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 巴恵という女性がいた。青春時代を一緒に過ごし、惣介と新之丞と文七が等しく恋心を抱いた娘である。その巴恵が二月ふたつき前に死んでいた。そのことが心にあった。

 立て続けに近しい人が亡くなった。一年前に父。それから兄のように慕っていた赤木辰之進。そして巴恵。そうしたことが重なり、やり場のない怒りを市原新之丞にぶつけて殴り合いの喧嘩をしたのだったが、それでも気はまったく晴れず、むしろ喪失感は深まるばかりだった。惣介はここのところ、自分のこれまでがすべて消えてしまったかのような感覚を抱いて過ごしていたのである。

(どうにでもなれ)

 普請奉行に意見したとき、惣介の胸の内には、そうした思いがあった。堰を切る場所を変え、その後、切腹を申し付けられたところで構わない。あの藤袴の群生地を守らなければならない、そうした考えが頭を占めていた。

 藤袴の群生地は山の東側にあった。つまり、堰を切って予定通りに水が流れれば濁流が群生地を飲み込むということである。そのことを知った惣介は、自分の中でなにかが弾けるのを感じた。あの場所だけは消えてはならないと、とっさに思ったのである。

 秋に青い蝶が大挙して訪れる場所だった。その蝶の乱舞を、惣介は父に連れられて何回か見に行ったことがある。その後、新之丞、文七、巴恵を誘って訪れた。巴恵が村岡徳左衛門のもとへ嫁に行く直前のことだ。

 巴恵は群がる蝶を目にして、

「きれい」

 とつぶやいた。その様子を男たち三人は見守り、寂しくなって駆けだし、蝶をつかまえたりしてわざとらしくはしゃいだ。その思い出は胸が締め付けられるほど甘酸っぱく、その分、輝かしい青春の断片として残り続けているのだ。

 藤袴の群生地を失いたくなかった。もう戻れない過去だが、それでも自分にとってはかけがえのない青春の一幕なのである。

 惣介は思う。

(あの青い蝶だけは残ってほしい)

 たとえ何もかもがなくなったとしてもあの蝶だけは残ってほしい。それが、自分が生きた唯一の証なのではないか。

「貴公、名前は?」

 普請奉行が惣介をまじまじと見ながら言った。

「郡奉行配下郷方勤め加瀬惣介」

「どの郡奉行だ」

 普請奉行が聞いているのは六人いる郡奉行のうち、誰が直接の上役かということだ。この場で意見したことを上役である郡奉行の責任にして報告しようというのである。惣介は返答に窮した。普請奉行に言われるまで気づかなかったが、自分の発言でほかの誰かが責めを負わされる可能性があるのだった。あくまで個人的な思い入れから動いたことなのに、上役の郡奉行まで巻き込むわけにはいかないと思った。

「わしだ」

 そのとき、惣介のうしろにひとりの男があらわれた。栗山兵右衛門である。栗山は芦田村を含む城下近郊の村々を担当する郡奉行で、この日の堰を切る作業にも駆けつけていた。ただ、雨をかぶりながら進んでくる栗山を見て、惣介は首をかしげた。誰なのか判然としなかったのだ。惣介が担当しているのは福備領の北の果ての村々で、そこら一帯を指揮する郡奉行は、当然、その場所で豪雨対策を行っている。惣介は、田植え後の久々の休みを得て、たまたま城下に戻ってきていたところを駆り出されたのだ。栗山とは初対面だった。

「貴様は……」

 普請奉行が栗山を見て、目を丸くする。

「栗山兵右衛門だ。そいつにはわしが指示した」

「城では、ここで堰を切ることに賛成しておったではないか」

「実際に現場を見て考えが変わった。この水の勢いでは芦田村が流される。場所を変えるべきだ」

「栗山が指示したのだな」

「そうだ」

「わかった」

 普請奉行は荒れ狂う川を見たあと、群がる人足たちのもとに駆けだした。

「とまれ! ここで切ってはならぬ! 三里先の上流へ移動する!」

 結果的に、このときの判断がうまく行ったのである。上流で堰を切ってあふれ出た水は、沼沢川とすぐに合流しそのまま海へ流れた。間はほとんどが林だったため、田畑の潰れ地も出ずに済んだ。それどころか、林が根こそぎ流されたため、雨がやんだあとの大地には広大な更地が生まれた。調べたところ地味もよく、田畑に適していることが分かった。藩は思いがけず、良質な新田を得ることができたのである。

 惣介と指示した栗山も罪に問われることはなかった。栗山が上手に立ち回ったという噂が流れた。惣介はそのまま元の北の地で郷方勤めをすることになったのだったが、しばらくして芦田村への配置替えを言い渡された。芦田村の人々が、村を救ってくれた惣介にお礼を伝えたいと申し出てきたのだ。ならばいっそのこと、と直接の担当にすることが決められた。百姓の意見を容れてくれたのは栗山兵右衛門と言われている。

 こうして惣介は芦田村の担当になったのだが、はじめて村に出向いたとき、百姓から盛大な歓迎を受けた。宴に招かれ、村を救ってくれた英雄だ、ともてはやされた。

 ふさいでいた惣介の心に百姓たちの素朴さが沁み込んだ。村が水に飲まれなかったことをこんなにも喜んでくれている。その喜びに惣介はあたたかいものを感じた。宴には女も子どもも、歩くのがやっとの老人も参加していた。みなが一緒になって惣介を迎え入れてくれた。そうした百姓たちの姿に、惣介は懐かしいものを感じたのである。ひとりになってしまった、と思い込んでいた心に、別のなにかが入ってくるのを感じた。

 それから惣介は百姓を第一に考えるようになったのである。もともと百姓に対して差別的な考えは持っていなかったが、さらに親しみを持って接していくようになる。

 率先して百姓に声をかけ、作物のできばかりではなく困っていることや悩みなどがないかを聞いた。百姓たちの貧に喘ぐ暮らしを一緒になっていきどおり、どうにか楽になる方法はないかを話し合った。土を耕し、稲を育て、収穫を一緒に行った。惣介は毎日が充実していると感じたし、それ以上に、百姓の暮らしこそまっとうだ、と思うようになった。

(本当の人間らしい生き方がここにはある)

 肩書や建前にこだわる武士にはない暮らしだった。家族や村のために汗をかいて働く。まさに人間らしい暮らしに思えた。そうした、もっとも人間らしく生きているはずの百姓が、なによりも苦しい立場に追いやられていることはおかしい、と惣介は思った。

(彼らの暮らしを豊かにするのだ)

 ある日、天命のようにその思いが降ってきた。それを一生の取り組みにしよう、と惣介は誓った。

 惣介は約二十年のあいだ、百姓のための役人であり続けることに徹してきた。自分のことは二の次で、百姓のことばかり考えて勤めた。領内の百姓たちをなんとしてでも貧から救わなければならない、その思いでいっぱいだった。

 惣介の誓いは、二年前、湊組に移されるまで続いた。湊組勤めになったとき、惣介の中でなにかが切れた。今度こそなにもなくなってしまったのだ、と惣介は思った。

 

 

(今、再び、そのことを痛感している)

 惣介はこうべを垂れる。胸が締め付けられるのを感じ、手で押さえる。家族からも勤めからも自分は離れてしまっている、その事実を虚しさと共に思い出す。

 だが、しばらくして気づく。心の臓がドクドクと脈動している。こんな自分でも、今、生きている。規則的な脈動はそのことを証明してくれているようだ。

 突如、惣介は、

(家族を守らなければならない)

 と思った。最後に残ったのは命だけだった。それは燃え殻のような命かもしれない。だが、自分を自分であらしめてくれた命である。それがただ一つだが残っているのだ。

(そうだ)

 惣介は稲妻に打たれたように、命を捧げるなら家族のためだ、と思った。まったく自分勝手な話である。昨晩、美津と言い争い、この家はもう無理だ、と絶望したくせに、なにもかもを失ってしまったと思った途端、それでも家族だけは手放したくない、とすがりつきたくなってしまったのだ。

 清次郎の暮らしを追ったからかもしれなかった。城下を駆け回るうち、そのとき、その場所で清次郎は生きていたのだと知った。自分の中で清次郎がどんどん鮮明になっていくのを感じた。久しぶりに息子と向き合っているような気になった。

(清次郎……)

 惣介は牢屋敷で会った清次郎を思い出す。無実を訴えた清次郎。信じてください、と叫んだ清次郎。思い出すうち愛しさで溢れ返ってしまう。自分の血を継ぐ息子。その命が絶たれるかもしれない状況におちいっている。なにより、清次郎は今、苦しんでいることだろう。不安に押しつぶされ、生きた心地もしないまま裁きの日をじっと待ち続けているに違いないのだ。

(清次郎のためなら……)

 俺の命など惜しくはない、と惣介は思った。なにもかもを失ったあとに唯一残ったこの命。それを息子を救い出すために使えるのであれば、むしろ本望というものだ。

 死さえ意識した惣介だったが、どういうわけか、胸のあたりがあたたかくなっていることに気づいて顔を上げた。同時に、いつからか美津と雪乃のことを思い描いていることを不思議に思った。

 だが、考えてみれば不思議なことなどなにもなかった。清次郎への思いが、家族への愛をよみがえらせたのだ。惣介の中では、清次郎の背後には常に美津と雪乃の存在がある。家族の一員であってこその清次郎なのだ。

 全身に広がるほのかなぬくもりに身をゆだねようとした惣介は、不意に、俺はなにも失っていないのではないか、という思いに包まれた。家族を思い出せた、そのことが大きかった。

(俺は、ほかの人からしたら、なにもかもを失ったように見えるかもしれない)

 俺もそう思っていた。だが、それはうわべだけのことにすぎないのではなかろうか。家族への思いがよみがえってきたように、大切なものは完全に消えることはないのではなかろうか。それは、俺の過去も同じなのかもしれない。大切にしたいと思い、そのために時を費やした。たとえ見えなくなったとしても、その事実は消えることなく残り続けるのではなかろうか。

 家族への愛。百姓に対する誓い。そして、勤めに傾けた情熱。それらが今、俺を動かしているのだ。

(残っている)

 そうだ、残っている。

 こんなにも湧いてくる。

 であれば、俺にはやらなければならないことがある。

 惣介は庄屋の作造を見据えた。

「俺はこの村の担当になれてよかったと思っている。お前たちと過ごした日々こそ俺の人生だ。だからこそ、見過ごすことはできぬ」

 惣介の気迫に、作造がごくりと唾を飲み込む。

「一揆を企てておるのではないか?」

 惣介はじっと作造の目を見つめた。おびえたように視線をさまよわせた作造だったが、居住まいをただすと惣介に顔を向けた。

「やはり、加瀬さまにはかないませぬな」

 作造が深々と息を洩らす。手拭いを外して顔をふき、それを膝に置くとがくんとうなだれた。そのまま作造は下を向いていたが、しばらくして顔を上げたときには目つきが変わっていた。真剣なまなざしだった。

「確かにそうした話も出ておりました」

 惣介は肩の力を抜くと、よく話してくれたな、ありがとう、と伝えた。作造は、そんな惣介に、

「ただし」

 と手のひらを見せた。

「あくまで最後の手段。我々もむざむざ命を失おうとは思っておりませぬ」

 一揆は死罪に相当する。二年前、ひとりも死者が出なかったほうが特別なのだ。

「また年貢が上がるのではないかという話が出ております」

 作造は言った。惣介が弥一を振りかえると、弥一は目を見開いたまま首を振った。

「作造、それはどこで聞いた」

「どことは申し上げることができませぬ。ただ、信用できる筋からということは確かです」

 惣介は黙った。眉間に皺を寄せて考える。すぐに新之丞の顔が浮かんだ。作造たちに情報を流したのは新之丞なのではないか。新之丞はついふた月前まで郡代を務めていた。百姓に藩上層部の考えを伝えることはそれほど難しいことではない。

「今でさえぎりぎりの暮らしなのです。これ以上年貢を上げられれば、飢える者が出て、村はつぶれてしまいます」

「それは罠だぞ、作造」

 惣介は厳しい口調で言った。目を潤ませる作造をまじまじと見つめる。

 福備藩の年貢は七公三民だった。藩の取り分が異様に多いのは、藩主が幕府の老中を兼ね、そのための費用がかかるためである。百姓たちはひもじい思いを抱きながらぎりぎりの暮らしを送っていた。もう、取れるものなどなにもないという状況だったが、そこからさらに絞り取ろうということになると一揆の理由としては十分成り立つ。

(だが、年貢の引き上げは脅しだ)

 柳沢たち執政衆も、これ以上年貢を引き上げることが難しいことは理解している。百姓が逃散し、村がつぶれる恐れがある。そうなればそもそもの年貢収入が減ってしまうのだ。

 だが、脅しに使うことはできる。年貢が上がるかもしれないと百姓に伝え、慌てさせたところに、

「嫌なら代わりの条件を飲んでほしい」

 と迫る。百姓もバカではないから、ただの交換条件には応じない。だが、そこに餌がまかれていればどうだろう。たとえば、指示に従えば普請工事の労賃を増やしてやるといったたぐいのことだ。年貢引き上げという負の側面から、労賃が増えるという得する面を見せられた百姓たちは灯火に吸い寄せられる夜虫のように藩の提案に飛びつかざるを得なくなる。それがどれほど危険な頼みであってもだ。たとえばそれが一揆の偽装だったとしても、百姓は実行に移さずにはいられなくなる。

(それに……)

 百姓の側からしたら藩から命令されて一揆のふりをするだけならそれほど難しいことではない。自分たちが咎められることはないと考えるからだ。なんせ藩の後ろ盾があるのだ。交渉の席でも身の安全は再三にわたって確認しているはずだ。だが、惣介はそこに懸念を感じる。そうすべてことがうまく運ぶはずがないのではなかろうか。

「作造、気をつけろ」

 惣介が言うと、作造は不安を抱えきれなくなったのか訴えるような目を向けてきた。惣介は、作造を哀れに思いながらも、膝を進めて言った。

「今、お前の口から言えないことはわかっている。だが、お前らの考えている通りに進むほど藩上層部は甘くはないぞ。下手を打てば濡れ衣を着せられて首が飛ぶ」

「しかしですな、加瀬さま。我々も、もうどうにもならなくなっておるのです。一向に暮らしは上向きませぬ。病いを得ても薬を買うことができないまま死ぬ。老人を山に捨てる者まで出る始末。年頃を迎えた娘も、いつの間にか姿を消しております。今、年貢を上げられたら、それこそ村は死に絶えてしまいます」

「お前らの気持ちはわかる。俺はお前らと生活を共にしてきたのだからな。だからこそ、使い捨てにさせるわけにはいかぬのだ」

「使い捨てですか? 私たちが?」

 驚く作造に、惣介はうなずき返した。同時に、体の内側から激しい怒りが湧き上がるのを感じる。百姓を武士の身勝手な計略の道具に使うなど絶対に許してはならない。

「口約束だけでは心もとない。念書を取っておくべきだ」

 惣介は口にしたあと、そうだ、とひらめいた。この件は清次郎を救うためにも使うことができる。今回のことは根本のところでつながっているのだ。背後で動いているのは市原新之丞で間違いないのだから、ここで新之丞をおさえればすべて丸く収まるのではないか。

「だが、そう簡単に念書を取り交わすことはないだろうな。武士は責任を負うことをもっとも避けたがるからだ」

 惣介がちらっと見ると、作造は困惑顔を浮かべながらも身を乗り出している。

(作造には申し訳ないが)

 惣介は思う。お前たちと一緒に清次郎も救うことにさせてもらおう。

「お前たち代表者数名が屋敷に出向いたとしても、なんのかんのと言い含められて、うやむやにされるはずだ」

「はい」

 惣介は作造をふたたび見た。目に哀願が漂っている。作造は、自分が藩上層部の命令で一揆を起こそうとしていることを、すでに認めていた。そのうえで惣介にすがろうとしている。

「執政ともなると、さまざまな駆け引きが必要になる。相手はそうしたものが日々飛び交う世界で生きているからな」

「私たちはどうすれば……」

「真っ向から訴えるのだ。村に来てもらえ。みんなが集まっているところで話をしてもらい、それは事実かと迫るのだ。逃げ場はどこにもない。そこで念書を書かせる」

「村に来てもらうなど、はたしてかなうでしょうか……」

「来ないのであれば、計画自体、なしにする、そう申すのだ。よいか、作造。相手も相当追い込まれているはずだ。計画が持ち上がったのは、つい最近だろう? のっぴきならぬ事態があるからこそ、お前たちを頼ろうとしているのだ」

 惣介が言うと、隣の弥一が無言でうなずいた。作造はそんな弥一を見た途端に涙目になった。

「計画自体はこの夏ごろから話し合われてきました。どうも年貢が上がるらしい、という噂が飛び交い始めたのもそのころです。それが本当につい最近、実行に移す日取りが決まりました」

「それはいつだ?」

「それは……」

 続きをしゃべりかけた作造は、ふと惣介を見て、あわてて口をふさいだ。惣介が武士であることを、いまさらのように思い出したようである。

「なあ、作造」

 惣介は膝に手を置き訴える。

「俺の息子が藩政批判の罪でつかまった。まもなく処刑されることになっておる」

「えっ?」

 惣介はうなずき、自分が導き出した考えを作造に語って聞かせた。百姓一揆を息子の清次郎たちがそそのかして起こしたと見せかけようとしていること。それは柳沢の政治に民が異を唱えた結果だと世間に訴えるための久保の工作で、つまり、百姓一揆は久保の指示により発生し、民を扇動して政道を乱そうとしたことを柳沢は裁きの場で徹底的に追及して久保を失脚させようと企んでいるのだということ。清次郎は無実の罪を負わせるために捕まったのだということを語った。そして、念書をおさえることができれば、それを証拠に逆に柳沢を追いつめることができること。裁きの場で柳沢を追いつめれば、間違いなく清次郎は助かることも素直に伝えた。

「念書を手に入れさえすれば、上に訴えることもできる」

 惣介が言うと、作造はかすかに首をひねった。

「柳沢さまの上ですか?」

「藩主政通さまの叔父上、多部玄庵さまだ」

「玄庵さま?」

 作造は目を丸くした。作造たち百姓にとって藩主家一門の玄庵はまさに雲の上の存在なのである。名を聞くだけでも衝撃は大きいはずだ。だが、驚きながらも作造はなにかを考え、次第に落ち着きを取り戻していった。

「なるほど。確かに玄庵さまなら我々の苦しみをご理解くださるかもしれませぬな」

 作造が信頼を寄せるのは、玄庵の人柄によるところが大きい。政治には一切口を出してはこないが、たまに城下や農村にあらわれて民と触れ合い、

「あなた方のおかげで福備は成り立っておるのですよ」

 と丁寧に礼を言って回ることを玄庵は続けている。藩主の血縁である人間にそのような態度を取られて感激しない者はいないはずだった。玄庵は民から慕われ、同時にあがめられてもいる。

(作造は一度会っておるしな)

 惣介は二年前のことを思い出す。一揆の鎮圧にあたった新之丞にともなわれ、玄庵は百姓の前に姿をあらわしている。そこで作造たちは玄庵の、穏やかで、そのくせ圧倒的に高貴な雰囲気に触れたのだろう。だからこそ感激した百姓たちは怒りを鎮めて引き返して行ったのだ。

「清次郎も作造たちも藩上層部の権力争いに巻き込まれているだけだ」

 惣介は作造を見据えて言った。作造が惣介を見返し生唾を飲む。

「俺は清次郎も作造も失いたくない。俺にとってかけがえのない存在だ。助けてやることができなければ、それは俺のせいだ。俺は責任を負わなければならない」

 聞いた作造は、観念したように首を振った。

「我々が今日まで生きてこられたのは加瀬さまのおかげです。加瀬さまが我々のために尽くしてくれたからです」

 作造は、惣介が自分たちのために執政衆に上申してくれたときは胸が震えた、と言った。叶えられたことはごく一部だったが、惣介が立ち向かってくれたおかげで勇気を得ることができたという。

「我々は加瀬さまを信じよう、そう心に誓いました」

 作造は潤んだ目元を手で拭った。そして、息を吸い込み、惣介をじっと見据えた。

「決行は明日です。話し合いの後、夜を待って計画を実行に移します」

「やはりか」

 惣介はうなずいた。

「今回のことを大目付に話す。そして、会合の場に大目付を向かわせ首謀者をとらえさせる。そこから、柳沢派を一網打尽にするぞ。柳沢が消えれば次に権力を握るのは、おそらく久保外記だ。久保には俺から十分に言い聞かせる。百姓の痛みを知る政治を、必ずや行わせてみせる」

 作造は身動きひとつせず、惣介を見つめたままだった。

「俺を信じろ。必ずや成し遂げてみせるから」

 作造の肩を惣介は叩く。作造はびくっと全身を震わせると、次いで深々とうなだれた。

 隣で洟をすする音がした。見ると、弥一が目を真っ赤にしたまま、天井を見上げていた。郷方組ひと筋の弥一には惣介と作造のやり取りに感じ入る部分があったのだろう。涙ぐむ弥一を見て、

(俺は人に恵まれたな)

 惣介は思う。弥一にしろ作造にしろ、自分のまわりには純朴で素晴らしい人間がこんなにもいるではないか。そのことが己を奮い立たせてくれる。

(もうすぐだぞ。もうすぐだ清次郎)

 惣介は胸のうちで呼びかける。

 必ず助けてやるからな。

 なにがあっても助け出してやる。

 惣介は、牢の中でぽつねんと座っているであろう息子をはっきりと目の前に見た。

 

(つづく)