罪と罰

 

 

 水嶋ほづみがいなくなった。上野の脳裏を、最悪の事態が過っていった。だがすぐに、そんなことはあり得ないことを思い出した。

 ほづみが何者かに拉致されたとすれば、それは重要参考人の深瀬多津子しか考えられなかった。だが彼女はいま、取調室にいる。

 天堂の話によれば、ほづみは今朝早く、外出したという。

「天利巡査部長の運転する車で、千葉県内に向かうことになったそうです。警護の警察官たちも同行する予定でしたが、水嶋さんの方からなるべく離れてついてきてほしいと要請があったと」

 警護対象者にとって、自分の目の届く範囲に警察官の姿を認めることは、安心材料になる。だが同時に、煩わしさを覚える者もいる。警察としては強制もできないので、警護対象者の要望はできるだけ聞くようにしていた。とは言え、差し迫った危機がある場合は別だ。

「今回は、重要参考人の深瀬が任意同行されているため、離れていても安全だと考えたようです」

 もちろん現場の警察官の独断ではなく、上司の許可を得て、彼らはほづみたちの乗る車を少し離れて追尾することにした。車もパトカーから覆面に変え、目立たないよう心掛けたという。

「道中、水嶋さんたちの車と警察車両の間はかなり離れたため、実際見失ってしまったのですが、目的地も聞いていましたし、到着地で合流できれば問題はないだろうと考えたそうです」

「目的地はどこだったんですか」

「警察官たちは、千葉県にある水嶋さんのかつての主治医の家だと聞かされたそうです。しかし水嶋さんたちはそこに向かっていませんでした。それどころか、教えられていた住所自体が出鱈目でした。警察官は水嶋さんと天利巡査部長、それぞれの携帯に連絡をしましたが、繋がりませんでした」

 警護の警察官たちの対応を責めることはできない。上野も深瀬がホンボシだと考えたからこそ、今日の任意同行に踏み切ったのだ。

「まさか、深瀬には共犯者がいた……?」

 上野はその可能性を微塵も疑わなかったことに愕然となった。

 電動車いす、ヘルパーとして身に着けたスキル。犯行は女性一人でも行えると判断した。

「ですが、深瀬の周辺に共犯となるような人物は浮かんでおりません」

 そう答えた峰岸の顔にも困惑が見え隠れする。

「私も共犯者の線は薄いように思います。警護の警察官に嘘の目的地を伝えた点からも、水嶋さんたちは自分たちの意思でいなくなった。そう考えた方がいいのではないでしょうか」

 天堂の言う通りかもしれない。だが上野たち警察としては、楽観的な観測に期待を寄せてばかりもいられなかった。

「現在、関東圏内の警察に連絡して、天利巡査部長の車を捜索しています」

 天堂の言葉に上野は頷いた。あとは待つしかない。

「調査官、深瀬の取り調べはどうしますか」

 峰岸が尋ねた。

「続けてください。彼女に共犯者がいるのかどうか。その点も含めて」

「わかりました。門伝に伝えます」

 峰岸が部屋を出ていった。

 

 天利の車が見つかったとの連絡が入ったのは、それから一時間ほど経ってのことだった。場所は千葉県野田市内の公園の駐車場。車には天利一人が乗っていた。発見時、酩酊状態にあることが確認されたため、千葉県内の病院へ運ばれたが、回復が確認され、夕方になって埼玉県警へと連れて来られた。

「座りなさい」

 上野が命じると若い巡査部長は、まごついたように視線をきょろきょろさせ、部屋にいた百武を窺った。だが彼の上司は、この状況で味方になる気がないことを、視線ではっきりと伝えていた。

 百武をこの場に同席させたのは、一応、天利が警視庁の警察官であることに敬意を払ってのことだ。だがこれ以上の配慮をするつもりなど、上野には微塵もなかった。

「私は座りなさいと言ったの。聞こえなかった、天利巡査部長」

 上野が最初よりもさらに厳しい声で命じると、ようやく天利は会議室の椅子に腰を下ろした。

「あの、調査官、自分は――」

「発言はまだ許可していません」

 今度も上野は厳しく天利の言葉を遮った。敢えて威圧的に振舞い、若い警察官が委縮するように仕向けたのだ。飴と鞭の使い分けは取り調べの常とう手段だが、今回、飴は必要ないと判断した。

「まだ自分の立場がよくわかっていないようだから伝えておくけれど、本来ならあなたを取調室に入れても良かった。ですが、我々としてはここにいる百武管理官の顔を立てて、会議室で話をすることにしたんです。そのことをよく肝に銘じながら、これから私が尋ねることに正直に答えなさい」

 天利は青ざめた顔つきで、再び助けを求めるように百武の方へ視線を向けた。

「私の方を見て返事をしなさい、巡査部長。わかったの?」

「わ、わかりました」

「よろしい」

 上野もそこで一つ呼吸を整えた。

「単刀直入に聞きます。水嶋さんはいまどこにいるんですか」

「わかりません」

「わからない? 最後に一緒にいたのはあなたでしょう」

「は、はい。でもわからないんです。気がついたら、警察官に車の窓をノックされて、でも記憶が曖昧で、体も動かなくて……」

 天利は明らかに動揺している。

「いいでしょう。では、何が起こったのか、最初から全部話しなさい。警護の警察官をまこうと言ったのは、あなたの考えなの?」

「ち、違います。水嶋さんが警護を嫌がったのは事実です。しかし、私は必要なものだからと彼女を説得しました」

「では、水嶋さんが警護をまこうとあなたに提案したわけですか。仮にそうだとして、恋人に頼まれたからといって、警察官であるあなたがそれに加担するなど言語道断です」

「それは……あの、確かに間違った判断ではありました。しかし、理由があるんです」

「どんな?」

「ほづみは夕べ、パニックになりました。時々あるんです。過去のことを思い出して、自分を責めてしまう。そうなるといつも、自分には生きている価値がない、もう死にたいと自殺願望を口にするんです」

「それは彼女が子供の頃に起こした事故が原因ですか」

「はい。深瀬多津子が重要参考人だと知り、彼女の犯行動機に自分が関係していると。それでほづみはまた自分を責め始めて、以前の主治医に会いたいと訴えたんです。それで、現在の主治医と相談して、ひとまず朝まで彼女を睡眠薬で眠らせました。でも翌朝になっても気持ちは落ち着かず、それで彼女の言う通りにしようと出かけることにしました」

「以前の主治医に会いたがっていたのに、なぜ野田市内の公園に連れて行ったんですか」

「以前の主治医のところへは、連れていきたくても無理だったからです」

「なぜ?」

「彼は去年、亡くなりました。癌でした。自分が癌であることがわかって、都築先生は大学の後輩であった鈴置先生に、ほづみの主治医を任せました。その時、都築先生は、ほづみには自分が亡くなったことは伝えない方がいいと考えたんです」

「それはまたどうして?」

「初めにもお話しした通り、ほづみには強い希死念慮があり、親しい人間の死にはとても敏感で、都築先生が亡くなったことを知れば、あとを追ってしまいかねないと考えたからです。これまでにも何度か、都築先生に会いたいと訴えることはありました。そのたびにいろいろ理由をつけて、彼女の気持ちが変わるように、私も鈴置先生も働きかけていたんです。今回も鈴置先生と相談して、ほづみがリラックスできる場所に連れて行こうと。それで……公園でピクニックのようなことを、と」

 天利はうなだれ、言葉を振り絞るように付け加えた。

「警察官としては、警護の警官に嘘をついたことは誤りでした。でも恋人として、未だに過去に苦しめられている彼女を放っておけなかったんです」

 恋人のためを思った天利の心情は理解できる。だが、いまはその気持ちに寄り添っている場合ではなかった。

「公園でピクニックと言いましたけど、水嶋さんは途中で目的地が変わったことに気が付かなかったんですか」

「それは、その……」

「何を隠してるの?」

「ピクニックのことは出発前に彼女に伝えました。都築先生のところへ行く前に、景色の良いところでランチを食べようと。すると彼女はお弁当を作ると言って、おにぎりと水筒にお茶を用意してくれました……」

 天利の口が重くなる。

「続けなさい」

「公園に到着して、車から降りようとすると、ほづみは降りたくないと言ったので、車内でおにぎりを食べ、水筒のお茶を飲みました。そこからの記憶がありません……」

「記憶がない?」

 上野は天利が酩酊状態で発見されたことを思い出した。まだ病院からの診断結果は手元に届いていない。

「水筒のお茶に何か薬が盛られていたと?」

「……わかりません」

「巡査部長、あなたのついた嘘がどれほど我々を混乱させているかわかっているんですか。もう彼女を庇うのはやめなさい」

 上野がまたしても厳しい口調で告げると、天利は大きく体を震わせた。怯えているというより、恋人がやったことを打ち明けることの葛藤と戦っている様子だった。

「天利、お前も警官なら真実を話せ」

 それまで黙っていた百武が静かに口を挟んだ。

 天利は表情を強張らせて上司を見つめると、それから観念したように語り始めた。

「すみません。おっしゃる通り、お茶に何か入っていたのだと思います。お茶を飲んだ時に苦いなとは感じたんですが、気のせいだと思って、ほづみには指摘しませんでした。でもしばらくして、体に力が入らなくなって、その間にほづみは一人で車を降りて、どこかへ行ってしまいました」

「一人で?」

 上野は眉を顰めた。

「嘘はつくなと言ったはずですよ」

「嘘ではありません」

「では、水嶋さんは一人で車を降りて、車いすに乗り換えて姿を消したのだと?」

「車いすには乗り換えていません」

「何を言ってるんですか」

「彼女は歩けるんです」

 一瞬、会議室に静寂が落ちた。

 上野が百武を窺うと、その顔にも驚きが広がっていた。

「どういうことだ。彼女は採用にあたって嘘をついていたということなのか。だが、そんなことは……」

 百武が絶句したのも無理はない。

 ほづみは障害者雇用枠で警察職員となっている。埼玉県警なら、身体障害者手帳など、その障害の程度を証明するものが必要だ。警視庁であっても、条件は変わらないはずだろう。

「嘘はついていません。彼女の障害は身体ではなく、精神的なものなんです」

 障害者雇用枠というとつい、身体的な方ばかりを想像してしまう。さらに言うなら、ほづみが車いすに乗っていたため、それ以外の可能性を上野は疑いもしなかった。

「ほづみはずっと苦しんでいました。それでも治療の効果が出てきて、前向きに人生を生きようとしていたんです。そんな時、自分が起こした事故の被害者の中学生のことをネットで知ってしまい、その被害者に自分を重ね合わせるようになりました。そしてある時から、歩けないと訴え、外出の時には車いすを使うようになったんです。都築先生は最初、集団ヒステリーの一種で、共感性の高い若者には起こりやすい現象だと考えたようです。たいていは一過性のもので、時間が経てば症状は落ち着くものだと。しかし、ほづみのそれは一向に回復する気配がなく、都築先生も催眠療法や服用による治療を試みましたが、良くはなりませんでした」

「水嶋さんが歩けることはわかりました。では彼女は、どこへ向かったのか。そのことに心当たりは?」

「わかりません。ひょっとしたら死ぬつもりなのかもしれません。上野調査官、ほづみを見つけてください。お願いします」

「いま、手配をかけています」

 必死に訴えてきた天利を落ち着かせ、上野は百武を振り返った。

「水嶋ほづみの人事情報を全てこちらに開示してください。彼女が歩けることと同様に、他にも我々が知らない事実があるかもしれません」

 それがほづみの行く先のヒントになるかもしれないと上野は考えた。

 

「埼玉県鴻巣市」

 警視庁から公開された、水嶋ほづみの人事情報を確認して、上野は思わず声を漏らした。

 両親が亡くなったあと、ほづみは祖父母に引き取られていた。その家があったのが埼玉県鴻巣市。

 そこは、唯一生き残った諸橋茜の証言で、被害者たちが監禁されていた場所かもしれないとされた地域の一つだ。

 まさかほづみが、一連の事件に何か関係しているのだろうか。

 いや、だがそんなはずはない。あり得ない。

 天利に確認したところ、ほづみの祖父母は、彼女が高校生の時に相次いで亡くなっている。その後、別の親戚が後見人となったが、祖父母の家はそのまま残されているということだった。

「WEB上で確認できるもっとも新しいもので、昨年の五月の画像になります」

 天堂が探し出した画像を上野も確認した。

 青い屋根の家は二階建てで、一階部分が車庫になっている。家自体は古いが、さいたま市内の一般的な住宅より大きく、敷地も広い。シャッターが下りた車庫も、優に車三台を駐められるほどの広さに見える。

 これだけの広さの車庫なら、中を改造すれば、被害者たちを十分監禁できたはずだ。

「水嶋が暮らしていた頃から、この辺りは畑が広がっていて、人口密度も低い場所でした。いまはさらに過疎化が進み、近隣の家まではおよそ一キロ離れています」

「防災無線は?」

「鴻巣市役所に確認したところ、断定はできないが、聞こえる範囲にはあるとのことでした」

 そこへさらに、ほづみと事件との関連を疑わせる事実がもたらされた。ほづみの祖父が晩年、あずき色のミニバンを所有していて、亡くなった後は、ほづみに名義が変更されているということを、天利が話したのだ。天利にしてみれば、事件にあずき色のミニバンが使用されたことは知っていても、事件と結び付ける発想に至らなかったのは当然のことだろう。

 上野たちが保管場所を調べると、祖父母の家が記載されていた。

 上野は決断した。

「鴻巣市の水嶋の実家の家宅捜索令状を取得してください」

 上野の号令で、峰岸が関係部署へ連絡を取り始めた。

 ほづみは事件に関係している。それはもう間違いない。

 だが動機はなんなのだ。

 そして彼女はいま、どこに消えたのだ。

 祖父母の家に戻ったとは考えにくい。彼女が仮に犯人ならそろそろ警察が、そこを特定することも見越しているに違いないからだ。

「調査官、深瀬多津子の取り調べはどうしましょうか」

 門伝に訊かれて、上野は考え込んだ。

 ほづみと深瀬が共犯という線はあり得るだろうか。

 いや、それはない。

「解放してください。警察官に自宅まで送らせて」

「わかりました」

 門伝が部屋を出ていき、上野はほづみの主治医である鈴置に連絡を取ろうとした。

 医者の守秘義務を盾に、聴取は拒否されるかもしれない。

 電話は留守番電話になっていた。折り返し連絡を貰えるようメッセージを残し、天堂を振り返った。

 

(つづく)