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 美津は、柳沢が権力を握る前の筆頭家老、大黒典膳のもとで辣腕を振るっていた小野甚左衛門の長女だった。小野甚左衛門は祐筆組で百二十石を得ていたが、大黒が派閥争いに敗れたのを機に、郡奉行支配郷方勤めに異動し、禄も二十石に削られた。美津が十六歳のときのことである。

 小野甚左衛門は、しばらくして一人自裁した。小野家は家名だけを残され、当時八歳だった美津の弟の平次が元服を果たしたのち再興されることが決まった。屋敷はそのまま郷方組の組屋敷を与えられたが禄は扶持米だけになり、暮らしていくのもやっとという有り様になる。また、大黒派だった小野甚左衛門の家族は当然のように組内でうとまれ、集まりにも誘ってもらえず、近所づきあいもなかった。嫌がらせも相当あったようだった。

 そのような仕打ちに耐えられなかったのだろう。しばらくして、美津の母が夫のあとを追って命を絶った。このとき、なぜか、母は弟の平次だけを道連れにしたのである。美津は声すらかけてもらえなかったという。こうして美津は突如天涯孤独の身になったのだったが、美津は、組屋敷に一人暮らし、もはや小野家の再興も望めないまま、内職をしてただ毎日を生きていく日々を過ごした。

 惣介はそのころ、父の死や、赤木辰之進、巴恵の事件などが重なって気落ちしていた。どうにでもなれ、と人生を諦めていた。高田川の決壊が起こる少し前のことである。そんなときに出会ったのが美津だった。世間から隔絶されて過ごす美津に、惣介は自分が抱えている悲哀に似たものを感じた。美津と会って話をするうち、惣介は突如、美津を妻にしようという考えを抱いた。当然、家族、親戚からの反対はあった。だが、惣介は強引に祝言を上げた。孤独を抱えながらも、決して世間におもねろうとしない美津に惹かれるものを感じていたのだ。

 そのすぐ後に、長男の清次郎が生まれた。惣介はそのころ芦田村に担当が変わっており、百姓の素朴さに触れたことで人生に目的を見いだせるようになっていた。夫に活力が出てきたことが影響したのか、美津の表情にも人間らしさが見えはじめた。二年後には娘の雪乃も生まれ、しばらくは家族そろって団欒を過ごす日々が続いた。

 だが、惣介は、なにもなく過ぎていく毎日に焦りを感じてしまったのである。百姓たちの暮らしに触れれば触れるほど、その貧しさに憂いを覚え、少しでも楽にしてやれないかと勤めに励むようになる。惣介は、どこに行っても担当する村の収穫量を上げるなど実績を残し、それに伴って役職も上がった。村で寝泊まりすることが増え、代官に就任したころには家から離れて単身で暮らすようになっていた。清次郎が八歳を迎えたころのことだ。

(美津はひとりで家を見続けたのだ)

 惣介は思う。親が死に、孤立を強いられた時期を経たことで我慢強い性格になっていたはずだった。それでも主人がいない日々は不安だったに違いない。近所から疎外された苦しさを知っている以上、もう二度と世間を敵に回したくないと神経を張り詰めていたはずだ。二人の子どもは成長し、清次郎を一人前の武士に育て上げるとともに、雪乃も娘としてのたしなみを身につけさせなければならなかった。また、惣介の出世にともない屋敷も移っていった。使用人も雇わなければならず、それらの差配も美津はこなしてきたのである。美津の毎日は自分でいられるときがないほど、慌ただしく過ぎていったに違いなかった。

 なにより美津がもっとも望んだのは家族のぬくもりだったはずである。

 両親と弟が命を絶った中、美津は、絶対に離れ離れにならない家族を望んだに違いなかった。

 だからこそ、懸命だったのだ。

 清次郎が捕まったときにあれほど取り乱したのも、家族の崩壊がちらついたためだろう。

 美津にとって家族こそすべてだった。

 希望であり、よすがなのだ。

(その美津が涙ながらに頼っている)

 家族を失わないために、俺を頼っている。

 惣介は美津の背中に手を添えた。着物の上からもわかる骨ばった背中は何度も壁にぶつかり、悩んできた日々を伝えてくるようだった。

「美津、清次郎の言う通りだ。俺を信じろ」

 惣介は美津を離して顔を覗き込んだ。美津がうるんだ瞳で見つめ返してくる。

「案ずるな。俺がなんとかする」

「清次郎さんにもしものことがあれば、私は……」

「今までさんざん迷惑をかけた。すべてお前にまかせっきりだったな。だが、美津のおかげで、清次郎も雪乃も立派に育った」

「お前さまがしっかりと勤めてくれたおかげにございます」

「男はバカだ。それ以外に家族になにをしてやればいいかを知らぬ。もっと早く気づくべきだった。いまさらながら後悔している」

 惣介が言うと、美津は激しく首を振った。瞼を手のひらでこすり、なにか伝えようと口を開きかけ、そして少しためらったあと、白川さまのことですが……、と言いかけた。

「そのことはいい」

 惣介は美津を制した。本当にどうでもいいのだ、そう思っている。

「今は清次郎を助けることだけを考えるべきだ」

「ですが、実際になにもなかったのです。ただ、昔の知り合いというだけです」

 惣介は動きを止めて美津を見た。美津の瞳は微塵も揺らぐことはなかった。

「よし、信じよう」

 惣介は言った。瞬間、自分の中の黒い靄が払われるのを感じた。言葉は必要なかった。目を見ただけで、嘘かどうかはわかる。二十年、夫婦をしてきた女なのだ。

「この家族を終わらせてはならぬぞ、美津。まだやり残したことがたくさんある」

「やり残したこと?」

「明日だ。明日、決着をつける。それまで、もう少しだけ俺の勝手を許してくれ。すべて片付いたら、お前にも話す。だからもう少し……」

 惣介が言うと、美津は夫を覗き込んだあと勝ち気そうに口の端を持ち上げた。

「私はいつでもお前さまを待っておりました。一日増えたところで、どうということはございません」

「ふっ」

 惣介は吹き出した。ずいぶん久しぶりに笑った気がした。

「そうであったな。まことに待たせてばかりだ」

 言うと、惣介は美津の膝に手をのせた。美津が手を重ねてくる。惣介は手を裏返すと、細い指を己の指にからめた。

(今、つかんだ)

 惣介は思った。ずいぶん遠回りしたけれど、今、再びつかんだのだ。このぬくもりを手離してはならない、惣介は自らに言い聞かせた。

 

交錯

 

 

 陽は中天に差し掛かったばかりだ。惣介は木漏れ日を浴びながら、豪農田中林蔵の屋敷を見つめている。身をひそめるのは屋敷の裏の林。乾いた秋風が吹き、木々がかすかに揺れる。葉の隙間を通った光が模様を変え、きらめきをあたりにまき散らす。それは川面に跳ねる陽光のように白くまばゆい。

「惣介」

 林の奥から小走りにやってきた男が隣にしゃがんだ。旧友の森山文七だ。文七は大目付配下として、このたびの急襲計画に加わっている。大目付を動かしたのは久保外記の指示によるものだ。

「加賀山さまの配置は完了した。あとは合図を待つばかりだ」

「さようか」

 惣介は文七を横目で見たあと、再び屋敷に視線を注ぐ。茅葺屋根を見ながら、いかにも実直そうな加賀山という男を思い出す。背は低く、顔だちも派手ではなかったが、目だけは鋭い光を宿していた。文七が計画の全容を説明しているときも、その目は一瞬も揺らがなかった。

(この男の機転のおかげで、清次郎は友浦に送られたのだ)

 あの時、惣介は加賀山を見ながら感謝の気持ちを抱いた。そして、深く信頼した。

「作造が百姓たちを説得できているかによりますね」

 文七の反対側で奥弥一が囁く。郡奉行助役の弥一は表情を少しだけこわばらせている。これほど大きな捕物に参加するとは思っていなかったのだろう。藩の行く末が自分たちにかかっている、そのことに恐怖さえ覚えているようだ。

「作造を信じておらぬのか、弥一」

 惣介はあえてぶっきらぼうに聞いた。

「いえ、そういうわけではございませぬが……」

 口ごもる弥一を見て、惣介はふっと笑みを漏らす。

「信じつつも疑念を抱く。それが百姓との付き合いでは正解なのかもしれぬ。俺は少し信じすぎるところがあった」

「それが正しいのだろうと私は思います。私はまだそこまでは至れておりませぬ」

 弥一が目線を落とす。

「いや、役人としては弥一ぐらいがちょうどいい。俺はかつて痛い目にあった。特に役人は一度の失敗が致命傷になる。そういう立場にいる」

「二年前のことですか?」

「そうだ。だが、今回は同じ轍は踏まぬ。必ずや成し遂げてみせる」

「加瀬さんに従います。私は、加瀬さんにずっとついてきたのですから」

「いつもすまぬな」

 惣介が返事をしたときだ。林の前方で屋敷をうかがっていた香芝金吾が、

「裏口が開かれました」

 と振り返った。惣介は金吾を見て表情を引き締める。金吾は自ら今回の計画に参加したいと申し出てきたのだ。久保の館での会話を襖の向こうで聞いていたらしい。金吾は、清次郎を救うために自分も働きたい、と惣介に直訴してきた。

「斬り合いになるかもしれぬぞ」

 惣介が言うと、

「覚悟しています」

 金吾は即座に答えた。惣介は息子への友情に感謝しながら、金吾の同道を認めたのだった。

「では、行くか」

 文七が背中を叩いてくる。惣介は旧友に目を向け、

「よし」

 立ち上がった。

 木立を縫いながら館を目指す。進むのは四人だ。

 惣介と文七と弥一と金吾。

 加賀山率いる大目付の一隊は、惣介たちが裏口から入ったあと、屋敷全体を取り囲むことになっている。大勢で侵入し、市原新之丞に気づかれるのを防ぐためだ。

 誰にも気づかれずに庭を抜け、館に入った。足音を忍ばせながら廊下を進む。途中、ある部屋の前で、中からがさがさと音がして四人は立ち止まった。

(まずい。ばれたか)

 だが、息を殺して待っていても部屋から出てくる者は誰もいなかった。惣介は胸をなでおろすとともに、

(ここは、書庫か)

 とひとり納得をする。郡奉行の時に林蔵の屋敷には何度も来ていた。惣介の頭には屋敷の部屋割りが叩き込まれている。百姓と新之丞が話し合いをしている今、過去の文書でなにかを確認する必要が生まれたのだろう。そのために藩士に書庫を探させているのだ。一瞬、どきりとしたが、順を追って考えてみればすぐに答えを導きだすことができる。そのことに惣介は、いい傾向だ、と思った。頭は熱くなりすぎず冷静さを保っている。

 惣介たち四人は、再び中から紙をめくる音が聞こえはじめたのを機に部屋の前を通り過ぎた。廊下を突き当りまで進んだところで、そわそわと落ち着かない様子の男と落ち合う。

「作造……」

 ささやき声で呼びかけると、作造は泣き笑いのような表情を浮かべて、

「厠だ、と言って出てきました。帰りが遅いと怪しまれます」

 蚊の鳴くような声で答えた。

「来ておるか?」

 惣介は顔を近づけた。作造は、こくこくと何度もうなずいた。まるで自供を迫られているようだ。

「一揆のふりをしてくれれば年貢は今のままでよい、そうおっしゃられました。先ほど、念書も書いていただいたところです」

「まぎれもない扇動の証だ。よし、案内いたせ」

 惣介は作造について館から出た。藪のあいだを縫うように進む。林蔵の館には母屋と離れにそれぞれ広間があり、今日は、離れのほうで会合が開かれているとのことだった。作造が渡り廊下を選ばなかったのは、柳沢派の連中が警戒しているからだろう。作造は人に見つからないようにするため、一度外に出てから離れに向かうことにしたのである。途中、数人の奉公人らしい人物に会ったが、みな言い含められているらしく作造に耳打ちしては離れていった。そのたびに作造は右に曲がったり、左に曲がったりして道を変えた。

「林蔵にも話が通じているのか?」

 惣介は中腰になって作造を追いながら屋敷の主人のことを聞いた。

「それをしないことには、こんな大それたこと、とてもできませぬ」

 作造の声は震えている。やはり、百姓にとって武士にたてつくことは恐怖でしかないのだろう。しかも相手は中老の市原新之丞だ。作造は生きた心地がしないはずである。

 裏口から離れに入り、いくつか部屋を過ぎたところで作造が立ち止まった。そっと惣介を振り返り、

「こちらです」

 息を飲む。

「よいな?」

 惣介は襖に手をかけながら背後の男たちに言った。文七、弥一、金吾がうなずく。

 惣介は一度息を吸い込むと、勢いよく襖を開けた。

 

 

「神妙にいたせ! 百姓に一揆を焚きつけるなど、言語道断! 許しはせぬ!」

 躍り出た惣介だったが、すぐにその場で固まってしまう。

 あっけに取られたような目でこちらを振り返ってくる百姓たちが三十人ほど。その向こうにいる人物が惣介の想像していた人物とは違ったのだ。

「ご家老……?」

 惣介が眉をひそめながら言う。上座の人物は、痩せぎすの新之丞とは違い、小太りといえる体型をしていた。ぎょろりとした目。しみの浮いた頬は垂れ下がっている。猪を連想させるいかつい風貌は、福備藩を二十年間支配してきた筆頭家老柳沢作兵衛で間違いなかった。

「なに奴だ! 誰の許しを得て、ここに参った!」

 柳沢が吠える。声は雷鳴のように鋭くて、思わず背筋を伸ばさずにはいられない。

「どうして柳沢家老が?」

 惣介は茫然とあたりを見渡す。どこかに新之丞がいるのでは、と思ったが、どこにもいなかった。上座にいるのは柳沢と二人の若い供だけだ。

「新之丞は……? 市原新之丞は、どこにいる……?」

 惣介が立ち尽くしてしまったからだろう。後続も動けなくなってしまっている。

「惣介、どけ」

 ただ、文七だけは違った。咄嗟に自分の役割を思い出したらしく、惣介を押しのけると、

「柳沢作兵衛! 百姓を扇動した罪により、捕縛いたす」

 徒目付らしく進み出た。

「無礼者! 突然押しかけてきて何を申す!」

 柳沢が怒鳴る。そして、肩をびくつかせる百姓たちを見下ろすと、

「なにをしておる。ひっとらえるのだ!」

 命令した。百姓たちが一斉に柳沢に目を向ける。柳沢は憤怒の形相でにらみ返した。

「早く行け! さもなければ、年貢を下げることも、人夫に手当てを出すことも、すべてなかったことにするぞ!」

 柳沢の野太い声に百姓たちは急に目が覚めたように立ち上がると、各々うめくような声をたてて、惣介たちに歩み始めた。

「静まれ!」

 奥弥一が前に出る。百姓をなだめるため両手を広げている。

「なにをしている! 落ち着くのだ」

 百姓の中からも叫ぶ者があらわれた。惣介がよく知る人物だ。近隣の村々を束ねる豪農の田中林蔵である。林蔵は百姓たちの肩をつかみ、惣介のもとに向かうのを必死に押しとどめようとしている。

 だが、百姓たちはすでに勢いづいていた。光のない目のまま、ゆっくりと距離を詰めてくる。みな、痩せていた。土気色の肌はカサカサだ。絶え間ない貧しさが柳沢という権力者に、ただただ従順になることを選ばせたのだ。

「手を出すな! 百姓に手を出してはならぬ!」

 惣介は我を取り戻し、周りに叫んだ。だが、その声もすぐにかき消される。百姓たちのうめきが刻々と迫ってくる。

「曲者だ! みなの者、駆けつけよ!」

 柳沢が部屋の外に向かって叫んだ。柳沢の声を聞いて、百姓たちが目を見開く。尻を叩かれた馬のように惣介たち目指して駆けだした。

(だめだ)

 惣介は覚悟した。清次郎のことが頭をよぎったが、それでも刀に手をかけることはできない。息子の命がかかっていても、百姓を斬ることは惣介にはできるはずがない。

 

(つづく)