田名網敬一たなあみけいいち 1936 - 2024 享年88

 

ひとつの肩書では足りなかった
──境界を越え続けた創作の行方

 

デザイナーなのか、画家なのか、それとも映像作家なのか。
田名網敬一をひと言で説明するのは難しい。
広告や雑誌の仕事を手がける一方で、
絵画やコラージュ、映像作品など幅広い表現に挑み、
80代後半まで新たな作品を発表し続けた。
ひとつの分野に留まることなく、
境界を越え続けた創作者の人生をたどる。

イラスト:たまゑ

 1936年、田名網敬一は東京・京橋で服地問屋を営む父・茂三郎、母・とし子のもとに、三人兄弟の長男として生まれた。6歳の頃に一家は中目黒へ移るが、戦争の激化に伴い、翌年からは芝白金にあった母方の祖父母の家で暮らした。

 幼い田名網の記憶に強く刻まれたのは東京への空襲だった。夜ごと空襲警報が鳴り、人々は防空壕へ逃げ込む。そんなある夜、祖父が飼っていた大きな水槽の金魚が焼夷弾の光に照らされて輝いて見えたという。その記憶は、後年の作品に繰り返しあらわれる爆撃機や魚のモチーフにもつながっていく。また、叔父が蒐集していた海外の雑誌や印刷物も少年の眼を刺激した。

 終戦後は山川惣治の紙芝居や手塚治虫の漫画に夢中になり、月刊誌『漫画少年』に作品を投稿するようになる。同じ頃、父の友人だった漫画家・原一司から指導を受けるが、ほどなくして原は結核で死去。その死は漫画家を志していた田名網の進路に少なからぬ影響を与えた。

 

19歳

絵画とデザインのあいだ

 高校進学後、田名網は絵画へと傾倒するようになり、1953年には『独立展』(独立美術協会主催)で入選を果たす。転機となったのは55年だった。日本宣伝美術会が主催する『日宣美展』で粟津潔のポスター《海を返せ》と出会い、その絵画のような表現に衝撃を受けた。油彩を学んでいた田名網にとって、それは絵画とデザインを結ぶ新たな可能性だった。

 その年、田名網は篠原有司男とも出会う。のちにネオ・ダダイズム・オルガナイザーズの中心人物となる篠原は、既成の芸術や権威に真っ向から挑む破天荒な人物だった。

 翌56年、武蔵野美術学校デザイン科に入学。しかし、大学の授業には興味を持てず、篠原をはじめとする「反芸術」の友人たちとの交流を深めていく。そうした日々を送りながらも、57年には『日宣美展』で特選を受賞し、在学中からデザインの仕事が舞い込むようになった。

 

24歳

デザイナーで終わらない

 1960年、博報堂制作部に入社するが、個人での仕事が殺到し、1年ほどで退社。フリーのデザイナーとして活動する傍ら、篠原らが結成した「ネオ・ダダ」の集まりにも足繁く顔を出すようになる。その様子を心配した恩師であり、昭和期を代表するグラフィックデザイナー・原弘からは、「前衛芸術の連中と付き合うのはやめなさい」と忠告された。だが田名網は、デザインとアートのどちらか一方に自分を閉じ込めることはなかった。

 65年には、日本の実験アニメーションを切り開いた久里洋二に学び、映像表現の世界へ足を踏み入れる。その翌年には、印刷物は複製ではなく無数のオリジナル作品であるという独自のコンセプトのもと、作品集『田名網敬一の肖像』を発表。さらに、少年時代に親しんだ叔父のコレクションを素材に、コラージュ制作へと向かった。

 

39歳

奔放な活動量

 1975年、日本版月刊『PLAYBOY』の創刊にあたり、田名網は初代アートディレクターに就任する。誌面デザインだけでなく、写真やイラストの構成、特集の見せ方にも深く関わり、雑誌全体の方向性を形づくった。やがて100万部を超える人気雑誌へと成長するが、その頃の田名網は実験映画の制作や、吉田拓郎らが刊行した雑誌『フォーライフ』のアートディレクションなどにも取り組んでいた。次々と異なる仕事に挑むその活動量は、激務と背中合わせでもあった。

 

45歳

病床から生まれたヴィジョン

 激務は、やがて田名網の身体を蝕んでいく。1981年、結核を患い、4か月近くの入院生活を余儀なくされた。薬の副作用による高熱で夜ごと夢や幻覚にうなされ、田名網はそれらを逃さぬようノートに書き留めた。死を意識する日々のなか、幼い頃の戦争体験の記憶もよみがえった。この体験を境に作風は大きく変化し、夢や幻覚、記憶の底から立ち上がるイメージが作品の前面にあらわれるようになった。

 退院後はデザインの仕事を控え、より自由な創作活動へ軸足を移す。1991年には京都造形芸術大学情報デザイン科教授に就任し、後進の指導にもあたったが、創作の歩みを止めることはなかった。

 

64歳

40年後の再発見

 2000年、ギャラリー360°で開催された個展『田名網敬一・1960年代のグラフィックワーク』が若い世代のクリエイターたちから大きな注目を集める。田名網が60年代に残した仕事が、長い歳月を経て再発見されたのだった。以後、国内外で展覧会の機会が増え、ニューヨーク近代美術館に作品が収蔵されるなど世界的な評価が広がる。さらに、adidasやMarc Jacobsとのコラボレーションも実現した。

 それでも田名網の関心は常に次の作品へ向いていた。80代後半になっても新作を発表し続け、24年には国立新美術館で初の大規模回顧展『田名網敬一 記憶の冒険』が開催された。しかし、その開幕からわずか2日後、田名網は88歳でこの世を去った。

 デザインとアート、商業と実験、その境界を横断し続けた田名網敬一は、日本における“越境する創作者”の先駆けだった。

 

【田名網の格言】

いろいろなことを同時に進めることで相乗効果が生まれて、ひとつの発想や手法を他の仕事にも利用していける