群雄割拠の京都画壇で「狂人」と見なされた男。その姿は真実か、処世術としての“キャラ設定”か?
18世紀京都。10代で家族を失い、天涯孤独の身になった男に残されたのは絵心のみであった。自らの画才を武器に漫遊の旅に出た曾我蕭白は、各地で酒に酔い、破天荒な振る舞いで周囲の人間を驚かせ、奇怪かつ独創的な絵を描き散らし飄々と去っていく。ライバルひしめく京都画壇において名声を得るも、「狂人」と見なされた絵師の素顔とは──
1730年、曾我蕭白(本姓・三浦)は京都の商家・丹波屋の次男として生まれた。11歳で兄、14歳で父、17歳で母を亡くした後、蕭白が29歳までをどのように過ごしたかは一切わかっていない。ともあれ、絵を描く術を身につけた蕭白は、いつしか自らを室町時代の画家・曾我蛇足に連なる「蛇足十世」と称し、画才を頼りに放浪の旅に出たようだ。
29歳
漫遊する絵師・曾我蕭白出現
明治時代に蕭白を研究した日本画家・桃沢如水による、伊勢の津の寺院に「行年廿九歳曾我蕭白図」の款記をもつ襖絵があったという報告が、蕭白画出現の最も古い記録である。また、播州高砂の加茂神社に、蕭白が宝暦12年(1762年)に奉納したと思われる『神馬図絵馬』が残っているほか、両地方で蕭白の作画活動の痕跡が多く確認されていることから、青・壮年期に伊勢と播州(兵庫県南西部)を漫遊していたと考えられている。
35歳
グロテスクでありコミカル、国宝級の蕭白画
蕭白の作風は、当時すでに時代遅れだった漢画(中国絵画)の一派・曾我派の末裔を自称したように、復古的な絵画を基調に、デフォルメした風景や癖の強い人物描写を織り込むなど、独自の着想を融合させた奇怪な世界観が特徴的だ。中でも、蕭白の代表作として認知される「三十五歳筆」の『群仙図屏風』は、蕭白の異端ぶりが遺憾無く発揮されている。水墨技法を駆使した山水景観の中に、8人の仙人と童子と女、さらに吉祥を意味する鶴、亀、鯉、龍などが描かれる。長寿を祝う中国由来の「群仙図」を元にしながら、そこに描かれた仙人たちの表情は、伝統的な仙人のイメージを覆す禍々しさがあり、童子さえ化け物のような不気味さが漂う。このように、尊い存在までも卑俗に描くのは蕭白画にみられる典型的手法だが、そのどれもが醜怪に振り切らず、どこか愛らしさを窺わせるのも特筆すべき点だろう。そして、経年劣化を感じさせない強烈にけばけばしい着衣の色彩にも目を奪われるが、緻密な描写による細部へのこだわりも見て取れる。この常軌を逸した六曲一双屏風を美術史家の辻惟雄氏は自伝の中で、「こんな変わった江戸絵画は、今まで私が出会った中で、前にも後にもこれ一つしかない」と述べ、現代美術家の横尾忠則氏に至っては、国宝に推薦したい逸品との見解を示し、「こういう作品がイッパツ国宝になると何だか世の中がガラッと変化するような気がする」とエッセイに記している。
46歳
激戦区・京都において絵師として名声を得る
蕭白は40代半ばに活動の場を生まれ故郷の京都に移した。蕭白がいた江戸時代中期の京都画壇は、際立った個性を持った革新的な絵師が同時多発的に出現した奇跡的な空間だった。そんなライバルひしめく激戦区において蕭白は、京都在住の有名な文化人を網羅した人名録『平安人物志』(安永4年〈1775年〉版)の画家の部20人の中に、円山応挙、伊藤若冲、池大雅、与謝蕪村らと共に名を連ねており、絵師として一定の地位を確立していたことがわかる。そして、写生画というジャンルを切り拓き、京都一の人気を博した応挙に対してはライバル心をのぞかせ、見たままの世界を忠実に描く応挙の画風を揶揄し、自らは「奇想」の絵画を貫き通した。
しかし、蕭白の没後に刊行された岡田樗軒の『近世逸人画史』(1810年)では、蕭白について「世人狂人を以て目す」とある。京都を代表する絵師の一人にまで上り詰めたはずが、世間の人は蕭白を「狂人」として見ていたというのだ。確かに蕭白の絵は、ことのほか醜悪に描かれた狂気じみたものが目立つ。だが、画題は和漢の故事を理解した上でひねりを加えるなど、知性を感じさせるものも少なくない。あるいは、各地に伝わる蕭白を傲岸不遜な人物と印象付ける逸話の数々が、そのような憶測を招いたのだろうか。
一部例を挙げると、伊勢の久居候の命で金屏風を描くことになった蕭白が、食客となって毎日酒を飲みご馳走を食べて寝るを繰り返した。ある日、しびれを切らした家老が催促すると、墨と高価な絵具を棕櫚箒で混ぜ、金屏風に彎曲した線を描き、その勢いのまま家老の顔まで塗って去ったという話。また、狩野派の流れを汲む絵師・勝山琢舟が「佐野の舟橋」の絵に、あるはずのない欄干をつけて描いたのを見とがめた蕭白が、「京の絵師の名折れなり」と描き直しを迫ったことがあった。琢舟は(江戸の)狩野探幽の絵を手本にしたまでだと答えたため、口論となり、蕭白が脇差しを抜いて斬りかかったのを周囲に押しとどめられたという。いかにも変わり者のように思えるが、前者をアイデアが降りてくるのを待つ絵師の時間の過ごし方に無理解な家老に対する抗議で、後者を京都の絵師としての矜持を説くためのパフォーマンスと見れば、受ける印象も随分と違ってくる。
自分を押し殺して周囲との調和を図るという態度は、美徳のように語られることがあるが、一方では異様な企てとも感じる。自分を失くしてまで他人の人生を生きるくらいなら、いっそ「狂人」と思われた方がまし。そう蕭白が考えたとすれば、先の評価もうなずけるのだ。ましてや、個性豊かな絵師たちが群雄割拠した18世紀京都画壇である。若くして天涯孤独の身になり、何の後ろ盾もない蕭白が、市場にポジションを確立するための“キャラ設定”と、自由に人生を謳歌するための“処世術”として「狂人」になりすましたとしたら面白い。
【蕭白の格言】
「画を望まば我に乞うべし、絵図を求めんとならば円山主水(応挙)よかるべし」
※蕭白の年齢は数え年で表記しています