「犯人は被害者が、毎朝決まって犬の散歩に出かけることを知っていたと考えられます。抵抗の痕跡が見つかっていないことからも、顔見知りだったと考えるべきかと」

 上野も峰岸の考えに同意だった。

「失踪後の足取りについては?」

「現場は山の中で、周囲一キロ圏内に防犯カメラは設置されていません。唯一、頼りになりそうなのは、車のドライブレコーダーの映像です。被害者が行方不明になってから、遺体となって発見されるまでの間に、付近を走行した車を探しているところです」

「ナシ割りの方は?」

 続いて、現場に残されていた遺留品や証拠品について尋ねた。

「まず箱に使われていたベニヤ板ですが、これはホームセンターなどで広く売られているものです。貼り合わせるのに使われていた木工用ボンドは、プロも建築現場で使うものでしたが、こちらもホームセンターで普通に買える代物です。捜査員には、同様の品々を最近、大量に購入した客がいないかどうか当たらせていますが、目ぼしい情報はありません。ゴムホースについても同様です。また、それらの証拠品とペットボトルからは、被害者以外の指紋もDNAも検出されておりません」

 いまのところ犯人に繋がる手掛かりは乏しい。

「峰岸さんは単独犯だと考えていますか」

「いえ、遺体に残された複数の暴行の跡、それから箱に入れられて地中に埋められていたという状況から、複数犯であることは間違いないでしょう」

 そう締めくくって、峰岸が特捜本部に引き上げる準備を始めた。

 上野は改めて峰岸に言葉をかけた。

「峰岸さん、突然の指揮官交代でお互い戸惑いもありますが、協力して解決にあたりましょう」

 峰岸は太い眉の下から、一重の目を上野にじっと向けた。

「我々は誰が指揮官であろうと、いつも捜査には全力を傾けております」

 失礼します、と言って、峰岸が部屋を出ていった。

 上野は思わず詰めていた息を吐き出した。

「プライドを刺激しちゃいましたかね。そんなつもりではなかったんですが」

「ミネは誰に対してもああだ。むしろ気を使われなかったことを喜んだ方がいい」

 鯨井がそういうなら、そうなのだろう。

 峰岸のことは頭の外に追いやり、上野は特捜本部へ加えてほしい人物の名前を鯨井に伝えた。いずれも過去に一緒に仕事をし、その能力や人間性に全幅の信頼を置いている者ばかりだ。全員を引っ張ることは難しいとしても、一人、この人物だけは絶対に外せない者がいた。

天堂てんどう巡査部長はマストでお願いします。本人には私が直接連絡しますが、向こうの上司には鯨井さんから話を通しておいてもらえますか」

「承知した。いま名前の挙がったほかの連中もこっちで調整しよう」

「お願いします」

 鯨井の役割は通称デスクと呼ばれるもので、事件や班に関係なく、全ての事件現場に臨場し、情報を管理し、裏方としてあらゆる方面との調整役を担うことだ。だからこそ調査官の中では最も経験豊かな者が務め、筆頭調査官と呼ばれている。

「あともう一つ。特捜本部が立っている飯能署の署長はどんな人物ですか」

久我くがやまたけし警視。これまでずっと交通畑を歩んできた男だ」

 交通畑か。そのことが吉と出るか凶と出るか。

 特捜本部が立つと捜査本部長が指名される。多くの場合、刑事部長がその任に就く。今回もそうだ。その下に、捜査一課長と警察署長が任命される。警察署長については形式的なものであるのだが、中にはあれこれと捜査本部のやり方に口を挟んでくる者もいた。

 交通畑であれば、刑事事件のことはわからないから任せるというのが一般的だが、稀にいちいち介入しなければ気が済まないタイプもいる。

 この場合、ものを言うのは階級だ。飯能警察署のような中規模警察署では、署長は警視となる。対して上野は調査官として、事実上、一課の捜査指揮官となるが、階級で言えばまだ警部であり、署長に対して強く出ることは憚られる。

 そんな不安はあったが、ともかく特捜本部へ行って、実際に顔を合わせてみるまではなにもわからない。

 ひとまず余計なことは考えないことにした。

 

 

 東京都F区区民センターの小ホールに、中学生たちが集まってきた。セミナーの開始まであと十五分といったところだ。

 警視庁の水嶋みずしまほづみは、ホール正面の中央のテーブルにつきながら、最後の準備に追われていた。

 近年、全国の都道府県警察は、どこも採用活動に力を入れている。理由は警察官のなり手が年々減っていることだった。

 まだ、募集定員に満たないというところまでは至っていないものの、いまから手を打っておかなければ、いずれそうなることは目に見えていた。

 そこで警視庁も、もっと若い世代に警察に親しみを持ってもらおうと、様々なイベントを企画した。

 例えば小学校低学年には、警察官の制服を着てもらい、白バイにまたがらせての記念撮影や、パトカーの搭乗体験などを行った。小学校高学年くらいになるともう少し具体的な職業体験に移っていく。実際に指紋採取などのお仕事体験をしてもらうのだ。

 中学生以上からは、さらに踏み込んだ内容の方が好まれた。

 今日のイベントも、防犯カメラによる最新の捜査手法の解説とうたったことで、参加希望者が殺到した。

 抽選で選ばれた十五名の中学生が、五人ずつ三つの班に分かれてテーブルについた。

「今日は皆さんに防犯カメラを使った捜査について、解説と実際の体験を通じて理解を深めてもらいます。ここにいる皆さんは、街に防犯カメラが設置されていることはすでに知ってますよね?」

 司会進行役の警察官が場の空気を盛り上げていく。

「それではこれより、警視庁捜査支援分析センターのあまなぎ巡査部長に、防犯カメラによる犯罪捜査とはどういうものなのか、説明をお願いしたいと思います」

 司会進行役が、傍らに控えていた天利へマイクを渡す。

「みなさん、こんにちは」

 天利の呼びかけに、中学生たちからはまばらな挨拶が返ってきた。

「捜査支援分析センターの天利です。今日はこれから防犯カメラ捜査について説明を行いますが、その前に私が所属する捜査支援分析センター、通称はSSBCと言いますが、ここがどういう仕事をしているかについて、軽くお話しさせていただきます」

 ほづみの位置からは、天利の横顔がよく見えた。まだ緊張が隠せない様子だ。

「簡単に言うと私たちの仕事は、捜査をするうえで必要な情報を解析、分析して、現場の捜査員たちが事件を解決するのに役立ててもらうというものです。わかりやすいところでは、犯罪プロファイリングが有名ですが、知ってる人?」

 中学生たちがばらばらっと手を挙げる。

「お、すごいな。ほとんどの人が知ってるみたいですね。犯罪プロファイリングというのは、犯罪現場に残された犯人の痕跡などから、犯人像を分析することです。これも我々SSBCの仕事です。と言っても、私はプロファイリングの担当ではないので、いまこの場で実演してみせることはできません。期待した人がいたら、ごめんなさい」

 天利は少しだけ肩を落とす真似をした。中学生たちの表情がほぐれるのがわかった。

「私の専門は画像および映像分析です。中でも本日のテーマ、防犯カメラを使った犯罪捜査が専門です。現在、都内には公共施設や個人宅も含めて、十万台以上の防犯カメラが設置されていると言われていて、その数は年々増えています。皆さんの家でも防犯カメラを設置していたり、登下校の際や、今日ここへ来るまでの道のりにも、たくさんの防犯カメラを見たと思います。当然そこには、皆さんの姿も映っています」

 小さなざわめきが中学生たちから上がった。日頃、存在は認識していても、自分たちもそこに映されているという事実に初めて思い当たったようだ。

「そんなに怖がらなくても大丈夫ですよ。皆さんが犯罪などなにか悪いことをしていない限り、防犯カメラは我々の生活を守ってくれるものです。それでは実際の防犯カメラ映像を見てみましょう」

 天利がちらっと横を向く。ほづみと目が合うと、軽く頷いた。

 ほづみは自分の机の前に置かれたノートパソコンを操作し、ホールの正面に配置された白いスクリーンに映像を映し出した。これと同じ映像は、中学生たちが座る机の上に置かれたノートパソコンの画面にも表示されている。みんなの視線が一斉に画面にくぎ付けとなったのを確認して、天利が再び話し始めた。

「いま、みなさんが目にしているのは、実際の街の防犯カメラ映像です。大勢の人が映っていますよね?」

 ここで使われている映像は、天利が言った通り本物の防犯カメラ映像だった。ただし、プライバシーに配慮して、個人が特定できないようあらかじめ顔にはぼかしを入れてある。

「我々の仕事はこの防犯カメラ映像に映った犯人を見つけ出し、追跡していくことです。ここからは長々と説明するより、実際の事例を交えながら、方法を解説していきましょう。それではこれから、実際の事件を元に再現された映像を皆さんに見てもらいます」

 それは、警視庁がエキストラを使って撮影した防犯ビデオカメラの映像だった。

 帽子にマスク、サングラスをした男が、手にナイフを持って宝飾店に入ってくる。犯人役は捜査一課の強行犯係に所属する刑事、店員や客もみな警察官であり、手に持っているナイフも、プラスチックで作られた小道具だ。それでも映像を見つめる中学生たちは皆真剣だった。

 宝飾品の詰まったボストンバッグを持った犯人が、店の外へ飛び出したところで映像は終了した。

「みなさん、犯人の男の特徴は覚えましたか」

 黒いトレーナー。マスク。グレーのキャップ。サングラス。

 中学生たちから続々声が挙がる。

 そんな反応に気をよくしたのか、ようやく天利の横顔から緊張の色が消えた。

「じゃあ、人相は覚えてますか」

 今度は、中学生たちが顔を見合わせた。

「マスクとサングラスで隠れてたから……」

「そう、その通りです。この犯人に限らず、犯罪者はマスクやサングラス、キャップなどで変装することがほとんどです。実際の捜査でも、防犯カメラに犯人の人相がはっきり映っていることはほとんどありません。そんな時、服装や持ち物が重要となります。あとは体格です。犯人は太っていたか痩せていたか、身長はどのくらいか。何か歩き方や仕草に特徴はないか。今度はその点を頭に置きながら、もう一度さっきの映像を見てみましょう」

 再び映像を確認して、ここからは、中学生たちに防犯カメラ映像を使って、犯人を追跡するゲームに参加してもらった。

 中学生たちは夢中で映像に見入り、見事犯人の足取りを特定することに成功した。

「――以上で、私の話は終了ですが、最後に一つだけ。犯人逮捕に防犯カメラが一役買っていることはおわかりいただけたと思います。しかしその陰ではこれまで通り、捜査員たちによる地道な捜査も欠かせません。どうかそのことも忘れないでいてください。以上です。ありがとうございました」

 天利が頭を下げると、中学生たちから大きな拍手が起こった。

 天利が戻ってきて、ほづみは小さく「お疲れ様」と声をかけた。

「どう?」

 天利が小声で尋ねる。

「だめ、緊張してきた」

「俺だってできたんだ。ほづみなら大丈夫、うまくいくよ」

 元々の予定では、ほづみの仕事は天利の助手として説明資料をモニター上に表示させることだけだった。ところが直前になって、ほづみも中学生の前で挨拶してほしいと依頼されたのだ。

 なにも準備していないことはもちろん、生来、人前で話すのは苦手な性格だ。

「次に登場するのは、先ほど天利巡査部長の補佐役についていた水嶋ほづみさんです。実は水嶋さんは警視庁に勤めていますが、警察官ではありません」

 進行役がまるで謎解きのような言葉を発する。中学生たちの関心を引こうという作戦だ。これまた見事に嵌った。

 できることなら、誰も自分の話になど関心を持ってくれなければいいのだけど。そう願っていたほづみだったが、どうやらそういうわけにはいかないようだ。

 ほづみはマイクを受け取ると、緊張のまま第一声を発した。

「みなさん、こんにちは」

「こんにちはー」

 天利が空気を作ってくれたお陰だろう。良い反応が返ってきた。

「私は水嶋ほづみといいます。仕事は警察職員です。警察職員というのは先ほどもお話がありましたが警察官ではありません。事件も捜査しません。でも警察で働いています」

 そこまでを早口で告げる。落ち着かなきゃ。一度深呼吸をして、再び話し始めた。

「警察職員というのは、警察官の仕事をサポートすることが主な役割です。会計や受付など事務職が多いですが、活躍の場はほかにもあります。私はいま、SSBCで天利巡査部長と一緒に働いています。あとは、鑑識課で指紋の照合を行っている職員もおります――」

 話しているうちに少しずつ緊張は解れていった。

「――ということで、みなさんが将来、警察で働いてみたいと思った時は、警察職員という選択肢もあることを覚えておいていただけると嬉しいです」

 ほづみは説明を締めくくった。

 最後に、参加した中学生からの質問を受けるコーナーとなる。将来、SSBCで働くにはどんな資格を身に着けたらいいか、鑑識で指紋係を務めたいといったものや、中には科捜研に入るにはどうしたらいいかという質問もあった。今日の催しが、科学的興味をそそる内容であったことを考慮に入れたとしても、誰一人、刑事になりたいと口にする者がいなかったのは少し意外だった。

「それではあと一人だけ、あ、そこのあなた、どうぞ」

 進行役に指名されて、眼鏡をかけた女子中学生が立ち上がる。

「警察職員の仕事に興味がわきました。でも私は走るのも遅いし、体力もありません。警察学校の訓練についていけるでしょうか」

「ではこの質問は、水嶋さんに答えていただきましょうか」

 予定外に再びマイクが回ってきて、ほづみはどぎまぎしつつも、質問者を見つめながら答えた。

「警察職員も警察学校には入校しますが、警察官のように柔道や剣道などはやりません。体力トレーニングもありますが、私のように走るのが苦手な者でも、ちゃんとついていくことができましたので心配しなくても大丈夫です」

 最後に小さなジョークを付け加えたことで、場内は笑いに包まれた。

 説明会が終わり、中学生たちが退席すると、警察官たちは会場の撤収作業に取り掛かった。そんな中、リクルート担当の警察官が満面の笑みを浮かべて、天利に声をかけた。

「今日は天利さんのお陰で本当に大成功でしたよ」

「いや、私は全然。プレゼンの内容や説明資料は全部、水嶋さんが作ってくれたんですよ」

 天利がそんな風にほづみを立てようとしてくれた。

「え、私、そんなたいしたことは……」

 ほづみはとっさに目を伏せた。

「お二人とも本当にありがとうございました。次回もまた、よろしくお願いします」

「こちらこそよろしくお願いします」

 ほづみと天利は、ほとんど同時に頭を下げた。

 担当者が離れていき、どちらからともなく顔を見合わせて笑った。

 ほづみと天利が付き合い始めて半年ほどになろうとしている。

 きっかけは、去年の春、異動で天利がSSBCへ移ってきたことだった。

 元々、所轄の刑事課に勤務していた天利は、映像分析の専門知識を有していたわけではない。研修で一通りの知識は学んでいたものの、実際の捜査となると戸惑う場面の方が多かったようだ。

 そんな天利の仕事をサポートしたのがほづみだった。

 ほづみは子供の頃からパソコンが得意で、早くからプログラミングに興味を持ち始めたこともあり、大学でもIT関連を専攻とした。

 警察職員となってからはその能力を見込まれ、SSBCに配属されると、専門である映像や画像解析はもちろん、新しく配属される警察官の指導係も任されるようになった。

 警察職員はあくまで警察官の補助をすることが仕事ではあるが、部下というわけではない。前者は警察行政職員、後者は司法警察職員となり、採用基準も指揮命令系統も別個の組織だ。

 天利は飲み込みの早い生徒だった。ほどなくして、ほづみの助けなしで仕事をこなせるようになったある日、食事に誘われた。

 本当はもっと早く声をかけたかったのだが、けじめとして、指導者と生徒という関係の間は我慢していたのだという。

 一見、軽そうに見える天利だったが、意外にもきまじめなところが、ほづみには好ましく映った。

 二十六歳のほづみと三十歳の天利。彼らが正式に付き合い始めるのに時間はかからなかったが、これは二人だけの秘密だった。

 同じ部署で警察官と警察職員が交際することを、明確に禁止する規定はない。

 しかし周囲からの雑音を避ける意味で、二人は当分この関係を黙っていようと決めたのだ。

 ほづみは持ってきた備品が全て揃っているか確認した。どれも警視庁の管理番号が付与されている。万一にでも紛失などしてしまったら、何枚も書類を書く羽目になってしまう。

 問題ないようだった。

 安心すると同時に緊張が緩み、欠伸あくびが漏れた。

「最近はちゃんと眠れてるのか」

 心配そうに天利が声をかける。

「えっと……、あ、実は……」

 本当のことを話せば心配されるのがわかっていたので、黙っていようと思っていたのだが、天利には見透かされてしまったようだ。

「最近になって薬が変わっちゃって、それが合ってないみたい」

「主治医の先生に言ってみた?」

「うん、でも、鈴置すずおき先生に代わってから、あんまり私の話を聞いてくれなくて……」

 ほづみには子供の頃からかかりつけで信頼できる主治医がいた。しかし今年に入って高齢を理由に引退し、そのあとを引き継いだのが鈴置卓郎たくろうだった。年齢は四十代前半、元の主治医と比べると若く、患者との接し方もフレンドリーだ。主治医が交代する前の一年間、ほづみの診察には鈴置も立ち合い、関係性が築けるように配慮はされてきた。

 しかしほづみは、どうもこの鈴置という医師が好きになれなかったのだ。

 元の主治医はほづみの話に、丁寧に耳を傾けてくれた。だが鈴置はなんでも一方的に治療方針を決めてしまう。今回の薬の件もそうだった。ほづみが服用している薬を変えよう、と先月になって突然告げられた。

 理由を尋ねると、ほづみにはあまり合っていないようだからだという。

 ほづみは長年不眠に悩んでいて、十代から薬を服用していた。これまで一度も変えることがなかった薬を、いまさら合わないと言われるのはおかしな気がした。

「前の先生はそんなこと、ひと言も言わなかったのに……」

 天利相手に、つい不満を零してしまった。

「それはちゃんと抗議したほうがいいかもな。もしかしたら、ほづみの体のためを思って薬を変えたのかもしれないけど、眠れなくなるんじゃ本末転倒もいいところだ」

「そうね……。今度の診察の時にもう一度お願いしてみる」

「ああ、その方がいいよ」

 そう微笑んだ天利は、ほづみの背後にゆっくりと回り込んだ。

 

(つづく)