宮武外骨みやたけがいこつ 1867 - 1955 享年88

 

危険人物にして記録者─
時代に抗した執念の軌跡

 

不敬罪による投獄、度重なる発禁と罰金、
それでも折れない諷刺の筆。
生涯に発行した雑誌・書籍は百二十余に及ぶ。
さらに廃姓を掲げて差別に異を唱え、
震災後は散逸しかけた新聞雑誌を蒐めて残す側へと向かった。
奇人や変人では到底くくれない、
近代日本に異議を申し立て続けた危険人物の実像を追う。

イラスト:たまゑ

 

 1867年、宮武外骨(幼名・亀四郎)は讃岐国阿野郡小野村(現・香川県綾川町)に、庄屋の父・吉太郎と母・マサノの四男として生まれた。11歳で高松栄義塾に学び、塾生のあいだで回し読まれていた滑稽諷刺雑誌『団団珍聞まるまるちんぶん』や『驥尾団子きびだんご』に夢中になる。世の中の建前や権威を、笑いと皮肉でひっくり返す言葉の力に、この頃すでに魅せられていたのだろう。14歳で上京すると、本郷元町の進文学舎で漢学を修めるかたわら、宮武昭や凹凸亭瓢々などの名で、雑誌や新聞に狂詩や狂歌をしきりに投稿し、操觚者そうこしや(文章で身を立てる者)として生きる覚悟を固めていった。

 

17歳

「外骨」誕生、そして最初の筆禍へ

 約2年の遊学を終えて帰郷し、翌春、亀四郎は「外骨」と改名し、これを戸籍上の本名とした。さらにその年の暮れ、旧高松藩士族の娘・西村房子と交際をはじめる。だが、房子との結婚は家族に反対され、1885年、再び上京した。そして19歳で『屁茶無苦新聞』を創刊するが、発行と同時に風俗紊乱罪で発売禁止となり、そのまま廃刊に追い込まれる。それでも翌年には『頓智協会雑誌』を創刊し、千部売れれば上出来とされた時代に、たちまち4千部を売る盛況を見せた。
 だが、その勢いは長くは続かなかった。創刊から2年、28号に載せた「頓智研法発布式之図」が不敬に問われる。大日本帝国憲法発布式をもじり、玉座の上に骸骨を置いたこの挿絵には、自らの名を重ねた外骨らしい諧謔もうかがえる。だが、その洒落は許されず、天皇を想起させる表現が問題視されたのだ。外骨はこの一件で3年8カ月に及ぶ獄中生活に入り、その獄中で、のちに博報堂を創業する瀬木博尚と出会い、生涯にわたる親交を結んだ。

 出獄時には、すでに房子との関係も切れていた。その後、緒方八節と入籍するが、『骨董協会雑誌』の失敗で4千円以上の負債を抱え、台湾へ逃れる。現地で養鶏事業を興したが、これも失敗し、半年ほどで帰国して大阪へ向かった。

 

34歳

7万部の熱狂と度重なる言論弾圧

 外骨が次に打ったのが、『滑稽新聞』だった。これは外骨が生涯に手がけた雑誌のなかでもっとも長く続き、最盛期には7万部を売る人気を博した。だが、その8年間は筆禍の連続でもあった。外骨自身が2度入獄し、関係者も3度入獄、罰金刑13回、発行停止4回、発売禁止3回、さらには警察による営業妨害まで受けた。それでも諷刺の筆を折らなかったが、度重なる言論弾圧の前に、ついに1908年、自ら『滑稽新聞』を「自殺号」として閉じた。

48歳

選挙を暴き、姓を捨てる

『滑稽新聞』廃刊後、外骨は言論の場にとどまらなかった。1915年、さらに17年にも衆議院議員選挙に立候補し、演説会で候補者たちの不正を暴いた。投票前から「落選報告演説会」まで予告するそのやり方は、選挙そのものを告発と諷刺の舞台に変える、いかにも外骨らしい実践だった。15年には八節を亡くしたが、その後も3人と入籍した。

 1921年、外骨は姓が差別を生むとして「宮武」を廃し、「廃姓外骨」を名乗るようになった。その年に創刊した『一癖随筆』には「廃姓広告」まで載せ、以来、「宮武さん」と呼ばれても返事をしなかったという。それは、社会に染みついた身分や家柄の差別感覚への異議申し立てだった。

 

60歳

消えゆく新聞雑誌を救うために

 1923年の関東大震災で東京の文化遺産が灰になっていくのを見た外骨は、明治期の新聞雑誌や活字資料の散逸に強い危機感を抱き、発行する側から残す側へと重心を移していく。『大正デモクラシー』の思想的指導者で東京帝国大学法学部教授の吉野作造らと明治文化研究会を立ち上げ、盟友の瀬木博尚にも相談した。瀬木はその構想に応えて東京帝国大学へ15万円を寄付し、1927年、明治新聞雑誌文庫の業務がはじまる。その文庫の中核となったのは、外骨が青年時代から集めてきた新聞雑誌と、吉野らが持っていた資料群である。さらに外骨は事務主任として全国を蒐集旅行で飛び回り、各地に埋もれていた資料を掘り起こしていった。こうして築かれた明治新聞雑誌文庫は、現在も東京大学で受け継がれ、近代史、文化史、ジャーナリズム研究を支える基盤となっている。

 

67歳

45年後の雪冤、そして「宮武外骨」へ

 1934年、友人で大審院判事の尾佐竹猛から一通の郵便が届く。そこに同封されていたのは、帝国憲法制定に関わった法制局長官・井上毅が伊藤博文に提出した意見書の写しだった。そこには、「頓智研法発布式之図」の一件が、検察官や警察官の行き過ぎた取り締まりの実例として記されていた。若き日に不敬とされたあの筆禍は、45年を経てようやく雪冤を果たしたのである。そして、友人らが発起人となり開かれた「筆禍雪冤祝賀会」の席で、瀬木博尚の勧めを受け入れ、外骨は「宮武外骨」に戻ることを決める。2カ月後、その旨を『公私月報』51号に記し、「廃姓広告」は取り消された。

 権威を笑い、制度に楯突き、差別に抗い、時代の記録を蒐めて残したその生涯は、つねに世の中の当たり前を疑い抜く営みだった。奇人、変人、好色漢。そんな通俗的な呼び名では、この男の本質は摑めない。宮武外骨とは、世間が見過ごそうとするものを拾い上げ、権力が押しつける見方に最後まで抗い続けた人だったのである。

 

【外骨の格言】

余は危険人物なり