浮世絵と狩野派、異なる画法を我がものとした幕末の天才二刀流絵師
幕末・明治の動乱期、庶民の娯楽の『浮世絵』と、時の権力者のための美術の『狩野派』という相容れない絵画を習得し、新奇なる日本画の表現を追求し続けた河鍋暁斎。
泥酔して描いた絵が当局の忌避に触れ投獄されるなど、「画鬼」の呼び名に相応しい狂態も時に伝えられるが、暁斎は生涯を通じて人気絵師であり続けた。卓越した技巧とユーモアを併せ持つ二刀流絵師が生きた激動の時代を辿る。
1831年、河鍋暁斎(幼名・周三郎)は下総国古河(現・茨城県古河市)に古河藩士・河鍋記右衛門の次男として生まれた。誕生の翌年、父・記右衛門が本郷御茶の水の火消し屋敷に勤務することに伴い、一家は父と共に江戸に出る。
暁斎は赤ん坊の頃から絵を見ることが何よりも好きで、数え年3歳になると、母と館林にある親戚の家に向かう途中で捕まえてもらったカエルを到着するや否や写生したという。
7歳
浮世絵を習い、生首を写生する
息子の天性の資質を見逃さなかった父によって、暁斎は7歳で浮世絵師・歌川国芳の画塾に預けられた。国芳のもとで学んだのはわずか2年余りだったが、庶民たちの趣味趣向を察知し、あらゆる画題や技法を採り入れながら奔放自在に描いた国芳の影響は大きかった。また9歳の頃には、増水した神田川で発見した男の生首を拾って写生するなど、描くことへの異常なまでの執着心で周囲を驚かせている。
19歳
異例の若さで狩野派修業を終えた「画鬼」
その後、暁斎は10歳で駿河台狩野派の前村洞和に入門した。中国の漢画様式を基調に、日本の伝統的絵画のやまと絵の要素を取り入れた狩野派は、室町時代から江戸時代までの約400年にわたり、画壇の中心に君臨し続けた幕府御用絵師集団である。
入門後、画才を見込まれた暁斎は「画鬼」と呼ばれ可愛がられたが、翌年に洞和が病気にかかると、洞和の師で駿河台狩野家当主・洞白陳信に師事することになった。
それから、寝る間を惜しんで本格的な絵画修業に励んだ暁斎は、異例の若さといわれる19歳で『洞郁陳之』の画号を与えらえた。
25歳
大地震を機に、諧謔精神で人気を博す
狩野派修業を終えた後も暁斎の学習は止むことなく、土佐派、琳派、円山四条派、浮世絵など、様々な画派を研究し、画業の研鑽に努めた。転機が訪れたのは1855年。安政の大地震直後に、「鯰が暴れると地震が起こる」という民間信仰のもと、戯作者・仮名垣魯文と組んで出版した鯰絵が大ヒットする。以降、『惺々狂斎』と号して狂画(滑稽で風刺的な絵)を描き始め人気を博した。
江戸から明治へと移る激動の時代、幕府の後ろ盾を失った狩野派の絵師の多くが生活に窮したが、暁斎に限ってはどこ吹く風であった。なぜなら、暁斎には狩野派の伝統的絵画技法や知識に加え、国芳から学んだ写生技術と世の中をユーモラスに表現する視点があった。その上、日々修練を積み重ねる暁斎は、仏画、美人画、風俗画、動物画など、いかなる画題でもいかようにも描けたからこそ人気絵師たり得たのだ。
40歳
狂斎から暁斎へ、だが酒は止めず
1870年、そんな右肩上がりの暁斎が事件を起こす。上野不忍池辯天堂の境内にある料亭で開かれた書画会(作家が客の面前で即興的に描く催し)で、泥酔状態の暁斎が政府高官を嘲弄する絵を描いたとして投獄されたのだ。この事件よりも前に国芳の『源頼光公舘土蜘作妖怪図』が、天保の改革を風刺した判じ絵(絵に隠された意味を当てる謎解き)であるとの噂が流れて庶民の間で大評判になり、お上の怒りに触れるのを恐れた版元が絵を回収し、版木の処分を講じた一件があった。それ故に、暁斎が引き起した筆禍事件は、師匠譲りの行き過ぎた茶化しとサービス精神が招いた出来事だったと考えるのは早計だろうか。いずれにせよ、これを機に画号を『暁斎』と改めた。
また新富座で上演される芝居のために贈った『新富座妖怪引幕』は、縦4メートル、横17メートルという大作だが、暁斎はこれを2、3本の酒瓶を呑み干した後、衆人環視の中、わずか4時間で描き上げたという(幕の上には暁斎の足跡も残る)。
暁斎は酒が手放せず一部狂態も伝えられることから、豪胆な人物のように思われるが、後年弟子入りしたジョサイア・コンドルによれば、「内気で遠慮深い性格」だったという。自らを解放し、また「極めて奔放なる空想、最も新鮮なる構図、及び大胆不敵な筆致」を生み出す原動力として、暁斎には酒が不可欠だったのだろう。
51歳
日本画の最高賞受賞で汚名返上
1881年、政府主導で開催された第2回内国勧業博覧会で、暁斎が出品した『枯木寒鴉図』が日本画の最高賞の妙技二等賞牌を受賞した。この作品に暁斎は当時の100円という破格の値段を付けたことで会場の係員から非難を受けたが、これを菓子商の榮太樓本舗主人が購入し大きな話題となった。筆禍事件により投獄、笞50の刑を受け放免されて10年。暁斎は自らの画力で汚名を返上した。
さらに同年、明治政府のお雇い外国人として来日したイギリス人建築家ジョサイア・コンドルが暁斎に入門する。「日本近代建築の父」コンドルは工部大学校(現・東京大学工学部建築学科)教師として、辰野金吾(東京駅設計)や片山東熊(迎賓館設計)らを指導し、自らは暁斎に絵を学び『暁英』の画号を受けるまでに腕を上げた。暁斎とコンドルの親密な関係は終生続き、コンドルは暁斎の死に際して、「暁斎は決して我が画業がこれで完成段階に到達したと思ったことはない」と、暁斎の尽きることのない向上心を追悼文で記している。
【暁斎の格言】
「カラス一羽の値段ではなく、長年の画技修業への対価である」
(『枯木寒鴉図』の値段に対して)