独自の「見立て」でジャンルを越境したマルチ・アーティスト

 

前衛芸術家、小説家、エッセイスト、路上観察学会員、さらには千円札裁判被告……。
これらは赤瀬川原平という人物をあらわす言葉のごく一部に過ぎない。
既存のものを逆さまにして笑う独自の視点から生み出される作品が、美術界はもとより、外の世界の人たちにも広く知られ、時には世間にブームを巻き起こす。
赤瀬川原平とは一体何者なのか─?

 

イラスト:たまゑ

 

 1937年、横浜市中区本牧町に生まれた赤瀬川原平(本名・克彦)は、父の転勤に伴い、芦屋市、門司市を経て、大分市に移り住んだ。小学校に入ると夜尿症に悩むようになり、45年、8歳の時の大分空襲では死を覚悟したという。そして戦後、父が人員整理で失職すると、一家8人は食事にも事欠くほど苦しい状況に追い込まれる。中学2年まで続いた夜尿症に加え、貧乏も味わい劣等感を抱えた赤瀬川だが、幼稚園から得意だった絵に関しては、教室で描き始めると机のまわりに同級生が集まってくるほどの腕前を見せた。

 

23歳

「赤瀬川原平」爆誕、前衛の道を突き進む

 1955年、武蔵野美術学校油絵科に入学のため上京、58年に第10回読売アンデパンダン展に油彩作品を出品する(以降、第15回まで参加)。この展覧会は無鑑査自由出品制で、出品料さえ払えば誰でも東京都美術館で作品を発表することができた。それゆえに赤瀬川が参加した50年代後半から幕を閉じる63年までは特に、表現衝動に突き動かされた若者たちの過激な作品やパフォーマンスにより会場にはカオスな雰囲気が充満した。60年にはその参加者でもあった吉村益信を中心に前衛芸術グループ『ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ』が結成され、赤瀬川も参加。「赤瀬川原平」を名乗りはじめ、キャンバスに絵具を塗るだけでは飽きたらず、ラジオの真空管や自動車のタイヤチューブ、しまいには着古した下着など、次第に廃棄物を素材に使った三次元的な「反芸術」作品をつくるようになった。
 第15回読売アンデパンダン展終了後は、高松次郎、中西夏之と共に『ハイレッド・センター』を結成する。銀座の並木通りを清掃する『首都圏清掃整理促進運動』や御茶ノ水の池坊会館の屋上から日用品を落下させる『ドロッピング・ショー』など、「直接行動」で日常を攪乱しようと試みた。

 

30歳

ニセ札をめぐり有罪に

 1963年、赤瀬川は個展『あいまいな海について』の案内状として千円札の片面を緑一色原寸大で印刷し、現金書留で関係者に送付したのを皮切りに、いくつかの印刷千円札を用いた作品を制作していた。そして当時、「チ・37号事件」と呼ばれるニセ札事件が世間を騒がせていたこともあり、赤瀬川は64年に警視庁から取り調べを受け、翌年、通貨及証券模造取引法違反で起訴される。
 66年からはじまった千円札裁判は、憲法の「表現の自由」を盾に、赤瀬川はニセ札ではなく『模型千円札』なる芸術作品を作ったということを証明するため、弁護側の証拠としてハイレッド・センターの作品などが傍聴席から裁判官席まで拡がり、偶然かつ意図的に『法廷における大博覧会』が繰り広げられた。しかし67年、赤瀬川の模型千円札は芸術だと認められるも、「懲役3月、執行猶予1年」の有罪判決を受ける。

 

44歳

純文学で芥川賞受賞

 赤瀬川は千円札裁判を機に現代美術の舞台から距離を置くようになった。それまで愚直に反芸術を実践していた赤瀬川が、裁判の過程で自らの表現を芸術だと主張することは「前衛芸術家・赤瀬川原平」の引退宣言にも等しかった。しかし、作品をつくることへの興味を失ってしまった一方、模型千円札の芸術的意図を裁判官の理解できる言葉で説明する経験は赤瀬川の伝える力を鍛えた。そして新聞や雑誌で千円札裁判の解説を求められるうちに、活動の場を活字メディアに移し、81年には「尾辻克彦」というペンネームで書いた小説『父が消えた』で芥川賞を受賞するなど純文学の世界でも腕を振るった。作家の大江健三郎は尾辻文学について、「もっとも日常的なものが、いかにも日常的なことを語る文体で書かれ、しかも日常的なものとは正反対のショックをあたえる」と評した。

 

49歳

路上を観察し、芸術を「超」えたものを発見

 日常をひっくりかえして面白がる赤瀬川の性分が遺憾なく発揮されたのが路上観察だった。それは東京四谷の旅館の側壁に付設された、左右両方からのぼれる階段の交差地点に出入り口がない『純粋階段』を偶然発見し、そのような無用の長物の物件に『トマソン』と名付けたことに端を発する。そして、その延長線上で、路上にあるあらゆる少し変なものに目を向ける『路上観察学会』を86年に発足し、写真での採集にいそしむようになった。最早、自ら表現することもなく、観察の意思を持って街を歩き、誰も気に留めない物品に価値を見出す。それは芸術とは何かを考え続けた赤瀬川がたどり着いた極致であり、芸術を超えた「超芸術」であった。

 

61歳

『老人力』が新語・流行語大賞に選ばれる

 1998年に刊行された『老人力』は、赤瀬川が自身の老化現象を観察し、従来は忌避されてきた老化を「未知の力」としてポジティブに捉え直したエッセイである。日常を非日常に変えて楽しんできた赤瀬川の発想の転換が結実した『老人力』は、還暦を越え、新語・流行語大賞のトップテンに選ばれ、41万部を超える大ベストセラーになった。そして、あらゆる事物を思いも寄らない角度から見る赤瀬川の視点は晩年の病気療養中にも冴え渡り、自身の病や衰えを観察し、往生際までエッセイを発表し続けた。

 

 

【赤瀬川の格言】

「検察庁の方々が、現代芸術を勉強するまたとないチャンスに恵まれたのに対して、私は現代芸術を創造する偉大な時間を奪われたのです」