沢派に置いているようで、その中沢が、より柳沢に近づくために有能だと評判の新之丞を紹介したのだった。

 このころの柳沢は、まさに昇り龍の勢いを得ていた。筆頭家老大黒の、民に手厚い政策を非難し、武士こそ一番だ、とする急進的な考えで家中の支持を集めることに成功していた。柳沢は大黒派の切り崩しも進めているらしく、いよいよ大黒と真っ向から対立する存在として認められるようになっていた。

 新之丞は、この柳沢の指示の通りに動くようになる。四十歳になったばかりの柳沢は、背が低くてずんぐりした体つきをしていたが、内面から発せられる気迫は他を圧倒するものがあった。鼻が低くて口が大きい猪のような風貌も、その印象を強めていた。

(辰さんが嫌な顔をするな)

 新之丞は柳沢から仕事を頼まれるたび、そんなことを思った。だが新之丞は、これは仕事だ、と割り切ることにした。私情に流されず、与えられた役割を果たすことこそ武士の本分である。自分は柳沢に従っているのではなく藩に従っているのだ。けっして道に外れたことはしていない。

 新之丞は柳沢からの仕事を着実にこなした。危うい案件をひそかに処理したこともある。柳沢は人心掌握には長けていたが、政治に関しては得意ではなかった。そんな柳沢にとって、細部まで緻密な新之丞のやり方は重宝したらしく、信頼は日に日に深まっていった。

 こうしてさらに一年が過ぎた。新之丞は二十一歳になった。出仕してすぐのころは惣介や文七と酒を酌み交わすこともあったが、それらをしようと考える暇さえなくなっている。

 この年、新之丞は勘定組に役替えを果たした。だが、それはある事件がきっかけとなって、与えられたものだった。

 

(つづく)