六畳一間のアパートで花と心中を覚悟した孤高のいけばな作家

 

流派に所属し弟子を育てることで成り立ついけばなの世界で流派を否定した異端の作家・中川幸夫。
伝統や様式に囚われない自由な創作と引き換えに赤貧状態の生活を余儀なくされながらも、いけばなの既成概念を覆し「世界の現代アートの前衛」と海外から称賛されるまでになった。
すべてを花に懸けた反骨の男が歩んだ道のりに迫る。

 

イラスト:たまゑ

 

 1918年、香川県丸亀市で誕生した中川幸夫は幼くして脊椎カリエスを患い、生涯を曲がった背中で過ごすことになる。年端も行かぬ頃から病いと向き合った中川だが、そのハンディキャップがのちの孤高のいけばな作家誕生の引き金になろうとは誰が想像できただろうか。

 

14歳

ハンディキャップと向き合い続ける

 高松高等工芸学校進学の予定が、教練に耐えられない身体であることを理由に不合格となった中川は、大阪の石版画工房『近土版画社』に弟子入りし石版画職人となる。造形と色彩感覚を学び6年で退社すると、しばらくは印刷技術者として雑誌や映画ポスターの制作に従事したが、やがて健康状態の悪化に伴い丸亀に帰郷することになった。

 

24歳

いけばなと出会い、「型」に不満を持つ

 帰郷した翌年、療養の余暇に、池坊という華道流派に属していた伯母の下でいけばなを学び始めた。そこで中川は「なぜどの花材も型通りにいけねばならぬのか」という流儀花に対しての疑問に突き当たる。

 身体的理由で兵役を免除された中川は戦後、旧友の生家が営む平和写真印刷に勤務する傍ら月に一度京都に赴き、池坊最高位の後藤春庭からいけばなの最も古い様式である立華を学ぶ。その一方で、個性を尊重する草月流の岡野月香の花からも影響を受けた。そして1949年、中川は自身初の個展を開催。その際、個展の自作ポスターと独創性に富んだ出品作の写真を作庭家の重森三玲宛てに送ったところ、重森は主宰する雑誌『いけばな芸術』の巻頭ページで中川の作品を掲載し高く評価した。重森はいけばなの革新を目指し、“流派否定”を主張した人物である。

 

33歳

無謀な流派脱退

 作品掲載後、中川は重森邸で開かれるいけばの研究会『白東社』に出入りするようになった。研究会には流派を超えて新しい花を求める者たちが集い、重森はそこで流派を離れ自らのいけばなを確立することを奨励した。そして51年、自由な表現を求めた中川は流派を脱退する。会の中で脱退したのはもう1人、半田唄子(千家古儀家元だった半田は流派解消/49年)だけであった。

 

38歳

弟子なし、金なし、心中覚悟の貧乏暮らし

 1956年、「花をいけること以外は一切すまい」と決意して、中川と半田は上京し結婚。それを知った草月流家元の勅使河原蒼風は「恐ろしい男が花と心中しにやってきた」とつぶやいたという。かくして夫婦の共同生活が中野区江古田の六畳一間のアパートでスタートした。

 だが、流派に属し弟子を育てることで成り立ついけばなの世界で、流派に属さず花をいけるだけで生活することは並大抵ではなく、喫茶店やキャバレーの花をいけることで糊口をしのいだ。帰りの電車賃すらないこともしばしばで、入るものは全て質屋に入れた。「“池坊”門弟200万、“小原流”100万、“古流”130万、“草月流”100万、“中川幸夫と半田唄子の花”二人」(『女性自身』1969年4月28日号)というフレーズからも、“無所属のいけばな作家”がいかに無謀な生き方か窺い知れる。流派なし、弟子なし、金なし。2人は花と貧乏に生きた。

 

55歳

前代未聞のいけばな作品

 いけばなは植物を素材に使うため作品として存在する時間に限りがあり、写真による記録が作品の評価に直結する。1973年に牧直視が撮影した『花坊主』は、カーネーション900本の花びらを自作のガラス器の中で腐敗、発酵させ、そこから流れ出した花液が敷かれた和紙を真っ赤に染める作品で、レンズを通してえぐり出された被写体の強烈な存在感から、中川の代表作との呼び声も高い。

 華道界の戦後史を描いた早坂暁の『華日記』では「生け花五百年の歴史の中で、死んでゆく花の血を生けた人間はなかったはずである」と驚きをもって受け止められている。その後も、中川は既成概念からかけ離れた破格のいけばなを黙々とつくり続けていく。

 

84歳

国際的な評価を受けても赤貧洗うが如し

 花をいけるだけに留まらず、書やオブジェの制作など中川の個としての表現は、やがていけばなの世界を超越する。カルティエ現代美術財団でゼネラルディレクターを務めるエルベ・シャンデスが「世界の現代アートの前衛」と評するなど、その名は海外でも知られるようになった。

 そして中川のアヴァンギャルドが遺憾なく発揮された実質最後の作品が『越後妻有アートトリエンナーレ2003』のプレイベントで披露された『天空散華』だ。チューリップの花びら100万枚をヘリコプターから放ち、舞い散る花びらの中で舞踏家の大野一雄が踊るこのパフォーマンスは、いけばなの“型破りの美”の極致ではないだろうか。

 常識や伝統を疑い、タブーに挑むことで表出した中川の異端性は、いけばなという世界を誰も見たことのない域にまで押し広げた。

 ちなみに国際的な評価を受けても、中川の赤貧状態は続いた。のちにそのことを疑問に思った介添人が調べると、中川の口座にはまとまった額のギャラが振り込まれていたそうだが、報酬は現金で受け取るものと思い込んでいた本人は知る由もなかったという。

 

【中川の格言】

「天才は遺伝しないのだから、家元といった制度は創造を保証しない」