異邦人の意識が育んだ “どこにも属さない”オリジナリティ── ユニークなアイデアから生まれる 新たな写真表現

日本、サウジアラビア、シンガポール、イギリス──幼い頃から様々な都市で 過ごしてきた赤木は、言語や文化が異なる場所に溶け込む術を身体で覚えてきた。 「人との繋がり」を持つためのコミュニケーションツールと化した 赤木のカメラに写るものとは──

 

イラスト:たまゑ

 

 1977年、赤木楠平は横浜市で誕生し、幼年期は世田谷区二子玉川で過ごしたが、6歳の頃に父の仕事の都合で一家はサウジアラビアに引っ越した。

 

6歳

最初に覚えた英語は「Fuck you」

 赤木が移り住んだ当時のサウジアラビアは、観光目的の入国が認められておらず、外国人はめずらしい存在だった。インターナショナルスクールに通ったが言葉が通じず、すぐに覚えた「Fuck you」を連呼しては人を怒らせ逃げまわっていた。

 

9歳

バスケットボールとスケートボード三昧の体育会系

 日本に戻ってからはバスケットボールとスケートボード三昧の毎日を送る。特にバスケットボールでは周囲から一目を置かれる存在で、体育会系を自負していたため、「将来こんなこと(写真/アート)をしているとは夢にも思わなかった」という。そして、中学2年の時に、再び父の仕事の都合でシンガポールに引っ越すことになった。

 

14歳

学校の先生はヒッピーやジャンキー

 日本人学校中学部に入学するも、半年ほどで辞め「中学中退」。ようやく異国での生活にも慣れはじめた頃、次はマニラに引っ越すと父から告げられたが、再三の転校で友達と離れるのが辛かったと訴え、これを拒否。その訴えが認められ、赤木はインターナショナルスクールに入り、一人シンガポールに留まった。

 入学した学校の先生は、レイヴ・カルチャーを愛するヒッピーやジャンキーが多く、ルームメイトはヘロインユーザーという「今にして思えば、とんでもない場所だった」。自由な反面、シンガポールには娯楽が少なく、自分たちで考えて遊ぶ必要があった。そんな時、仲間の一人がZINE(非商業的な自主制作の出版物)をつくるというので、絵を描く友人らに交じって、赤木は自分の身の回りの出来事をカメラで撮りはじめた。

 日本で熱中したバスケットボールは、シンガポールのレベルが低く、つまらなくなって離れた。そのため、多国籍な仲間たちと連日スケートボードに興じていた赤木の被写体は、自ずと「スケーターの日常」になった。そうして、遊びが発端で写真を撮るようになった赤木は、当時のガールフレンドが日本に帰ることをきっかけに帰国した。

 

19歳

ひらがなだけの小論文で大学合格

 当初、日本ではスケートボードショップをやるつもりだったが、日本大学(芸術学部写真学科)に帰国子女枠があることを知る。会場に行くと自分一人しかおらず、ひらがなだけの小論文を提出したが合格した。入学すると、授業では手を挙げるほど真面目に写真を学び、周囲からは「うまくなったね」と褒められるようになったが、赤木は「それがすごい嫌だった」という。かつて岡本太郎が「芸術の三原則」の一つに「うまくあってはいけない」と挙げたが、赤木にとっての芸術も技術の向上とは因果関係がないということだろう。

 大学卒業後は写真家として働きはじめたが、またもやガールフレンドを追いかける形で、今度はロンドンに飛んだ。

 

25歳

降り積もる「異邦人」という意識

 様々な仕事を経験し、写真家としても活動したロンドン生活は、概して居心地は良かったという。しかし一方では、常に外国人扱いを受けることに多少のわずらわしさもあり、「日本で思い切り表現活動をしたくなって帰った」。

 

31歳

二次元と三次元が融合する赤木独自の写真表現

 日常の光景を被写体にするのはシンガポール時代から変わりないが、写真家としてのキャリアを重ねるうちに、「写真じゃないとできない表現をしたいと考えるようになった」。そうして、実験を繰り返すうちに辿り着いた赤木独自の手法の一つに「Kenko/健光」がある。それは、レンズを取り外すという型破りな方法で撮られた夜の街の光である。ピントや構図といった作為的なものを排除するこの撮影法によれば、都会のありふれた光源は、円や直線や曲線などで構成される色彩鮮やかな幾何学模様として写し出されるのだ。どのように写るのかわからない偶然を生かしたこの手法は、鑑賞者は勿論、赤木にさえ思いがけない驚きをもたらした。

 

 また、赤木はライフワークとしてリサイクルショップや廃材の中から、野暮ったい額縁をはじめ、玩具や雑貨の破片など、自分の琴線に触れるものを集め続けている。そして、一般的な写真展ではおよそ使われないであろう妙に味のある額縁に写真を入れたり、その額装された作品自体を蒐集物でデコレーションすることもある。写真という二次元的表現に終始せず、脈略のないオブジェなども入り乱れた展示空間自体をつくるのは、赤木が他の写真家と一線を画す大きな特徴といえる。

 

  赤木にとって写真は「世間と繋がるための技」だという。それは、幼少期から常に“異邦人”であり続けた赤木が求めていたものでもある。言語や文化が異なる場面においても、繋がりを持つためのきっかけになり得る写真は、「転々と動いているのが前提」の赤木が身につけたジェスチャーそのものではないだろうか。

 

【赤木の格言】

「日本人は真面目すぎる。遊びがない。堂々と楽しめばいいじゃん」