どうしてあんな重大な出来事を忘れていたんだろう。

 上野は自分でもショックだった。

 だが、理由はすぐに判明した。

 あの年は、本当にいろいろあったのだ。結婚、昇任、そして、妊娠。

 人生のステージが大きく変わり過ぎて、極端に言うなら自分の周囲の半径五メートル以内のことにしか関心が向かなくなってしまった。

 レスキューによって無事に車内から救出され、その後ドクターヘリで運ばれたほづみのことが気にならなかったわけではない。第一発見者であり、通報者でもあったことで、上野と夫の弦は警察から聴取も受けた。その中で、どうやら事故の原因は父親の無理心中であったらしいと聞かされた。両親の体内から筋弛緩剤も検出されていた。

 事故が起こったのは、自分が鳴らしたクラクションのせいかもしれないと気に病んでいた弦は、ほっとしたようだった。

「ほづみちゃんはどんな様子ですか」と尋ねると、快方に向かっている、だが両親が亡くなったことはまだ知らされていないといった、断片的な情報も受け取った。同情の気持ちが湧いた。もう少し落ち着いたら、ほづみの見舞いに行こう。そう考えていた矢先、怜大を身ごもったことを知る。ほづみの存在は、上野の中で徐々に小さくなっていってしまった。

 いま、そのほづみが目の前にいた。

 彼女の方は、最初に会った時から、上野のことを覚えていたという。

「そうだったのね。ごめんなさい、私、すぐに思い出せなくて」

「いいえ、いいんです。私の方こそお礼も言えずすみませんでした」

「警察職員になっていたのね」

「はい。本当は刑事になりたかったんですけど……」

 ほづみが寂しそうに目を伏せた。上野も自然と彼女の車いすに視線を向けた。

 そうか。あの事故が原因で彼女は車椅子生活になってしまったのだろう。

「あの時、上野さんが話してくれた名刑事ほづみのお話。今でも覚えてます。私が怖がらないようにしてくれたんですよね。あのお陰で、病院でのリハビリ生活も耐えられたんだと思います。いまは警察職員ですけど、今回のように捜査の協力ができて、夢は叶いましたから」

 それから二人はもうしばらく話を続けた。

 ほづみは事故のあと、遠縁の親戚に引き取られたという。

「水嶋というのは母方の姓なんです」

「そう」

 父親が無理心中をはかり、その結果、ほづみ一人が生き残ってしまった、そんな事故の悲惨さは、時が経ってもほづみの人生に暗い影を落としたことは間違いない。

 およそ二十年ぶりの再会ではあったが、懐かしむという空気にはなれないまま、ぎこちない時間だけが流れていった。

 

 

 ほづみの目の前に、深瀬多津子のあずき色のミニバンが停まった。降りてきた深瀬が、後部座席を開け、車いす用のスロープを下ろした。

「本当にこんなところまですみません」

「全然。気にしないで」

 深瀬はいつもの通り、朗らかに笑ってみせたが、少しやつれたようにも見えた。

 ほづみの車いすを押して、スロープを上がると、車いすを固定する金具をしっかり取り付け、途中でずれたりしないか深瀬は念入りに確認する。

 捜査の応援で埼玉県警本部に詰めるようになってから、ほづみはずっと近くのホテルを宿泊先としていた。だが、捜査が長期化するにあたり、一度、自宅に戻っておきたかった。

 たまたま深瀬から電話があり、そのことを話すと迎えに行くと言ってくれたのだ。

 申し訳ない気持ちはありつつも、恋人の天利よりも深瀬の方が頼みやすかった。

「深瀬さん、少し元気がないように見えますけど、何かあったんですか」

 車が出発しようとした直前、ほづみは気になって尋ねた。

「え、そう? 全然そんなことないのよ」

 深瀬は声を上げて笑った。

「それより、ほづみちゃんの方こそ体調はどうなの?」

 車が走り出し、いつもの通り、運転席と後部座席での会話が始まった。

「最近、よく眠れるんです。明け方に目を覚ますこともなくなりました」

「あら、良かったじゃない」

「それで、病院を替えようかなって思ってて……。深瀬さんはどう思います?」

「私の口からとやかく言うことはできないけど、替えるにしても鈴置先生ともう一度、よく話し合ってからの方がいいんじゃない? 一応主治医なんだし」

「……そうですね」

 てっきり賛同してもらえると思っていたので、ほづみはがっかりした。

「ごめんね」

「いいえ、そんな、深瀬さんが謝ることじゃないです」

「……娘もね、昔、病院に通ってたことがあるの。ある時、もう行きたくない、薬も飲みたくないって言いだして。私、娘がそう思うなら好きにさせてあげようと思って、承知してしまったの……。でも、いまそのことをすごく後悔してる。あの時、無理やりにでも娘を病院へ通わせていればって……」

 深瀬は黙り込んだ。以前、深瀬の娘が亡くなった理由を教えてもらったことがある。自殺だった。ある事故に遭い、彼女は下半身不随となってしまった。中学生だった彼女は、軟式テニス部に所属するなど、活発な少女だった。いつかまた自分の足で歩けるようになり、軟式テニスを始められたら、とそのことを励みに、辛いリハビリにも耐えていた。

 だが、事故から二年が経ち、自分はもう二度と歩くことはできないのだと気づいて、彼女は絶望し、自ら命を絶ってしまった。

 同じようにほづみも、深瀬にあの事故のことを打ち明けていた。

 あの日は突然、両親がドライブに行こうと言い出した。休日でもないのに、急にどうしたのだろう。不思議ではあったものの、出発して間もなく、そんな疑問はどこかへ消えてしまった。天候はあまりよくなかった。途中、どこかの見晴らしの良い場所に車を停め、母が作った弁当を食べた。大人になって思い返してみると、父も母も口数が少なかった。水筒に入っていたお茶に口をつけると、少し苦いような気がして、ほづみは飲むのをやめた。すると父がもっと飲むように勧めてきた。

「やだ。だって苦いんだもん」

「そっか、苦いか……」

 父と母が悲し気に顔を見合わせたことを覚えている。

 それから再びドライブを続け、ほづみは後ろの席で、木々の合間から見え隠れする秩父さくら湖をぼんやり眺めていた。それにも飽きて、自然と歌を口ずさんでいた。

「ゆかいに歩けば うたもはずむ

 お日さまキラキラ 風も青い

 バルデリー バルデラー バルデロー

 バルデロッホホホホホ バルデリー

 行こう ゆかいな旅」

 一番を歌い終わって、ほづみは両親が泣いていることに気が付いた。

「パパ、ママ? どうしたの?」

「なんでもないよ」

 父は慌てて涙を拭ったが、母の口からは嗚咽が漏れた。

 その時、後方の車から軽くクラクションを鳴らされた。父ははっとしたようにハンドルを握りなおすと、急に車はスピードを上げ始めた。

 ぐんぐんと後ろの車は引き離され、やがて見えなくなった。それでも父はスピードを緩めない。

 ほづみはなんだか怖くなり、運転席の父親に呼びかけた。

「パパ?」

 返事はなかった。

「ママ、どうしたの?」

 母もまた答えずに、顔を覆っている。

 そして次の瞬間、「ほづみ、ごめんな」父の涙混じりの声が聞こえたかと思うと、車は激しい衝撃と共に、道路脇のガードレールを突き破り、真っ逆さまに崖を転がり落ちていった。悲鳴を上げたほづみの体は助手席のシートにしたたかに打ち付けられ、そのまま床に放り出された。そこで意識は途絶えた。

 

 

 血相を変えた門伝が上野の側へやってきた。

「調査官、たったいま諸橋茜から、彼らが監禁されていた場所のヒントになりそうなことを思い出したと連絡がありました」

 それは上司たちに囲まれ針のむしろとなっていた上野にとってかなり勇気づけられる話だった。

「犯人が古関さんを電動車いすに乗せて、どこかへ運び出した際、シャッターの開く音が聞こえたあと、どこか遠くの方から微かにアナウンスの声と音楽が聞こえたそうです。彼女はそれを防災無線だと思ったそうです」

「防災無線……確かなの?」

「はい。彼女が子供の頃、小学校の下校時間によくそんなアナウンスを聞いたそうです。かかっていた曲は、子供の頃に聞いたことはあるが、曲名はわからないと――」

 門伝が諸橋から聞いたというその曲を口ずさんだ。

「ゆかいに歩けば うたもはずむ お日さまキラキラ 風も青い バルデリー バルデラー バルデロー――」

 バルデロッホホホホホ バルデリー 行こう――。

「『ゆかいに歩けば』……」

 上野は思わず曲名を呟いた。

 早速、埼玉県内で、防災無線に「ゆかいに歩けば」を使う市町村が調べられた。

 各市町村に電話をかけていた門伝が、興奮したように報告にくる。

こうの市役所に確認が取れました。市内の防災無線のうち、小学校の下校時に流れる曲に『ゆかいに歩けば』が使われています」

「じゃあ、監禁場所は鴻巣市のどこかということ?」

「風向きによっては、周辺自治体との境界付近でも聞こえることはあるそうです」

 門伝は壁に貼られた埼玉県の地図を示した。

「該当するのは桶川おけがわ市、北本きたもと市、ぎよう市、加須かぞ市、熊谷くまがや市、久喜くき市そして比企ひきよし町となります」

 数としては八つの市町となるが、範囲としてはかなり狭まった。

「不審な人物や、赤いミニバン、それから電動車いすの目撃情報がないかどうか、このエリア一帯に集中的な聞き込みを行います」

 峰岸の言葉にも張りが出ていた。

「私の方も少し収穫がありました」

 声を上げたのは天堂だった。彼はずっと被害者たちのSNSの履歴を調べ、共通でアクセスしている人間がいないかどうか調べていた。

「結論から言いますと、共通してアクセスしている人物はいませんでした。ただし、桑畑さんのFacebookに頻繁にアクセスを繰り返している人物を見つけました」

「頻繁にアクセスしたからと言って、それ自体は普通のことなんじゃないんですか」

「はい。ただこの人物自身もFacebookのアカウントを保持しており、それを確認したところ、赤っぽいミニバンを所有していることがわかりました」

「赤っぽい?」

「正確にはあずき色というようです。これです」

 天堂がノートパソコンにその人物のFacebookを表示させた。

 ナンバープレートこそ隠されているが、そこに写っているのはあずき色のミニバンだった。

「さらにこの人物の職業はホームヘルパー。そしてこの車両は福祉車両として、後部座席にスロープが設置されていて、車いすを載せることができます」

「どういう人物ですか」

「東京都在住の深瀬多津子。六十三歳」

 

 

 ほづみはまず部屋の窓を開け、空気を入れ替えた。それからキッチンでお湯を沸かす。

 埼玉県から東京の自宅まで深瀬に送ってもらい、このまま帰らせるわけにはいかなかった。

 しばらく家を空けていたので、何も用意はなかったのだが、せめてお茶でも飲んでいってほしいと言って、初めて深瀬を部屋に入れた。

「深瀬さん、コーヒーと紅茶どっちがいいですか」

「じゃあ、紅茶をお願い」

「はい」

 ほづみは二人分の紅茶を入れ、ダイニングテーブルに深瀬と向かい合わせに座った。

「なんだかこうしていると、娘と一緒にいる気分。あの子もよくこうやって、仕事から帰ってきた私に、お母さん、紅茶とコーヒーどっちを飲むって」

 深瀬はそっと目元を拭う仕草を見せた。

「ごめんなさいね」

「いいえ、いいんです」

 ほづみはティッシュペーパーの箱を、深瀬の前に滑らせた。

「さっき元気がないって言ったでしょう。実はね、最近、辛いことがあったの」

 深瀬はティッシュで涙を拭った。

「ある人が事件に巻き込まれて亡くなってしまって。その人は娘が中学時代、軟式テニス部で一緒だった子でね。娘が事故に遭って、車いす生活になったあとも、いろいろ気にかけて遊びに来てくれた子だったの……」

「お気の毒です」

「娘が亡くなったあとは連絡が途絶えてしまったんだけど、ある日、ネットを検索していたらね、その子のFacebookを見つけたの。高校の先生になってた。陸上部の顧問をしてるって」

 高校の教師、陸上部の顧問。

 ほづみは胸の奥がざわつき始めた。

「あの、その人が巻き込まれた事件て、埼玉県で発生してる例の?」

 深瀬は暗い顔で頷いた。

「そう。世間では棺桶殺人なんて呼ばれてるそうね。生き埋めにされたなんて、桑畑くんのようないい子が、どうしてそんなひどい殺され方をされなきゃならなかったのか……」

 桑畑――。

「桑畑公一さんのことですか」

 今回の事件の被害者の一人だ。

「どうして知ってるの?」

 ほづみはいま、自分が捜査に協力している事件であることを打ち明けた。

 深瀬は驚いたようにほづみを見つめ返した。

「そうだったのね。それで、どうなの? 犯人の手がかりは見つかったの?」

「いいえ、それはまだ」

 突然、身を乗り出した深瀬は、ほづみの手を強く取った。

「お願い。娘のためにも、桑畑くんを生き埋めにした犯人を必ず見つけてちょうだい」

 ほづみは深瀬の取り乱した様子に言葉を失った。

 だが、亡くなった娘と親しかったという被害者の死は、彼女にとって、娘を亡くした悲しみを再び思い出すきっかけとなってしまったのかもしれない。

「全力は尽くします。でも私はただ、捜査に協力してるだけで、犯人の逮捕なんて……」

 深瀬は我に返ったように、ほづみの手を離した。

「ごめんなさい。取り乱したりして」

 深瀬は恥ずかしそうに目を伏せ、再び、ティッシュで洟をかむと、少し落ち着きを取り戻したようだった。

 それから紅茶のカップに手を伸ばし、ふと思いついたように口を開いた。

「ねえ、ほづみちゃん。さっきから気になっていたんだけど、あなたもしかして――」

 

重要参考人

 

 

 深瀬多津子をひとまず参考人と位置付けた上野は、峰岸たちに彼女の周辺を洗わせることにした。

「深瀬多津子には別れた夫がいました。その夫の職業は警視庁の刑事です。ただし、この元夫は既に警視庁を退職し、五年前に亡くなっています」

「でも深瀬さんは、その元夫を通して、警察に関する知識を得ていたと考えることはできますね」

「その通りです。ですが、仮に彼女が犯人だとして、動機はなんです?」

 峰岸も深瀬を疑わしいと考えてはいるようだが、確かに動機が不明だった。

 しかし現場周辺で目撃された赤いミニバンに似た車を所有し、電動車いすとの関係も、彼女の仕事がホームヘルパーであることと完全に切り離すことはできなかった。

「ともかく、深瀬さんのことはもっと調べる必要があります。離婚の原因や職場関係のトラブル、あと、被害者たちとの繋がりも改めて捜査してください」

 峰岸への指示を終え、廊下へ出たところで上野の元に、百武から電話がかかってきた。

「どういうことかな、上野調査官。君たち埼玉県警の連中は、犯人に繋がる情報を持った被害者への聴取内容もこちらへは明かさず、今度は重要参考人が浮上したというのに、そのことも我々には秘密にするつもりなのか」

 耳が早い。誰が漏らしたのか。上野の脳裏に一瞬、玉城の顔が浮かんだ。

「別にそちらへ情報を隠す意図があったわけではありません。保護された被害者については、精神的動揺も激しく、その証言の真偽が確認されるまで保留としてるまでです。それと重要参考人とおっしゃいましたが、我々はまだ、その人物が事件に繋がるという確証を得ているわけではありません。失礼します」

 一方的にしゃべって、通話を切った。

 百武の相手をしている暇などなかった。

 

(つづく)