松下幸之助や岸信介が愛した戦後最もクレイジーな陶芸家

 

「値段は聞いてくれるな」という超高級テーラーなのに大繁盛。
趣味の古陶磁集めが高じ、日本の敗戦をきっかけに全てを捨てて野人の陶芸家に転身。
「愚朗を理解できる方だけに貰って頂く」という不遜と毒舌をまき散らしながらも、政財界人や芸術家から熱烈に愛された男の生涯とは─?

 

イラスト:たまゑ

 

 明治25年、台東区谷中に生まれた上口愚朗(本名・作次郎)は、高等小学校卒業後、宮内省御用達の大谷洋服店に弟子入りした。とはいえ、そのような格式の高い店がすんなりと弟子を取るわけもなく、頑固な小僧に手を焼いた店が母親を呼び出すなど、ごたごたの末にようやく弟子入りがかなったという。

 愚朗はそこで明治天皇、皇太子殿下(大正天皇)、皇孫殿下(昭和天皇)のお召し物の縫製にも携わった。だが、自身の学びとして重要だったのは、宮内省御用達の技術ではなく、当時の大官たちが手入れのために持ち込んだ英国製の洋服を夜中にこっそり分解し、朝までに元通りに縫い上げることで体得した英国流の縫製技術だった。

 

26歳

グロテスクな超高級テーラーの誕生

 そして10年の修業を経た後、実家を建て替え『超流行上口中等洋服店』を開く。中等というのは愚朗流の洒落で、実際は「値段は聞いてくれるな」という営業方針のもと、英国から直輸入した洋服生地や付属品を使用した日本一高級な洋服店だった。

 寺と墓ばかりの谷中という場所にありながら、店先にトーテムポール、屋根上に異様な人形を配した山小屋風の店舗は、お化け屋敷のようだと衆目を集めた。また「谷中のグロテスクな家」と呼ばれていたことを逆手にとった愚朗は、「宿スク」主人を標榜した。この人を食ったようなブランディングと仕立ての良さが相まって洋服店は繁盛し、昭和初期には弟子を十数人抱えるほどになる。そして稼いだ金は、中国・韓国・日本の古陶磁や、当時誰も見向きもしなかった和時計の蒐集に費やした。

 

46歳

陶芸にどハマりする

 洋服店として最盛期を迎えた頃、愚朗の人生を大きく左右する人物との出会いがあった。百五銀行頭取で、趣味で陶芸に手を染めた数寄者・川喜田はんでいである。縁あって伊勢の半泥子を訪ねた愚朗は、そこでロクロの挽き方を覚えた。『半泥子』の他に、『無茶法師』や『』等の号を持つ、常識にとらわれない半泥子の自由な発想や生き方は、あたかも愚朗のようであり二人はすぐに意気投合した。

 すっかり作陶に魅せられた愚朗は庭に窯をつくり、自身が蒐集した古陶磁を研究し、その再現にのめり込むようになった。かつて英国製の洋服をばらし、技術の吸収に心血を注いだ青年時代のように、新たに情熱を傾けられるものを見つけた愚朗だったが、程なくして日本は太平洋戦争に突入する。

 徴兵の対象年齢から外れていた愚朗は、空襲による焼失を避けるため蒐集した陶器類を土中に埋め、戦中も作陶に励んだという。日に日に戦局が厳しくなり命の危険が迫る中、ひたすら創作活動に打ち込んだ愚朗の心中は計り知れないが、おそらく再出発に向けた備えの日々だったのではないだろうか。

 

53歳

日本も自分もゼロからスタート

 日本は敗戦国となり、出征した弟子たちは戦死し、洋服店は自然廃業状態となった。全てを失った愚朗だが、幸いにして土中に埋めた陶器類は守られた。戦後すぐにそれらを掘り起こした愚朗は、店の前の焼け野原の土地を買い、窯とロクロ場を築き、畑を耕し、自給自足の生活に入る。一流テーラーの名声を捨て、趣味陶芸の野人として生きていく道を選んだのだ。

 愚朗の陶芸は大きく分けて二通りあり、ひとつは戦前から取り組む伝統的な茶碗の忠実な復元と、もうひとつは「野獣派陶碗」と名付けたアクの強い茶碗の制作である。そして売買する茶碗作りは商工業だと公言し、展覧会では買い手がつかないような高値を付け、「愚朗を理解できる方だけに貰って頂く」という態度をとった。

 翻って現在の日本のアートシーンでは、自分の中で最も売れた作風を売れる分だけ自己模倣する商工業アーティストが「完売作家」などと持て囃され、オリジナリティの追求よりも追加発注をさばくことに忙しい。ともすれば、愚朗の振る舞いは単なるひねくれ者と映るかもしれないが、生粋の芸術家としての姿勢を貫こうとすれば避けられない誤解だったのかもしれない。

 

65・69歳

人間国宝を痛烈にディスる

 現に歴史上・芸術上、特に価値の高い工芸技術を保護・育成するために開催される日本伝統工芸展に2回(第4回/第8回)の入選を果たすなど公的な評価も受けている。しかし、落選した折には美術雑誌で入選作を酷評するのが愚朗流。それは相手が人間国宝(重要無形文化財)でも変わらず、自らを「不要無名文化財」と名乗り、毒舌をまき散らした。当然、反感を買うことも多かったが、一方では松下幸之助や岸信介をはじめ、熱烈に愚朗を支持する人たちも少なくなかった。

 

78歳

死んでも反骨アーティスト

 昭和45年、家族に葬式を禁じ、「オレが死んだら骨の粉をまぜた釉薬を、生前に作った茶碗にかけて焼いてほしい。骨はカルシウムだから、明るい色の茶碗ができるだろう。それを形見分けとして配ってくれ」と遺言した上口愚朗は78歳で生涯を閉じた。

「やきものは窯から出なければわからない。人間は窯に入らなければわからない」との言葉を残した愚朗だが、死後も反骨であろうとした本物が、現段階では“知る人ぞ知る”という仕打ちを受けていることが何とも解せない。

 

【愚朗の格言】

「トイレに入るときは流行も流派もなく、本音と建前もない。
生まれたままの自然な姿で、他人に見せるわけでもない。これが真の芸術である」

※「ウンコ哲学」を提唱し、自らを「雲谷斎うんこくさい愚朗」とも称した。