岡上淑子おかのうえとしこ 1928 -

 

わずか7年の創作─
半世紀を越えてよみがえったコラージュ

 

洋雑誌を切り抜き、現実には存在しない
幻想的な世界をつくり出したコラージュ作家。
20代のわずか7年ほどで制作から離れ、
その作品も次第に美術界で顧みられなくなった。
しかし、半世紀近い時を経て再び光が当たる。
偶然の出会いに導かれた、その短くも濃密な創作の日々を見つめる。

イラスト:たまゑ

 

 

 1928年、岡上淑子は高知県土佐郡一宮村(現・高知市一宮)に、農林省に勤める父・健夫と母・千鶴子の長女として生まれた。3歳で父の仕事の都合で東京へ移り、代々木上原を経て下北沢で育った。少女時代から洋服への関心があり、小学校の高学年になると、人形の服を型紙から縫うようになった。

 1941年、岡上は東洋永和女学校(現・東洋英和女学院中等部)へ入学した。その年に太平洋戦争が始まり、16歳になると蒲田の電気工場へ学徒動員された。洋服を縫うことが好きだった少女の日常は、戦争によって大きく形を変えていった。

 

 

18歳

予定外の進路が導いた縁

 1945年、戦時下の修業年限短縮により、岡上は4年で女学校を卒業した。進学先には、保母の資格が取れる同校の師範科を考えていた。担任からは合格できると言われていたが、結果は不合格だった。後年のオーラル・ヒストリーでは、理由を尋ねると「絵が悪かった」と告げられ、ショックで家へ帰る気にもなれなかったと語っている。

 翌年、恵泉女学園高等部家事科へ入学。ここで出会ったのが、後に作曲家・武満徹の妻となる若山浅香だった。家も近かった二人は親しくなり、卒業後も交流を続けていく。不本意な進路変更の先に、後の人生を左右する友人との出会いが待っていたのである。

22歳

ひとつの課題から始まったコラージュ

 恵泉を卒業した岡上は、小川服装学院で洋裁を学んだ。在学中に長沢節のスタイル画を知り、ファッション画にも関心を持つようになる。服を縫う技術に、デザインする力も加えたい。そう考え、1950年に文化学院デザイン科へ進んだ。

 そんな岡上に思いがけない転機をもたらしたのが、美術の授業で課された、色のついた紙をちぎって組み合わせる「ちぎり絵」だった。岡上はここからヒントを得て、自宅で洋雑誌の写真を切り抜き、黒い紙の上で組み合わせてみた。

 当時、古書店などには進駐軍が残した『LIFE』や『VOGUE』などが出回っていた。岡上はその誌面から自分の空想に合う写真を選んでは切り貼りを重ね、雑誌の断片から新たな世界をつくるコラージュに夢中になった。

23歳

瀧口修造との出会いで広がった創作の世界

 1951年、岡上は恵泉女学園時代からの友人・若山浅香に、自作のコラージュを見せた。それをきっかけに紹介されたのが、当時、ジャンルを超えた芸術家集団『実験工房』のメンバーとして活動を始めていた武満徹だった。武満も岡上の作品に興味を示し、さらに美術評論家で詩人の瀧口修造へとつないだ。

 戦前からシュルレアリスムを日本に紹介し、戦後は若い芸術家たちを支えていた瀧口は、岡上の作品を見ると制作を続けるよう勧めた。ただ雑誌を切り貼りする行為を楽しんでいた岡上にとって、自分のつくったものを本格的な美術の世界にいる人物から初めて認められた瞬間だった。以後、新作ができるたびに瀧口のもとを訪ね、作品を見せるようになる。

 そんなある日、瀧口の家で見せてもらったのが、ドイツ出身の画家マックス・エルンストが多数のコラージュを連ねて構成した作品集『百頭女』だった。そこには、岡上が知らずに始めていた切り貼りと通じる表現が広がっていた。大きな衝撃を受けた岡上は、それまで使っていた黒い紙に代わって、写真を背景に用いることを思いついた。

25歳

無名の「お嬢さん」が、美術界の表舞台へ

 1953年1月、瀧口の後押しによって、岡上は神田駿河台下のタケミヤ画廊で初個展を開いた。その案内状で瀧口は、岡上を画家ではなく「若いお嬢さん」と紹介している。個展は新聞や雑誌で相次いで取り上げられ、大きな反響を呼んだ。同年末には、東京国立近代美術館で開かれた『抽象と幻想』展にも作品が選ばれた。授業をきっかけに自宅で始めた切り貼りが、わずか数年で美術館に展示されるまでになったのである。

 しかし、制作を続けるうちに、岡上はコラージュに限界を感じるようになった。瀧口に相談すると、自分で写真を撮ってみるよう勧められた。岡上は写真にも取り組み始め、1956年の2度目の個展では、コラージュとともに自身が撮影した写真も発表した。

72歳

44年ぶりの個展、よみがえった評価

 写真を始めた頃から母が体調を崩し、岡上は家事に追われるようになっていた。1957年に結婚すると、やがて子どもも生まれ、それまで続けてきた制作から次第に離れていった。活動期間はわずか7年ほど。その作品も、次第に美術界から忘れられていった。

 転機が訪れたのは、1996年のことだった。目黒区美術館の企画展で、約40年前につくられた岡上のコラージュが紹介される。これを機に評価が高まり、2000年には東京で44年ぶりとなる個展を開催。その後は海外でも展覧会が開かれ、作品は国内外の美術館へ収蔵されていった。

 美術の専門教育を受けることもなく、洋雑誌を切り抜くことから始まった岡上のコラージュは、半世紀近い時を越えて新たな鑑賞者の前に現れた。20代の岡上が生み出した空想の世界は、その後も作品のなかで生き続けていたのである。

 

【岡上の格言】

この偶然の拘束のうえに、意志の象を拓くことを願うのです