草間彌生 1929 -
病いと
幻視の果てに生まれた
世界のヴィジョン
草間彌生の歩みは絶えず病いとの共生であり、 批判と喝采の狭間で揺れ動いた。 幼き日の幻覚を描きとめることからはじまり、 NYでの挑戦と挑発、帰国後の孤立を経て再生へ。 精神病院とアトリエを往復しながら生み出された幻視の宇宙は、 ついに世界を覆うヴィジョンとなった。

1929年、草間彌生は長野県松本市に生まれた。4人兄弟の末っ子で、家は種苗業を営む旧家だった。父は奔放、母は厳格で、家庭は常に不穏な空気に包まれていた。そうした環境で育った草間は、小学校に入学する頃から幻覚や幻聴に苛まれるようになる。畑のスミレが顔に変わり、模様が視界を埋め尽くす。恐怖を和らげる唯一の術は、それを紙に描きとめることで、その行為こそが創作の原点となった。
松本高等女学校に進学した草間は、そこで美術教師で日本画家の日比野霞径に出会う。日比野は早くから草間の画才を見抜き、両親に画家の道を勧めたが、母は激しく反対した。画家を志す娘と母との間には絶えず衝突があったが、それでも草間は筆を手放さず、やがて京都市立美術工芸学校で日本画を学ぶことになる。しかし、そこに横たわる技法的な制約や因習に縛られた画壇に窮屈さを覚え、草間は独自の表現を模索するようになった。
22歳
初個展からはじめる転機
郷里で開いた初個展を偶然訪れたのが、信州大学の初代精神科教授・西丸四方博士である。1952年のことだった。博士はその時の印象を「狂的な抽象画に圧倒されるほどの迫力を感じた」と述べ、実際に会った際にはその不安定さを敏感に察知した。そして、「家にいたらあなたはもっとノイローゼになるから、少しでも早くお母さんから離れなさい」と助言した。この言葉が草間を日本の外へ向かわせる大きなきっかけとなった。
戦後日本は依然閉鎖的で、若い女性が芸術で身を立てるのは難しかった。保守的な画壇に居場所を見いだせず、草間はついに1957年、過去作数千点を焼却し、未来への覚悟を胸に単身アメリカへ渡った。
28歳
生き地獄のNYから前衛の最前線へ
ニューヨークに到着した草間を待ち受けていたのは苛烈な現実だった。持参した資金はたちまち底をつき、ガラス窓が破れ放題のアトリエで、寒さと空腹に追い詰められていった。心身を病むほどの極限状態を、草間は描くことで耐えた。そうした苦境を押し破り、1959年にブラタ画廊で最初の個展を開く。出品作の『インフィニティ・ネット』と呼ばれる網目模様の絵画5点は、その執拗な反復から「強迫的」とも形容され、批評家の注目を集めた。これを契機に、草間はニューヨークの前衛美術界で存在感を強めていった。
60年代に入ると絵画にとどまらず、布に詰め物をした突起物を並べる『ソフト・スカルプチュア』を制作し、さらに鏡や電飾を駆使したインスタレーションで、空間そのものを作品化していった。そこには幼少期の幻覚体験を具現化する感覚が息づいていた。
36歳
挑発的パフォーマンスへの喝采と批判
1965年からは公共空間を舞台に「ハプニング」と呼ばれるゲリラ的パフォーマンスを繰り広げた。裸体の参加者に水玉を描き、愛と平和を訴える行為は、次第に過激さを強めていった。自伝『無限の網』によれば、5番街のセント・パトリック大聖堂の前でヒッピーらを全裸にさせ、星条旗60枚を燃やし、その炎に聖書と徴兵カードを投げ込ませたこともあった。こうした挑発的なパフォーマンスはメディアで大きく報じられ、同時に社会的な批判や圧力も呼び込んだ。サイケデリック文化とも響きあった活動は草間の名を広く知らしめたが、商業的・批評的な成功にはつながらず、70年代に入るとニューヨークでの活動は次第に勢いを失っていった。
64歳
理解なき日本、復活の契機はヴェネツィアに
そして1973年、心身の不調や経済的困窮も重なり、草間は日本へ帰国する。だが、アメリカでの過激な活動は理解されず、スキャンダラスな存在としてバッシングを浴びた。精神の均衡を崩した草間は1975年に一時入院し、77年からは新宿の精神病院に拠点を移す。以後、病院とアトリエを往復しながら制作を続け、1983年には小説『クリストファー男娼窟』で野性時代新人文学賞を受賞するなど、表現の幅を広げていった。
それでも国内での評価は長く低迷した。転機となったのは1993年のヴェネツィア・ビエンナーレである。日本館を彩ったインスタレーションが国際的な注目を集め、草間は世界の舞台で存在感を取り戻す。それ以降、欧米を中心に回顧展が相次ぎ、日本でも再評価の気運が高まっていった。
87歳
芸術家として世界と祖国に讃えられる
2000年代に入ると人気は爆発的に拡大、展覧会は連日満員となり、『インフィニティ・ミラールーム』での自撮りは、SNS時代を象徴する光景となった。2012年にはルイ・ヴィトンとの大規模コラボレーションで、世界中の街のショーウィンドーが草間の代名詞でもある水玉模様で染まり、2016年には『タイム』誌の「世界で最も影響力のある100人」に日本人で唯一選ばれ、同年文化勲章も受章する。翌2017年には東京・新宿に草間彌生美術館が開館し、その活動は恒久の拠点を得た。
幻覚に追われて恐怖を絵に変えていた少女は、やがてその幻覚を世界へ提示する芸術家へと変貌した。病いを抱えながらも筆を止めず、その姿は偏見を超えて受け入れられた。草間彌生の歩みは、生と芸術が交錯した軌跡として鮮烈に刻まれている。
【草間の格言】
「私は一度たりとも、すべて決定されたものの中に
身を置いたことはなく、常に自由の中にのみ生きている」