五
巴恵が死んだという知らせが届いたのは十日後のことだった。どういう経緯で死んだのかは伝えられなかった。だが、平瀬の妻であるおるいは自裁だと断じた。おるいは新之丞を激しくなじった。
「巴恵さんが、私に市原さまのことを語られた意味がわからぬのですか! 村岡さまではなく、市原さまのことを、私に語ったのです。その思いがどうしてわからないのです!」
新之丞から音が消えた。いや、少し違う。耳の奥で低い音が鳴り、それがうるさくて、あらゆるものを聞きとれなくしているのだ。
新之丞は自分でもなにをしているのかわからないまま数日を過ごした。勤めにも出ず家に閉じこもって過ごしたが、なぜか気づいたときには巴恵の葬儀に参列していた。
巴恵は病死として扱われた。村岡が沈痛な面持ちで喪主を務めていることが印象に残った。新之丞があらわれたことに葬儀の場はざわついた。巴恵の兄の赤木辰之進を斬ったことは家中周知の事実である。その妹の葬儀にあらわれた新之丞の神経が理解できなかったようだ。新之丞は好奇の目を向けられたし、非難めいたこともささやかれた。だが、それら周囲の喧騒は新之丞に届かなかった。新之丞は淡々と焼香を済ませ、いつの間にか家路についていた。冷淡とも取れるその態度に、弔問客たちは黙り込んだと後から聞いた。
とぼとぼと家に向かって歩く新之丞を仁田道場で一緒だった森山文七が呼び止めた。文七は、久しぶりに三人そろったのだから、と茶屋町に誘った。惣介も一緒だった。新之丞は古ぼけた料理茶屋に連れていかれ、そこで注がれるまま酒を飲んだ。
飲んでいるうち、理不尽さと空虚さを覚えた。
(どうしてこんなことになったのだ)
巴恵を失った事実に、心の臓をえぐり取られたような気持ちを抱く。底のない絶望が新之丞を苛み続けた。
だが、惣介に絡まれたことで絶望は怒りに変わった。権力だとか、身分だとか、そうしたものに対する怒りだ。
「お前が巴恵を殺したのだ」
惣介が言う。胸倉をつかんだ惣介は支離滅裂なことを喚き続けていたが、それはつまり、新之丞が巴恵をそそのかし、それを苦にした巴恵が命を断った、ということらしかった。
勘違いも甚だしかった。惣介になにがわかる、と思った。だが、
「お前が巴恵を殺したのだ」
という言葉には言い返すことができなかった。
そこは確かに間違いではないのだ。
(平瀬の妻も言っていた)
あなたのために自裁したのです。どうして巴恵さんの気持ちをわかってやらなかったのですか!
(あぁ、そうだ)
確かに俺が巴恵を殺したのだ。
気づいたときには飛びかかっていた。惣介の頬を殴った。倒れた惣介が、すぐにやり返してきた。二人はひたすら殴り合った。店の客が何人も駆けつけるほどの騒ぎになった。殴ることしか、この怒りをおさめる術はない、と思った。
二人は文七の制止を振り切って殴り合い、それでも止めに入った文七によって、ようやく分けられた。
新之丞はそのまま店を出た。
憤怒はまったくおさまっておらず、体の底のほうで怨嗟に変わっていくことをはっきりと感じた。
翌日、新之丞は平瀬家を訪れた。平瀬は在宅で、
「奥方に会わせてくれ」
と頼むと、なにも言わずに中へ招き入れてくれた。平瀬は、自分は聞かない方がいいと思ったのか、ふらりと外に出ていった。
新之丞は、巴恵の身に起こったことを聞いた。おるいにとっても苦しい過去だったろうが、それでも打ち明けてくれた。
まさに地獄だった。
あまりのおぞましさに何度も嘔吐をもよおした。
新之丞は、おるいたちが連れていかれた場所の名を聞いた。
おるいは苦しそうに話してくれた。
新之丞は、目を閉じ、うめいた。そのときになって、はじめて涙がこぼれた。涙が流れるたび、巴恵を傷つけているような気持ちになった。
(許してはならぬ)
おるいが話してくれた場所。それは、赤木辰之進と交わした約束につながっていた。絶対に俺の手で仇を取ってやる。それを成し遂げるためにこそ、この命は使わなければならない。
新之丞は自分の人生が真っ黒に塗りつぶされていくのを感じた。だがそれは、新之丞がもっとも望む色だった。
「うぁああああ!」
腹の底から叫ぶ。
おるいは涙を流したままうつむいている。新之丞はおるいの前で叫び続ける。
「うぁあああ! くそっ! くそっ!」
畳を力の限り殴る。拳から血が滲み、畳に赤いしみができた。それを見て決意する。
俺は光のけっして当たらない漆黒の闇を進み続けるのだ。
どんなことでもしてみせる。鬼に魂を食われてもかまわない。
目をつり上げた新之丞は、
「巴恵」
無意識に呼んだ。目の前にあらわれた巴恵は、最後に会ったときに見せた悲しげな表情をしていた。
復讐のために
一
「それが巴恵の件の真相か」
惣介がつぶやく。芦田村を抜けた三人は高田川沿いを進んでいた。どことなく見覚えのある景色だな、と思っていると、そこはいつか百姓を殴りつける柳沢の家士を惣介がとめた川原だった。
(あの日からなにもかもが始まったのだな)
先ほど柳沢をとらえることに成功した。あの日、一緒にいた惣介と文七と共に成し遂げたのだ。そんな偶然ともいえる巡り合わせに、新之丞は運命を感じる。
「俺はずっと勘違いをしてきた」
惣介が絞り出すようにして言った。新之丞は立ち尽くす惣介を振り返ると、小さく、
「いや」
と答える。
「お前は間違っていなかった。あのときのお前の言葉のおかげで、俺は俺の罪を知ることができた」
「新之丞に罪などない。むしろ、ただひとり巴恵を助けようとした」
「だが、助からなかった。助けられる命を助けなかったことは、やはり罪だ」
「どうして抱え込む」
「生きていけなかったからだ」
川のほうに目を移す。揺らめく水面が空を移している。その鮮烈な青に新之丞は目を細めた。一瞬、蝶のひらめきが見えた気がしたが、それは幻だった。蝶はどこにもいない。
「俺は自分のことが嫌いになった。この世に絶望もした。そのくせ死ぬわけにはいかなかった。なぜかそのことだけは理解していた。復讐を果たすまで死ねぬのだ。俺がケリをつける。その一念で今日まで生きることができた」
「ひとりでなければならなかったのか?」
「お前に言えば甘えが出る。惣介は俺が躊躇するようなことでも、かまわず飛び込んでいく。誘えば惣介に頼ることになる。俺は復讐に燃える心をずっと感じていたかった。ひとりでやりたかった。……ま、結局は今日、お前たちの力を借りることになってしまったがな」
「俺はお前を殴った。すまなかった」
うつむいたまま惣介が言う。新之丞は目を見開いたあと、苦笑交じりに首を振った。何年前のことを言っているのだ、そう思った。
「俺も殴った。あいこだ」
「いや、俺のほうが悪い」
「お前がそう言うなら仕方がない。許す。さ、これで終わりだ」
惣介は勢いよく顔を上げた。
「新之丞、俺を殴れ。でなければ俺の気が済まぬ」
「は? どうして殴らなければならぬ」
「先に手を出したのは俺だ。事情をまったく知らずに殴った。お前に殴ってもらわなければ、俺は俺を許せぬ」
「二十年も昔のことだ」
「そんなこと関係ない。過ちはいくら時を経ても消えぬ」
「……過ちはいくら時を経ても消えぬ、か」
新之丞は拳を握って惣介に近づいた。文七が慌てて駆け寄る。
「おい、本当に殴るのか」
新之丞はどちらにするか迷っていた。殴る必要などないと思った。だが、ここで殴らなければ惣介は納得しないだろう。まだ、やるべきことがある。柳沢をとらえた今だからこそ、向かわなければならない、あの場所に。
惣介の目の前に進んだ新之丞はふと思い立って拳をおろした。その手で惣介の腕を取り、
「それならば……」
と呼びかける。
「すべてが終わったあと道場で立ち合ってくれ」
きょとんとする惣介に新之丞は言う。
「俺はお前に負けたきりだ。あれ以来、立ち合いをすることができなかった。その負けを取り返したい」
「あれ以来? あれというのは奉納試合のときか?」
新之丞はうなずく。辰之進と巴恵が引っ越したあと、仁田道場と西澤道場による奉納試合が行われた。その選手に選ばれた惣介と新之丞は立ち合い稽古をして試合に備えていた。
新之丞は巴恵が嫁に行った喪失感を埋めるために剣に打ち込んだ。そして、惣介は西澤道場始まって以来の遣い手と称される山口又八に勝つために励んでいた。
その稽古の成果が出たのか、試合では新之丞も惣介も勝ちを手にしたのだったが、その前の稽古で新之丞は惣介に完膚なきまでに敗れていたのである。
今まで見たこともなかった剣を使われた。深く沈んだ姿勢から天に伸びあがるようにして放たれる突きだ。惣介も無意識に繰り出した技だったようで、一応「飛龍」という名をつけたが、その後は試合で使うことはなく、惣介自身も使おうとはしなかった。あのとき、新之丞は胸を突かれて呼吸ができなくなり、その胸の怪我の回復に結構なときを要したために、以後の稽古は休んだのだった。
一時は奉納試合への参加も危ぶまれたが、ぶっつけで臨んだ試合ではなんとか勝ちをおさめることができた。対戦相手は平瀬忠吾だった。それからしばらくして、新之丞と惣介は出仕が決まり、立ち合い稽古をするどころではなくなった。特に新之丞は出仕してから勤めにのめり込み、道場に通うことはなくなった。
「俺は惣介と立ち合いたい。なんとなくそれで、すべて済む気がする」
新之丞が言うと、惣介は真意を確かめるようにじっと視線を注いだ。新之丞は表情を変えずに見返す。惣介を納得させるために咄嗟に思いついた詭弁だったが、惣介と向き合っていると、本当に立ち合いたい、と思い始めた。あのころの二人に戻って剣をかわし、それをもって幕引きを図ってもいいのではないか。それがこの人生の終着点になる。
(惣介に業を背負わせすぎるな)
新之丞は寂しげに頬を緩めた。それを見た惣介はなにかを感じたらしく、
「わかった」
と答えた。
「であれば急ぐぞ。早く新之丞と立ち合いたい」
まるで立ち合いをするために、今、自分たちは進んでいるといった様子だ。惣介は新之丞と文七のあいだを通って先頭に立ち、ずんずん前を目指し始める。
「城下に向かえばいいのだな」
背中越しに惣介が問いかけてくる。
「正確には城下の北外れだ。荒寺がある。わかるか?」
新之丞が声をかけると、
「わかる。そこは郷方組の管轄だ。何度も行き来している」
「まったく。いくつになっても思いついたらすぐ動く」
文七が遠ざかる惣介を眺めながら言う。
「だが、頼もしい。あいつと一緒にいると、結局はなんとかなるんじゃないかという気になる」
新之丞は惣介の背中をじっと見ながら言った。実際、大一番に臨む前の緊張を感じなくなっている。代わりに全身を満たすのは、ようやく仇を取ることができそうだ、という安堵にも似た思いだった。
「俺からしたら新之丞もじゅうぶん頼もしいけどな」
文七が鼻の下を指でこする。
「巴恵のことは確かに辛かった。そのことはわかる。だが、本当にその無念を晴らすためだけに中老まで出世してしまった。誰にも真の目的を悟られずにな。ほかの者ならけっして成し遂げることはできなかったはずだ」
「先ほども惣介に言ったが、俺にはそれしかなかった。復讐を果たすためにあらゆるものを捧げる。そうなることを俺は望んだ。それこそが人生だった」
「お前も、しんどい思いをしたはずだがな」
「巴恵のほうが苦しんだ。俺のことなどどうでもよい」
「そうか」
表情を硬くする文七と共に、すでに小さくなりつつある惣介を追って駆ける。この道の果てに俺たちは行くのだ、と思った。
二
巴恵の死後、新之丞は勘定組の勤めだけではなく、派閥の活動にも奔走した。
派閥の長は柳沢作兵衛である。柳沢派の金を作る役割を担った新之丞は、その間、不正な金を生み出してきた。友浦の島田屋など特定の商人に力を持たせたのもそのひとつだ。新之丞はまったく罪の意識を感じなかった。すべては柳沢を喜ばせるためだ。藩政の頂点に立つ筆頭家老から信頼を得て、執政に名を連ねない限り、復讐を果たすことはかなわない。巴恵の無念を晴らすためなら、どんなことだってするつもりだった。
勘定組に勤めて五年が過ぎた。その冬に父が死んだ。病を得たとのことだった。父が床に伏してからも顔を見せることはなかった。その暇がなかったし、なにより父を軽侮していた。なにも知らずに最後まで武士身分に胡坐をかいてのうのうと生きた父。正直、苛立ちを覚えていた。父の死に際に立ち会う必要はないと思ったし、実際に父が死んでからも感情の揺れはほとんど生じなかった。明くる日にはまた勤めに出て働き出していた。
そんな新之丞の働きぶりは柳沢に評価された。個人的な会合の席にも呼ばれるようになり、金策の話だけではなく派閥の中枢に関することも相談されるようになる。まさに望んだとおりだ。過去の文献を調べては策を献じ、それをことごとくうまく運ばせるよう尽力した。新之丞の派閥内での立ち位置は日増しに上がっていった。
母が死んだ次の日も勤めに出た。さらに四年が過ぎていた。柳沢は年が明けてすぐに新之丞を勘定奉行助役に昇進させた。いよいよ勘定奉行に手が届くところまできたのだ。勘定奉行に昇れば柳沢派のために、より大胆に金を使っていくことができる。それは新之丞の出世に強く結びついていくであろう。
このころ勘定奉行には中立の立場の田島五郎右衛門がついていた。筆頭家老を勤めているのは柳沢だったが藩士のすべてが柳沢になびいているわけではなく、執政の中にも柳沢と距離を置く者が何人かいた。それらを追い落とすために柳沢は権謀術数を駆使しているのだが、ひとりを失脚させても、また別の者があらわれるといった具合で、逆にやりすぎると、味方だと思っていた者までも、反発を示すということがあった。執政たちのあいだでは常に微妙な駆け引きが行われているようだった。
勘定奉行助役になってからというもの、新之丞は田島を取り除くことばかり考えた。反柳沢派の連中にとって、勘定奉行の田島が最後の砦である。柳沢のやりたいようにさせないためにも勘定奉行の役職だけはおさえておく必要があるらしかった。
新之丞は田島を失脚させるために、勤めで間違いを犯していないかを入念に調べ、家族や下僕までも調べさせた。だが、田島は謹厳実直を地で行くような男で、問題になるような過失は見当たらなかった。家族への教育もしっかりしていた。どの方面から攻めても田島を失脚させることは難しそうだった。
ただ、田島が交友している中に、気になる男がいた。そのことを知った新之丞は、自分の中で、まがまがしい憎悪が渦巻くのを感じた。
村岡徳左衛門。田島が交友する者たちの中に巴恵の夫がいた。
かつて大黒派に属して組頭を勤めた村岡は、大黒が失脚するやいなや柳沢派に乗り換え、今も組頭の地位におさまっている。お世辞にも優秀とは言えない村岡は柳沢派の中ではそれほど重きを置かれていなかったが、そのことが村岡には不満なようで、なんとか柳沢の機嫌を取ろうと贈物や接待を繰り返していた。
新之丞はそんな村岡に目を向けないようにしてきた。
意識すれば、冷静ではいられなくなる。
巴恵を献上した男だ。
その村岡がどうしてのうのうと生きているのか。
新之丞はどうにか怒りを抑えつけてきた。すべては復讐のためだ。
柳沢はしきりとつきまとってくる村岡を煩わしく思っていた。柳沢に仕える新之丞はそのことを察し、村岡を罠にかけることを提案した。今まで柳沢派が行ってきた商人との癒着、藩金の使い込みをすべて村岡に押し付け、その会計を田島五郎右衛門が担っていたことにしようと伝えたのだ。
柳沢は即座に採用した。勘定奉行から田島を外すだけでなく、自分の過去を精算できる機会が巡ってきたのだ。飛びつかない手はない。
新之丞は田島と村岡をはめる工作に三年の時を費やした。村岡のほうはどうにでもなったが、田島がやはり堅牢だった。田島に罪を着せる証拠作りがうまく行かなければ、この計略は意味をなさない。田島はかたくななまでに清廉な男だった。
それでも知己にしている商人を使って、繰り返し田島に接近をこころみ、ついに、いくらかの金のやり取りをさせることができた。田島の息子の嫁に渡したのだった。その報告を受けるや、村岡と田島に黒い関係があるのではないかという噂を広めた。その噂は簡単に信じられ、二人がつるんで横領に手を染めていたことは紛れもない事実と思われるようになった。拷問の末、村岡は無実の罪を認め、田島も言い逃れができないことを悟り、切腹を願い出た。
村岡は切腹を言い渡された。一方で田島は願いを入れられることなく、多部家の分家筋である上総の小藩に追われることとなった。今後、田島家の人間は、武士身分を捨て、周りに頼るべき者がいない状態で生きていかなければならないのだ。ある意味、切腹よりも過酷な刑だった。
田島を罪人にしたてあげたことに新之丞はなにも感じなかった。それよりも村岡に復讐を果たせたこと、そして勘定奉行へ昇進できる喜びを大きく感じた。新之丞は田島のことは目的を果たすためには必要な犠牲だったと割り切っていた。
その後も実績を重ねていくうち、新之丞は、
「柳沢家老の懐刀」
と呼ばれるようになった。
新之丞は恐れられると同時に頼りにされた。新之丞であればどんな難題も解決してくれると信じられた。新之丞におもねる執政が増え、なにかことをなすときは、まず市原新之丞に相談するというのが当たり前になった。新之丞はだいたいのことを望みどおり片づけた。藩政を陰から動かしているのは市原新之丞だと噂されるまで、そう時はかからなかった。
三
さらに五年が過ぎた。そのころ福備藩全域を豪雨が襲った。新之丞が四十の年である。高田川が決壊し田畑が流され、城下北の村々は壊滅的被害を被った。重い年貢を課せられている中、なにもかもを飲み込む濁流は百姓の生きる望みも流したようだった。
芦田村を中心とした周辺の村々が立ちあがった。今までさんざん虐げられてきた怒りが一揆につながったのだ。
藩は芦田村周辺を担当する郡奉行の宮下源九郎と、かつて担当していて、現在は領内西の郡奉行についている加瀬惣介を説得役として派遣することを決めた。
新之丞は惣介が一揆鎮圧に向かったと聞いて、驚いた。
それこそ暴れ川に立ち向かうようなものだ、と思った。
同時に憂慮を感じた。自分の人生に惣介が飛び込んできたことに胸がざわついたのだ。
惣介だけは藩政のごたごたに関わらせたくない、と思っていた。郷方組として勤めるうち、百姓の肩ばかり持つ偏屈な人間に変わってしまったと聞いたが、それも惣介らしい、と思えた。惣介は出仕する前から百姓に同情的な男だった。惣介の父の影響もあっただろう、それでも新之丞は惣介を、すごい、と思っていたのである。人を身分や立場に縛られずに見ることができるのは惣介らしかった。茶屋町で殴り合いの喧嘩をしたが惣介を恨んでいなかった。むしろ、よく殴らせてくれた、と思っていた。あのままひとりで抱えていたら、それこそ突拍子もない行動に出ていたかもしれないのだ。
一方で、その後のひとりで戦う日々の中、惣介が一緒にいてくれれば、と思う日もあった。惣介が隣にいてくれたなら、どれほど心が励まされるか知れないのだ。だが、新之丞はその思いを抑え込んだ。惣介がいては、目的が達せられる前に露見してしまう恐れがある。敵は藩を自在に操れる男だ。たどり着くまでは慎重に、着実に進まなければならない。性格的に思い込んだ途端、突っ走ってしまう惣介は向いていなそうだった。
(どうにかしなければ)
柳沢は、百姓に近い惣介であれば一揆勢を説得できるのではないか、と思ったらしい。もしくは、たとえ説得できなかったとしても惣介に罪を着せて処分すればよいと考えたのかもしれない。百姓の暮らしの改善を口やかましく訴える惣介は目障りな存在として認知されていた。百姓を刺激しない形でいつか処分し、農政から外してやろうと考えているらしい。どちらに転んでも、柳沢は得をする形になっていた。
新之丞は、鉄砲組と弓組二百ずつを指揮して城下の入口に展開したい、と柳沢に願い出た。そして、説得に当たらせてもらいたい、と言った。
城下への一揆勢の侵入が果たされれば、執政たちは責任を取らなければならなくなる。惣介を説得役に向かわせておきながら、それだけは防ぎたい、という思いが柳沢にはあった。いざとなれば藩士、足軽を総動員してでも鎮圧しようとしていたところ、新之丞が名乗り出てくれたのだ。近ごろ、なにを為すにも新之丞に頼る傾向があらわれていた柳沢は、申し出を了解した。
また、新之丞は柳沢に、
「百姓たちの一揆の原因を漆植え付けの一件にいたしましょう。そして、その責任をすべて中沢家老に負わせるのです」
と提案した。柳沢は膨らむばかりの借金を少しでも減らすため、主に北国で成果を出している漆の栽培に取り組もうとした。だが、海に近い福備では、塩気を帯びた風が吹くためか漆は枯れるばかりだった。その負担が百姓たちにのしかかった。漆畑の耕作や苗の植え付けに駆り出された村々では労働力が減り、田畑の世話ができなくなった。
それでいて労賃は、漆が育って実収が得られるようになってから、とされていたのである。百姓たちは疲弊した。豪雨が襲い掛かり、百姓たちの忍耐が限界に達したのは当然のことである。
その漆の植え付けをすべて中沢織部の発案にしてしまおう、と新之丞は入れ知恵したのだ。中沢屋敷から連れ出された巴恵のことが頭に浮かんでいた。
柳沢は納得した。顔に狡猾な笑みが広がった。
すかさず新之丞は、
「百姓との交渉で年貢を減らすなど、藩政にかかわる決定も、それがしがくだしてよろしいでしょうか」
と聞いた。柳沢は実行は三年後、という条件を入れて納得した。
「三年のあいだにうやむやにしようというわけですな?」
うんざりしながらも新之丞が聞く。柳沢の目の奥に光が宿った。
「これが政治だ。優先順位というものがある。百姓の願いなどいちいち聞いておっては、藩庫はすぐに空になる。守るべきものをしっかりと見極め、命に代えても守り抜く。それが武士の生きざまだ。市原も執政入りを果たしたあかつきには、そうしたことを心がけねばならぬぞ」
暗に、今回の一件が片付いたら新之丞を執政にするということをにおわせてきた。
その後、新之丞は、藩庫に備蓄している米の放出だけはただちに行うことを了承させ、武装した足軽隊を率いて城下北に向かったのだ。そこで百姓の群れと対峙し、話し合いを行った。
加瀬惣介はやはり説得に失敗していた。いくら惣介とはいえ、藩政に関するなんの決定権も持たずに説得を試みるなど無謀だったのだ。死を覚悟して臨む百姓に対して、ただ情に訴えることしかできない惣介はあまりに無力だ。
しかし百姓たちは、新之丞の話には耳を傾けたのである。新之丞が、
「拙者は藩政の決定権を握ってそなたらとの交渉に臨む」
と主張したことが原因だった。一触即発だった百姓たちの熱は一時冷め、話を聞こうという姿勢になった。
新之丞はそこで年貢を六公四民にすること、高田川氾濫の復旧工事に関して労賃を日払いで支払うこと、漆の植え付け失敗の百姓負担分をすべて藩が補てんすることを伝えた。そのあとでお救い米の放出をただちに行うことを発表した。さらに、今回の一揆に関して百姓側から処刑者を出さないことも取り決めに入れた。
ただ、三年後というところは百姓たちもさすがに納得いかない様子だった。不平を述べ、再び城下に押し寄せようという気配を見せた。新之丞も粘ったが、百姓たちはついに心を開くことはなかった。三日三晩を百姓と共に過ごした新之丞は、答えの出ない交渉に八方ふさがりを感じ、城に文書をしたためた。内容は、せめて一年以内に百姓側の要求をかなえるように、というものである。
新之丞は返事を待った。柳沢が期限の短縮を認めないというのであれば、あとはもう覚悟を決めるしかない。百姓とは一年と嘘をついて取り決めを行い、それを足がかりに出世して柳沢を取り除くのだ。多少強引になるが、巴恵の仇だけはなんとしても討たねばならない。百姓をだますことなど、もはやどうでもいいことだった。
新之丞が待っていると、夕暮れ近くになって城から人がきた。
(さて、柳沢はどう判断したか)
そう思いながら使者を迎えた新之丞だったが、あらわれた男を見て大きく目を見開く。
「な……。なにゆえ……」
口からこぼれ出る。新之丞の視線の先には物々しい格好をした人の群れがあった。三十人ほどがひとかたまりになり、いつでも刀を抜ける状態にしている。隙のない動きで足を運ぶ様子からも、みな、相当な手練れであることがわかった。その真ん中に馬上の男がいた。紺色の羽織姿の男は一見質素ななりをしているように見える。白髪に覆われた穏やかな顔だちと小柄な体躯は、どこにでもいる好々爺に見えた。
(だが、強い)
ごくりと唾を飲み込む。他を圧倒するような存在感が男から放たれている。その圧に膝をつきそうになる。男はまさに雲の上にいる人物だ。
(これが藩主一門の血筋か)
男と目が合う。男は新之丞を見て、どういうわけか柔らかく微笑んだ。瞬間、新之丞の全身に鳥肌が走った。獰猛な肉食獣に射竦められたような気がした。
「どうして、多部玄庵がここに……」
あまりの状況に頭がついてこず、つい呼び捨てにしてしまった。だが、そうして名を出したことで新之丞はいくらか平静さを取り戻すことができた。直立不動の姿勢になって、もう一度馬上の人を見つめる。
それは紛れもなく多部玄庵だった。
福備藩主多部政通の叔父であり、国元では最高の権力を有する男である。
普段は波御殿にこもり、その力を行使することもなく家臣に藩政を任せきりの玄庵だったが、それが今、一揆勢の前に姿をあらわしたのだ。
新之丞が唇をわななかせていると、護衛が立ち止まり玄庵との間に道を開けた。
「おぬしが市原新之丞だな」
玄庵がいたわるような、それでいて威厳のこもった声で言う。今になって玄庵の馬が見事な黒馬であることに気づく。
「は、いかにも」
平伏して答える。全身からどっと汗が噴き出る。
「民との交渉。単身乗り込み、よく果たしてくれた」
「まことに申し訳ございませぬ。いまだ、納得を得るまでには至っておりませぬ」
「民も死を賭して立ち上がったのだ。うまく行かぬのも、無理はない」
玄庵は終始落ち着いており、だからこそ発せられる言葉は胸の奥に沁みてくる。新之丞は全身を緊張させ、玄庵が口を開くのを待つばかりになる。
「だが、条件のすり合わせはできたと聞いておる。あとは、期限の問題だけだ」
「それがしの力至らず、難渋しておったところです」
「市原はよくやった。ほめてつかわす」
「滅相もないお言葉」
額を地面につけると、前方で、なにやらごそごそと動く気配があった。やがて新之丞の前に護衛のひとりが立ち、一枚の書付を差し出した。
受け取った新之丞は、書付を眺めて、さっと顔面を強張らせる。
「これは……」
思わず玄庵を見る。玄庵は柔和な表情を崩さないまま、さらりと答えた。
「柳沢作兵衛に書かせた民との約定だ」
「しかし……」
新之丞は手の中の書付に目を落とした。奇妙な文書だ。まったくの白紙なのである。ただ末尾にだけ、今日の日付と柳沢作兵衛の名がしたためられている。柳沢の代わりに文書を作成してきた新之丞は、それが柳沢の直筆であることがわかった。
「民と話し合い、そこに民が納得する形の条件を書き連ねよ」
前脚を掻き始めた馬を御しながら玄庵が言う。
「筆頭家老柳沢作兵衛の名において、必ず果たすことを約束する」
新之丞は全身に稲妻が走るのを感じた。
(そういうことか)
柳沢と交わした文書があれば百姓も納得するに違いない。筆頭家老の名はそれだけ重いのだ。そして、柳沢にそこまでのことをさせるのは、今、この藩では多部玄庵をおいてほかにはいない。
「どれ、ひと声かけさせてもらおう」
新之丞が固まっていると、玄庵はそう言って馬を進めた。新之丞の横を通るとき、
「市原も来い」
声をかける。新之丞は、はい、と返事をし、護衛に混じって百姓たちが身を寄せ合っている場所まで進んだ。
「我は、先の福備藩主、多部備中守政友の弟、多部玄庵じゃ」
玄庵はその小さな体のどこに潜んでいるのかと思うほどよく通る声で言った。物々しげな集団が近づいてくることに身構えていた百姓たちは、玄庵と聞いて、さらに緊張を強めた。
「これから市原新之丞がおぬしらのもとに参って談判いたす。そこでおぬしらの考えをじゅうぶんに述べられよ」
声を張る老人の姿は戦国の世から抜け出したような、大将としての威厳と高貴さに包まれていた。玄庵は騒ぎ始める百姓に手のひらを見せ、ただし、と言った。
「ただし、期限は二年とさせてもらいたい。急な変革はどうしてもひずみを生む。期限を二年と定めてもらえば、この玄庵が、しかと執政どもが果たすか見届けよう」
うまい言い方である。三年で交渉していたところを一年減らして二年としている。こうなれば百姓も妥協しやすい。なにより巧みなのは、実際に玄庵が責任を負う必要はないということだ。玄庵は執政を動かすのみで、その結果、約束が果たされなくても、それは柳沢をはじめとした執政の能力が足りないからだ、という理屈である。自分は後ろに隠れ、見守るだけだ、と言っているのだ。
だが、百姓は感激した。玄庵自らが約束を結ぶために出てきてくれたこと。そのことがうれしくてたまらないのだ。もともと玄庵は、こうして民のもとにふらっと出かけていっては、自分の存在を示すことをよくした。だからこそ人気があった。実際、新之丞も、なにも知らずにこの場に居合わせていれば、感嘆せずにはいられなかっただろう。
「市原、あとはおぬしに任せる」
立ち尽くす新之丞に玄庵が声をかけてきた。新之丞ははっとなってかしこまる。
「ご信任いただきましたこと、まことにありがたき幸せにござります。市原新之丞、身命を賭して、百姓たちを説得いたします」
「堅苦しく考えることはない。わしが出てきた時点で、話は九分通り整っておる。あとは文書にするだけじゃ。……ところで市原。決着がついたら、一度、わしのところに来い。波御殿じゃ」
「もったいなきお言葉、恐悦至極にございます」
深々と頭を下げる。自分の膝頭を見つめながら、
(これで開けた)
自らに言う。百姓一揆を鎮めれば、執政入りはまず間違いない。出だしは末席の郡代といったところか。そこで執政としての信頼を得ながら少しずつ懐に入り込む。そして、機会が訪れるのを待ち、実際にそれが訪れたら……。
(動いてもらわねばならぬ)
新之丞が顔を上げたときには玄庵は背中を向けていた。周りの護衛がぞろぞろと続く。新之丞は遠ざかる一群をじっと見つめた。それから、玄庵から渡された柳沢作兵衛直筆の書付に目を落とした。