最初から読む

 

「失礼いたします」

 文七が語り終えたころ、襖の向こうから女の声がした。みなが動きを止めて振り返る。

「来たか。入れ」

 辰之進が応じ、娘が入ってきた。十代の三人が慌てて居住まいをただす。惣介は正座に戻って袴を直し、文七は鬢の毛を後ろに撫でつけている。新之丞も心持ち背筋を伸ばした。

 娘から甘い香りが漂ってきた。香り袋のような人工的なものではなく、娘の体から自然と匂ってくるようなほんのりとした香りだ。その匂いに新之丞は胸が脈打つのを感じる。娘は日に日に、大人の女へと近づいているようだった。朝から晩まで外を一緒になって駆けまわった幼馴染とは思えない。まさに羽化しかけた蝶である。

「巴恵、ここへ座れ」

 辰之進が妹を自分の隣に招いた。新之丞たちの横を通り過ぎた巴恵が着物の裾を折って座る。顔はうつむいている。それを見て新之丞は、おや、と思った。元気がないように見えた。いつもなら新之丞に控えめな笑みを向けてくるのだったが、それが今日はない。

「巴恵どの、今日は菓子はござらんのか」

 文七が芝居じみた調子で言い、聞いた巴恵が顔を上げて小さく微笑んだ。それを見て、勘違いだったか、と新之丞は思い直す。巴恵はまぶしすぎるくらいに輝いて見えた。あらゆる思考を捨てさせるにはじゅうぶんだ。

(概して控えめなのだ)

 再び目を落とした巴恵を見て新之丞は思う。十二、三歳までは、そんな巴恵を新之丞が強引に連れ出して近所の子どもたちの遊びに加えていたのである。巴恵は新之丞にだけは心を許しているらしく、新之丞といるときはよく話しもしたし、笑みも見せた。そんな巴恵をいとおしむ気持ちは当然のごとく募り、新之丞は自分が巴恵にとって特別な存在でいられることに喜びを感じていた。

「すまぬ、文七。今日は菓子を出すためではなく、お前たちに話があって巴恵を呼んだのだ」

 辰之進が改まった口調で言った。それを見て、新之丞たちも姿勢をただす。重大ななにかが語られる、そのことを直感的に悟る。部屋中に緊張が満たされる。

「このたび、俺たちは屋敷を移ることになった」

 辰之進は一度咳払いしたあと、胸をそらせながら言った。

「え?」

 新之丞の鼓動が跳ねる。近習組に移ってからも辰之進は普請組が暮らす町に住み続けていた。それは新しい屋敷が用意できなかったため、という理由だったが、なかなか転居の話は出てこず、そのうち引っ越しの話自体なくなってしまったのだ、と新之丞は思い込むようになっていた。いや、巴恵と同じ町で暮らし続けたいという思いが、そう信じ込ませるように仕向けたのかもしれない。

「新しい屋敷はどちらになるのですか?」

 新之丞はうつむく巴恵にちらりと目を向けたあと、そう聞いた。辰之進は鼻腔をふくらませると、心持ち顔を上に向けて言った。

「内堀沿いだ。そして、このたび俺は、近習組小頭への昇進も決まった」

 満足げな辰之進を新之丞は茫然と見つめる。

(内堀沿い)

 上士の中でもさらに限られた者が住むことを許される場所だった。それはつまり、藩上層部が辰之進を、これから執政入りしていく人物と見込んだことを意味しているのだろう。顔を上気させる辰之進からは自信が溢れており、普段より活気が満ちているように見えた。

(巴恵と会えなくなる、か)

 新之丞は心の臓を氷でつかまれたような気持ちになる。もちろん、同じ城下で暮らしている以上、会おうと思えば会えないわけはない。辰之進を訪ねれば、きっと歓迎してくれるだろうし、巴恵も新之丞が来たことを知れば話の輪に加わってくれるはずだ。だが、新之丞は普請組四十石の嫡男なのである。上士の屋敷が連なる内堀沿いを歩くのはためらわれる。

 新之丞は唇を噛みしめた。おとなしくて控えめな巴恵を連れ出し、笑顔にすることが自分の務めだと思っていた。だがそれは、終わってしまうのだ。これからは容易に顔を合わせることすら難しくなる。身分の壁が立ちふさがるのだ。

 惣介も文七も同じことを考えたようだった。力ない吐息が聞こえたり、唾を飲みこむ音が響いたり、重苦しい雰囲気が部屋中に満ちた。そんな中、新之丞は辰之進から巴恵へと視線を移す。巴恵が身じろぎするのを目の端にとらえたからだ。

 巴恵は顔を上げていた。そしてじっと見据えてくる新之丞に、寂しさに埋め尽くされた、まったくうれしそうに見えない笑みを向けた。

「あっ……」

 新之丞はひと声洩らしたあと、さっと天井に目を向けた。上を見ながら何度もまばたきを繰り返す。

(そんな笑みを見せるなよ)

 俺が見たかったのはそんな顔じゃないのだ。胸の奥に花を咲かせてくれるような、お前の明るい笑顔こそ見たかったのだ。

 新之丞は目の裏が熱くなるのを感じた。それでも心を奮い立たせ、再び巴恵に目を向ける。巴恵は顔を伏せていた。膝の上の拳を握り、小さく肩を震わせている。垂れ下がった髪とその奥の赤らんだ頬を新之丞は茫然と見つめた。巴恵はその後、新之丞と一度も目を合わせなかった。

 

 

 辰之進から引っ越しを聞かされて三日後、突如、惣介が、

「芦田村に行こう」

 と言い出した。巴恵も誘って四人で向かおうというのだ。巴恵たち赤木家の引っ越しは月内に完了しなければならず、月末まで、あと十日しかなかった。引っ越しの荷造りやらであわただしさが増す中、巴恵を連れ出すには、実質、最後の機会になりそうだった。

 空は快晴だった。目の覚めるような鮮烈な青の中、ちぎり雲が浮いている。とんびが弧を描きながら飛び、地上では刈り終えたばかりの稲が棒にかけられていた。

 惣介が先頭に立ち、どこか寂し気な様相を深める秋の街道を進む。道は小川にぶつかり、今度はその小川をさかのぼるようにして森に入った。四人は話をしながら歩いたが、すぐに会話は途切れた。その静寂が悲しくて再び話し始めるのだったが、それもやがて沈黙に飲み込まれる。四人はいつしか、口をつぐんで黙々と歩くだけになった。

 その四人が一斉に立ち尽くす。

 先頭の惣介が導いてきた先。森の中ほどで目の前が開けたのだ。

 目が覚めるようなまばゆさで満ちていた。

 空から降り注ぐ光をすべて集めているようだった。

 辺り一面の花畑である。

 薄紅色の小さな花が地面を埋め尽くしている。

 そして、その上を――。

「きれい」

 巴恵がふらふらと花畑に足を踏み入れた。その巴恵のまわりに一斉に蝶が群がってくる。

 何百もの青い蝶だ。

 群れの中でたたずむ巴恵は、さながら極楽から舞い降りた観世音菩薩のようであった。蝶を従えてこの世にあらわれたかのように新之丞には見える。ひらひらと舞う蝶に囲まれた巴恵を新之丞はぼんやり見つめるだけになる。

「すごいな」

 つぶやいたのは文七だ。途端に文七は駆けだし、巴恵のそば近くで、

「すごい、すごい」

 とはしゃぎ始める。そうしてひとしきり騒ぐと、今度は空を舞う蝶を追いかけ始めた。蝶は文七の手をかわしながら、決して慌てることなく、悠々と羽ばたき続けている。

「どうだ! すごいだろう」

 惣介も続く。惣介は花に止まった蝶をそっとつかまえると、巴恵に渡し、それから文七のもとに駆けた。

「お前ではとらえられぬぞ、文七。お前の動きは人に読まれやすいからな。稽古のときなど、まるわかりだ」

「俺は今、人ではなく蝶を相手にしているのだ」

 文七は言い返したが、蝶を本気でとらえようとは思っていないらしく、青い群れに近づいては、つかまえるふりをして蝶が散るのを楽しんでいる。

 そんな二人を見て、巴恵がくすりと笑った。それから、目元を人差し指で拭う。

 瞬間、新之丞は閃光に貫かれるのを感じた。

(巴恵が笑っている)

 だが、巴恵の笑顔を引き出したのは新之丞ではなく惣介なのだった。自分の考えをすぐさま実行に移す惣介。そんな惣介が巴恵に笑顔をもたらしたのだ。

 新之丞は寂しさが胸の内を覆うのを感じた。自分はいつの間にか、巴恵にとって必要のない存在になっていたのかもしれない、そう思う。過去の巴恵は自分だけを頼ってくれていた。だから俺が引っ張ってやらなければならないと思ったのだ。だが、もう俺に頼らなくても笑顔を作り出してくれる人はいる。

(これからますます増えていくだろう)

 上士と呼ばれる人たちの中からもそうした人間があらわれるに違いない。新之丞が踏み入ることができない世界で、巴恵は誰かに笑顔を向けながら生きていくのだ。

(俺では到底無理だ)

 新之丞は思う。上士の妹になる巴恵に気後れを感じずにはいられない。こうして巴恵との距離は見る間に開いていき、巴恵の中の自分はどんどん小さくなっていくのだ。そして、いずれ消えてしまう。

「おい、新之丞。なにを突っ立っておるのだ」

 惣介が手招きしながら叫ぶ。新之丞は、惣介にあいまいな笑みを返したあと、目を地面に落とした。

「おぉい新之丞、知っているかぁ」

 惣介は口に手を当ててさらに声を大きくした。惣介は花畑の端のほうまで駆け、そこで文七の背中を叩いたあと、再びこちらを振り返った。

「この蝶たちは、年に一度、ここを訪れるのだ。稲刈りを終えたころ、ここに来て、またどこか南の方へ旅立っていく。そう父上から聞いた!」

 惣介はちらりと巴恵を見たあと、先を続けた。

「それは、この花が咲くからだ。この花が咲く限り、蝶はやって来るのだ。来年も、再来年も。蝶は必ずやって来る。そうに違いないのだ」

 眉を寄せる新之丞に惣介は言いつのる。

「もし、お前が気に入ったのなら、また連れてきてやってもいいぞ。四人で訪れるのだ。稲刈りが終わったころ、毎年な」

 惣介は言うと、再び笑いながら文七の肩を叩いたり、腿を蹴ったり、と、じゃれ合い始めた。

 そんな惣介を見て、新之丞は込み上げてくるものを感じる。

(お前ってやつは……)

 そう思う。惣介は、新之丞に対してではなく巴恵に向かって言ったのだ。会うことが少なくなっても、つながりは残りつづける、そう伝えたかったのだ。

 新之丞は大きく息を吐きだした。惣介の不器用な優しさに触れ、心の中のよどみが取り除かれていくようだった。代わりに、もっとしっかりしなければと、勇気が奥のほうで芽生えるのを感じる。

「惣介の言う通りだ」

 新之丞は巴恵の隣に進んだ。小柄な巴恵を見下ろしながら頬を人差し指で掻く。

「引っ越したからと言って今生の別れになるわけではない。会おうと思えばいつでも会える」

「新之丞さん」

 巴恵がおびえたような目を向けてくる。その瞳に、新之丞は幼いころの巴恵を見いだした。

 おとなしかった巴恵。

 俺が誘いに行かなければ、遊びの輪にも加われなかった巴恵。

 それは今も変わっておらず、そしてこれからも続いていくのだ。ふと新之丞はそんな希望にとらわれた。

 新之丞は、柔らかい笑みを浮かべながら腰をかがめた。

「どうしたのだ、巴恵」

「新之丞さん、私……」

 巴恵は言いよどんだあと、胸に手を当て、思い切ったように息を吸い込んだ。

「私、お嫁に行きます」

「へ?」

 まわりの音が消えた。なにを言われたのかまったく理解できなかった。そのくせ顔面がどんどん崩れていくのを感じる。

「嫁って、お前……」

 慌てて尋ねかえす。

「村岡徳左衛門さまのところです」

「村岡徳左衛門というのは、組頭の?」

「はい」

「いつだ?」

「年が明けてすぐ……」

「そんなにも急に?」

 巴恵はうつむき、なにも言わなかった。

「嫁、か……」

 新之丞は花畑を見渡した。行き場をなくしたように、新之丞の視線が蝶のあいだをさまよう。

「それはそれは……。なんともめでたいことだ……」

 ようやく絞り出した声に、新之丞は自分でも抗しがたいほどの絶望を感じる。なにを言っているのだ、そう思う。

 巴恵は返事をしなかった。

「おい、どうしたのだ?」

 花畑の中にたたずむ二人のもとに惣介が駆けよってくる。遅れて文七も近づいてきた。

 だが、二人よりも先に、青い蝶がひらひらと飛んできて、新之丞の肩に止まったのだ。

「あっ」

 巴恵が言い、

「ん?」

 新之丞が目を向ける。

 それを合図に蝶は飛び立った。羽をひらめかせ、青い空を目指して、はらはらと飛んでいく。新之丞は目を細めてその行方を追った。蝶はやがて背景の青に紛れて見えなくなった。

 その後、巴恵とは会わなかった。そして年が明けてすぐ、巴恵が村岡家へ嫁に入ったという話を噂で聞いた。

 

遺言

 

 

「あの花畑は俺も覚えている」

 文七が言った。集落を抜けた三人は街道を進んでいる。整備された道が、蛇行しながら続く。秋の風を背に受け、それぞれ足を速める。

「そういえば、あれ以来、巴恵に会っておらぬな」

 文七が立ち止まって額の汗をぬぐう。そして、先を行く新之丞たちを追いかけて再び駆け足で追ってきた。その間、惣介はひと言もしゃべっていない。新之丞が語り始めてから、ずっと黙りこくったままだ。

「ひょっとすると俺も会えないままだったかもしれぬ」

 新之丞は道の先に目を向けて言った。

「だがひょんなことから会った。三年後だ。夜、屋敷から出て行くところに偶然出くわした。……だが、それより先に、俺は辰さんを斬った」

「大黒典膳の失脚か……」

 文七が答える。惣介は無言のままだ。新之丞はうなずいた。

「大黒派だった辰さんは、どうしても斬られねばならない存在だった。柳沢としては若手の筆頭だった辰さんを野放しにおくわけにはいかなかったからな」

「その討手にお前が選ばれたというのは、なんとも残酷だと思ったぞ」

「いや、俺でよかったのだ。この藩の真の姿を辰さんから知ることができた」

「真の姿、か……」

 文七がぽつりとつぶやく。新之丞は街道から田んぼに視線を移した。白い鷺が数羽歩いているのが見えた。

「……俺は巴恵が嫁入りしたあと出世をひたすら目指した。巴恵にもう一度会いたいとその思いでいっぱいだったからな。今思えば、ほかにも方法はいくらでもあったはずだが。……だが、あのころの俺は出世を果たさなければ会うことは許されないと思ったのだ。それが、結果的に辰さんの最期に立ち会わせてくれた」

「柳沢のもとで出世した。だから、辰さんと対立する羽目になった……」

 新之丞は文七に返事をしなかった。そんな新之丞に今まで口を引き結んでいた惣介が力強く言った。

「話せ。どんなことでも受け止める」

 惣介は鼻から息を吐きだし、顔を少しだけ上に向ける。

「俺は新之丞が辰さんを斬ったことを恨んでいた。出世のために斬ったと思っていたのだ。だが、そこにまっとうな理由があったのなら、俺は聞かねばならぬ」

「俺にも聞かせてくれ。ま、俺は別に新之丞のことを恨みはしなかったがな」

 慌てて文七が付け加える。新之丞は、

「わかった」

 と返事し、語り始めた。

 

(つづく)