長沢芦雪ながさわろせつ 1754 - 1799 享年46

※芦雪の年齢は数え年で表記しています

 

正統をずらし、奇抜へ
──印章が告げる自由と反骨

 

18世紀京都画壇を代表する円山応挙に学び、
写生の正統を身につけた若き絵師は、師の指示で赴いた南紀の地で
大胆な構図を試み、自らの感覚を解き放っていく。
晩年には、なめくじの這った跡や3センチの極小画面に五百羅漢を描くなど、
常軌を逸した実験へと向かった。
型を守り、破り、離れた先に何を見たのか──
正統と奇抜のあわいを生きた異才の軌跡。

イラスト:たまゑ

 

 1754年、長沢芦雪は丹波篠山の青山下野守の家臣・上杉彦右衛門の子として生まれた。父はのちに淀城主の稲葉丹後守に仕えた武士だった──この本人談は、後年、紀州を巡る途上で立ち寄った田辺・高山寺において自らの身の上を語ったのを、住職・義澄が日記『三番日含』に書き留めたものだ。生前の史料に乏しく芦雪の伝記は途切れがちだが、この日記は実在の声を伝える稀少な線である。以後は、同記録と現存作の手触りをつなぎ、人物像を立ち上げていく。

 

25歳

応挙門で“守”を鍛えた若き正統派

 現存最初期作『東山名所図屛風』は芦雪25歳の作品で、画中には「円山家にて描いた」旨の書き込みが確認できる。よって、この時点で円山応挙の門にいたことがわかる。師・応挙は「写生画の祖」「近代日本画の祖」とも称される十八世紀京都画壇を代表する絵師である。一説に1000人規模の門人を擁した応挙率いる円山派で、芦雪は観察を基本に、遠近と光の陰影で量感を立ち上げる応挙独自の写生画様式を“守”として身につけた(守破離=まず型を守り、次に破り、最後に離れるの意)。そして、29歳には京都在住の文化人を集めた人名録『平安人物志』の画家の部に名が載る。年譜に空白が残る芦雪だが、20代の段階で京都で名の通る絵師になっていたことは確かだ。

 ここで芦雪のサインに当たる「魚」印に触れておきたい。修業時代のある日、氷が張る小川で思うように動けず苦しそうな魚を見た。帰路に再び見ると、氷が解けて自由に泳ぐ魚が嬉しげだった。翌日に応挙にそれを話すと、「修業もまた、段々と氷が解けるようにして画の自由を得るものだ」と諭されたという。それ以来、芦雪は氷形の枠に「魚」字を刻んだ印章を生涯用いた。ただ、その印は40代に入る頃、輪郭をわずかに変える。

 

33歳

師の目の届かぬ地で“破”の芽が伸びる

 1786年、転機が来る。宝永地震の津波で流失した南紀串本の無量寺は、この年、本堂の再建が成就した。住職・愚海は若き日に交わした「本堂再建の暁には、必ず寺のために揮毫する」という応挙との約束を頼りに京都を訪ねた。多忙の応挙は約束の祝画を自ら整え、現地制作は芦雪に託し、名代として南紀へ送り出した。温暖な風土のもと、水を得た魚のように筆が走った芦雪は、無量寺のほか、成就寺、草堂寺、高山寺で次々に大作を手掛ける。そして、師の目の届かぬ距離も手伝ってか、正統の型にずれが生じはじめる。

 この時期の象徴が、無量寺本堂の『虎図』と『龍図』(いずれも重要文化財)である。本堂の同じ間で向かい合う襖に、左に虎、右に龍が据えられる。虎は正面から頭部を大きく近づけ、前脚を堂内へと突き出す。全身は画中に収めつつ、縁際まで寄せて観者に迫る。猛獣でありながら瞳に愛嬌を宿す──写生的な量感に一滴のユーモアを重ねる。

 一方の龍は黒雲を前脚で裂いて現れる。輪郭線を抑え、墨の濃淡や滲みで雲気と胴のうねりを示し、画外へ続く運動を感じさせる。応挙ゆずりの造形は保ちつつ、通例の「均衡」を見せる龍虎図に対し、片や量塊、片や気配という非対称で場を設計する──“守”に立って画面を一段ずらす。ここに芦雪の“破”が露わになる。

 

37歳

「破門」の噂を越え、仕事が証明する関係

 偉大な師の型を破るほどの奔放な気質を持つ芦雪は、「応挙に3度破門された」という俗説もある。しかし、1790年には天明の大火で焼けた御所の復興に応挙一門として参加し、御涼所上之間の作画を担当している。さらに、応挙没年の1795年にも、一門で請け負った但馬・大乗寺の障壁画制作に加わり、『群猿図襖』を描いた。ゆえに、師弟は終始断絶せず、師は最晩年まで弟子の腕を買っていたと読むのが自然だ。

 

40歳

“離”の兆し、欠けた印が告げる自由

 40歳頃、師弟の絆は保たれたまま、先の印章の右肩部分が欠ける。偶然の摩耗か、あるいは自ら氷を割り、“離”へと進む意思表示か。真相は不明だが、その小さな欠けは、これ以後の絵に漂う自由度の高まりと呼応して見える。

 寛政後期(1794–99)頃の作とみられる『なめくじ図』は、まず痕跡が目に入る。紙面所狭しとぐるぐると這った跡を、一筆書きの線で追い、紙縁に小さななめくじをそっと据えるだけ。姿そのものより、動いた過去を見せる発想が新しい。

 1798年の『東山新書画展観』に出品され話題を呼んだのが『方寸五百羅漢図』だ。約3センチ四方の極小画面に五百の羅漢や動物、岩木までを描き込んだ密度の実験である。規模は最小、密度は最大という常軌を逸した設計が、視線を一点に吸い込み、画中を巡らせる。

 

46歳

毒殺か自死か、決定的証拠なき伝説の終焉

 46歳、大坂で客死する。貧窮の末の自死説もあれば、美術史家・相見香雨あいみこううの『蘆雪物語』には、「藩士を斬って報復で暗殺」「才を妬まれ毒殺」などの伝承が記されるが、決定的証拠はない。だが、南紀の〈押し/引き〉にはじまり、魚印の欠け以後に深まる自由、終盤の痕跡と極小への賭け──通底する奇抜と反骨の併走を思えば、最期の謎までも作品の延長だったと言いたくなる。