棟方志功 1903 - 1975 享年72
油絵を疑った先に開けた道─
「日本から生まれ切れる仕事」の正体
油絵に打ち込みながらも、
青年は自分の身体とのズレを感じ取る。
西洋の方法で日本人が描くという違和感を押し込めず、
別の道を探した時、出会ったのが木版画だった。
刃が走る画面から立ち上がった造形は、
日本の表現が持つ別の可能性を可視化し、
やがて世界の舞台で既存の美術観を揺さぶる存在となっていく。
1903年、棟方志功は、青森市で鍛冶屋を営む父・幸吉と母・さだの三男(九男六女の第六子)として誕生した。幼い頃から視力が弱かった棟方は、物のかたちをはっきりとは捉えにくいまま育った。その目に映っていたのは、火と鉄の匂いが漂う鍛冶の暮らしで、刃物は道具である以前に、日々の空気のように身近な存在だった。
はっきり見えない視界と、刃のある日常──それらは、のちの表現へ向かう感覚の下地として、無意識の層で作用していたのかもしれない。
18歳
「わだばゴッホになる」と叫んだ日
青森市立長島尋常小学校に入学した棟方は、青森名物の凧絵やねぶた絵の図柄や色彩に強く惹かれ、級友たちの求めに応じて絵を描くことも多かった。卒業後は家業の鍛冶職を手伝い、のちに青森地方裁判所の給仕となる。仕事の合間に写生を重ね、18歳の時、雑誌『白樺』に掲載されたゴッホの『ひまわり』に衝撃を受け、「わだばゴッホになる」と叫び、油絵画家を志すようになった。
25歳
二つの道が同時に開いた年
1924年、上京。当時、日本で最も権威のある展覧会だった帝展入選を目標にするも落選が続き、先に入選を果たしていた同郷の後輩からは「デッサンができていない」と指摘を受ける。努力しても評価の枠に届かない現実が、油絵そのものへの疑問を芽生えさせる。それは、油絵がどうしても西洋絵画の枠組みに立つ表現であることへの違和感とも連なっていた。自分は「日本から生まれ切れる仕事」に向かうべきではないか──その思いがまだ輪郭を持たないまま揺れていた折、川上澄生の木版画《初夏の風》に触れ、油絵とはまったく異なる画面の成り立ちに、別の表現の道の気配を見いだす。敬愛するゴッホが日本の浮世絵版画を高く評価していた事実も、ここで結びついた。そこに自分の進むべき道があるのではないかという直感だった。
やがて棟方は版画制作をはじめるが、油絵を捨てたわけではない。上京して5年目に、油絵で念願の帝展入選を果たす一方、同年、日本版画協会展でも初入選する。この時期の棟方は、油絵と版画のあいだを行き来しながら進路を探っていたが、次第に自らの表現が最も力を発揮する場所が版画にあると確信する。弱視の棟方には、視線で整える絵画より、刃の勢いがそのまま残る版画の方が、身体に無理なく馴染んだ。
33歳
理解者との邂逅が道を広げる
転機となったのは、日本神話を題材にし、国画会展に出品された連作《大和し美し》である。黒と白を基調に、膨大な文字列のなかに図像があらわれ、構成要素がほとんど余白なく画面を埋め尽くしている。読むという行為と見るという行為が同時に押し寄せるこの構造は、文字もまた図像と並ぶ造形要素として機能する。その画面は、当時の版画界の主流から明らかに逸脱した迫力を放っていた。
1936年、この作品は日本民藝館に買い上げられ、棟方は柳宗悦、濱田庄司ら民藝運動の中心人物と出会う。交流のなかで仏教や古典文学への関心も深まり、作品は次第に宗教的主題へと傾いていく。当時の棟方の暮らし向きは決して安定したものではなかったが、その才能を高く評価した柳らは、作品の発表や仕事の機会をつくるなどして、棟方が制作に打ち込める環境を支えていった。
そうした支えのもとで制作を重ねるなか、棟方は、自身の仕事を従来の「版画」という枠では捉えきれなくなっていく。そして39歳の時に刊行した『板散華』において、これまで用いてきた「版画」という表記を退け、以後は「板画」と記すことを宣言する。図像を写し取る技法ではなく、板に刻む行為そのものを表現とする姿勢が、この一語に凝縮されていた。
53歳
日本から出た表現が試された舞台
その造形活動は展覧会の場にとどまらず、戦後の出版文化のなかへも及んでいった。棟方は数多くの文芸書の装丁や挿絵を手がけ、版画家としての仕事が文学の領域にも届くようになる。なかでも、谷崎潤一郎の作品を担当した仕事は、その名が美術界の外へも知られる契機の一つとなった。
国内での評価は次第に高まり、独自の存在感を強めていくなかで、棟方の「日本から生まれ切れる仕事」は、そのままの姿で国外へ届く。1956年、「美術界のオリンピック」とも称されるヴェネチア・ビエンナーレで国際版画大賞を受賞する。日本人初の快挙は、既存の版画観から外れて見えたその表現が、世界の舞台でそのまま通用した瞬間だった。
67歳
造形そのものが道を開いた
その後も制作の勢いは衰えない。57歳で左目の視力を失ってからも制作量はむしろ増し、1970年には文化勲章を受章する。日本芸術院会員を経ることなくこの受章に至った経歴は、制度の順番を踏んだのではなく、造形そのものが評価を呼び寄せた稀有な例である。
幼い頃、級友たちの前で「世界一になる」と口にしていた少年は、やがて「世界のムナカタ」と呼ばれる存在となった。その造形は、もはや勝ち負けの言葉では測れない場所に立っていた。
【棟方の格言】
片目は完全に見えませんが、まだ片目が残っています