南方熊楠みなかたくまぐす 1867 - 1941 享年74

 

切り離さずに世界を見る
─独学者が築いた知のかたち

 

酒好きで、気性も激しく、警察へ連行されたこともある。
一方で英国の科学誌『ネイチャー』へ論考を寄せ、
晩年には昭和天皇へ進講した。
植物、菌類、民俗、宗教─
一見ばらばらに見えるそのすべてを、
ひとつの世界として見つめた思索の軌跡。

 

 1867年、南方熊楠は和歌山城下(現・和歌山市)に、金物商を営む父・弥兵衛と母・すみの次男として生まれた。幼い頃から書物への執着は並外れており、百科事典『和漢三才図会』や中国の薬物学書『本草綱目』などを次々と筆写した。家に持ち帰れない本はその場で読み、内容を記憶してから書き写したともいう。学校では博物学を教えていた鳥山啓との出会いをきっかけに、動植物への関心を抱くようになった。

 16歳で和歌山中学校を卒業すると、翌年、東京大学予備門(現・東京大学教養学部の前身)に入学する。だが授業には身が入らず、上野の図書館や博物館へ通い、書物を読み、標本を眺めることに熱中した。学校という枠で学ぶより、自ら関心を持ったものを追いかける方が、熊楠には合っていたのだろう。やがて予備門を退学し、19歳で横浜港からアメリカへ旅立った。

 

 

20歳

学校を離れ、世界を独学する

 渡米した熊楠は、サンフランシスコの商業学校を経て、ミシガン州立農学校(現・ミシガン州立大学)に入学する。だが、1年ほどで退学し、同州の学問都市アナーバーへ移った。特定の学校には属さず、読書と植物採集に明け暮れ、やがて未知の植物を求めてフロリダからキューバまで足を延ばした。

 1892年、熊楠はロンドンへ渡る。翌年、英国の科学誌『ネイチャー』に初めての論考「東洋の星座」が掲載され、その博識は識者のあいだに知られるようになった。

 1895年には大英博物館の図書閲覧を許され、古今東西の文献を読んではノートに写し取った。そのノート群は、現在「ロンドン抜書」と呼ばれている。熊楠の関心は自然科学に留まらず、宗教や民俗、説話へと広がっていった。

 館員の書籍目録作成を手伝うなど、大英博物館との関わりを深めていく一方、気性の激しさからたびたびトラブルを起こし、1898年には同館を去ることになる。その後は生活も困窮し、約14年に及ぶ海外生活を終えて帰国した。

33歳

自分だけの学問を築く

 帰国した熊楠を待っていたのは、学位も定職もない現実だった。海外で東西の膨大な知識を身につけたものの、それを生活へ結びつける術はなかった。熊楠は那智へ移り住み、原生林を歩き、植物や菌類の採集と観察に没頭した。

 1904年、那智での生活を終えて田辺へ移ると、熊楠は様々な書籍からの抜書や、市民からの聞き書きを蓄積し、「田辺抜書」を作りはじめた。また、採集した菌類は色や形まで細密な図譜として描き残した。その図は、学術資料でありながら、高い造形性を感じさせた。

 1906年には田村松枝と結婚し、翌年には長男・熊弥が誕生。田辺は以後、熊楠が生涯を終えるまで研究を続ける拠点となる。

42歳

自然と文化を守るため、権力と衝突する

 1909年、熊楠は政府が進める神社合祀への反対運動に立ち上がる。一町村一社を標準とするこの政策で、廃された神社の森は払い下げられ、次々と伐採されていた。熊楠は、鎮守の森を珍しい生物が息づく研究の場であり、土地の信仰や伝承、人々の暮らしを支える場所だと考えていた。そのいずれもが一度に失われようとしていたのである。

 熊楠は地方紙へ意見を寄せ、役人や学者にも書簡を送り、その不当性を訴えた。だが、言葉だけで収まる男ではなかった。翌年、神社合祀を進める県職員らが参加する講習会へ乗り込むが、入場を阻まれる。酒も入っていた熊楠は激昂し、持っていた採集標本の入った袋を会場へ投げ込んだため、家宅侵入の疑いで連行され、18日間拘留された。

 1911年には柳田國男と文通をはじめる。柳田は熊楠が神社合祀への反対を訴えた長文書簡を『南方二書』として印刷し、有識者や役人へ配布した。熊楠の学問は、ここで自然や文化を守るための行動へとつながっていく。

54歳

家族と生活を揺るがす試練

 1921年、熊楠は自身の標本や資料を収蔵し、研究を後世へ伝えるため、南方植物研究所の設立を構想する。趣意書を作り資金を募ったが思うように集まらず、研究所をめぐる金銭問題は、生活を支えてきた弟・常楠との関係にも深い亀裂を生じさせた。

 さらに1925年、17歳になった熊弥が精神の病を患い、長い療養生活に入る。看病と治療費は家族に重くのしかかり、常楠からの援助も途絶えた熊楠の生活は、さらに困窮していった。そこで熊楠は、書きためてきた論考をまとめた随筆集を相次いで刊行する。

 生活苦のなかでも、研究を手放すことはなかった。翌年には門人らと協力して作り上げた変形菌標本90点を、摂政宮だったのちの昭和天皇へ進献する。

62歳

在野の研究が、天皇のもとへ届く

 1929年、昭和天皇の南紀行幸に際し、熊楠は田辺湾に浮かぶ神島を案内後、御召艦『長門』で粘菌について進講する。学位も定職もない在野の研究者の進講は異例だった。
 熊楠は1941年、74歳でこの世を去る。植物や菌類を観察し、説話や信仰、民俗を調べ、自然と文化を守ろうとした。その一見ばらばらに見える営みは、熊楠のなかでは切り離されたものではなかった。生涯をかけて追い求めたのは、あらゆるものが結びついて成り立つ世界だった。

 

【熊楠の格言】

学問は活物で書籍は糟粕だ  ※「糟粕」は残りかすという意