警察の黒い乗用車から深瀬多津子が降りてきた。走り去る車に深くお辞儀をして見送る。警察から重要参考人扱いまでされたというのに、彼女のあの人の良さはどこから来るのだろう。

 ほづみは静かにミニバンを発進させると、マンションに入ろうとした深瀬の側に近づけた。

「深瀬さん」

 窓を開けて声をかけると、深瀬はびっくりした様子でほづみを凝視した。

「ほづみちゃん、あなた……」

「乗ってください」

 深瀬は動かない。

「早く」

 警察の車両が引き返してくるとも限らなかった。

 深瀬がドアを開け、車に乗りこんですぐにほづみはアクセルを踏み込んだ。

「スマートフォンもこちらへ渡してください」

 ほづみが左手を差し出すと、深瀬は素直にバッグの中から取り出したスマートフォンを渡した。ほづみはそれの電源を落とし、深瀬に返した。

「どういうことなの、どうして……というよりあなたやっぱり、足が……」

 深瀬がほづみの下半身を見つめた。

「歩けるのね。なのにどうして車いすに?」

「やっぱり気づいてたんですね」

〈ねえ、ほづみちゃん。さっきから気になっていたんだけど、あなたもしかして――〉

 以前、深瀬を家に招いた時、口にしかけてやめたのはやはりこのことだったのだ。

「娘のこともあって、車いすで生活する部屋の様子はわかっていたから。ほづみちゃんの部屋は、コートをかける場所や、食器の置いてある位置なんかが、車いすに乗ったままだと少し不便な高さにあるんじゃないかと思って……」

「それなのに黙っててくれたんですね」

 ほづみは微かにほほ笑んだ。どこまでもこの人は優しく、思いやりのある人なのだ。

「私の正体にも気づいていたんでしょう? 私があなたの娘さんに何をしたのかも」

「ええ、気づいていました。あなたの名前がほづみだと聞かされた時、もしやと思ったけれど、その後、ご両親が事故で亡くなったと教えられて、確信に変わった」

「それならどうして、私にいろいろ親切にしてくれたんです? いつか復讐する機会を狙っていたんですか」

「復讐だなんて、どうしてそんな恐ろしいこと……」

「でも、恨んだでしょう。私のせいで娘さんは歩けなくなり、自殺までしてしまった。私さえあんなことをしなければ、娘さんは今頃、結婚して、子供が生まれて、あなたはお祖母ちゃんになっていたかもしれない。そんな幸福な未来を奪った私を、許せるわけないですよね」

「そうね……。確かに初めは、いくら幼い子供の仕業とはいえ、どうして久美があんな不幸な目に遭わなければならなかったのかと、あなたやあなたのご両親を憎む気持ちはあった。でも久美が亡くなってしばらくして、あなたとあなたのご両親が事故にあったと、うちをよく取材しにきていた新聞記者の方に教えてもらったの。幼いあなたはたった一人残されて、親戚の家に預けられたって……。その時、可哀そうにと思って、恨む気持ちは消えてしまった」

「深瀬さん、お人良しが過ぎます。もう本当のことを言ってください。私を殺したいでしょう?」

「いいえ」

 深瀬が力強く答えた。

「あなたを本当の娘のように思っていたのは嘘じゃない。娘の分もあなたには幸せになってもらいたかった」

 ほづみはまた笑いそうになった。

「もう無理ですよ」

「どうしてそんなこと言うの?」

「だって、本当に手遅れなんです」

 ほづみは車を加速させた。

「どこへ向かっているの?」

「あなたの本当の望みを叶えられる場所へ」

 それきりほづみは、深瀬のどんな問いにも答えなかった。

 

 

 いつもは天真爛漫を絵に描いたような真砂だが、上野と天堂が漂わせているただならぬ緊張感を察してか、口元を強く引き結んだ。

 上野がこれまでの経緯を説明する。

「あ、あの、お話の意味がわかりません。いま、水嶋さんが事件に関係しているっておっしゃいましたが、なんでそんな……?」

 真砂は心から困惑した様子で、上野を見つめ返した。

「あなたの気持ちはわかる。でもいまは、落ち着いて協力して」

「協力って、何をすれば……?」

「あなたは水嶋さんと親しかったでしょう。いつもどんな話をしていたの?」

「全然、たいした話じゃありません。事件とは――」

「真砂。調査官に訊かれたことに答えなさい」

 傍らから天堂が厳しい声で口を挟んだ。

 真砂は青ざめた顔で、ほづみとの会話の内容を語り始めた。

「私が警察官になろうと思ったきっかけとか、子供の頃のアニメの話をしたら、水嶋さんも同じアニメを見ていて、彼女も本当は警察官になりたかったって――」

〈――すごいね、捜査一課なんて言葉よく知ってるね〉

〈アニメで見たの〉

 上野は事故現場で幼いほづみと交わした会話の一部を思い出した。

 そのアニメは、名探偵の子供が大人の警察官たちと難事件に立ち向かうというものだとほづみは話し、自分も大人になったら捜査一課の刑事になりたいと上野に教えてくれたのだ。

「――それから、私が柔道をしていたこととか、好きなお菓子とか、休みの日は何をしているかとか……あとは……あ、そうだ。SNSの危険性について、水嶋さんから教えてもらいました」

「それはどんな内容?」

 SNSという言葉に上野は引っかかった。いまのところ被害者たちに共通するのは、SNSの投稿をきっかけに、ターゲットにされたと考えられることだからだ。

「はい、あの、私、実は内緒でちょっとだけSNSをやっていて……」

 真砂は上野たちの反応を恐れるように視線を泳がした。

「続けて」

「迂闊なことを投稿すると、そこから身バレしちゃうから気を付けた方がいいって。それから、彼女が警視庁の研修用に作ったブログを見せてもらって、実際にどうやって身元を特定するのかを教えてもらいました」

 真砂がその時のやり取りを詳細に語った。投稿内容と動画から、アカウント主が埼玉県飯能市に住んでいることはもちろん、動画に映っていた線路の情報から、ほぼピンポイントで生活圏を特定したことなど。

 ほづみが犯人なら、彼女はきっと同じ手口で被害者たちのSNSから、その住まいや行動範囲を特定していったのだろう。

 だがおかしな点があることに気が付いた。

「そのブログは警視庁の研修用だと水嶋は言ったのね」

「はい」

「それならどうして、埼玉県飯能市だったのか。その理由は何か話した?」

 埼玉県警が研修に使うならわかる。だが普通、その手の教材は、自分たちの管轄内をモデルケースとして取り上げるはずではないだろうか。

「理由は、聞いていません」

「警視庁にその研修について問い合わせてみますか」

 同じ疑問を天堂も覚えたようだ。

「いいえ、ホットラインを使う」

 腰を浮かしかけた天堂を制して、上野は携帯を取り出した。相手はすぐに電話に出た。

「百武だ」

 ほづみのブログについて確認し、上野は礼を言って電話を切った。

「そのブログは警視庁の研修には使われていない。そもそも、水嶋に依頼した事実もなかった」

「え……?」

 真砂が目を見開いた。

「警視庁から水嶋が使っていたノートパソコンを提供してもらえることになりました。天堂さん、届き次第、中身の調査をお願いします」

「承知しました」

「話は以上です。二人とも持ち場に――」

 上野の言葉の途中で、携帯が鳴った。電話をかけてきたのは鈴置だった。上野は二人にまだ待機しているよう手で合図してから、応答した。

 鈴置いわく、留守電にメッセージがあったので、一応折り返したのだという。

「棺桶殺人。世間ではそう呼ばれている一連の殺人事件の犯人は、水嶋ほづみだと我々は考えています」

 上野は回りくどい話はやめ、事実をそのまま突きつけた。

「そんな、まさか……」

 そう言ったきり、鈴置が沈黙する。

「あらゆる状況証拠が、犯人は彼女であることを告げています。ただ一つだけわからないのは動機です。そこで主治医であるあなたに、犯行に至るまでの彼女の心理を解説していただきたいんです」

「警察に協力したい気持ちは山々ですが、わかっていただきたい。私は彼女の主治医として、患者の病状に関する見解を話すことはできないのです」

 鈴置の声にも苦悩が滲んでいるのは明らかだった。

「わかりました。それなら、次に彼女がどんな行動を取るつもりなのか、教えてもらえませんか。天利巡査部長は、水嶋が自殺を図ろうとしているのではないかと心配しています。先生はどう思われますか」

「私もそう思います。ただし……」

 鈴置が躊躇いを覗かせた。

「教えてください。我々は水嶋を助けたいんです」

「水嶋さんの心の中にあるのは、自分への処罰感情です。何度となく、自ら命を絶とうとしてきました。都築先生も私も、そして天利君も、必死でその状況から彼女を救おうとしてきたんです。ですが……もしかするとそのせいで、彼女はいっそう罪悪感を募らせてしまい、いまは……誰かの手で決着をつけてほしいと願っているのではないかと思います」

「誰かの手で……それは殺されたいということですか」

「ええ。でも誰でもいいわけではありません。彼女が一番許されたい人物の手にかかって死ぬことが彼女の望みです」

 一番許されたい人物。

 上野ははっとして声を震わせた。

「もしかして深瀬多津子ですか。ご存じですよね。深瀬さんは、水嶋が幼い頃、植木鉢を落として障害を負わせた久美さんの母親……まさか、水嶋は最初からそれが目的で彼女に近づいた……?」

 電話の向こうで鈴置は沈黙していた。

「先生は水嶋の目的をご存じだったんですか」

「いいえ、決してそういうわけではありません。ですが、さっきの結論は、水嶋さんが一連の事件の犯人だと聞かされた結果として、導き出した答えです。治療に関して言うならば、深瀬さんの存在は水嶋さんの精神の安定に良い影響を与えていたんです」

 

 

 空が白くなり始め、夜が眠りにつこうとしている。都内を抜けた車は、埼玉県内に入った。深瀬にも見覚えのある光景のようだった。

「私をどうするつもりなの?」

 深瀬が尋ねた。

「心配しなくても、あなたに危害を加えるつもりはありません」

「じゃ、どうして私を車に乗せたの?」

 深瀬の声は穏やかだった。状況を考えれば動揺して当たり前なのに、ほづみを刺激しまいとしているのかもしれない。

「あなたには復讐する権利があります」

「復讐なんて……私は本当にそんなこと考えたことないわよ」

「でも、罪を犯した人間が裁かれることもなく、生き続けていいわけはありません。違いますか」

 深瀬は黙ってほづみの横顔を見つめた。

「悪いことをすれば警察が捕まえる。そして司法の裁きを受ける。それでこそ、世の中の秩序は保たれているんです。それなのに、罪も認めず、処罰もされず、のうのうと生き延びる人間が存在すれば、世界の秩序は乱れてしまう」

「今の世の中、確かに理不尽なことは多いわよね。だけど私がもしあなたを恨んで復讐したとして、そんなことが許される世の中も、正しくはないんじゃないかしら?」

「いいえ、それこそが正義なんです」

 ほづみがきっぱりと言い切ると、深瀬がはっと息を呑んだ。

「もしかしてほづみちゃん。みんなあなたが殺したの?」

 ほづみの口に自然と笑みが浮かんだ。

「殺したんじゃなく、みんな正当な罰を受けただけです」

「正当な罰と言うけれど、殺された人たちはそんなに酷いことをしたということ?」

 ほづみは再び黙り込んだ。また心の中がごちゃごちゃしてきた。

「桑畑くんも?」

「彼は……いじめの問題を見過ごしました。その場にいなかったからと言って、部活の顧問なら、生徒を監督する立場にあるはず。それを怠ったことは罪に値すると思います」

「それなら久保田弁護士は? この人はあなたのご両親の代理人を務めた人物よね」

「実を言うと、そのことは知らなかったんです。ただ彼は、犬の散歩中、何度か故意に糞の始末を怠ったことがあったから……」

「たったそれだけのことで……?」

 深瀬が絶句した。

「古関智也は子供の頃に友達から借りたゲームを返さなかったことを、SNSで笑い話に変えていた。諸橋茜はキャバクラに来る常連客の容姿いじりをしていたし、登山を趣味にしていた久宝凪子は、採取が禁止されている高山植物を採って持ちかえったことがあった。そして樺山則夫は――」

 

 

 峰岸からの報告が入った。

「警視庁によれば、深瀬多津子は自宅に戻っていません。付近の防犯カメラ映像に、あずき色のミニバンに乗り込む彼女の姿が映っていました」

 映像には運転手の姿までは映っていなかったというが、ほづみで間違いないだろう。

「大至急緊急配備をかけて」

 上野が峰岸に指示を出した直後に、また着信があった。今度は門伝だ。

「いま鴻巣市の水嶋の祖父母宅の前に到着しました。外から見る限り異常は確認できません。付近の住人に話を聞いたところ、風向きによって防災無線は聞こえることがあるそうです。令状が到着次第、捜索に着手します」

「わかった。何かあったら引き続き連絡をください」

 電話を切り、上野は別室へ移動した。そこには、警視庁から届けられた、ほづみが使っていたパソコン類が置いてある。ノートパソコンが一台とデスクトップタイプが一台、それと外付けのハードディスクも含まれていた。

 警視庁の立場からすれば、パソコンの中身は自分たちで検めると主張したいところだっただろう。だが今回、百武は一切その手の主張をしてこなかったどころか、どんな結果になろうと、埼玉県警の判断を尊重すると伝えてきた。

「どうですか」

 ノートパソコンを開いた天堂に上野は声をかけた。

「IDとパスワードは警視庁から教えられた通り、変更されてはいません。ですが、問題のブログが残っているかどうか……」

 天堂は不安そうだった。コマンドプロンプトがどうのと上野に説明をしてくれたが、よくわからなかった。とにかく今は、彼の能力に賭けるしかない。

 やがて天堂が小さく息を漏らした。

「該当しそうなブログは見つかりません」

「では、もう削除されてしまったということですか。復元などは?」

「どういう削除の仕方をしたかによります。水嶋の技術をもってすれば、おいそれと復元できない方法を取った可能性も……。そうなれば私にはお手上げですから、科捜研に依頼するしかないでしょう」

 正規の手順を踏むとすれば、科捜研に解析の依頼をすることになる。だがそれでは結果が判明するまで時間がかかる。

 上野はノートパソコンの画面を睨んだ。黒い画面にコマンドと呼ばれる英単語のような文字が並んでいる。

「水嶋はファイルを消していないと思います」

 天堂が顔を上げた。

「水嶋は処罰されることを望んでいると、鈴置医師は話していました。それなら彼女は、我々警察にも何かを見つけてもらいたがっているんじゃないでしょうか。そんな気がするんです」

「わかりました。それならどこかに隠しているのかもしれません」

 天堂がキーボードを叩く。しばらく、上野には理解できない作業が続く中、「ありました。おそらくこれです」と、天堂が珍しく興奮した声を上げた。

 ブログが表示される。

『仕事で怒られた帰り道で偶然撮影。ああ、青春っていいな……』

 真砂も内容を確認し、これで間違いないと認めた。

 ブログ内に埋め込まれた動画も再生される。三十秒ほどの間に、花火が打ち上がる音と、電車の通過音が聞こえた。

 目を凝らすと、動画の奥に線路らしきものが映っている。

 ほづみがわざわざこんなものを作った目的はなんなのだ。

「もう一度、動画を再生してください」

 花火が上がり、電車が通過する。この動画が飯能市で撮影されたものであるなら、それは西武鉄道の線路に違いない。

「この動画の撮影者は、北へ向かっていたと水嶋は話した。間違いない?」

「は、はい、その通りです」

 真砂が大きく頷いた。

「そうなるとこの電車は西に向かっていることになる。となれば行き先は……秩父」

 上野の脳裏に、十八年前の事故現場が蘇った。

「至急、秩父署に連絡して、警察官を向かわせてください」

 天堂に素早く指示を出すと同時に、上野は傍らの真砂を振り返った。

「車の準備を。私も秩父に向かいます」

「は、はい」

 弾かれたように真砂は部屋を飛び出した。

 上野も出かける準備を整えたところで、再び門伝から連絡が入った。

「令状が届いたので、家の中に入りました。諸橋さんの供述に出てきた部屋を見つけたところです。『前室』と『取調室』と、そして『ガレージ』。室内の特徴はどれも諸橋さんの証言通りでした。これから鑑識が入ります」

 電話の背後で、大勢の人間が動き回っているような音が聞こえる。

「それから、地下室らしき部屋を見つけたんですが、出入り口がコンクリートで塞がれていて、壊すのに手間取っています」

 電動カッターの騒々しい音が響き始めた。

 上野は駐車場へと降りていきながら、こちらの状況も門伝に伝えた。

「両親が亡くなった事故現場で、水嶋は何をしようと考えているんでしょうか」

「わからない。鈴置医師の話によれば、彼女は深瀬の手で自分の命を奪ってほしいと考えているとのことだった」

「でも、私が取り調べた感触では、深瀬さんはそういうことをするような人物ではありません」

「私もそう思う。ただ、深瀬がほづみの望みを拒めば、最悪、深瀬を道連れにしようと考えるかもしれない」

 ガードレールを突き破って崖下に車が転落する映像が、上野の脳裏を過った。

 

(つづく)