5
「楽にして」
上野と天堂、そしてほづみの三人は会議室に入った。
ほづみにはなるべくリラックスしてもらいたくて、一番明るくて、窓からの眺めも良い会議室を選んだ。
だがほづみは体の前で強く手を組んでいた。
「何か飲みますか」
「いいえ、大丈夫です。ありがとうございます」
尋ねた天堂に、ほづみは小さく首を振った。
なるべくほづみに威圧感を与えないよう、天堂には会議室の隅にいてもらい、正面には上野だけが座った。
「これから尋ねることは、あなたにはショックなことかもしれません。しかし、捜査にはどうしても必要なことなので、協力をお願いします」
「捜査に……?」
ほづみは怪訝そうに聞き返した。
「あなたが子供だった頃、六歳の時に起きたある事件のことです」
ほづみがはっとなった。
「あなたはマンションのベランダから、鉢植えを一つ落としてしまった。それがたまたま通りかかった女子中学生の頭を直撃してしまう」
「はい……。あれは忘れることのできない過ちです」
ほづみの顔は青ざめていた。
「もちろん、あなたに悪気はなかった。父親は仕事に出かけ、母親は別の部屋にいて友人と電話中だった。あなたは一人でベランダに出て、遊んでいた。そこには母親が育てている小さな植木鉢が幾つか並べられていた」
「自分でもどうしてあんなことをしてしまったのかよくわかりません。自分のしたことがどんな結果を招くことになるのか。そんなことも全くわかっていませんでした。私が植木鉢を落とした後、周囲がすごい騒ぎになって、救急車やパトカーのサイレンが聞こえました。それでもまだ、自分が原因だったとは気づいてもいませんでした」
ほづみの頬を涙が伝っていた。
「両親は私に何も話しませんでした。その後の警察の捜査のことや、民事裁判のこと……そして両親が世間から追い詰められていたことも……」
ほづみが声を詰まらせた。
加害者が幼い子供であることを理由に、警察が事件の立件を見送った後、被害者の家族から訴えを起こされて、民事裁判が始まった。
その結果、和解金として被害者とその家族には、賠償金が支払われることでいったんは決着する。
だがその二年後、被害者だった女子中学生は、将来を悲観して自殺してしまう。
それをある週刊誌が記事にした。両親やほづみの氏名こそ伏せられていたが、近しい人間には容易に身元が特定できる内容だった。
そしてある日、何者かが、当時隆盛を誇っていたネットの巨大掲示板に、ほづみの両親の名前、父親の職業などを書き込んだ。
そこからあっという間に、バッシングの嵐が始まる。父親は会社にいづらくなって退職し、母親も趣味で行っていたフラワーアレンジメント教室を続けられなくなった。
そこへ、民事裁判の賠償金の負担が重く伸し掛かる。
真に悪人であれば、踏み倒すこともできた。だがほづみの両親は善良であり、精神的に追い詰められ、正常な判断力を無くしていた。
その結果が、一家心中だった。
だが全ての発端となったほづみ一人が生き残ってしまう。
そこからの人生が、ほづみにとってどれほどの地獄であったかは想像に難くない。
上野はできるだけ同情の気持ちを抑え、そうした事実を淡々と振り返った。
「長岡久美。あなたが植木鉢を落とした中学生の名前です。知っていましたか」
「いいえ、知りませんでした」
「では、久美さんの母親の深瀬多津子さんはどうです?」
上野はそこで、ほづみの顔に衝撃が走ったのを見た。
「いま、深瀬多津子って……そんな……まさか……」
ほづみの声は震えていた。
「どうかしましたか」
「深瀬さんのことなら知っています」
「詳しく教えてください。深瀬多津子とはどいう関係ですか」
ほづみの口から、深瀬との出会いが語られた。
「以前に住んでいたところが、通勤には不便なところだったので、去年の夏に引っ越したんです。それで近くのスーパーへ買い物に行き、セルフレジでお会計しようとした時です。前に利用していたスーパーのセルフレジと違って、タッチパネルまでの距離が遠くて、車いすを横向きにしなければ手が届かないことに気が付いたんです。でも、周囲が混雑していて、車いすを動かせずに困っていると、深瀬さんの方から声をかけてきてくれました。それが縁でちょくちょく話をするようになって」
互いの事情も少しずつ打ち明けるようになっていったという。
「娘さんが自殺をしたということも教えてもらいました。でも、私が起こした事件のせいだとは一言も……」
ほづみもまた、両親を事故で亡くしたことは話したものの、自分の犯した罪については、打ち明けられなかったという。
「あの、でも深瀬さんがどうかしたんですか」
上野はどこまで明かすべきか悩んだ。
ほづみが完全に一般人であれば、適当なことを言って誤魔化すことも考えたが、仮にも相手は警視庁の警察職員なのだ。
「我々は深瀬多津子を事件の重要参考人と見ています」
初めて重要参考人という言葉を使った。
ほづみはショックと驚きとで、しばらく声も出ないようだった。
「それからもう一人、久保田春雄という人物はご存じですか」
「久保田春雄……あ、その人は確か事件の被害者で最初に遺体が見つかった?」
「そうです。彼は弁護士でした。そして、民事裁判では、あなたのご両親の代理人だった弁護士です」
門伝の調査によりこの事実が判明した時、上野は深い霧の裾の方が晴れていくような錯覚を覚えた。そして、深瀬を重要参考人とする判断を下したのだ。
被害者の中に、深瀬の娘と関わりのある人物が二人いたこと。これを単なる偶然とは見過ごせなかった。
もちろん、まだ謎は残る。他の被害者はなぜ狙われたのか。そしてなぜ、被害者同士で取り調べをさせ、木箱に入れて地中に生き埋めにするといった手段を選択したのか。
何より、娘の死の原因を作ったほづみを、真っ先に襲わなかったのはなぜなのか。
二人が知り合ったのが去年の夏頃。相手は車いすの女性だ。チャンスは幾らでもあったはずだった。
「深瀬さんが事件に関係してるなんて、そんなこと絶対にあり得ません」
ほづみが車いすのリムハンドルを強く握り締めた。
「深瀬さんは私のことを、本当の娘みたいに思っていると言ってくれました。私も深瀬さんのことは母のように感じています。本当にすごく優しい人なんです。私の両親が亡くなった話をした時も、一緒に泣いてくれました」
《悪いことをした人にね、自分の罪を認めさせるの。警察の仕事っていうのは、犯人をただ捕まえるだけじゃない。その人に自分が犯した罪ときちんと向き合うようにさせて、司法……えっと、裁判でね、罪に応じた罰がちゃんと受けられるようにすることも大事な仕事なの》
不意にあの事故の時、ほづみに自分が語った言葉を上野は思い出した。
「あなたのご両親が亡くなったことを話した時、私が側にいて物語を聞かせたことも深瀬さんに話しましたか」
「はい。優しいお姉さんがずっと手を握ってくれて、お話をしてくれたと」
「その内容も深瀬さんに教えたのね」
「……はい」
「警察の仕事は犯人に罪と向き合わせて、司法に裁かせることだと」
上野はさらに念を押した。
今度もほづみは困惑したように頷いた。
深瀬の娘が自殺したのは、ほづみが起こした事故のせいだ。もしほづみが成人であれば、刑事罰は免れなかったかもしれない。だが結果的にこの事故で、誰も処罰はされなかった。
民事で賠償金を受け取ったからといって、それで深瀬の心が癒されたとは限らない。
深瀬は加害者たちが罰を受けることを望んだ。だが現実の世界ではそれが成されることはなかった。そこで自らが、警察と司法、両方の役割を演じることにしたのだとすれば――。
「あの、でも、上野調査官の話は、深瀬さんにだけしたわけじゃありません。他に警視庁の天利凪人巡査部長と、私の主治医の鈴置卓郎医師もこの話は知っています」
だから特別な意味はないのだと、ほづみは言いたいようだった。
ほづみには最後に、今日ここで話したことは一切、他言無用であることを告げた。もちろん、深瀬多津子には絶対に伝えないよう注意した。警察職員として、その辺りは弁えていてくれることを祈った。
「それとあなたには、警視庁と埼玉県警で協力して警護をつけます」
「そんな、どうしてですか」
「深瀬多津子の犯行動機が復讐なら、絶対にあなたを襲うはずだからです」
ほづみはその言葉にさらなるショックを受けたようだった。
警察官に伴われて、ほづみが会議室を退出し、上野は峰岸と門伝を呼んだ。
「どう思う?」
上野はほづみの両親の心中現場で、ほづみに語った言葉を二人にも伝えて意見を求めた。
「つまり深瀬は、娘の死の責任はほづみさんにあると考えた。しかし未成年であったため、刑事罰は受けなかったことに我慢ができず、自らの手で裁きを受けさせようとした。そうおっしゃりたいんですか」
門伝はやや懐疑的だった。
「被害者たちに罪を告白しろと自供を迫り、最後に刑の執行として箱に入れて地中に埋める。それが深瀬にとっては正義だと考えた……」
峰岸もそう呟きながら首を捻る。
「それならなぜ、ほづみさんを襲わなかったんでしょうか」
結局、その疑問に行きついてしまう。
「わからない。でも他の被害者たちをもう一度調べなおしてみて。どこかで深瀬に関係していないかどうか」
「天利巡査部長と鈴置医師についてはどうしますか」
天堂が尋ねた。
「今のところ、事件への関与は考えられないけれど、一応調べておいた方がいいでしょう。お願いします」
「わかりました」
門伝と天堂が部屋を出ていき、上野は峰岸には残ってもらった。
「猿渡さんからもう聞いているでしょうけど、今月末までに事件を解決できなければ、私はお払い箱になる。もちろん、最後まで諦めるつもりはありませんが、あとの捜査はよろしくお願いします」
「私は……」
峰岸の顔に一瞬、躊躇いが過った。それから意を決したように口を開いた。
「今さら青臭いと思われるかもしれませんが、今回の事件は捜査責任者の首をすげ替えたくらいで、解決できるものじゃありません。むしろ、解決したいなら、現場の捜査に上はいちいち口を挟むべきじゃない。どいつもこいつも何を狼狽えているのか。腹が据わってない。毎度のことながら、こういう人事にはうんざりしますよ」
峰岸は腹を立てた様子を隠すこともなく、部屋を出ていった。
さっきの言葉は間違いなく、彼の本音であろう。
玉城や猿渡ら上層部を批判すると見せかけて、失敗を恐れ、ぐずぐずと決断を先延ばしにしている上野に対する苛立ちとも取れるものだった。
上野が峰岸班を指揮すると決まった当初は、互いに遠慮があり、不平や不満は呑み込んできた。
もし峰岸が未だに上野に対して信頼を置いていなければ、今回の指揮官交代について、素直に承諾すればいい話だった。
批判をしたということは、むしろ峰岸が本心から上野に向き合おうとしてくれている証に違いない。
ならばこちらも、覚悟を決めなくてはならなかった。
もちろん、事件が未解決に終われば、誰かが責任を負わなければならない。
だが今ではない。
もう少し足掻いてみるか。
上野は玉城のもとへ向かった。
「更迭については、もはや私の一存でどうこうできるものではなくなりました。今回の事件の解決が長引けば、本部長の責任問題にもなりかねず、組織としては、トップは守らなくてはなりませんから」
それでも刑事部長である玉城の決定が、大きく左右することは間違いないはずだ。
「もう少しだけ猶予をいただけませんか。せめて、いま重要参考人と考える人物の調べが全て済むまで」
「その女性の娘さんは確か、あなたが以前たまたま遭遇した事故現場で助けた子供と因縁があるんでしたね」
「はい、その通りです」
「その報告を受けた時、私はとても不思議でした。目の前である家族が事故に遭った。これはかなり印象深い出来事ではありませんか。それなのに、あなたは忘れていたというんですか」
「あの年は個人的にいろいろあった年で……」
玉城は手振りで、部屋の中央にあるソファに座るよう上野を促した。玉城も向かいに腰を下ろす。
「警察官にも家庭があり、家族を大切に思うこと自体は当たり前のことだと思います。しかし、仮に今、災害が起こったとしましょう。我々警察官は家族より、市民の命を守る行動を優先させなくてはなりません」
「もちろん、承知しています」
実際、東日本大震災の時は、東北に比べて関東の被害は少なかったとはいえ、上野は何日も自宅に戻れなかった。それは市役所職員である夫の弦も同様だった。息子の怜大は上野の両親に面倒を見てもらい、寂しい思いをさせてしまった。
「私は国家公務員として国へ奉職することが決まった日から、私生活は捨てて仕事を最優先することを誓いました。上の子を出産した時は、三ヵ月で復帰し、二人目の時も同じです。もっとも、私の場合は近くに両親が住んでいて、彼らの援助を受けることができたから可能だったということは認めます。一方世の中には、そうではない女性たちが大勢いることも理解しています。がむしゃらに働くだけが人生ではない。そんな考え方もあるでしょう。専業主婦を否定もしません。肝心なことは、他人に決められたわけではないということです。数値目標があろうとなかろうと、幹部への昇任を受諾したのは自分の意思だったはず。違いますか」
玉城は上野の反応を窺うようにいったん言葉を区切った。
「あなた方女性警察官はなぜ幹部になろうとしたんですか。上に勧められたから? でも決めたのは自分でしょう。降りることもできた。でもそうしなかった以上、覚悟が求められます。そこに男女は関係ない。幹部警察官として働く道を選択するならば、それ相応の覚悟は必要なはず。でも私にはあなた方の覚悟が見えない」
ようやくわかった。玉城は上野個人に不満があるのではない。上野たちノンキャリアの女性警察官の働き方に対して、納得がいっていないのだ。
実際のところ、女性警察官の中には、多すぎる転勤や、夜中や休日の急な呼び出し、責任の重さを敬遠して、幹部になりたくないと考える者も多かった。それでも警察としては、女性幹部の割合は増やさなければならない。そこにミスマッチが生じるのだろう。
「他の女性警察官のことはわかりません。中には刑事部長がご指摘するような者もいるでしょう。ですが私は、事件解決にあたっては、いつだって全力で取り組んできました。もしも今回、事件を解決できなければ、私の進退を懸けます」
「進退……」
玉城がその言葉を繰り返した。上野と視線が交錯する。
「いいでしょう。そこまで言うなら、今しばらく、あなたの捜査責任者としての任期を延長することにします。その代わり、事件を解決できなければ、あなたには辞表を書いてもらいます」
「わかりました」