前田藤四郎 1904 - 1990 享年85
前衛を追い、大衆を見つめる
──版画で結んだ二つの世界
広告の仕事で印刷技術を学び、
海外の前衛美術を吸収する一方、
「三文版画」を掲げて庶民の暮らしを描いた前田藤四郎。
沖縄の文化との出会いから作風を広げ、
やがて木目から幻想的な世界を生み出していく。
実験精神と大衆へのまなざしをあわせ持った
版画家の人生をたどる。
1904年、前田藤四郎は兵庫県明石市西新町に、父・藤平、母・ふさの四男として生まれた。少年時代は父や友人と明石の海へ釣りに出かけ、その風景は深く記憶に刻まれた。のちに前田は、「明石原人」と呼ばれる人骨化石や明石象の化石が発見された故郷から、古代への幻想も膨らませていく。
幼い頃から絵を好んだ前田は、伊丹中学校で通信教育により水彩画を学び、美術学校への進学を望んだ。しかし、経済的な事情から断念し、1923年、神戸高等商業学校(現・神戸大学)へ入学。当時の神戸、大阪では都市化とともに新たな文化が花開きつつあり、前田も前衛美術や新劇、映画に触れ、翌年には学内の仲間と美術グループ「青猫社」を立ち上げた。
23歳
軍隊で見つけた版画への道
1927年、神戸高商を卒業した前田は、松坂屋大阪店の宣伝部に就職するが、その年の暮れに召集され、姫路第39連隊へ入隊した。
芸術から遠ざかるようにも見える軍隊生活のなかで、前田が手にしたのが、版画家・平塚運一の著書『版画の技法』だった。本を頼りに独学で版画を始め、翌年には射撃訓練で標的を確認するための鏡をモチーフに《監的鏡》を制作。鏡の向こうに現実とは異なる世界を見出したこの作品は、前田の版画家としての原点となった。
25歳
広告と前衛、その両方を武器に
除隊した翌1929年、前田は結婚し、義兄・由井安三郎が経営する宣伝広告印刷会社『青雲社』に入社。グラフィックデザイナーとして商業美術に携わった。この頃の大阪は「大大阪」と呼ばれ、都市の消費文化も活況を呈していた。商業美術の現場に身を置く一方、語学に堪能な由井を通して海外の美術雑誌や美術書にも接し、マックス・エルンストら欧州前衛美術への理解を深めていく。
広告で培った印刷技術への関心と、海外の前衛美術から受けた刺激を版画にも持ち込み、前田はさまざまな技法や既成のイメージを取り入れて実験を重ねた。なかでも1932年の《時計》では、リノカット(リノリウムを版材にする版画技法)に写真製版を併用。版画にこの技術を取り入れた日本初の試みとされている。
1933年には、大衆の生活を題材にした版画を、あえて「三文版画」と称し、フランスの安価な民衆版画になぞらえて「昭和エピナール」とも名づけた。前田にとって表現を追求することと、それを大衆の暮らしへ開くことは、決して矛盾するものではなかったのだろう。
35歳
沖縄への旅が変えた、創作のまなざし
1939年、前田は約1か月沖縄を旅し、紅型や舞踊など独自の文化に魅了された。それまでモダン都市を舞台に超現実的な作品を手がけてきた前田の画面には、南国の明るい色彩や伝統的な意匠が入り込むようになる。沖縄を題材にした「琉球シリーズ」を制作し、《紅型》などを出品した春陽会展で春陽会賞を受賞。この旅を境に、風土や暮らしのなかから自ら題材を見つけ、描く姿勢が強まっていった。
戦時下の1943年からは東亜文化振興会の嘱託として満州へ渡り、街や人々をスケッチする一方、中国の民衆版画や切り紙にも触れた。戦後は、焼け跡となった大阪の闇市や盛り場へ目を向け、《カストリ横丁》などに庶民の姿を描いた。華やかな都市文化から戦後の混沌へと街の姿が変わっても、前田の視線はそこに生きる人間から離れなかった。
49歳
木目から生まれた幻想の世界
1950年代に入ると、前田は廃材などの木目を紙にこすり出すフロッタージュを本格的に用いるようになる。木目を単なる模様として使うのではなく、そこに山や海、大地、人の姿などを見出し、別のイメージへと変えていった。木が生み出した線を生かすこの方法は、やがて前田を代表する表現となった。
その後は抽象性も強まり、《古代人》など幻想的な作品が生まれていく。故郷・明石を題材にした《明石原人の海》もこの時期に制作された。少年時代から身近だった海と古代への幻想、そして木目に海や大地を見る想像力は、前田のなかでどこか響き合っていたのかもしれない。
68歳
世の中を笑い、再び前衛へ
1970年代、前田は大阪の美術環境そのものにも積極的に関わるようになる。大阪万博の美術館を恒久的な施設として残す運動に奔走し、1972年には『国立現代美術館推進協議会』の代表に就任した。
一方、制作ではオイルショックや政治事件など、世相を題材にした風刺的な作品を手がけるようになる。若き日に「三文版画」を掲げた前田は、社会への批判さえユーモアに変え、世の中を笑い飛ばした。
さらに80代になると、版画にとどまらずオブジェ制作にも取り組んだ。故郷・明石で拾った瓦など、身近なものを組み合わせて奇妙な造形を生み出していく。その発想は、青年時代に魅了されたマックス・エルンストの作品世界にも通じ、半世紀を経て前田は再びシュルレアリスム的な表現へと接近していった。一つの様式を完成させてもそこに安住せず、老境を迎えてなお新たな表現に手を伸ばす。その旺盛な好奇心は、生涯衰えることがなかった。
【前田の格言】
新しいこと、これ美なり