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花は、また

 

一

 

 波の音でも聞きながら門の前で待とう、と思っていたのに、集まった人々の声で潮騒はかき消されていた。加瀬惣介は苦笑を浮かべると、詰めかけた人たちをゆっくり見回した。

 みな、期待に胸を高鳴らせている。背伸びをして門の向こうを覗こうとしたり、隣とささやき合いながら小刻みにうなずいたり。澄み渡った秋空の下、人々はきらめくような表情をして、そのときを今か今かと待ちわびている。

 延期になっていた裁きが終わり、ひと月ぶりに息子と再会できるのだ。それぞれの家庭でそれぞれの心配があったことは理解している。彼らもまた眠れぬ日々を過ごし、各々最善だと思う策を講じてきたに違いない。その焦りや苦悩は、実際に息子を牢に入れられた惣介には痛いほどわかる。だからこそ彼らの落ち着かない姿に微笑ましさを感じてしまう。

「少し遅くはございませんか? もしや、出る直前になって突発的なことが起こったのではないでしょうか」

 隣の美津がつぶやいた。胸の前で手を重ね、そわそわと足踏みしている。

「そんなことはあるまい。中でなにか起これば、門番にも知らされるはずだ」

 惣介は開け放った門の中央で棒を地面に立てる三人に顎をしゃくった。その中央の男を見て微笑む。仁田道場の後輩である川口は波御殿で許可なく惣介たちを通したことで上役から謹慎を言い渡された。その後、多部玄庵が藩政を牛耳っていた黒幕だと判明し、すぐに解き放たれることになる。今では、市原中老とひそかにつながりを持つ改革者のひとりだと噂されている。人付き合いが苦手で、どちらかというと孤立しがちだった川口は、今、多くの人からもてはやされ、憧憬のまなざしを向けられている。本人もまんざらでもないらしく門の前に立つ姿は堂々としている。

「よかったな、川口」

 惣介は小声で呼びかけた。それは川口には届かないほど小さいはずだったが、それでもなにかを感じ取ったらしく、川口はこちらに目を向けて軽く会釈した。惣介は川口にうなずき返し、それから妻の美津に語りかけた。

「今さらひっくり返るようなことはあるまい。清次郎は必ず出てくる。裁きはもはや終わったのだ」

「そうですかね……」

「むしろあれだけの騒ぎになったにもかかわらず、ひと月で牢から出されるなど、異例の措置だと言ってよい」

「母としてはひと月でも長く感じましたよ」

「まあ、お前の気持ちもわかるが……」

「……ですが、やはりお前さまの言う通りなのでしょうね」

 少し思案したあと、美津が言った。

「ひと月というのは早いのでしょう、そう思うことにします。このために尽力された方々に対して失礼ですから」

 惣介は笑みを浮かべる。

「裁きが延期になった、と聞いたときは、これでもかというくらい不平を漏らしていたのにな。俺から新之丞に言って早く出してもらえ、そう申したのは誰だ」

「その市原さまのおかげで、こうして今日を迎えることができたのです。感謝しなければなりませぬ」

 惣介は妻の調子のよさに渋面を作る。こうして軽口を叩けるのも、やはり息子との久しぶりの再会が待ちきれないからだ。惣介は頬を緩める。

「新之丞もよく動いたが……。やはり、今回の件は、お上が出てこられたことが大きかったぞ。お上の存在がなければ福備はいまだ混沌のさなかにあった」

 波御殿の一件のあと、福備藩内は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。藩主の叔父で表向きは民から慕われていた玄庵が討たれ、そればかりではなく、筆頭家老の柳沢までとらわれの身となったのだ。藩政を指揮する人物を福備藩は同時に失ったのである。

 柳沢派は柳沢を救い出そうと過激な行動に走り、また、その逆に、いち早く事態を見極め、自分が柳沢のもとで犯していた罪の証拠を隠そうとする者が出た。そこここで斬り合いが生まれた。福備は一時、出歩くのも危険な状況におちいった。

 そうした中、突如、藩主の政通が国元にあらわれたのだ。江戸家老の三浦と共に城に入った政通は、大広間に藩士を集め、たかだかと宣言した。

「叔父御、多部玄庵は、久しく福備の政をわたくしものとしたる国賊なり。この度、それがしが命じ、討ち果たし申した」

 惣介もその場にいた。遠目に見る藩主は、噂で聞いていたように明らかに病人で、やつれていた。それでも初めて目にした福備藩主は神々しかったのである。幕府の老中を長年勤めた実績にたがわぬ迫力を放っていた。

(このお方が俺たちの殿なのだ)

 そのことに感動してしまうほどの存在感があった。

 政通は広間中の藩士に、続けて言った。

「以後の仕置きは中老の市原新之丞、大目付の加賀山清兵衛がそれがしの名代となり取り行う。従わぬ者、不平を洩らす者は、それすなわちそれがしへの反逆とみなす。心得よ」

 藩士たちは弾かれたように背筋を伸ばし、額を畳につけて恭順の意を示した。誰も反対できなかった。藩主直々の言葉だ。

 それから三日ほど藩主政通は福備に滞在した。藩主家一門を集めて会合を開き、それが終わってからは執政と今後について夜遅くまで語り合った。

 そして仕置きが終わると、三浦と共にあわただしく江戸へ帰って行ったのである。

「あとから新之丞に聞いたのだが……」

 惣介は牢屋敷を眺めながら妻に話しかける。

「殿は、清次郎たちがとらえられた際、急ぎ大坂に入られたのだそうだ。なにかあれば駆けつけられるよう大坂で政務をとられていたらしい。だからこそ、あんなにも早く福備に来ることができたのだ」

「……珍しいですね」

 美津が口に手を当てて言う。どことなく華やいで見えるのは、やはり清次郎が牢から出されるからだろう。

「なにが珍しいのだ」

 惣介は首をかしげて美津を見る。

「お前さまがお勤めのことをこんなにもお話しくださるなんて今までなかったように思います。なにかございましても、いつもおひとりで考えられ、動いておられたでしょう?」

「仕方なかろう。勤めのことなど人に軽々しく話すものではない」

「それでも、今日は話されました。話を聞き、私は少し楽しく思えましたよ。そうですよね、雪乃」

 美津は隣に控える雪乃を見た。兄のことをあれだけ心配していたのだ。当然、雪乃も友浦牢に同道している。

「私にはお勤めのことはよくわかりませぬ」

 どこか遠くを眺めていた雪乃は、はっと気づいたように両親に視線を向けた。

「ですが、話をされているお父さまとお母さまは仲良さそうに見えましたよ」

 そういたずらっぽい笑みを浮かべた。

「な……。なにを言う、雪乃」

 娘のませた物言いに慌てる。今さら美津に対して若いころのような思いを抱くことはないはずだったが、いざ言われてみると、気持ちがほぐれるような、胸がくすぐったくなるような、そんな気恥ずかしさを覚えた。

「どのように育てたら、このようなたわけたことを言うようになるのだ」

 惣介がふると、美津は惣介をじっと見据え、やがて全身の力を抜くように息を吐いた。

「お前さまはお変わりになられたのかもしれませぬね。いえ、ひょっとするとその逆なのかもしれませぬ。私のお前さまへの見方が変わったのかもしれません」

「なんなんだ、お前たち、いきなり……」

「今まで、申し訳ございませぬ。今回の清次郎さんの件でつくづく思いました。もっと、お前さまと向き合うべきだったと。それが本来の妻の役目です」

「いや、うむ……」

 まごつく惣介に、美津は思い切ったように口元を引き締めた。

「ひとつだけうれしかったことをお伝えしてよいでしょうか? 白川さまのことです」

「白川? 白川がなぜ今、出てくる」

「お前さまは嫉妬なされました。そして、なにもなかったという私の言葉を信じてくれました。そのことが私にはうれしく思えました」

「雪乃がおるのだぞ」

 雪乃は耳ざとく聞き取ったらしく、

「私は、あちらに参ります。香芝さまがおられますので」

 そう駆けていった。惣介たちと離れた位置に、香芝金吾と佐保が立っている。本来は家族だけがこの場に来ていいということになっていたが、清次郎が牢から出されることを聞いた金吾は、佐保と一緒に行ってもいいか、と相談してきた。惣介は文七を通して加賀山の許可をもらい、同道を認めてもらうことにした。

 そして今、佐保は心配するように門に目を向け、金吾は口を引き結んで立っている。そこに雪乃が合流した。雪乃は清次郎の遊び友だちの金吾と何度か顔を合わせており、話をする程度の関係になっているらしい。

「いらぬことをする」

 惣介はあきれ顔をした。雪乃の振る舞いに困惑を覚えたし、妻と二人きりにされたことに気まずさも感じる。

「白川のことはもうよい。疑った俺が浅はかだった」

 乱暴に言い放つ。美津は惣介を上目づかいで見たあと、くすっと笑みを洩らした。

「ありがとうございました」

「だから、俺は感謝されるようなことはしておらぬ。なにもなかった。それだけだ」

「それでも、ありがとうございました。お前さま」

「むっ……」

 腕を組み、眉をしかめる。だが、美津の柔らかい笑みを見ると、

(これでよかったのだろうな)

 そういう気持ちで満たされる。惣介は鼻から息を吐きだすと、やれやれと首を振った。

 白川のことは、清次郎の裁きが延期になったと伝えられた日、美津から聞かされた。

 美津が言うには、美津と白川は、幼ないころに寺子屋でともに学んでいたそうだ。両替商の次男である白川は学問優秀として評判になり、十八のころに藩費での江戸遊学を認められた。だが、そんな白川もひとりだけ敵わない人物がいた。美津である。美津の秀才ぶりは群を抜いており、知識の深さは底が見えないほどだった。美津は女であるために周りから評価されず、また父が処罰を受けたために学問を続けられなくなった。相当悔しかった、と美津は語る。目の前が闇で閉ざされるのを感じた。だからこそ、自分と同じ寺子屋出身で、学者としての階段を上りつつある白川に夢を託したのだ。白川が江戸での学びを終え、故郷の福備で学塾を開くと聞いたときには胸が高鳴るのを感じた。

「しかし、白川さまの人となりを忘れていました」

 美津は言う。幼少時から人を見下す癖のあった白川は、大人になって高慢さばかりが目立つ男になっていた。清次郎のことであいさつに行ったときも、

「子に教えてほしいと、まさかあなたが頼みにくるとはね。立場は変わるものですなぁ」

 と高らかに笑ったという。美津は嫌悪を抱いたが、江戸帰りの学問を息子に触れさせたいとの思いから、ぐっと感情を飲み込んだ。こうして清次郎は白川塾に通うようになり、白川にそそのかされて久保派にかかわるようになったのだった。

 ちなみにその久保派の頭領久保外記だが、玄庵に接近していたことが公になり、藩主政通が福備に入った折、家老職からの追放と家禄の半減を直接申し渡された。名門の名に傷をつけた久保は、遠戚の子に家を継がせるよう親類縁者から迫られて承諾し、いまは久保家の領地内に庵を建ててひっそりと暮らしているという。また、久保にべったりだった白川は久保と玄庵に入れ知恵していたことが露見し領外追放を言い渡された。その後の行方はようとして知れない。噂で、友浦湊から船に乗ろうとしていた際、船乗りをバカにしたために逆に暴行を受けたところを見た者が十数人いると聞いたことがあったが、もはや惣介にはどうでもいいことだった。白川がどうなったかを気にすることほど無駄なことはない。

「お前さま。清次郎が戻ってきて、少し落ち着いたら……」

 美津が惣介を見て、ささやくように言う。

「湯治にでも行きませぬか。夫婦で」

「おう、それはいい。友浦にはよい湯があるそうだ」

 湊町の友浦だったが、温泉も湧いていた。惣介は特に興味がなかったが湊組の人間が話しているのを聞いたことがある。美津とそこに行くのもなかなか面白そうだ。勤めばかりで、今まで二人で出かけたことなどなかった。初めて行く場所が友浦というのも、どことなくいい。

 門の向こうに人影があらわれた。騒いでいた人々が一斉に静まる。

 牢役人に引き連れられ、とらえられた六人が出てきた。

 最初のひとりが名を呼ばれ、書類を持った役人から何ごとかを伝えられたあと、川口たち門番の横を通って進み出た。たちまち一角から歓声が上がる。口に手を当てて涙する女。腕を横に垂らしてじっと立つ男。解き放たれた若者が目の前まで来ると、途端に女が手を引いた。若者は輪の中に吸い込まれていった。

 次々と出てくる。みな神妙な面持ちをしていたが、家族に招き入れられるとほっとしたような表情を浮かべ、次いで笑顔になった。

 清次郎が最後尾に並んでいる。瞑目するように目を伏せ、自分の番が来るのをじっと待っている。

「清次郎さん……」

 美津はすでに泣いている。惣介は美津の肩に手を置き、力を込めた。

 やがて清次郎だけが残った。清次郎は、先に出た者と同じように役人からなにかを申し渡され、深々と礼をした。それから一歩ずつ、まるでなにかを確かめでもするようにうつむいて進み、門の手前で一度立ち止まった。そこで川口になにかを言われたらしい。清次郎が顔を上げた。惣介にも息子の顔がはっきり見えた。幾分頬のあたりがこけたようだったが、まぎれもなく息子の清次郎である。

(ついに……)

 ついに帰ってきた。

 門から出た清次郎は、振り返り門番たちに礼をした。そして、惣介たちのほうに体を向ける。

「清次郎……」

 惣介が一歩踏み出そうとしたときだ。突如、隣を小柄な影が走り抜けていった。

「清次郎さん!」

 その場でたたずんだ惣介は、佐保が清次郎の胸に飛び込むのを茫然と眺めた。清次郎は佐保を力強く抱きしめ、佐保も佐保で清次郎の胸に顔をうずめている。一瞬あっけに取られた惣介だったが、すぐに苦笑が湧いてきた。武家の男女が人前で抱き合うなど恥ずかしくてみっともないことだった。だが、二人からはきらめくような若さがあふれている。それははしたないどころか、さわやかに映った。

「ふぅ」

 隣から吐息が聞こえる。見ると、妻の美津が、困ったな、という顔で立っている。行儀に厳しい美津だったが、意外にも満ち足りた表情をしていた。美津も、ひとりの青年としての清次郎に、今、出会ったのかもしれない。そうなのだ。清次郎は息子である以前に、ひとりの人間なのだ。今回の件を通して改めて気づかされた事実に、惣介は微笑した。

 いつまでも抱き合う二人に香芝金吾が近づく。金吾は清次郎の前で止まると、自分の感情をどのようにあらわせばいいのかわからないといった様子で立ち尽くした。その金吾の隣に雪乃が歩み寄り、そっと背中に手を置く。

(お?)

 惣介は目を見開いた。雪乃からは金吾に対するいたわりが溢れていた。それは兄の友に対するものではなく、もっと特別な感情が込められているように見える。

(どういうことだ?)

 惣介は眉を寄せたが、頭を振ってそれ以上考えないことにした。若い者には若い者なりの気持ちがあるのだ。それを自分たち大人の頭で理解しようとするのは、野暮なことなのかもしれない。

「よし」

 惣介は妻の肩をたたいた。

「迎えに行くぞ」

 惣介が前に押すと、美津は足を踏み出した。

「そうですね」

 惣介と美津は並んで息子のもとに向かう。金吾と固く手を取り合った清次郎が、近づく二人に気づく。

 惣介と美津は清次郎の前に立った。

 お互いにじっと見つめたまま動かない。

 いくらか時が過ぎた。その間、ずっと波の音が聞こえていた。海風が吹き、陽が陰る。そして、また世界が陽光で満たされた。

「ご迷惑をおかけしました」

「うむ」

 惣介は小さくうなずいた。それ以上、言葉を発することができなかった。なにを喋ってもこの場にはそぐわないのではないか、そんなことを思った。

 だが美津は違った。嗚咽をこぼし、両手で何度も目を拭ってから前に出る。

「清次郎さん……。よくぞ、ご無事で……」

「母上……」

 清次郎が美津の手を取る。しばらく二人は動かなかった。

 そんな親子を惣介は眺める。やがて顔を向けた清次郎と目が合った。惣介は清次郎の視線を受け止め、今度は深くうなずいた。

 息子もまた、うなずき返してきた。

 

(つづく)