「明治の人間国宝」、超絶技巧で世界中を驚かせた陶芸家
200年以上も続いた鎖国体制が解かれ、本格的に海外との貿易が開始された明治時代。政府は国家の近代化のための殖産興業として工芸品を重要な輸出品目と位置付けていた。
宮川香山もまた「欧米に認められる物を作らなければ、日本はますます先進国に差をつけられる」と開港間もない横浜に窯を築き、世界を相手に自分の技術を知らしめるやきものづくりに全てを賭けた──
江戸後期の1842年、宮川香山(本名・虎之助)は京都の眞葛ヶ原(現・京都市東山区円山公園一帯)で陶工の父・長造の四男として誕生した。幼少期は身体が弱く、竹馬等の遊びを嫌ったが古物を見ることは何よりも好きで、物心がつく頃から父の手ほどきで製陶を学んだ。
19歳
家族の死に伴い、若くして家業を継ぐ
父や兄を相次いで亡くす不幸に見舞われ、香山は若くして家業を継ぐことになった。当初は父の代からの職人数人と慰み半分に仕事をしていたというが、陶工としての腕前は確かだった香山に転機が訪れる。66年、幕府から御所に献上する飾棚付茶器大揃の制作を受注し、これで名を上げた香山は、以降幕府奥向の御用を受けるようになったのだ。そして明治に入り、70年、薩摩藩御用達の商人・梅田半之助から開港間もない横浜の地で、輸出用陶磁器の制作を勧められ移住を決意する。
30歳
横浜に移住するも、陶土探しで関東一円をさまよう
その翌年、大田村不二山下(現・横浜市南区庚台)に眞葛窯を開いた。陶磁器の産地ではない横浜は原材料の確保も難しく、「伊豆箱根はもちろん、関東八州にいたる所で探したが、なかなか良い土はない」と陶土探しに約2年を費やすも、着々と陶磁器生産の環境づくりを進めていった。
香山が本格的に輸出用陶磁器の制作を開始した時、海外では金を多量に使用する薩摩焼の人気が高かった。そのため、当初は香山も薩摩風の作品を手がけていたが、貴重な金が海外に流出するのは、「国家的な損失である」といつしかこれを否定するようになった。
35歳
超絶技巧の「高浮彫」で世界中を驚かせる
そして、試行錯誤の末に編み出されたのが、陶器の表面に彫刻的細工を施す「高浮彫」という技法だった。やきものの上に写実的なモチーフが躍る姿は独創的で、香山はモチーフをよりリアルに造形するため庭に池をつくり、蛙や亀や蟹を飼い、猫、鳩、鶏、鷹などを飼育しながら、来る日も来る日もスケッチしたという。そうして、動植物の命の息吹を徹底的に見つめた香山のやきものは生命感をまとい、高い技術力も相まって誰の目にも驚異的に映ったようだ。
76年に開催されたフィラデルフィア万国博覧会での銅牌受賞を皮切りに、国内外で得た賞は枚挙にいとまがなく、「けだし見る者、その価を問わず購入せしめんとす」と世界中で眞葛焼の争奪戦が繰り広げられた。中でも、81年の第2回内国勧業博覧会に出品された『褐釉蟹貼付台付鉢』は、本物と見紛うようなリアルな蟹が圧倒的存在感を放つ、近代制作の陶磁器として初めて重要文化財に指定された超絶技巧の賜物である。
41歳
時代の空気を読み取り、陶器から磁器へ転向
しかし、神業ともいうべき高浮彫で世界を席巻した香山は、82年頃から古陶磁や釉薬の研究開発に打ち込むようになった。理由のひとつには、一作品つくるのに「半年から六年位かかる」という高浮彫の費用対効果の低さがある。また、この頃、欧米では釉薬の下に絵付を施す「釉下彩」や中国清朝の磁器に対する評価が高まりつつあり、眞葛焼の主力製品を陶器から磁器へシフトする狙いもあった。
10年ほど取り組んだ彫刻的な陶器から磁器に転向した後も、香山の評判が下がることはなかった。93年のシカゴ万博においても金牌を受賞し、出品作のひとつである中国陶磁に見られる器形に釉下彩を用いた『黄釉銹絵梅樹文大瓶』も現在、重要文化財に指定されている。これ以降も数多の受賞歴を誇る香山だが、50年以上にわたり香山の作品を蒐集する「眞葛香山」研究の第一人者である田邊哲人は香山について、「高浮彫の時代を最盛期と考えている」。そして、「その後の作品群は中国陶磁や西洋風へと一変するからだ」という見解を示している。
過剰なまでの装飾性が特色の高浮彫から端正で優美な磁器への転換は、実用性を超えた芸術的形態の縄文土器が、大陸文化の流入と共に、均整美を見せる弥生土器へとかたちを変えていったことと重なる。確かに、縄文的で躍動感に満ちた眞葛焼が、欧米の美的趣味に則った製品と化したことで、独自の迫力を失ってしまったことは否めないだろう。しかし、香山は一介の芸術家ではなく、眞葛焼の創始者として多くの弟子や下職を抱え、国の殖産興業政策の一環としてやきものづくりに携わる責任ある立場の人間。国内外の需要や流行の変化を敏感に察知して対応する能力がなければ、国際舞台で競争力を維持し、世界で存在感を示すことなど到底叶わなかっただろう。
55歳
現在の人間国宝「帝室技藝員」を拝命する
96年、香山はそれまでの功績が認められ、現在の人間国宝の前身ともいえる帝室技藝員に任命される。しかし、名実ともに日本を代表する陶芸家としての地位を確立しても、香山はやきものづくりを追求する姿勢を崩さなかった。そして1916年、香山が最後の仕事として世に出したのが、81年に発表した蟹と同形の“高浮彫”による『高取釉渡蟹水盤』だった。ただし、本作は前作と異なり蟹の文様を“釉下彩”で表し、人生を懸けて極めた両技術を掛け合わせた「日本固有なもの」を死に際に残して、香山はその生涯を閉じた。
【香山の格言】
「私は何処迄も日本固有なものを保存したいが一念である」