(知っていたな)
おそらく久保がそれをつかんでおり、自派の連中に伝えたのだろう。どうやら金吾も久保とかかわりがあるとみてよさそうだった。もっとも、清次郎と仲がよかったと聞いた時点で、その可能性は高いと惣介は思っていたのだが。
「手立てと言われましても、そんなもの私には見当もつきませぬ」
「おい、金吾」
金吾のふてぶてしい態度に、師範の仁田が渋面を作る。
「加瀬は困っておるのだ。息子を助けたい思いで必死だ。お前としても、清次郎を救ってやりたいだろう?」
金吾は惣介を見つめたまま動かなかった。だが、しばらくして、
「ですがやはり、私も詳しくは知らないのです」
と突き放すように言った。仁田が、意味が分からぬ、と溜息をつく。
惣介は金吾を見つめながら、
(こいつ、なにかをしゃべりたがっているな)
直感的に思った。仁田が声をかけても惣介だけを見ているのがその証だという気がした。金吾は、惣介が話をしてよい人物かどうか見定めようとしているのだ。
「香芝金吾どの、だったな」
惣介は腕を垂らし、背筋を伸ばした。
「金吾でよいです。清次郎のお父上ですから」
「いや、その呼び方は、俺がそなたより強いことがはっきりしてからにさせてもらおう。それまでは香芝どのと呼ばせてもらう」
「どういうことですか?」
「手合わせ願いたい」
「え? 手合わせ?」
金吾は目を丸くした。友人の父である中年男が、そのような申し出をしてくるとは思っていなかったようだ。金吾は思わずといった様子で師範の仁田に目を向ける。
「加瀬が勝てば、知っていることをすべて話してもらう、そういう魂胆か?」
仁田が耳に口を近づけて聞いてくる。
「いえ、さにあらず。勝負して、俺が信頼できる人間かどうか判断してもらえれば、というわけです。信頼できないと思えば、俺が勝っても、やはり、なにも伝えてくれなくて結構。別の道を探します」
「剣を通して語り合おうというわけだな。いかにも加瀬らしい」
仁田がふっと息を洩らす。惣介の意図を汲み取り、ふいに昔を思い出したようだった。惣介としては、この方法しか金吾から情報を得る手段を思いつかなかった。妻の美津なら、泣いてすがり同情を買うこともできたかもしれない。だが惣介にはそれは無理だし、やったところで軽蔑されるだけである。であれば、ここは武士らしく自らの覚悟を剣で示すしかない。
「本当によろしいのですか? 怪我をされても知りませぬよ」
中年男の提案に、金吾が目を細める。剣で語るという古武士のようなやり方が若い頭では理解できないのかもしれなかった。あるいは、腹回りに肉がつき始めた中年男を純粋に心配したのかもしれない。惣介は太っているわけではなかったが、さすがに十八の金吾と比べれば、体つきに違いがあらわれている。
「そこまで衰えてはおらぬよ」
惣介は金吾に言った。それでも表情を変えない金吾に、隣から仁田が口を挟む。
「金吾、胸を借りてこい。加瀬は実力者だ。俺が師範代を務めていたとき、ここで次席だった。今、西澤道場の師範をしている西澤又八と御前試合で壮絶な打ち合いをしたことは、城下の語り草となっている」
「それで、どちらが勝ったのですか?」
「むろん、加瀬だ」
聞いて、金吾がわずかながら反応を見せる。目を惣介に戻し、不敵な笑みを浮かべた。
「へえ、そうなんですね」
「もっとも、二十年以上昔のことだ。出仕してのちは一度も稽古に来ておらぬゆえ、加瀬の剣が今どうなっているかは、わしにもわからぬ」
仁田が弁解するように付け加えたが、金吾の耳には届いていないようだ。惣介を見下ろしながら、獲物を狩るような目を浮かべ始める。
「遠慮はいらぬ。全力で参られよ」
惣介は言った。
「よろしくご教授願います」
金吾が頭を下げる。惣介は仁田に礼をしてから、道場の隅に向かった。そこに立てかけてある中から手ごろな竹刀を選び、中央に戻る。仁田が稽古を中断させ、惣介と金吾の立ち合いの場所をあけた。
五
娘の雪乃に給仕をしてもらって夜食を終えた惣介は、早々に自室に戻った。今日一日、城下を歩いて知ったことを整理するためだ。栗山、仁田、金吾と、三人から得た情報を頭の中で組み立てる。
(清次郎が久保さまにかかわりがあったことは事実だ)
そう考え始めた惣介だったが、腹がきゅるきゅると鳴るのを聞いて、思考を中断した。食べたばかりの飯が、胃の腑の中でこなれてきているのかもしれない。惣介は自らの腹をさすったあと、ふと妻の居室を振り返った。
物音ひとつ聞こえなかった。雪乃が言った通り、本当に寝込んだままでいるらしい。
(美津には少し酷だったかもしれぬな)
先ほど給仕を受けながら雪乃から聞いた話を思い出す。美津は昼間、どこかに出かけようとして家を出たらしかった。
気づいたのは雪乃で、どこに行くのか、とたずねたが、美津は口を引き結んだままなにも答えなかったそうだ。さすがに不審に思った雪乃は、自ら下駄をつっかけて母を追いかけたという。
美津は南に向かって歩いた。わき目もふらない母を懸命に追った雪乃だったが、次第に居心地の悪さを覚えるようになったという。人々から白い目で見られているのを感じたためだった。どうやら兄の清次郎がつかまったことと関係していると気づいたのは、見知った人たちが、二人に目を向け、なにやらひそひそ声を交わしているのが耳に入ったからだ。そこには確かに、罪人の家族、という言葉が混ざっていた。雪乃は奥歯を噛みしめながら母のあとに従ったが、一度意識してからは、すれ違う人、みな、自分たちの悪口を言っているように思えてならなくなる。それは母も同じだったようで、美津は進むたび足取りがおぼつかなくなっていった。
そしてついにくずおれてしまったのである。目を見開き、短い呼吸を繰り返しながら、大量の汗を溢れさせる。そこはちょうど、安楽寺という懇意にしている寺の近くで、雪乃は美津を運んで住職に助けを求め、自身は九兵衛を呼びに帰った。その後、九兵衛におぶってもらって家に戻ってからは、美津は再び寝たきりになってしまったそうである。
「お前にも、辛い思いをさせたな」
惣介は雪乃をいたわった。寂しそうに首を振る娘を見て、
(清次郎の無実が証明されない限り、雪乃は苦しみ続けることになる)
そう思った。もし清次郎が処刑されれば、さらに人々は自分たちを遠ざけるようになるだろう。自分はまだ耐えられるが、美津と雪乃は無理かもしれない。特に雪乃である。十六の娘にとって、世間を敵に回すなどあまりに辛いことである。
惣介は目を鋭くして、畳の一点を見つめた。意識を集中させながら、明日しなければならないことを考える。
(まずは、清次郎が通っていた学塾だ)
そこに行けば、畑中六郎についてなにかわかるかもしれない。畑中六郎こそ、久保にたどり着くための重要人物であることを、今日つかんでいた。
惣介は道場で金吾と試合をしたあと畑中のことを伝えられた。金吾との試合は、激しく打ち込んでくる金吾に、最初、押され気味になった惣介だったが、それは久しぶりの立ち合いで感覚にずれがあったからで、勘が戻ってからは一方的になった。三回勝負して、三回とも惣介が勝った。最後の試合など、金吾は手も足も出なかった。惣介の剣は、まださび付いていなかったのである。
試合に負けたあと、金吾の惣介に対する態度は一変した。惣介を信用できる男だと思ったらしく、むしろ進んで近づきたいという意思を示し始めた。惣介は道場の端に金吾と座り、他の門弟の稽古を見ながら、清次郎がやはり久保派に属していたこと、そして、若手の中では畑中だけが久保に会える人物だ、ということを聞かされた。道場を後にした惣介は金吾の案内で、さっそく畑中の家を訪ねた。だが、畑中は留守だった。それどころか、家の中は落ち着きなく、奥からは何やら駆けまわったり怒声が飛んできた。
「なにかあったのか」
応対に出た女中に聞いたが首を振られた。惣介が一朱金を出して握らせると、女中は表情を改め、
「六郎さまの行方がわからなくなったのです」
と打ち明けてくれた。金吾と顔を見合わせた惣介は、
「いつからだ?」
さらに聞いた。女中が言うには、昨日から、とのことだった。惣介はすぐに、清次郎がつかまったこととの関連性を疑ったが、それ以上、女中に聞いてもなにもわからなかった。家の者を出してもらいたいと頼んでも、今はとても無理だ、と、そこだけはかたくなに拒まれる始末だ。仕方なく惣介は、一旦家に帰ることにして、翌日、清次郎が通っていた学塾をたずねることにしよう、と金吾と話し合った。金吾が言うには、畑中は学塾の先輩で、清次郎と金吾は、そこで畑中から久保派に入るよう誘われたのである。以降、久保派の活動に少しずつかかわるようになり、若手の集まりにも参加するようになった。そんな矢先に六人の捕縛事件が発生してしまったのである。
(畑中のことを聞くと同時に……)
清次郎のことも学塾で聞かねばならぬな、と惣介は思っている。今日一日、清次郎を救出する手段がないかを探したが、そこで気づいたのは、清次郎を知ることは清次郎を救うことにつながる、ということだった。
(俺は清次郎のことをなにも知らぬ)
清次郎が何を思い、普段、どのように過ごしていたのか。惣介の想像の外で清次郎は生きているのだ。
自分の中に残っている清次郎は何歳のころだろう、と惣介は記憶の淵を探ってみる。断片的な場面は思い浮かんでくるものの鮮明に思い出せるのは八歳ごろまでさかのぼらなければならなかった。
勤めから帰ってきた惣介を走って出迎えにきた清次郎。
庭の木に枝を垂らして竹刀で打つ清次郎。
人は死ぬとどうなるのでしょう、と泣きながらたずねてきた清次郎。
思い起こされるのは、幼い頃の清次郎ばかりである。
(結局、勤め中心の人生になっていたか)
自分の勤めには意味があると思っていた。たくさんの民を救うことになる、そう信じていた。それがいずれ藩のためになるのだ、と息巻いていた。
だが、それに自分は酔っていただけなのかもしれない。百姓と懇意にすることで、ほかの藩士とは違う特異な自分になれるのではないかと考えていただけのような気がする。そうして、自分で自分に価値を見いだそうとしていたのだ。
(俺の人生、振り返ってみれば……)
なにも残っていないな。惣介はこめかみを掻く。郡奉行から外され、家族のこともまるでわからない状態で四十を超えた。自分とはいったい何者なのか、その手ごたえがまったく得られなくなっている。
だが、それでも探らなければならないのだ。人から白い目で見られても、無様だと思われても、清次郎を救い出すために歩き回らなければならない。
(それをしなければ、本当になにもない人間になってしまう)
清次郎を救い出すことは惣介にとって、自らの人生になにかしら意味を持たせられる最後の機会になるかもしれなかった。そんな予感がふつふつと胸の内で湧いているのだ。
「まずは学塾だ。畑中の居場所を突き止め、それから久保さまに会う段取りをつけてもらう」
惣介は裁きの日まであと四日しかないことに焦りを覚えながら、外が白み始めるまでまんじりともせずに過ごした。
学塾
一
白川塾は、この日、ちょうど講義が休みらしかった。師匠の白川をたずねた加瀬惣介は、応対に出た娘に、
「先生は今、出かけております。すぐ戻られると思いますので、少々お待ちください」
と奥の部屋に案内された。惣介は、
「申し訳ないが、講義部屋をのぞかせてはくれぬか」
そう頼んだ。そこに行けば、清次郎のことをなにか知ることができるのではないか、と思った。
だが娘とともに部屋に入って感じたのは、息子のことではなく懐かしさだった。整然と並んだ机。紙と墨の匂い。窓から差し込む朝陽。惣介が通っていたのは白川塾ではなく、もう少し規模の大きい私塾だったが、講義部屋はどこも似たり寄ったりのようだ。
(俺は、なじめなかったな)
しんと静まり返った講義部屋で惣介は思う。惣介、市原新之丞、森山文七。一緒にいた三人の中で学問に最も熱心だったのは新之丞だ。頭の回転が速い新之丞は、講義の最中も師匠に積極的に質問し、成績も一等だった。一方の惣介はまったく興味がわかず、講義の間、紙に水で絵を描いたり、あくびを噛み殺したりして過ごしていた。文七も似たり寄ったりだ。二人はちょっかいを出し合っては忍び笑いを洩らすなど、講義の堅苦しい雰囲気を崩す役目ばかり引き受けていた。仁田道場では惣介と新之丞の実力は伯仲していたが、学問の方では新之丞がはるかに先へと進んでいた。
(そこが、今の役職の差にあらわれているのかもしれぬな)
新之丞が派閥内で力を持ち、中老にまで出世したのは学問好きなことも影響したようだ。組織の中では、剣術よりも知識のほうが優先される。新之丞は新しい知識を取り入れることがとにかく好きな男だった。
惣介が机を撫でたり、論語をぱらぱらとめくったりしていると、
「やあ、お待たせいたしました」
若い声が背中にぶつかってきた。振り返ると、色白の男が立っている。齢は三十前半くらいだろうか。小柄で痩せた男はいかにもひ弱そうに見えたが、そのくせ吊り上がった目には異様な力がこもっていた。
(確か、江戸で学んでいたといったな)
惣介は息子の師匠の経歴を思い出す。十七歳で秀才ぶりが認められて江戸に行き、そこで何人かの高名な儒学者のもとで学んでから、七、八年ほど前に福備に戻って学塾を開いたと聞いている。
男は、
「加瀬どのですな。私は、白川蘭堂と申します」
言いながら惣介に近づいた。
「勝手に部屋を見させてもらって申し訳ない」
惣介は向きなおって謝罪した。
「いえ、構わんのです。見られて困るようなものなどありませんし。むしろ、加瀬どのにはこの部屋をぜひとも見てもらいたかった。清次郎がどのような場所で学ばれているのか。清次郎は同年でもかなり進んでいましたから」
「それは白川どのの教えがよろしいからでしょう」
「そうかもしれないし、そうではないかもしれない。いくら教えてもだめな人間はやはりだめです。その点、清次郎はよく学ぶ。いつも一番前に座って、熱心に私の講義を聞いておりました」
惣介は少しだけ眉をひそめた。だめな人間という言葉が、自分に向けられているように聞こえたのは気のせいだろうか。もちろん、白川にそのような狙いなどあろうはずがない。だが、白川のしゃべり方には、どことなく人を見下すようなところがある。まるで、自分だけが正しいといった様子だ。
「その清次郎のことで、今日は、うかがったのです」
惣介は本題を切り出した。
「そうでしょう。私も加瀬どのに聞いてもらいたいことがございました。さ、ここではなんですから、こちらへ」
奥の六畳に通されると、先ほどの娘がやってきて、湯呑をそれぞれの前に置いて出ていった。白川は、音を立てて茶をすすり、
「清次郎がつかまったのは久保派に属していたからです」
いきなり、核心を述べてきた。
「その久保派のことですが、清次郎はこの塾に通っている者から誘われたと、そう聞きました」
白川の隠し立てのない様子に、惣介も聞きたかったことをそのまま口にした。
「私が誘いました」
「え? 貴公が?」
「先ほども申しましたが、清次郎は優秀でした。真綿が水を吸うように、教えたことを理解しました。親に似たのでしょうな」
「いえ、拙者は……」
惣介が手を出すと、白川はじっと惣介に視線を注いだ後、とにかく、と続けた。
「将来、藩にとって必要になる人材だと思いました。だからこそ、久保派に入れ、と言ったのです。もちろんいきなりというわけではございません。久保外記さまが今の閉塞した藩政を覆してくれる唯一の人物であることを教えながらです。そこらへんは、畑中にやらせました」
惣介はやはり目の前の学者風の男が好きになれない、と思った。清次郎がつかまったのは久保派に誘った白川のせいではないか。それなのに白川は、自慢話でもするように意気揚々と語ってくる。本来なら、謝罪のひとつくらいあってもいいはずなのに、そんな態度はおくびにも出さない。惣介は怒鳴り散らしてやりたい思いに襲われたが、畑中の名前が出たため、ぐっと気持ちをおさえ込んだ。今は、清次郎につながることはどんなことでも知らなければならない。
「畑中というのは、勘定組に勤めている畑中六郎のことですな。その者が、一昨日から、家に帰っていないと聞いたが」
「そこまで、調べておられたか。これは感心、感心」
ぞんざいな口調になった惣介を気にも留めずに、白川は快活に笑いながら茶を飲んだ。しかし、飲み終わって惣介に向けてきた目は鋭かった。
「さよう。畑中は今、行方知れずということにしています。ですが、実際はあるところにかくまっております」
「かくまう? なにか、人に狙われるようなことでもされたか?」
「一昨日の襲撃事件。柳沢が狙っていたのは畑中です」
「畑中を?」
「畑中は直前に察知して逃げました。清次郎たちは、畑中を逃がすために、少しだけ抵抗したようです」
「それでは清次郎は、まるで捨て駒ではないか」
「ですが、あなたが動かれた。ほかの親はまるでだめです。沙汰を待ち続ける者。覚悟を決めた風をよそおう者。そうした親たちの臆病さ、軟弱さが若い連中を久保派に走らせる原因となっているというのに、結局なにもわかっていないのです」
「そんなことはない。彼らも、今、苦しんでおるはずだ」
惣介は言いながら、捕まったほかの五人の家族に会いに行くのもひとつの手だな、と初めて気がついた。
「それはそうかもしれません」
白川は小バカにしたように鼻で笑うと、惣介に向かって膝を乗り出した。
「とにかく、あなたが動かれたということが我々にとっては重要なのです。加瀬どのは、市原中老と過去いろいろあったでしょう? 郡代の席を横から奪われたのですから、憎々しさは相当なものがおありのはずだ」
「なぜ、それを知っている」
「派閥に加えようとしたのです、ご子息を。身辺をあらかじめ探っておくことは、これからの藩政を担う者として、当然の行いでしょう」
白川は再びニヤリと笑った。
(こちらは息子を助けなければと気が急いているのに……)
いちいち癇に障るしゃべり方をしやがる。そう思いながらも惣介は歯ぎしりをおさえた。白川には聞くべきことが山ほどあるのだ。
「俺が動いたことが、どうして久保派にとって重要なのだ」
惣介は深呼吸をしてから言った。
「すでに言いましたでしょう? あなたは市原に恨みがあります。市原といえば柳沢の懐刀。柳沢は人に取り入ったり、弱みを握ったりすることは得意ですが、政治の方はからっきしだめです。そこに市原が加わったことで、苦手な部分を担わせることができ、柳沢はさらに勢力を拡大しました。ま、そうした柳沢のもとだからこそ市原も出世できたのでしょうな。普請組四十石から中老というのは、まるでおとぎ話の世界です」
「つくづくおしゃべりがお好きなようだ。すでに言った、とかなんとか言っておきながら、まったく俺の質問には答えておらぬ」
「あぁ、これは失礼。私としては答えているつもりでいたのです。加瀬どのにはなかなか理解できませぬかな」
白川はくっくっと笑った。惣介は白川をじっと睨んだ。
「つまり、あれです。あなたなら市原を調べずにはおられないだろうと思ったのです。なんでも直情的に動いてしまうあなたならね」
「俺の性格まで探ったか」
「まぁ、そんなにかっかなさらずに。我々としては、あなたが市原を調べる中で、柳沢のことでなにか弱みを見つけられるかもしれない、と思ったのです。市原と柳沢はいわば一蓮托生ですからな。昔なじみのあなただからこそ、気づくなにかがあるのではないか、と。私を訪ねてくるのは、想像していたより早かったですがね」
「俺を泳がしていた。そういうわけだな」
「あなたを買っているのです。こう見えて我々は、あなたを評価している。どこの派閥にも属さず、郡代に手が届くところまで昇られた。勤めでも、百姓をたぶらかし、農政で影響力を持つようになっていた。既存勢力である執政衆に公然と異を唱えることができる度胸もたいしたものです。結果、農政からはずされてしまいましたが、我々が藩政を握ったあかつきには、清次郎を通して加瀬どのを自派に引き入れ、農政の場に戻っていただきたいと考えていました」
「俺を農政に?」
「ま、いずれにしろ、市原のことで調べたことを我々に話していただきたいのです。それが柳沢の弱点につながることなら、久保さまはそれをもって清次郎たちを助けるために動かれましょう」
「どうやら白川どのは久保さまとずいぶん近しい間柄だとお見受けいたす。どうだろう。久保さまに一度お目通り願いたいのだが」
惣介が態度を改めて言うと、白川は天井の方を見たあと、いや、と言った。
「もう少し動いてもらいましょう。それが我々の望みです。なに、いざとなれば会われると思いますよ、久保さまは。清次郎たちを失えば、我々としても困るのですから」
「では、清次郎たちは助かるのだな」
「ですが、いつ動くかはわかりませぬ」
前のめりになった惣介に、白川が手のひらを突きつける。
「清次郎たちが拷問を受け、ありもしないことを吐き出す直前になるかもしれませぬ。もしくは、あくまで罪を認めないという気概を見せてくれるなら、そのまま放っておくことも考えられます。久保さまも、柳沢との交渉には、相当な覚悟を持って臨まなければなりませぬからな。あなたが新たな証拠を見つけてくれるのであれば、それらを交渉の材料に使うつもりです。私たちが汗をかいて集めたものではないですしね。渡すにしても、それほど心は痛みませぬ」
はっはっは、と笑う白川を見て、やはりこいつはいけ好かないな、と惣介は思った。だが、これ以上なにを言っても、白川には通じないのだ。最初からそんな雰囲気があったが、今、それを確信している。白川は自分より頭が悪いと思っている人間の言葉など聞く気がない。
「で、俺はなにをすればよい。証拠を集めろと言われても、どこから手をつければよいか教えてもらわなければ困るぞ」
「市原のことを探ってこられたのでしょう? まずは、そこまでのことをお聞かせください」
「いや、俺は清次郎が普段なにをしていたかを探っていた。そこから、久保さまにたどり着けるなにかが見つかるのではないかと考えてな」
「え? 市原ではなく清次郎を?」
「まだ、事件から二日しか経っておらぬ。市原中老のことまでは、正直、頭が回っていなかった」
「はあ、そうですか。それはそれは……」
白川は心底意外だといった表情を浮かべている。
(見張られていたか)
白川を見て、惣介は思う。清次郎たちがつかまったことで久保派でも急遽集まりを開いたに違いなかった。そこで、捕縛された者の親に惣介がいることに気づき自由に動いてもらおうという意見が出たのだ。見張りをつけたのはおそらく昨日あたりからだろう。見張られていることに気づかなかったことは情けなかったが、突然の出来事で気が動転していたため仕方がなかったと納得する。それよりも惣介が向かった先が大事だった。元郡代の栗山の屋敷と、清次郎が通っていた仁田道場である。栗山は情報通ということで知られており、そこで市原新之丞のことでなにかを聞いた、と白川たちは考えたのだろう。また、仁田道場はかつて惣介と新之丞がともに通った場所だ。さらに、現在の師範は惣介と新之丞の兄弟子に当たる仁田馬之助である。新之丞の近況を聞きだしたと考えたとしても不思議ではない。