「真砂、帰るぞ」

 相変わらず白金の動画に見入っていた真砂が慌てて顔を上げた。

「は、はい」

 昔なら、あんなことをしていたらどやしつけられる。元気だし、返事も良いが、気が回る方ではないのかもしれない。

 天堂は少し困ったように上野に耳打ちした。

「実は飯能署の刑事課長から、いまどき貴重な人材だから大切に育ててくれと頼まれましてね」

 貴重な人材。

 飯能警察署の刑事課長が言いたいことはすぐにわかった。

 警察の人手不足の問題は、単に志願者が減っていることだけではない。

 近年の警察官志望者には、ある顕著な特徴が見受けられた。誰も刑事になりたがらないのだ。なにしろ一度事件が起きれば、休みもなく働かされる。長時間残業は当たり前で、休日であってもいつ呼び出しがあるかわからない。そんな働き方を敬遠した若者たちは、生活安全課や内勤職を希望するようになった。

 そんな時代に、真砂は刑事を志望したのだという。

 それは確かに貴重な人材だった。

 刑事として現場で鍛えつつも、大事に扱ってやらなければならない。だが甘やかして育てたところで、刑事としては使いものにならない。本人のためにもよくないだろう。そう思って少しでも厳しく叱れば、すぐにパワハラだと訴えられる。

 これも時代か。

 ため息をつこうとした時、再び、スマホが振動した。またも刑事部長だ。しつこい。

 上野は無視して車に乗り込もうとした。

「あの……」

 後部座席のドアを押さえていた真砂が、ためらいがちに声をかけてきた。

「先ほどからスマホが鳴っているようですが」

 上野は咄嗟に舌打ちしそうになったが、かろうじて笑顔を作った。

「……ああ……えっと、そうね、全然気が付かなかった。どうもありがとう」

「いいえ、とんでもございません」

 真砂はいいことをしたというように、丸い顔に誇らしげな笑みを浮かべている。

 そんな真砂に背を向け、上野は電話に応答した。

「はい、上野です」

「どうして電話に出なかったの?」

「ええっと、それはどうもこの辺は電波の入りが悪いようで――」

 刑事部長のどうでもいい御託を半ば上の空で聞く上野の背後では、真砂が天堂から優しく諭されていた。

 上司が電話に出ない時はそれなりに理由がある場合であること、今度からはなにも気が付かなかったふりをすること、などなど。

 真砂はどうやら、捜査のイロハを教わるより先に、組織内での立ち回り方について学ぶことになったようだった。

 

 

「う~ん、つまり水嶋さんが言いたのは、薬を元に戻してほしいということだね」

 鈴置医師は眉間に小さく皺を寄せ、ほづみを見つめ返した。

「それは主治医として、あまりお勧めはできないな」

 まただ。

 鈴置は診察の最後に決まって、なにか質問があれば遠慮なく訊いてくれてかまわない、と言っておきながら、いざほづみが質問をすると、いまのようにやんわりと拒絶してくる。

 今日も、なぜ以前の薬から変えたのか、理由を教えてほしいと伝えた。するといろいろ御託を並べたあげく、冒頭の答えが返ってきたのだ。

「でも、眠れないと仕事に差し支えるんです」

 ほづみは諦めずに訴えた。

 夜、ほとんど眠れないせいで、昼間に猛烈な眠気に襲われる。ただでさえSSBCでは、集中力を要求される仕事が多い。一瞬睡魔に襲われただけで、大事な情報を見逃すということなどあってはならなかった。

 鈴置には警視庁に勤めていることは話してあるが、詳しい職務内容までは伝えていない。しかし神経を使う仕事であることは、これまでも繰り返し強調してきたはずだ。

 なにより、警察官ではなくても事件解決に貢献できるこの仕事に、ほづみは誇りを持っている。

 今日こそは絶対に諦めるつもりはなかった。

「前の薬に戻してほしいんです」

「どうして眠れないのかな?」

「どうしてって……」

 ほづみは唖然として、体から力が抜けそうになった。

 子供の頃からの主治医が、高齢を理由に引退する予定だと教えられたのは去年の今頃だった。後任として紹介されたのが鈴置だ。初対面の印象は、どこか冷たい感じのする人物だった。だが決して、言葉遣いがぶっきらぼうだとか、診療が適当だとかではない。

 鈴置はこれまでの主治医同様、ほづみの話をよく聞いてはくれた。ただし、ほづみの言い分を丸ごと優しく受け止めてくれたかつての主治医とは違い、鈴置は自分の治療方針を押し付けてきたのだ。

 それは以前の主治医の方針が全て間違っていたかのように、ほづみには受け取れた。

「なぜ眠れないかって、そんなのこれまでに何度も話したじゃないですか」

「確か、眠りにつこうとすると、悪夢を見るからということだったね」

 つっかかるようなほづみの態度にも、鈴置は表情を変えずに答えた。こういうところも、彼を冷たいと感じさせる要因だ。鈴置には人間味がないのだ。患者に共感する能力が欠けているのだろう。

「悪夢は子供の頃、事故にあった時のものだったね。ご両親と車に乗っていて――」

 ほづみの呼吸が荒くなった。パニックの発作が起きる前兆だ。

 鈴置もそれに気づき、ほづみの目の前にしゃがみこんだ。

「ゆっくり、深呼吸をしなさい。自分の呼吸に集中して」

 言われた通り、ほづみは目を瞑ってゆっくりと呼吸をした。次第に気持ちが落ち着いていった。胸に手をあてると、心臓はまだドキドキしているが、これもじき収まっていくはずだ。

 鈴置は立ち上がり、自分の机の上から飴の入ったガラス製の小皿を差し出してきた。

「糖分を摂ると気分が落ち着くよ」

 ほづみは無言で首を横に振った。

 鈴置は苦笑にも似た微笑を浮かべながら、自分の椅子に戻った。

「じゃあ、こうしよう。ひと月様子を見て、それでもまだ眠れないようなら、その時また相談しよう」

 ほづみにはもはや反論する気力はなくなっていた。それ以上、鈴置の話も耳に入らない。

 就寝間際に食事をしない、ぬるめの風呂に入る、アロマを焚く、テレビやスマホは就寝の一時間前には見ない、枕を変えるなどの寝つきをよくするための方法。そんなものはとっくに全部試してみた。

 話を終えて、鈴置は卓上のパソコンに向かい、事務的に来月の予約を入れた。

 診察室を出て待合室に戻りながら、バッグに入れていたスマホを確認すると、天利からメッセージが入っていた。診察が終わったら連絡をくれという。

 ほづみは返信をしようとして、思いなおした。

 天利が自分のことを心配してくれていることはわかっていた。だが近頃、それが重荷となってきている。

 付き合いたての頃は、外で一緒に食事をして、家まで送ってくれたあとすぐに、メッセージを送ってくれることに好感を抱いた。

「今夜は楽しかった、おやすみ」

 初めはそんな他愛もないものだった。ところが次第に、ほづみの様子をしつこく尋ねてくるような内容に変わっていく。

 警察の仕事はシフト制で、互いの休みが合わないことも多い。ほづみだけが休みの時などは必ず、いまなにしてる? というメッセージが届いた。外出していると返信すると、どこへ出かけたの、誰と一緒なの、家には何時ごろ帰るの、と細かく聞いてくるようになった。

 心配してくれているだけだ。そう思い込もうとしたが、束縛という二文字が頭をちらつくようになった。

 返信はあとでもいいだろう。どうせ天利はいま勤務時間中だ。

 会計を済ませ、隣の薬局で薬を待っていると「ごめんなさい、遅くなってしまって」と声をかけられた。深瀬多津子だった。

「いいえ、こちらこそわざわざすみません」

「ううん、ほづみちゃんのお世話をするのは趣味のようなものだから」

 眼鏡の奥から、優しさと快活さの混じった眼差しが注がれる。白髪が見え隠れする長い髪をクリップで丁寧に一まとめにした深瀬は、よいしょ、と言いながら薬局のベンチに腰を下ろした。六十代半ばだという彼女の仕事は、訪問介護員こと、ホームヘルパーだった。とはいえ、ほづみは深瀬から介護を受けているわけではない。

 出会ったきっかけは、近所のスーパーへ買い物に行った際、無人レジで戸惑っているところを深瀬に助けてもらったことだった。お礼を言っていろいろ話しているうちに、家がすぐ近所であることもわかった。

 それからちょくちょく店で顔を合わせるようになり、深瀬の優しい人柄にほづみはすっかり魅了されてしまったのだ。

 スーパー以外でも会うようになり、ほづみはぽつぽつと個人的な悩みも打ち明けるようになった。

 不眠症がひどくて眠れないこと、いまの主治医とあまり合わないことなど、ただの愚痴であっても、深瀬はほづみの言葉を遮ることなく丁寧に耳を傾けてくれた。

 そのほかにもう一つ、二人が親しくなった理由がある。互いに大事な人を亡くしていたのだ。

 ほづみは幼い頃に事故に遭い、母親を亡くしていた。深瀬の方は娘を亡くしている。

 二人は互いの中に、それぞれ亡くなった肉親の面影を重ね合わせていた。

「実はスーパーでほづみちゃんを見かけて、亡くなった娘に似てるなって。それでずっと声をかけるチャンスを窺ってたの」

 そんなこともあり、深瀬は仕事とは関係なく、ほづみの通院に付き添ってくれるまでになった。さすがに診察室まで入ってもらうことは気が引けたので、いつも送り迎えをしてもらうだけだ。それでも、引っ込み思案で、自分の言いたいことをはっきり告げることに勇気が必要なほづみにとっては、心強い存在だった。

 今日は、深瀬に予定があるということだったので一人で来院したのだが、深瀬は遅くなっても必ず行くと約束してくれた。

 薬を受け取り、駐車場に向かうと、深瀬のあずき色の軽ワゴン車が停まっていた。深瀬は本職でホームヘルパーとして働く傍ら、ボランティアとして障害のある人々の送迎も行っている。そのため、軽ワゴン車の後部座席には、車椅子が乗り入れできるようスロープが設置され、固定用の補助具もついている。

「夫と別れたあと、娘も亡くなってしまって、これがいまの生きがいだから」

 ボランティアをする理由を、深瀬はそう話してくれたことがあった。

 車に乗り込んで、ほづみは改めて深瀬に礼を言った。

「いつも本当にすみません。最寄り駅まででけっこうですから」

「なに言ってるのよ。今日も、桜田門までちゃんと送りますよ」

「でも、用事があったんじゃ……」

「実はね、今日、娘の命日だったの」

「え、だったらなおさら、私なんかに付き合っている場合じゃないですよ」

 ほづみは驚いて、運転席のほうへ身を乗り出した。

「ううん。娘の命日だからこそ、今日はほづみちゃんと一緒にいたかったの。命日と言っても、娘が亡くなって今年でもう二十年。区切りはついたから」

 深瀬の娘はもし生きていたら、三十四歳になっていたという。

「前にも言ったけど、私、勝手にほづみちゃんのことを娘だと思ってるの。お嫁に行くところも想像してるのよ。ごめんなさい、ずうずうしくて」

 深瀬が笑う。

「いいえ、そんなことありません」

「天利さん、いい人よね」

 以前、深瀬に天利を紹介し、三人で食事をしたことがある。深瀬はすっかり天利を気に入ったようだった。

 だから深瀬には、天利の束縛が強いのではないかということを、相談できなかった。

 車は都心の道路をすいすい進んだ。さすが深瀬は日頃から運転に慣れている。

「障害者の人たちとね、いろんなところに行くのよ。キャンプや登山、海外旅行なんかも。水嶋さんも今度ぜひ参加してみてね」

 深瀬はどこまでも屈託がなかった。

 やがて警視庁の建物が見えてきた。車を停車させやすい場所で降ろしてもらう。

「じゃあ、いってらっしゃい」

「ありがとうございました。深瀬さんも気を付けて帰ってくださいね」

 ほづみは警視庁に向かいながら、一度、後ろを振り返った。

 そこにはまだ、両手を体の前で組み合わせたまま、微笑を浮かべてほづみを見送る深瀬の姿があった。

 

 

 埼玉県警飯能警察署特捜本部。

「被害者の久保田氏ですが、気になる情報が入ってきました。どうやら去年の夏頃から人種問題に伴うトラブルに巻き込まれていたようです」

 上野は峰岸の報告に耳を傾けながら、人種問題という言葉に不吉な予感を覚えた。

「事の発端は、川口市の住人の一人が、土地の区画を巡ってトルコ系住人と争いになり、その仲裁を久保田氏に依頼したことです」

「川口市の住人がどうして久保田氏に?」

 久保田の自宅兼事務所がある越谷市から、川口市までは車で四、五十分の距離にある。弁護士なら川口市内にもいたはずだ。

「依頼人の話によれば、川口市内でこの手のトラブルに対処してくれる弁護士が見つからなかったんだとか」

 上野の不安は正しかったようだ。

 ここ数年、川口市内ではトルコ系住人と日本人との間に、軋轢が生じつつあった。マスコミやネットでも取り上げられるようになり、対応を誤れば差別とも受け取られかねないため、弁護士もかかわりを持ちたくないのだろう。

「久保田氏に相談したのは、川口市内の弁護士からの紹介だったそうです」

「それで、被害者とくだんのトルコ系住人とのトラブルはどういったものだったんですか」

 元々、依頼人が所有していた土地と、トルコ系住人の住んでいた土地は隣接しており、かねてから境界線は曖昧だったが、これまではトラブルもなかったという。

「ところが数年前、トルコ系住人側が彼らの土地をフェンスで囲い始め、いわゆるヤードを建設したそうです。その際、依頼人の土地に明らかにはみ出ていたため、注意をしたところ、ここは自分たちの土地だと主張された。さらにはヤード内で毎晩のように大音量で音楽をかけたり、大声で騒いでいたりと迷惑行為が頻出したため、依頼人は地元の警察へ相談に行きました。しかし、それだけでは取り締まることはできないと断られたそうで」

 それもよくある話だった。仮に警察が出動したとしても、騒音問題については口頭で注意する程度で、土地の境界問題については住人同士で解決してくれという扱いになる。

「そこで依頼人は、民事裁判で決着をつけようと考えて久保田氏に依頼しました」

 その後、久保田は代理人としてトルコ系住人と話し合いの場を持った。

「ところが先方は頑なに、土地は自分たちのものであると主張しただけでなく、最後には久保田氏と依頼人を脅すような言動を見せたのだとか。拉致して山に埋めるぞ、と」

「拉致して山に……。その話が本当なら、動機にはなる……」

 だが、いまのところは依頼人側の一方的な主張に過ぎない。

「そのトルコ系住人については?」

「こういうご時世ですから、直接話を聞く前に、組対二課に照会をかけました」

 組対二課とは組織犯罪対策第二課のことだ。組織犯罪対策第一課は暴力団関係、組織犯罪対策第三課は特殊詐欺、そして二課はこれまで国際捜査課と呼ばれていた。

 空港も港もない埼玉県に、国際犯罪を専門に捜査する部署があるということは、それだけトラブルや犯罪が増えていることを表している。

「近所との騒音トラブルは何度か報告されていますが、犯罪と思われる行為が疑われたことはありません。ただしこの人物の従兄にあたる男は、過去に傷害罪で逮捕されています。結局不起訴になったようですが、性格は短気でかっとなりやすく、若い頃から仲間とたびたびトラブルを起こしているという話です」

「被害者が拉致された現場で、トルコ系住人の目撃情報などは?」

「ありませんが、いずれにしろ、彼らが事件に関係あるのかないのか、一度、うちの捜査員に直接話を聞きに行かせたいと思います」

「そうね……」

 上野はしばし逡巡した。

 相手が日本人なら迷うまでもないことだ。犯人であろうとなかろうと、容疑者リストから外すためにも、一度は本人に話を聞かなければならない。

 だが相手が外国人となると、そこには配慮が求められる。昨今はどんな些細なことでも、差別と結び付けられて騒ぎになってしまう。

 上野は刑事部長に相談することにした。

 

(つづく)