糸井貫二 1920 - 2021 享年101
逮捕もいとわない“全裸パフォーマンス”を追求した孤高の前衛芸術家
全裸で街を駆け抜け、ペニス型の紙片を郵送し、来訪者には三点倒立で応じる──常軌を逸した行為の数々で知られる糸井貫二、通称「ダダカン」。戦争と身体、禅とダダ、そして母親と過ごした静かな時間までもが、糸井の生を彩っていた。その生涯は、魂の歓喜に根ざし、“正気の枠組み”を揺さぶり続ける日々でもあった。

1920年、東京・淀橋町(現・新宿区)に生まれた糸井貫二(のちのダダカン)は、3歳で関東大震災に被災した経験を持つ。小学生の頃から体育の成績が優秀で、中学では五輪経験者から器械体操の指導を受けるようになった。
24歳
「自爆兵」の訓練を受け、体操選手としても活躍
戦時中は徴用により筑豊で採炭労働に従事し、24歳の時に鹿児島県で敵戦車に体当たりする「自爆兵」としての訓練中に終戦を迎えた。この戦争体験が糸井の反戦への意思を形成し、「戦いによる殺りくのバカさ加減に人間生まれたトキの素裸になり何かに抵抗する気分がムラムラと湧き止める事が出来ぬ」という衝動を生んだ。そして、戦後は第一回国民体育大会などで体操選手として活躍するようになり、身体性への関心を深めていく。のちの自らの肉体を駆使する表現は、若き日のこうした体験に由来するものと思われる。
40歳
“禅”と“ダダ”で覚醒、「ダダカン」誕生
50年代から木版画やコラージュなど「趣味的」に創作活動を開始し、60年頃には廃棄物などを素材に用いた「反芸術」と呼ばれる作品を『読売アンデパンダン展』に出品するようになる。それと前後するように鈴木大拙の禅の本とジオルジュ・ユニエの『ダダの冒険』を読み、外的環境に左右されず、ありのままの自分を生きる禅と、既存の価値観を破壊するダダの精神に共鳴する。それにより、糸井の表現は造形作品にとどまらず、パフォーマンス的な行為へと拡張していった。
44歳
全裸走りで精神病院に入院、万博では新聞沙汰に
最初に注目を浴びたパフォーマンスは、東京五輪が開催された64年、聖火ランナーを見て「心の内で燃えるものがあった」糸井が、銀座の街を全裸で独走し逮捕された事件だ(その後、精神病院に1年間入院させられる)。
さらに、70年に開催された大阪万博で行ったパフォーマンスでも世間を騒がせた。その引き金となったのは4月27日の『毎日新聞』朝刊で見た、「赤軍」の赤いヘルメットを被った男が、岡本太郎の太陽の塔の最上部にある『黄金の顔』の右目部分に侵入し、「万博粉砕」と叫び籠城した騒動を伝える記事だった。その男を「激励する」ために太陽の塔の下を全裸で約15メートル疾走した糸井は、当日の夕刊には「裸の男 飛出す」の見出しで、警官に取り押さえられた時の写真が掲載された。
他にも半分燃やした一万円札を複数の友人に送りつけるなど、常軌を逸した行為を繰り返し、71年の『週刊少年サンデー』の「ヘンな芸術」特集では、写真家の羽永光利氏によって撮影された「殺すな」の反戦メッセージを手にして歩く糸井が、「いつもスッ裸で狂気の行為を続ける裸体行動芸術家の教祖的人物」として紹介されている。
52歳
母親の介護のために表舞台から姿を消す
72年からは母親の介護のために京都・宇治へと生活の拠点を移す。以後7年間、芸術活動を中断し、「唯一の理解者」だった母親の介護に専念する。そして、母親が亡くなってからは生涯を仙台で過ごし、「鬼放舎」と名付けた自宅を拠点に「メール・アート」で友人知人と交流を図った。
メール・アートとは、郵便という手段を介して作品や言葉をやり取りする芸術表現で、美術の制度から距離をとりながら、個人と個人が直接つながる方法として確立したものだ。糸井は日本においてその草分け的存在でもあり、さまざまな印刷物やペニス型に切り抜いた「ペーパーペニス」などをコラージュしたユーモラスな作品を方々に郵送し続けた。また、来訪者には全裸で三点倒立をする「裸儀」を披露し、特製の「ダダカンケーキ」を振る舞うなど、他者とのやり取りを通して日々を作品として編み上げた。
78歳
一冊の本がきっかけで広く知られた“篦棒な人”
長らく「前衛芸術」のシーンで知る人ぞ知る存在だった糸井だが、90年代後半以降、竹熊健太郎氏の『篦棒(ベラボー)な人々 戦後サブカルチャー偉人伝』(太田出版)をきっかけに、美術分野以外の人にも広く認知されるようになった。そして近年は、黒ダライ児氏の『肉体のアナーキズム 1960年代・日本美術におけるパフォーマンスの地下水脈』(grambooks)で、これまで半ば都市伝説的に語られてきた“謎多き前衛”の軌跡が明らかにされた。また、糸井の作品や関連資料の保存・収集などを行う有志集団『ダダカン連』の活動もあり、昨今では「奇人変人」扱いから芸術家として正当な評価を受けつつある。
AIが人間の創造性を模倣する時代において、非生産的な極地をひた走った糸井の足跡は尊い。人間としての存在意義を証明するために、「最も個人的な声」や「意味のないこと」が価値を増すだろう世の中で、他者の承認に依存せず、自らのビジョンに従って世界と関わる姿勢は、“新しい個人”の在り方として見倣うべきものがあるのではないか。
2021年12月19日に101歳で逝去した糸井の生き様は、芸術とは何か、人間とは何かを問う人々に、これからも多くの示唆を与え続けるだろう。
【糸井の格言】
「ぼくは自分や物を表現する作品よりも街を全裸で通る自分の影、こういうファクトの方に興味がある」