顔を洗ってくると言った門伝と別れ、上野は捜査本部のある会議室へ入った。

 大半の捜査員たちはいったん自宅へ戻るか、仮眠のため別室へ移動していて、人は少ない。

 会議室の片隅で、真砂と水嶋がお菓子を食べながら、ひそひそと語り合い、時おり小さな笑い声も聞こえてくる。

 あそこだけ、ノリが女子会のようで、事件の深刻さにそぐわない。

 上野にもあんな時代があった。上司たちがどんなプレッシャーと戦っているかも知らなかったそんな時代。

 ほんの一瞬、その頃に戻りたくなった。

 お腹が鳴った。

 そう言えば真砂にチョコレートバーを預けていたはずだ。

 不意に水嶋がこちらへ顔を上げた。

 その途端、上野は彼女が誰だったか思い出した。

 

ほづみ

 

 

 当時、上野は秩父警察署の刑事課に所属していた。その年、プライベートでは弦と結婚し、仕事では警部補への昇任試験を経験し、彼女の今後の人生を左右する大きなイベントが目白押しとなった年でもあった。

 その日は休日を利用し、夫の弦の運転でドライブに出かけた。天気が良ければ向山なたやまへハイキングにでも行こうと計画していたのだが、あいにく、朝から小雨がパラついていた。ドライブを延期することも考えたが、秩父警察署に配属になった三年前から、上野は秩父市内に、弦はさいたま市内に暮らしていて、籍を入れてからも別居状態が続いていた。今日を逃せば、またしばらく二人で一緒に出掛ける機会もない。

 それで秩父さくら湖周辺をぐるりとドライブしようと、なんとなく思いついたのだった。

「それで、来年はこっちへ戻ってこられそう?」

 道すがら、話題は上野の配属先のことになった。昇任試験の結果はまだ正式に通達されていなかったが、上野自身は手ごたえを感じており、上司からもほぼ大丈夫だろうとお墨付きをもらっている。

 警察官は昇任すれば、現在の部署から異動するのが決まりとなっている。

 一応、家族持ちの警察官については、本人の希望や家族の事情が考慮されて異動先が選定されることにはなっていたが、百パーセント望んだ通りの結果になることは稀だった。

「どこに異動になるにしても、秩父よりはさいたま市内に近いところになるはずだから安心して」

 上野は半分諦めたような調子で笑った。

 秩父市は埼玉県の北西部に位置し、群馬県や長野県、山梨県、さらには東京都とも境界を接している。つまり秩父警察署以外ならどこでも、現在よりさいたま市内には近いというわけだ。

 雨は上がったが、あいにくの曇り空で景色を楽しむとはいかない。それでも車中での会話は弾んだ。一緒に暮らしていない分、新婚の余韻はまだ二人の間に甘く漂っている。

 上野がその車に気が付いたのは、浦山ダムを見学し、寄国土ゆすくどトンネルを抜けたところだった。

「前の車、ちょっと様子がおかしい。車間をあけた方がいいかも」

 前を走っていたのは、ファミリータイプの白いワンボックスカーだった。

 それほどスピードを出しているわけでもないのに、車体を左右にふらつかせ、カーブでは明らかに対向車線にはみ出している。

「居眠り運転かな。クラクションでも鳴らしてみるか」

 弦は警告の意味を込めて、二回クラクションを鳴らした。

 するとその車は急に加速を始め、みるみる上野たちから遠ざかっていった。

「やべえ、煽ってるとでも思われたかな……」

「そんなことはないと思うけど」

 上野は苦笑いを零した。警察官としては、明らかなスピード超過の車を目の前にして、なんともリアクションに困るところだ。しかし、交通課ではないし、まして非番なのだから、気にしないことにした。

 浦山大橋を渡ってしばらく走ったところで、どん、という大きな音が聞こえた。

「なんだ?」

 弦が呟いた直後、二人は息を呑んだ。

 道の左側に設置されたガードレールの一部が壊れていた。

 すぐにさっきの音は、車がガードレールに衝突した音だと上野は気が付いた。

 弦がハザードを焚き、壊れたガードレールを少し通り過ぎたところで車を停める。

 上野は素早く車を降り、ガードレールの場所へ戻った。

 すると崖の下に、先ほどのファミリータイプの白いワンボックスカーが転がっているのが見えた。

「大変」

 上野はすぐに携帯を取り出し、一一〇番通報を行った。

 その際、自分は秩父警察署の警察官であること、救急車とレスキューが必要であることも伝えた。

 通報を終えると、上野はどうにかして崖の下へ向かおうとした。

「危ないよ。ここにいた方がいいんじゃないのか」

 弦が引き留めようとする。

 上野が警察官でなければ彼の言うことが正しかった。

 しかし非番とはいえ、警察官が事故現場に立ち会ってしまった以上、現場へ向かう義務がある。

「大丈夫。あなたはここにいて」

 ワンボックスカーまでの道は、今朝がたに降った雨で滑りやすくなっていた。上野は低い姿勢を取り、足場となりそうな場所を確認しながら、ゆっくり降りた。

 ワンボックスカーは、助手席側を横に傾けた格好で、下の岩場部分に落ちていた。運転席側の損傷は激しかったが、幸い、ガソリンの臭いはしない。

 運転席に座っていたのは男性だった。上野は慎重にドアを開けた。

「大丈夫ですか」

 運転手はハンドルに突っ伏したまま、上野の呼びかけにも反応がない。首の脈を測ってみたが、既にこと切れていた。

 上野は小さく息を漏らすと、助手席側に移動した。そこには女性がいた。頭から血を流している。こちらも上野の呼びかけには反応せず、脈も取れなかった。二人とも、崖に転落した時点でほぼ即死だったようだ。

 男女は三十代後半から四十代くらいに見えた。夫婦だろうか。

 他に同乗者はいないのかと後部座席側に回ろうとした時、「ママ……」という小さな声が聞こえた。

 上野が急いで後部座席のドアを開けると、シートの足元に、こちら側に頭を向けて、少女が倒れていた。

「どこか怪我をしてるの?」

 声をかけた上野に、少女は「背中が痛い」と叫んだ。

「いま、救急車が来るからもう少し我慢してね」

 ここで迂闊に少女を動かすのは禁物だった。事故の衝撃で脊椎のどこかを痛めている可能性もある。

「ママ、ママは?」

 少女がまた泣き叫んだ。

「ママも大丈夫だから」

 この場で本当のことを打ち明けることはできなかった。上野は少女を落ち着かせるために、そっと彼女の手を握ってやった。

「お姉さんにお名前教えて」

「……中西ほづみ」

「ほづみちゃん、可愛いお名前ね。私は上野月子。よろしくね。何歳?」

「八歳」

「じゃあ、小学二年生かな」

「うん」

「ほづみちゃんはふだん、どんなことして遊んでるの?」

「シルバニア……」

「シルバニアファミリー? お姉さんも子供の頃、集めてたよ」

 それから上野はほづみの意識を事故から逸らそうと、シルバニアファミリーについての思い出を語って聞かせた。その間、ほづみは落ち着いていたが、去年の誕生日に両親からドールハウスを買ってもらった、と話した途端、また泣き出した。

 上野が途方に暮れかけた時、ようやく救急と消防のサイレンが聞こえてきた。

 崖の上を見上げると、弦が救急車両に向かって大きく手を振っている姿が見えた。

 その後、救急隊員たちが下りてきて、運転手と助手席の女性について、心肺停止と確認された。救急隊員たちは医師ではないため、この場で正式に断定できなかっただけで、それは死亡とほぼ同義語だった。

 問題はこのあとだった。少女の体を安全に車内から運び出すには、車両の一部を解体しなくてはならないと救急隊員たちは判断した。そこで消防のレスキュー隊の出番となったのだが、少女がパニックを起こし、これまで以上に激しく泣き出してしまった。

 上野は救急隊員たちに事情を説明して引き継いだあと、車から少し離れた場所でこの作業を見守ろうとしていたのだが、いたたまれなくなった。

「私が彼女の手を握っていてもいいですか」

 消防は上野が非番の警察官だと知り、それを許可した。

 上野はほづみの手を握ると、優しく話しかけた。

「ほづみちゃんの将来の夢は何?」

 話題はなんでもよかった。ただ、家族のことから遠い話にしなければならない。そう思って尋ねたのだ。

「刑事さん」

 意外な答えが返ってきた。だがこれは上野にとって、話を膨らませる絶好の話題でもあった。

「そうなの? お姉さんも刑事なんだよ」

「本当?」

「うん」

 ほづみの顔が明るくなった。

「捜査一課?」

「え、ううん、まだ違う。いつか行けたらいいなって思ってるけど。でもすごいね、捜査一課なんて言葉よく知ってるね」

「アニメで見たの」

 ほづみはそのアニメの話を始めた。名探偵の子供が大人の警察官たちと難事件に立ち向かうというものだった。

 うまく気を逸らすことができたようだ。

 レスキュー隊は、電動カッターで車体を切断しようとした。火花が飛び散らないよう、上野とほづみの体に毛布が掛けられる。騒々しい音がして、ふたたびほづみの顔に怯えの影が走った。

「そっか、それで将来は捜査一課の刑事さんになりたいのね」

 上野は慌てて、なんでもないような調子で話しかけた。だがほづみがしゃくりあげ始めた。

「背中が痛い、痛いよお、ママァ……」

 上野は救急隊員の方へ振り返った。

「鎮静剤かなにか打てないんでしょうか」

「いまドクターヘリを要請中です」

 つまり、救急隊員では無理ということか。

「ねえ、ほづみちゃんが刑事になったらどんな事件を解決したい?」

 上野はとにかくしゃべり続けることにした。

 だからその先の話は適当に作り上げたものだった。

 大人になったほづみが、名刑事として事件を解決する。

 事件は埼玉県内で発生した連続殺人事件。警察は犯人をなかなか捕まえられずにいたが、そこに名刑事ほづみがさっそうと登場し、見事、犯人を突き止める。

「犯人はお前だ! って」

「それからどうするの?」

「手錠をかけて、署に連行して取り調べを行う」

「取り調べ?」

「そう。悪いことをした人にね、自分の罪を認めさせるの。警察の仕事っていうのは、犯人をただ捕まえるだけじゃない。その人に自分が犯した罪ときちんと向き合うようにさせて、司法……えっと、裁判でね、罪に応じた罰がちゃんと受けられるようにすることも大事な仕事なの」

 

(つづく)