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 金吾に案内されて向かったのは茶屋町の裏通り、身を寄せ合うようにして並ぶ建物のひとつだった。うすうす察してはいたが、やはりというべきか行き着いた先は女郎屋であった。

 畑中は勝手知ったる様子でずかずかと上がり、座敷に進む。金吾が耳打ちして教えてくれたところによると、襲撃から逃げた畑中は、もともとこの女郎屋に隠れるつもりでいたという。ただ、女郎屋の方も柳沢派の目が光っているということで、ひとまず称念寺に潜んでもらい、危険がないか周囲を念入りに調べていたとのことだった。そして今日金吾のもとに畑中逗留の支度が整ったと知らせが届き、畑中を迎えに行った際に平瀬と高原に見つかり、あとをつけられたようである。

 女郎屋の座敷はむっとするような独特なにおいがした。怠惰と欲望がそこここに染みついているのを感じる。惣介は部屋の前で立ち止まり敷居際で眉をしかめた。部屋は六畳だったが、窓がないため狭く思えた。

 惣介たちが腰をおろすと、皺だらけの老婆がやって来て、畑中に挨拶し、

「なにかお持ちしますか」

 ともぐもぐたずねた。

「酒だ」

 畑中はそれだけ言うと、老婆を追い払うしぐさをした。それを見た金吾が、老婆にそっと、

「なにかつまめるものも頼みます」

 と付け加える。老婆が出ていくと、畑中は身を乗り出すようにして惣介に話しかけてきた。

「さっそくだが、市原のことで加瀬どのが知っていることをお聞きしたい」

「それがしの知っていることといっても、実は市原新之丞を調べたことなどほとんどないのだ。あいつが郡代になったとき、意外な役替えに疑問を抱いてな。そのとき少し聞いて回ったことがあったが、それも先ほどそなたが言っていた商人との結びつきであったり、藩費の使い込みであったり……。どれも噂の域を出ないものばかりだった」

「はあ、さようですか」

 畑中は露骨に期待外れだという態度をした。両手を後ろにつき、目を半ば閉じながら大きく息を吐き出す。

「だが、先ほども言った通り、新之丞の過去は知っている。その人となりもな」

 惣介は、畑中に苛立ちを感じたが、それでもこの男から辿らなければ久保に会うすべがないことを思い出し、取り繕った。

「そなたが知っていることを聞けば、新之丞がなにを狙っているか、わかるかもしれぬ」

「そういうものですかね」

「まあ、まずは聞かせてもらいたい」

 惣介が言ったとき、襖がすっと開いて、老婆が入ってきた。盆の上に数本の徳利を並べ、スルメと大根の煮つけを載せている。畑中は老婆が出ていくと、盃を取って金吾に差し出し、注ぐよううながした。

「とりあえず飲みましょう。話はそれからです」

 畑中に目配せされた金吾が惣介に徳利を向ける。

「いや、俺は……」

 惣介は断ったが、

「さ、加瀬どの」

 と畑中がしきりに言うので、仕方なく盃を取った。清次郎が牢に入れられている今、酒など飲んでいる場合ではなかったが飲まなければ畑中は語ってくれなさそうな気配がある。ここは畑中に合わせたほうがよさそうだ。そう自分に言い聞かせた。

 惣介は金吾から酒を注いでもらい、それを一息に飲み干した。熱い液体が胃の腑へ流れ落ち、それがどうにも久しぶりのことのように思えてつい顔をしかめてしまう。畑中は満足そうに口の端を持ち上げ、自分も盃を空けた。畑中は立て続けに三杯あおると、少しだけとろりとした目で惣介を見据えた。

「まず商人との癒着ですが、相手は友浦湊の島田屋です」

 畑中は酒を飲んだことで気分がよくなったのか、自分が調べたことを語り始めた。その話を惣介は、ときに自分の考えをさしはさみながら聞く。

 畑中が言う島田屋とは友浦に本拠を持つ廻船問屋である。島田屋は、友浦湊に立ち寄る他藩の船との交易を一手に引き受けていた。上方や江戸に運ぶ他藩の商品のうちいくらかを島田屋が引き取り、代わりに畳表や木綿、酒といった福備藩の特産品をおろしている。こうした取引きがあるために、友浦の湊町や福備城下は他藩の品物も多く流れ込んでいるのだったが、ここから生まれる富のほとんどは島田屋が吸い上げていた。この島田屋が急激に力を伸ばしたのは、ちょうど市原新之丞が勘定奉行に就任し、柳沢派の中で重用され始めたころである。そして新之丞は島田屋と頻繁に会っていたことが発覚し、その関係は疑惑の目を持って見られたことがあった。結局その件は、家老の柳沢が、あれは金繰りの相談をしに行っただけだ、と言って強引にもみ消したのだったが、畑中は、そのときの金の流れを、島田屋の手代を通してつかみかけているということだった。

「ほかにも、市原の屋敷に出入りしていた庭木職人が、若い娘が何人も一室に押し込められているのを見たことがあると証言しています。どうも商売女ではなく、生娘なのではないかということでした」

 畑中はせわしなく酒を飲みながら言った。その庭木職人は仕事を辞めて他藩に流れてしまったらしいが、一緒に働いていた仲間が、内緒だがな、と言われて聞いたという。集めた娘たちがなにをやらされるかは容易に想像ができた。肝心なのは、それだけの娘をどのようにして連れてきたかということだ。連れてきた者に支払われる代価は莫大なものになるはずで、そこに島田屋が絡んでいるのではないかと畑中は結論付けた。

「新之丞ならやりそうなことだ」

 惣介は畑中に自らの感想を述べた。

「あいつは、女への欲が強い」

 そう口にする惣介の胸を鈍い痛みが襲う。かつて思いを寄せたことがある女の顔がふいに思い出されてきた。

(そういえばあのときも茶屋町だったな)

 惣介は思い出す。惣介と新之丞が青年時代に惚れた女が突如死んだ。病死として届けられたが、惣介は自害だと疑った。女の名はともといったが、その巴恵の葬儀に出たあと、久しぶりに会った三人は文七の提案で茶屋町で飲んだのだ。

(新之丞め)

 今思い出しても、はらわたが煮えくりかえる。巴恵が死ぬ少し前、惣介は新之丞と巴恵が料理茶屋から出てくるのを目にしていた。そこは男と女が体を重ねる部屋も備えているとされる店だった。巴恵は終始うつむき加減だった。青白い顔をして、なにかにおびえるように体を小さくしていた。そして新之丞は、そんな巴恵の肩に手を置き、無理やり歩かせようとしていたのである。

 見てはいけないものを見た、と惣介は思った。なにも声をかけられずに思わず身を隠した。だが、巴恵が死んだと聞いた瞬間、二人が一緒にいた光景が鮮やかに浮かび上がってきたのである。道ならぬおこないがあったのではないか、と思った。それがきっかけで巴恵は思い悩み、死を選んだのだ。そのころ巴恵は、組頭の村岡徳むらおかとく左衛ざえもんの妻になっていた。

 惣介は自分が見たことを新之丞にぶつけた。すると新之丞は、

「お前になにがわかる! 俺の苦しみなど、お前にはなにもわからぬではないか!」

 と怒鳴り返してきた。頭にきた惣介は、新之丞に掴みかかり、殴り飛ばした。

 そこには新之丞に対して抱いていた反感が含まれている。惣介たちには兄のように慕う男がいた。普請組の平藩士から町奉行に異例の出世を遂げたあかたつしんである。仁田道場の先輩である辰之進は、若い者の面倒見がよく、出世してからも特に惣介たち三人を気にかけ、藩の仕組みや藩上層部の人間関係など、これから勤めるうえで知っておかなければならないことを教えてくれた。物腰柔らかく、そのくせ洗練された雰囲気を身にまとう辰之進は強い憧れの対象で、いずれは自分たちが到達すべき目標だと思っていた。辰之進は惣介たちとは六つ違いだった。その辰之進の妹が巴恵である。若い惣介たちは辰之進に相談に乗ってもらうかたわら、巴恵と会うことも楽しんでいた。巴恵はしとやかで顔も整っており、どちらかというと巴恵と話をしたいために辰之進のもとに通っていたようなところがある。惣介たちは赤木家で過ごすひとときを、なによりも大切な青春の一幕ひとまくとして考えていた。だが、そのひとときは、ある事件をきっかけに永遠に取り戻すことができないものになってしまう。新之丞が辰之進を斬ったのだ。辰之進は柳沢と対立する大黒派に属しており、派閥抗争の末、柳沢の勝利が確実になった際に始末されることになったのだ。藩命である。柳沢が藩上層部を押さえてしまった以上、仕方のないことだったのかもしれないが、それでも惣介はすっきりしないものを覚えた。それは、辰之進が死んだすぐ後、普請組勤めだった新之丞が勘定組に移され禄も増やされたからだ。新之丞は出世のために辰之進を斬ったのではないか、その疑いが湧いた。実際、新之丞は、出仕が決まる前から、

「出世のためならなんだってやる」

 とつぶやくことが度々あったのだ。

「お前のせいで巴恵は死んだ!」

 巴恵と辰之進のことを思い出し、怒り狂う惣介を、新之丞は殴り返した。二人は取っ組み合いの喧嘩になり、それは店の者が駆けつけ、町奉行所が動くほどの大騒動になった。文七が体を張ってとめなければ、互いに刀を抜き、斬り合っていたかもしれない。二人は、店で暴れたことで十日間の謹慎を言い渡された。そして、あの日以来、惣介は新之丞と言葉を交わしていない。

「次に藩金の使い込みですが……」

 畑中に言われて惣介は目の前の若者に意識を戻した。目頭をもみながら盃の酒を飲む。今は、感傷に浸っている場合ではない。新之丞の不正を暴く証拠を見つけ、清次郎を救い出すのだ。

「できるだけ詳しく話してくれ」

 惣介は前のめりになって聞いた。

「市原が勘定奉行をしていたとき、ある男が出入金の額が合わないことに気づきました」

 畑中が盃を傾けてから言った。勘定組勤めのその藩士によると、あまりにも額が大きすぎるために、なにかの間違いだろうと調べ直したものの、どこが間違っているのかわからなかった。そこで上役の新之丞に相談したところ、新之丞は帳簿を懐にしまい、

「一度預かろう」

 と言って持って帰ったのだ。その後、十日ほど経ってから帳簿が戻ってきた。そこでは新之丞に渡す前にあったはずの出入金の相違が消えている。不思議に思った藩士が、

「なにがあったのでございましょう」

 と聞くと、新之丞は素知らぬ顔で、

「入金と出金で漏れがあった。こちらで調べ、正しておいたぞ。以後、気を付けるように」

 さらりと答えたのである。そのあまりの自然さに藩士は平伏して謝り、新之丞が直した通りの帳簿で早々に処理を済ませたのである。

(新之丞らしくないな)

 聞いた惣介は唸る。人の目につくところに、そのような間違いを残したままにするだろうか。新之丞は慎重な男だ。剣も守りが得意で、自分の型が崩れることをとにかく嫌う。そんな新之丞が、帳簿という形として残るものに不正の痕跡を残すはずはないように思えた。

「こちらは詳しく調べれば、まだなにか出てくるだろうと思います。今、勘定組に人を入れ、過去の帳簿を探るよう働きかけているところです」

 畑中が鼻の穴を膨らませながら言う。久保派が勘定組をひそかに調べられるほど勢力を伸ばしていることを暗に自慢しているようだ。

「残念だが、それは無駄であろうな」

 惣介は盃に口をつけながら言った。

「どういうわけです?」

「一度、指摘を受けた以上、新之丞がそのまま放置しておくはずがないのだ。人からつつかれるような疑惑が残っていないか、それこそありとあらゆる帳簿を調べ直したに違いない。過去のものから現在に至るまで、自分が勘定奉行ではない時代のものも含めてすべてな。市原新之丞とはそういう男だ」

「ほほう。なるほど」

 畑中が頬を撫でる。赤らんだ顔に幾分感心の色が浮かんでいるように見えた。畑中は、胡坐の膝を直すと、

「それでは、勘定組の調べは中止するよう伝えましょう。我々も、人が限られているのでね。これはよいことを聞きました」

 惣介を正面から見据えた。

「また、年貢の横流しの件ですが……」

 畑中がすぐに次の話題に移ったのは、惣介を信頼し始めた証だろう。先ほどまでにはなかった真剣味が目に宿るようになっている。

「こちらはまだ調べが足りていないのですが……。ただ、郡代をしていたとき、何度か、ある百姓の家に出入りしていたことを突き止めています」

「ある百姓というと?」

「田中林蔵。ご存じですか?」

「豪農だ」

「その田中林蔵の屋敷に深夜、訪れていたみたいです。そこで、年貢の横流しの相談が行われていたのではないかと我々は睨んでおります。そしてそれは実際に行われていました。今のところ見つけたのは、十石とか二十石といった微々たる量ですが……」

「収穫量と比べて納められる年貢が少ない、そのことは聞いている」

 惣介は半年ほど前に奥弥一から受けた相談を思い出す。弥一は百姓が不正をしているかもしれない、と危ぶんでいたが、役人が年貢を横流ししている可能性もないわけではない、と惣介は指摘した。むしろ、そちらの方が可能性は高かった。弱い立場の百姓が、年貢を懐に入れるなど、そんな大それたことをするはずがない。見つかれば一家全員処刑されるのだ。

 だが、今、惣介が注目したのは年貢の横流しではない。郡代時代の新之丞が深夜に林蔵と会っていたということだ。郡代であれば、弥一など勤めに真面目な藩士が代官所に詰めていない日を特定することはたやすい。そのような日を選んで村に入り、なにか秘密の相談を行っていたのではないか、惣介はそう疑っている。

「やはり年貢の横流しはないな」

 考えたあと、惣介は畑中を覗き込むようにして言った。

「十石、二十石ぐらいの米を得たところで、新之丞にとっても、柳沢家老にとっても、たいした利益にはなるまい。そなたらも、それを理由に追及することはできぬはずだ。それぐらいのこと、と一笑に付され、下っ端役人に責任をなすりつけられて終わりだ。むしろ、それらが人の目に留まる証拠として残っていることを俺は疑問に思う。先ほども申した通り、新之丞は誰の目にもわかるような不正をそのままにしておく男ではない。たとえ、どんなに小さくても必ず痕跡は消す。それが残っているとなると……」

 惣介が言うと、畑中は口に持っていきかけた盃を止めて膳に戻した。

「年貢の横流しを隠れ蓑になにか裏で動いていると?」

 惣介は畑中にうなずき、頭の中でひらめいたことを早口に語る。

「横流しとなると、収穫高の正確な把握であったり、帳簿の付け合わせであったりと、実証するためにはそれなりの時がかかる。そなたらも、もっと大掛かりにされていたのではないか、と疑い、さらに人を増やし、探ろうとしているはずだ」

「調査に我々を駆り出させている間に、百姓と共謀して別の不正を働こうという考えですな。……しかし、いったいなんだというのでしょう?」

 惣介は畑中を見返した。なにかが線としてつながっていく感覚を抱いている。今まで清次郎を救うことばかり考えてきたが、新之丞と今回の件を結び付けて考えると、そこには深い陰謀が隠れているのではないか、という気がしてきた。惣介は腕を組み、下を向いて、頭を必死に働かせ始める。

「そういえば、市原中老は……」

 それまでひと言もしゃべらなかった金吾が突如つぶやいた。

「なんだ?」

 惣介と畑中が同時に視線を向けると、金吾はうつむいて目を泳がせ、こめかみを掻いたあと、意を決したように顔を上げた。

「昨夜、市原中老が田中林蔵の屋敷に入るのを見ました」

「なに?」

 惣介が目を見開くと、畑中が惣介と金吾を見比べたあと説明を入れた。

「香芝には、市原中老を見張る役目を与えておるのです」

「して、それはまことか、金吾」

「おひとりだったと思います。家士の平瀬も連れていませんでした」

「ひとり? 中老がひとりで百姓の屋敷に向かったのか?」

「芦田村や山南村の庄屋も参加していたみたいです」

「作造たちも……」

「清次郎に何度か村に連れて行ってもらったことがありました。そのときに見た顔です。親父どのから頼まれた荷物を届けるため、ということで芦田村の庄屋を紹介してもらいました」

 確かに惣介は、清次郎に用を言い付けて村に行かせたことがある。百姓と顔見知りになっておいたほうが、勤めに出始めたとき都合がいいだろう、と考えたからだ。

(かつての俺がそうしたように)

 清次郎は村に友を誘って出かけたようだった。道々、日々の悩みや将来への展望などを語りながら歩いたのだろう。

 そう思うとしんみりとしたが、今は、そんな感傷に浸っている場合ではない。新之丞が林蔵の家に向かったということがなにを意味するのか。柳沢にとって三日後の裁きは自身の浮沈をかけた重大な出来事だろう。久保を追い落として筆頭家老にとどまるか、自らの支配力が弱まっていることを世間にさらすかのどちらかだ。今、柳沢派は、その裁きに向けた準備で忙殺されているはずだ。そのあわただしさの中で、全体の指揮を執らなければならないはずの新之丞が、わざわざお忍びで百姓の家に向かった。どう考えてもおかしいとしか言いようがない。なにか裁きに関することで、百姓と相談をする必要が持ち上がったのだろうか。

「まさか……」

 しばらく考えた惣介は、自分の中で考えが像を結ぶ感覚を得て、言葉を失った。もう一度ゆっくり吟味し、それが間違いではないことを確信すると思わず盃の酒を一息に飲み干す。全身が熱くなった。

「くそっ! 新之丞め!」

 惣介は目を鋭くして盃を叩きつけた。

「どうしたのです?」

 畑中が聞いてくる。だが、惣介は逆に畑中をにらみつけた。

「畑中どの、明日にでも久保さまに取り次いでいただくよう頼みたい」

「なんですか、急に?」

「新之丞の考えが読めた。やつは、百姓たちに一揆を起こさせるつもりだ」

 

(つづく)