葛飾北斎かつしかほくさい 1760 - 1849 享年90

*北斎の年齢は数え年で表記しています

 

転居93回、改号30回──

己を捨てて絵を残す者の肖像

 

名を変え、居を変え、流派を離れながらも、
ただ筆だけを手放さなかった男・葛飾北斎。
風景の迫力に頼らず、世界そのものの秩序を組み替えて描いたその眼差しは、
生涯を通じて鋭さを失わなかった。
技法を奪い、境界を越え、老いてなお前へ進む──
漂泊の画人が示した“描くことの本質”を辿る。

イラスト:たまゑ

 

 1760年、葛飾北斎は現在の東京都墨田区にあたる本所割下水に生まれた。裕福とはいえない環境に育ちながらも、幼い頃から絵に強く惹かれ、6歳にして身のまわりの形を写すことに夢中だったという。12歳で貸本屋の丁稚となり、日々さまざまな書物が出入りする場に身を置いた経験は、世の中には描き得るものが果てしなく存在することを、早くから意識させたはずだ。14歳では版木の彫師の見習いとして働き、線の扱いや画面の骨格を手で覚えていった。

 

19歳

浮世の絵師として歩み出す

 そして19歳、浮世絵師・勝川春章に弟子入りし、翌年には「勝川春朗」の画号を与えられ、異例の早さでデビューを果たす。役者絵を中心に、物語性のある挿絵が求められた黄表紙や洒落本の仕事にも携わり、若手としての評価を着実に高めていった。門下では兄弟子との不和もあったと伝わるが、筆を止めることはなかった。

 師・春章の没後、勝川派を離れた北斎は、37歳頃に琳派の画号を継ぎ、二代目・俵屋宗理を名乗る。本来は装飾美を信条とする琳派の名を背負いながらも、そこに収まらず、美人画・風俗画・山水画・宗教画へ題材を広げ、肉筆画にも力を注いだ。中国絵画や狩野派、西洋の遠近法までを取り込み、異なる様式を自分の絵へと転化していく歩みは、流派に寄り添うよりも、描きたい世界のために技法を自ら奪いに行く姿勢そのものだった。

 やがて宗理の画号を返し、「北斎辰政」など複数の画号を用いながら制作を続ける。以後、どの流派にも属さず、依りかかる看板を持たずに描くことを選んだこの時期は、後年の画号や居所のめまぐるしい変転へとつながっていく。生涯に改号30回、転居93回──理想の絵に近づくためなら、いまの自分を捨てることすらためらわない執念は、この頃からすでに芽生えていた。

 

41歳

社会の息づかいを線に写す時代

 40代に入ると、北斎は読本挿絵の制作に精力的に取り組む。読本作家・曲亭馬琴(『南総里見八犬伝』で知られる人気作者)との協働は大きな追い風となり、物語の緊迫感をとらえる描写が読者の支持を集めた。そしてこの時期に、代名詞となる画号「葛飾北斎」が登場する。

 ここで確認しておきたいのは、葛飾北斎を語る時、私たちが無意識に抱く「錦絵の巨匠」というイメージだけでは、その全貌はつかめないということだ。のちに生まれる名作『冨嶽三十六景』を思い浮かべがちだが、北斎の表現の核心は、錦絵の枠に収まりきらない。読本挿絵など「版本」で磨いた社会と結びつく画面の技法が、後年の大作を支える土壌となったのである。

 

55歳

“北斎の眼”を共有するための本

 さらに50代の北斎は、門人の指導にも力を注ぐ。絵手本や手習書の制作が相次ぎ、技法・モチーフ・構図を体系化する仕事へと向かった。1814年には『北斎漫画』第一編が刊行される。人物・風景・動植物・職業・仕草・戯画──森羅万象を線に写しとるこのシリーズは、教育用の手本であると同時に、視覚文化の百科全書でもあった。

 61歳で「為一」と号し、摺物の制作を重ねるようになる。摺物は贈答や私的鑑賞を目的とした少部数の木版画で、依頼者の嗜好に応じた意匠の精度が求められた分野である。絵手本・版本で積み上げた経験はここでいっそう研ぎ澄まされ、表現の可動域は大きく広がっていった。

 

72歳

富士を通して世界を再構築する

 70代に入っても、北斎の制作意欲は衰えるどころかむしろ増した。前半に手がけた『冨嶽三十六景』は、刊行の進行とともに国内での評価を確かなものにしたが、北斎はその名声に身を預けることはなかった。この連作では、波・風・富士、そして人々の営み──異なるスケールの事象を一つの画面に集約し、空間の秩序を一新してみせた。風景の迫力に頼るのではなく、画面を構築する力によって世界を立ち上げている点に、この時期の錦絵の本領がある。やがて、78歳頃からは「画狂老人卍」と号し、自らを“絵に狂う老人”と呼んだ。過去に安堵せず、これからも描くための覚悟を名乗りに刻んだのである。

 北斎の人生は、富と安定とは無縁だった。売れっ子と評されながらも経済的困窮を経験し、衣食住を切り詰めて紙と道具を買う──そんな極端な選択を幾度となく繰り返している。40歳前後で人生を閉じることも珍しくなかった時代に90歳まで生きた。その長寿は幸運の結果というより、「描くために生き延びた」という表現のほうが近い。

 

85歳

最も老いた手が、最も強く描く

 晩年には、小布施・岩松院本堂の天井に『八方睨み鳳凰図』を描く。最大規模の肉筆画にして、烈々たる気迫をたたえた一作だ。長大な画面を埋め尽くす筆致には、達成の満足ではなく、老いてなお前へ進もうとする緊張が走っている。

 1849年、90歳で没する直前、北斎は「天が私にあと五年の命を与えたなら、真の画家になれるものを」と言い残したとされる。人生の終着点にいながら、その眼差しはまだ〝これから描くべきもの〟を見据えていた。

 

【北斎の格言】

「70歳までは取るに足らぬものを描いていた」