「捜査にあたっているのは確か峰岸みねぎし班でしたね」

「そうだ。おくだいら班と入れ替えたいならそれでもかまわん」

 上野たち調査官には指揮する班が決まっている。上野は奥平班、鬼越は峰岸班を配下に置く。

 捜査の進捗状況から見て、いまなら班を入れ替えても大きな混乱が生じることはないだろう。

 だが一方で、特捜本部が立って今日で五日目。初動捜査の一番大事な時期だ。ここで捜査チームを入れ替えることが果たして適切なのかどうか。

 上野はつかの間逡巡した。

 上野と奥平班との付き合いは一年。ただし班長の奥平とは、上野が所轄の刑事課長だった時代から数えれば五年以上の付き合いとなる。互いの長所も短所も理解しており、いわばうんの呼吸で仕事ができる仲だ。

 それなら現場には奥平班を投入したい。

 だが彼らもようやく事件を解決して、久しぶりの休みを味わっている最中だろう。人情として呼び出すのは忍びなかった。

 さらにもう一つ、峰岸班の捜査員たちの心情も汲む必要がある。指揮官が更迭されたことを理由に捜査を外されるとなれば、今後の士気にも影響してしまうことだろう。

 上野は峰岸班の面々を思い返した。

 班長の峰岸は五十代前半の警部。警部への昇任は上野の方が早かったが、年齢と刑事としての経験は彼の方が上だ。性格は直情的で、時に捜査方針に関して意見が合わなければ上にも容赦しない。噂によれば警部補時代、調査官に面と向かって「能なし野郎」と食ってかかったこともあるという。もっともそれに関しては、当時の調査官は本当に能なしであったらしく、口頭での注意で済んだそうだ。

 そんな峰岸を中心に、曲者たちが揃っている。

 峰岸が上野のことをどう考えているのかもわからないが、やりにくいという点ではお互い様だろう。

「峰岸班のままでかまいません。ただし、何人か特捜本部に引っ張りたい人員がいます」

 やはり手元には信頼のおける部下を置いておきたかった。

「そこは任せる」

「ありがとうございます」

「私からは以上だ。刑事部長、なにかございますか」

 猿渡は、それまで会議室のテーブルにつきながら、ずっと無言だった玉城の方を窺った。

「ありがとうございます、参事官」

 玉城は赤い口紅の光る唇で、猿渡に小さく微笑みかけると、上野に視線を向けた。

「私から申し上げたいことは三つです、上野調査官心得(、、)」

 上野は一瞬で玉城に嫌悪感を抱いた。これまでも正直、苦手なタイプだなという印象を抱いてきたが、いまはっきりした。

「まず、突然の指揮官の交代は現場に動揺をもたらすことでしょう。彼らの精神的ケアには充分な注意を払ってください」

 言われるまでもないことだったが、上野はそんな態度はおくびにも出さずに頷いた。

「二つ目は……これも言うまでもないことですね(、、、、、、、、、、、、)。早急な事件の解決です。飯能市の事件は今日で発生から五日目となります。被疑者の逮捕が長引けば長引くほど周辺住民の不安は増すばかりです。警察への目も厳しい昨今、我々は市民の負託に応えなければなりません」

 玉城の話し方は、理解力の乏しい子供に、大人が言って聞かせるようにゆっくりとしていた。上野は表情が強張ってしまわないよう、顔の筋肉に意識を集中させた。

「そして三つ目です」

 玉城はテーブルを離れ、上野の正面に立った。

「上野調査官心得。ある意味、これが一番重要な点かもしれません」

 にっこりと微笑む。随分芝居がかった仕種だ。

「今度こそ、被疑者を生きたまま(、、、、、)逮捕してくださいね」

「……はい」

 虚を突かれ、一拍遅れて返事をした。

 玉城は赤い口紅が塗られた唇の端を満足そうに引き上げた。

「けっこう。私からは以上です」

 玉城が会議室を出て行った。コツコツというヒールの音がじょじょに遠ざかっていき、完全に聞こえなくなるまでその場にいた全員が黙っていた。

「お姫様は相変わらず手厳しいな」

 軽い調子で、最初に沈黙を破ったのは鯨井だった。

 お姫様? 彼女、私と一つしか違いませんよ。

 上野は内心でぼやいた。

 ノンキャリの幹部たちが、キャリア組のことを陰で「殿」とか「姫」と呼ぶのは、半ば慣例のようなものだ。

 キャリアとは官僚であり、本来は警察組織全体の運営や管理を行う。そんな彼らを各都道府県警での要職に就かせるのは、現場経験を積ませるためだ。民間の大企業の中にも、将来の幹部候補を地方の工場などに配属させることがあるが、それと一緒で、現場を知らずに組織を運営していくことなどできないからだ。

 そんなこともあって、各都道府県警の幹部たちの中には、キャリアは警察庁からお預かりしている存在であり、彼らの経歴に傷を付けずにお帰りいただくことこそ、重大な責務であると考えている者がいる。だからこその「殿」や「姫」という扱いになるのだ。

 キャリアを下にも置かぬ態度を取ることに上野も異論はない。

 だが玉城には警戒感を抱いていた。

 キャリアには大きくわけて二種類いる。

 現場の意見を尊重し、余計な口出しをしない者、そしてもう一つは、現場に口を挟み、混乱させる者。

 玉城はきっと後者だ。

 現場に口を挟むだけならまだいい。玉城が明らかに上野を小馬鹿にしている態度なのが気に入らない。

 上野の肩書が調査官心得であることは間違いない。だが実際に口に出す時に「心得」とわざわざ呼ぶ者はいなかった。

 玉城は、代理なのだから立場をわきまえろとでも言いたかったのだろうか。

 だが呼び方についてはひょっとすると、相手の肩書は正式に呼ばなければならないというキャリアの掟があるのかもしれない、とも考えた。

 それでも上野の腹立ちは収まらない。

 肩書の呼び方よりも、被疑者を生きたまま逮捕しろと念を押されたことが頭にきていた。

 そんなことは言われなくてもわかっている。そのことを一番気にしているのは当の上野自身だった。

 上野には不名誉なあだ名がついている。

 死神調査官。

 あだ名の由来は、所轄の刑事課長だった時代から、上野が指揮を執った事件の三分の二で、被疑者が死亡しているからだ。

 刑事なら被疑者は生きたまま逮捕したい。死なせてしまうことは刑事にとって恥であり、屈辱でもある。

 玉城の言い方はまるで、上野がわざと被疑者を死亡させたかのように聞こえた。

 確かに失態ではあったかもしれない。だが評価としては問題ないとされてきたからこそ、上野は現在、この立場にいるのだ。

 それなのに過去の失敗を人前であげつらうような玉城には、不快感しか覚えなかった。

 だがいつまでも、この場にいないキャリアの刑事部長に腹を立てていても仕方がない。

「事件の詳細を知りたいのですが」

「そう言うだろうと思って、別室に峰岸を待機させてある」

 猿渡の返答に、上野は唖然となった。

 なにがチームを入れ替えてもかまわん、だ。猿渡は初めから峰岸班に捜査を継続させるつもりで、上野もそう判断するだろうと予期していたのだろう。

 相変わらず、猿渡の手の平の上というわけか。

 上野は鯨井と共に、峰岸の待つ別室へ移動した。

 部屋に上野たちが入ると、峰岸は立ち上がった。

「ご苦労様です」

 まず鯨井に、それから上野に視線を送ってよこす。

「今回はよろしくお願いします」

 立場上、峰岸の方が部下になるが、年齢や在籍年数は彼の方が上だ。ここは丁重に振舞っておいて損はなかった。

 峰岸は顎を引くように頷いた。身長は高くないが体に厚みがあり、その上に大きな頭が存在感を示している。髪型は未だにパンチパーマだ。それが太い眉と一重の鋭い眼光を持つ強面に、拍車をかけている。

 しかしそんな見た目とは裏腹に、机の上に置かれた資料は四隅が整えられ、峰岸の几帳面な性格を窺わせる。

 上野たちが席につくと、窓際に置かれたホワイトボードの前に峰岸が立ち、さっそく説明に取り掛かった。

「現場は飯能市の中心部から十キロ以上離れた山林――」

 体形に似合った野太い峰岸の声を聞きながら、上野は手元の資料を開き、地図で現場を確認した。

 飯能市は埼玉県南西部に位置し、人口はおよそ八万人。市の南側を東京都と接し、面積の約七十五パーセントは森林で占められている。そのため、埼玉県内はもちろん、東京などからも登山やハイキングで訪れる者も多かった。

 峰岸がホワイトボードに被害者の氏名を書いた。

 被害者 久保田くぼたはる(六十歳) 埼玉県在住 弁護士

「被害者は遺体で見つかる二週間ほど前の早朝、犬の散歩中にこつぜんと姿を消し、家族から行方不明者届が出されていました。第一発見者は現場となった山林の持ち主である白金尚しろがねなお氏です」

 第一発見者 白金尚也(三十歳) 東京都在住 会社員

「東京の会社員が埼玉県内の山林を所有していたんですか」

 上野の疑問に鯨井が答えた。

「近年、ソロキャンプってのがはやってて、キャンプ用に山を買う者もいる。他人の目を気にせず、自由気ままにアウトドアを楽しめるって理由でな」

 白金が所有する山林の総面積はおよそ一ヘクタール、買った当時の金額は百万もしなかったとある。一ヘクタールは坪に直すとおよそ三千坪、サッカーコートの約一・五倍の広さだ。

「一人でキャンプをするだけなのに、こんな広さが必要なんですか」

「一ヘクタールなんて、山林としては狭い方だ」

 再び鯨井が口を挟んだ。実家が農家で、野山に囲まれて育ったと聞いたことがある。

「ことに山林は傾斜地が多く、樹木に覆われていて、平地として使える面積はそう大きくはない。実際に現場も見てきたが、平坦な場所は遺体が埋められていた周辺、百坪にも満たない範囲だけだった」

「付近に民家は?」

「ありません。ただし、半径一キロ以内にキャンプ場が二ヵ所、登山口も一ヵ所あり、週末や休みの日は公道を通る車も多い場所です。春になり、白金氏は久しぶりに自分の山を訪れて異変に気付き、警察に通報しました」

 そして駆け付けた飯能警察署の警察官によって、遺体の確認に至ったということだった。

「被害者は直方型の木箱に入った状態で、地中に埋められておりました」

「直方体……」

 上野は真っ先に棺を連想した。

 資料の中に、地中から掘り出されたその直方体の写真が見つかった。遺体を取り出すために上部の板は外されているが、それはまさしく棺と呼ぶのにふさわしい形をしている。

「検視の結果、死後、一日から二日。体には激しい暴行の跡。体内から筋弛緩剤が検出されています」

「それでは犯人は……犯人たちかもしれませんが、被害者に暴行を加え、死なせてしまったために遺体を山中に遺棄した?」

「いいえ、地中に納められた際、被害者はまだ生きていた可能性があります。というのも、被害者の死因は溺死だったんです」

「溺死?」

 上野は戸惑いもあらわに聞き返した。

「発見される二日前、埼玉県を含む関東全域を大雨が襲いました。特に現場付近の雨量は一時間あたりおよそ四十ミリ。気象庁の表現を借りるなら、バケツをひっくり返したような雨です」

 上野は記憶を振り返った。ちょうどその頃、担当していた事件を解決し、捜査本部は解散となった。いつもなら打ち上げを行うのだが、雨の降り方が予想以上に激しく、一杯だけ乾杯をしてすぐに解散となったのだ。

「被害者が納められていた箱は、数枚のベニヤ板を木工用ボンドで貼り合わせてあるだけで、防水加工もされていませんでした。そのため雨水が侵入し、すぐに一杯になったものと思われます。遺体の肺から検出された水は、箱に残っていた雨水の成分と一致しました」

 肺に雨水が溜まっていたということは、被害者が木箱に入った時、まだ生きて呼吸していたという証拠になる。

「犯人は被害者を生き埋めにして殺害しようとした……?」

「そこがどうも妙でして。まず、箱の中にあったゴムホースの存在です。これは、箱の上部に開けられた穴から地上に延ばしてありました。外部から空気を取り入れるためのものだったのではないかと」

 上野は思わず顔をしかめた。

「あともう一つ。箱の中には五百ミリリットルの飲料水のペットボトルが二本入っていました。一本は手つかずのまま、もう一本は、被害者がわずかに口をつけた痕跡が残っていました」

 水と空気。

 この二つがあれば、人間は食糧なしでも数週間は生存可能だと聞いたことがある。合計一リットルの水でどの程度生きられるかは不明だが、少なくとも二、三日で亡くなることはないのではないだろうか。

「つまり、犯人には被害者を殺害する意図はなかった?」

「断定はできません。雨が降っていなくてもいずれ、上に被せられた土の重みで箱が崩壊していた可能性もありますので」

「いずれにしろ被害者は、亡くなる寸前まで生き埋めの恐怖に晒される。これはかなり残酷な状況ね」

 そして犯人の行動の異常さも窺える。

「仮に、犯人は被害者を殺害しようとまでは考えていなかった。数日後に救出するつもりだったとして、顔を見られた以上、警察に通報されるという危険性もあったはずなのに、なぜそんな真似をしたんでしょう?」

「わかりません。単なるいたずら目的だったのかもしれませんが……」

 ところが手違いで被害者は亡くなってしまった。それなら犯人は、いや犯人たちは今頃かなり慌てているに違いない。

「被害者の久保田氏はどんな人物?」

「以前は東京の大手法律事務所で弁護士をしていましたが、五年前に退職し、失踪直前まで、越谷こしがやの自宅の一部を事務所にして弁護士業を続けていました」

 家族は妻と息子と娘がいるが、子供たちは独立し、家を出ているという。

「近所の評判は悪くありません。身内間のトラブルなどもいまのところは、聞こえてこないですね」

「そうなると、仕事上のなにかということになるのかしら」

「弁護士という職業柄、どこで敵を作るかわかりませんからね。最近は、主に小規模な民事訴訟を手掛けていたようですが、東京時代の仕事も含めていま洗っています」

「失踪時の状況もお願いします」

「被害者は毎朝決まって、犬の散歩に出かけていました。時刻もおよそ午前五時半と決めていたそうです。失踪したその日も、午前五時半に家を出たという妻の証言があります。散歩はだいたい一時間で戻ってくるそうです。しかしその日は八時を回っても戻ってこない。それで心配になって妻が捜しに行こうとした時、近所の住人が、リードをつけたまま付近を徘徊していた被害者の愛犬を連れてきたそうです。それで妻は警察に通報しました」

 当初は急に体調が悪くなり、どこかで倒れているのではないかと考えられた。警察犬も出動し、通常の散歩コースを中心に捜索が行われたが、途中で警察犬は臭いを追跡できなくなり、捜索は中断してしまう。

「このことから、被害者が何者かによって車で連れ去られた可能性が浮上しました。ですが、近所の防犯カメラはいずれも、被害者の姿を捉えておりません。目撃者もおりません。争うような声を聞いたという証人も見つかっていません」

 まるで被害者は、忽然と消えてしまったかのような状況だった。

 

(つづく)