川喜田半泥子かわきたはんでいし 1878 - 1963 享年85

 

豪商の道楽が、近代陶芸を変えた─
「素人の自由」が窯の中で燃え上がるまで

 

健全経営を貫き「安全第一」を掲げた銀行家は、
金融恐慌の只中でも揺らがなかった。だがその同じ人物が、
もう一つの顔として、常識に収まらない道楽を生きた。
焼物である。職人ではない。あくまで素人のまま、
うまさより面白さへ賭け、土と炎に挑みつづけた。
しかもその自由は、のちに人間国宝として名を刻む陶工たちの
感覚にまで影響し、近代陶芸の流れを静かに揺さぶっていく。

イラスト:たまゑ

 

 1878年、川喜田半泥子(本名・川喜田久太夫政令)は、伊勢商人屈指の豪商・川喜田久太夫家の長男として誕生した。しかし、生後すぐ祖父と父を失い、1歳にして家を継ぐ立場となる。若い実母は実家へ戻され、半泥子は祖母・政の手によって育てられた。
 三重県尋常中学校に入学した半泥子は、同校に赴任していた藤島武二から洋画を学んだ。のちに近代洋画壇を担う藤島の薫陶は、技術にとどまらず、美を見分ける基準を少年の半泥子に刻み込んだ。また、この頃からガラクタ屋の店先で焼物を眺めるのが好きだったという。家督を継ぐ身でありながら、半泥子の視線はすでに、商いとは別の“手触り”へも伸びはじめていた。

 

21歳

「われをほむるものは悪魔と思え」──懐に忍ばせた戒め

 半泥子が21歳を迎えた日、祖母・政は一通の手紙を手渡した。「われをほむるものは悪魔と思え。われをそしるものは善知識と思え」。そこに記された遺訓は、世間の賞賛を疑い、批判をこそ師とせよ、というものだった。そして最後に、「只何事にも我をわすれたるが第一也」とあった。半泥子はこの遺訓を生涯の指針とし、懐に入れて持ち歩いたという。

 1900年、東京専門学校(現・早稲田大学商学部)に入学するが、翌年退学。同年、分家川喜田四郎兵衛の長女・為賀と結婚した。そして1903年、25歳で百五銀行取締役に就任する。伊勢の豪商としての責務は、ここから一気に重みを増していく。

 

30歳

『半泥子』として生きる覚悟

 1908年、半泥子ははじめて参禅し、翌1909年、大徹禅師のもとで内観法を授かり、『半泥子』の号を得た。半ば泥みて、半ば泥まず─没頭しながらも、己を見失うな、という戒めが込められている。同じ頃、津市議会議員に当選し、翌年には三重県議会議員となる。政治の世界にも足を踏み入れながら、百五銀行の重責も含め、以後、数々の企業の要職を担っていく。

 だが、その責務を背負うほどに、半泥子の内側では、焼物をはじめとする遊芸への熱が増していった。それは、忙しい合間の息抜きなどではなく、最初から「道楽」で押し通すしかないものだった。職業として器を売る必要もなく、誰かに褒められる必要もない。上手く作るより先に、面白く作る。そういう“素人の自由”を信じていた節がある。

 それは、半泥子が師と仰いだ本阿弥光悦の姿にも重なる。家業を持ちながら、書や陶や漆へと軽やかに遊び、本業の外側で名を残した人物だ。半泥子はそこに、素人のまま型の外へ踏み出す強さを見ていたのだろう。

 

34歳

道楽が現実を押し返しはじめる

 その起点は1912年だった。半泥子は千歳山を購入し、その土で手びねりの茶碗を焼いた。ほどなく山は、商いの外側にもうひとつの時間を生み、1915年には邸宅を建て、暮らしの重心をそこへ移す。

 やがて1925年、千歳山北部に石炭窯を築いた。当初は陶工に焚かせたが、意にかなうものができなかった。結局、伊勢の豪商として日々の現実を引き受けながら、自ら土と向き合い、形を与え、炎に委ねるようになる。はじめて納得のいく一碗が焼き上がったのは54歳の時だった。

 

52歳

銀行と窯を往復する日々

 1933年には、自邸付近に陶磁器研究家の小山冨士夫の設計で登り窯を築くが、失敗に終わる。「此の時から一転して窯を築く事に興味を覚える事になった」。そこから、多治見や瀬戸、唐津、さらには朝鮮にも足を運び、古窯を見て回り、構造を身体に刻んだ。改造を重ねた窯は、ついに名工・加藤唐九郎から「これなら焼けます」とお墨付きを得る。

 窯の傍には轆轤場を設け『泥仏堂』と名づけた。半泥子は朝起きると泥仏堂へ行き手を動かし、夕方、銀行から戻ると、再びこもった。半泥子にとって多忙は創作を遠ざける理由ではなく、むしろ火を生かすための薪だったのではないだろうか。

 

64歳

のちの人間国宝に心構えを授ける

 1942年、半泥子は荒川豊蔵、金重陶陽、三輪休和(十代休雪)らと『からひね会』を結成する。いずれも半泥子より十数歳若い世代。目指したのは、桃山の茶陶が持っていた自由さ──型をなぞる復古ではなく、その跳躍を現代に取り戻すことだった。半泥子は彼らから技を学ぶ一方で、川喜田家所蔵の名品を惜しみなく見せ、審美の眼と覚悟を渡していった。写すだけでは届かない領域がある。彼らが半泥子から受け取ったのは、そんな「つくり方」の心構えだった。のちに3人はいずれも人間国宝として名を刻む。

 終戦の年、半泥子は百五銀行頭取を辞し、会長職に移る。千歳山の邸宅は進駐軍に接収され、津市郊外の廣永に十坪半の小さな家を建て、弟子と共に焼物三昧の日々へ入る。
 ここで半泥子は、いよいよ「人に褒められたくない茶碗」という境地へ近づく。整っていないことを恐れず、きれいに寄せない。半泥子が生涯追ったのは、評価のための造形ではなく、「これでお茶を飲みたい」と思える一碗だった。

 半泥子はある芸者のひと言を面白がり、『無茶法師』の号を加え、さらに『莫迦耶廬(バ カ ヤ ロウ)』まで名乗ってみせた。「安全第一」を掲げ、健全経営に徹した銀行家が、同じ口で「バカヤロウ」と笑う。その落差の大きさこそ、川喜田半泥子という人間の器だった。

 

【半泥子の格言】

われながら、馬鹿か利口か、気狂いか