上野はホワイトボードに目を移した。

 

・久保田春雄 六十歳 弁護士 埼玉県出身 二月に失踪

・桑畑公一 三十三歳 高校教師 埼玉県出身 二月に失踪

・古関智也 二十歳 大学生 東京都出身 四月に失踪

 

 年齢も出身も職業も違う三人がどうして殺害されたのか。

 久保田と桑畑は同じ埼玉県出身であったが、小、中、高、大、いずれも接点はない。育った地域や生活圏も重なってはいない。

「久保田氏の東京時代の顧客リストの中にも、ほかの二人の名前はありませんでした」

 そこが一番、関連性のある項目と疑われたのだが、結果は空振りだった。以前、門伝が調べていた桑畑の高校でのいじめの件も、時間が経ってほとぼりも冷めたのか、両親は大事にするつもりはない、と答えた。周辺から事件との関連性も見つかっていない。

 さらに、被害者それぞれの家族、知人、友人、隣近所、誰に話を聞いても、他の被害者の名前も顔も知らないという。

 いよいよ、無差別殺人の可能性が高まってきた。

 だが仮に無差別だとしても、犯人たちにも被害者を選ぶ際の基準があるはずだ。

「ほかの特異行方不明者について何か情報は?」

「今年に入って、埼玉県内で特異行方不明者として認知された者は一名だけです。しかしこの人物は八十代の高齢者で、認知症を患っていたということです。失踪時の状況から考えて、今回の事件の被害者となる可能性は低いと考えています」

 峰岸の答えに上野は黙って天井を見つめた。

 もっと過去に遡って行方不明者の情報を調べるにしても、何かしらの取っ掛かりは必要だ。

「一つ、不思議なことがあるんですが」

 沈黙を破って、天堂が口を開いた。

「先の二人の被害者について、久保田氏は早朝の犬の散歩中、桑畑氏は高校の部活の朝練の準備中に拉致されたと見られることから、犯人は二人の行動を知っていた人物と思われます。しかし今回の被害者については、新歓コンパがあることまでは把握できたとしても、終電を乗り過ごし、南栗橋駅で野宿する羽目になったことを、犯人はどうやって知ったんでしょう?」

 上野は思わず身を乗り出した。

「ひょっとして被害者のあとをつけていた?」

「可能性はあると思います。あの日、南栗橋駅で降りたほかの乗客たちを、改めてあたってみたほうがいいかもしれません」

 天堂の言葉に、ほんの僅かではあったが希望の光が見えてきた。

 もちろんまだ十分ではない。

 会議が終わったタイミングで、飯能警察署長の久我山がやってきた。上野とは対照的に、にこにこ顔で明らかに上機嫌なのが伝わってくる。

「調査官、費用の問題は熊谷署とうまく折り合いをつけることができそうだよ。君の助言に感謝する」

「恐れ入ります」

 上野は先日、熊谷警察署副署長の織作おりさくみよ子と面談し、特捜本部にかかわる費用面のことを相談した。この人物は上野が警部に昇任した際、いろいろと助言をくれた女性幹部だった。

「たかが予算のことで、飯能署の署長は肝っ玉が小さいよね」

 本気とも冗談ともつかぬ口調で織作は豪快に笑った。

 昔も今もさっぱりしていて、率直な性格をした彼女は、上野にとって頼もしい先輩だ。

「一番厄介なのは嫉妬する男共より、足を引っ張る女たちだよ」

 警部に昇任した際、この織作から言われた忠告を思い返した。

 偉くなると敵が増える。そのことは覚悟していたが、織作からそんな忠告を受けた当時は懐疑的だった。

 だがいまはしみじみそう思う。具体的な例を挙げれば切りがない。仲の良い同僚や部下だと思って信用していた女性警察官たちの、裏切りと呼んでも差し支えないような陰口の嵐。これは男性たちからの嫌がらせより応えた。

 男性幹部に媚びている、あんなに必死に働いて馬鹿みたい、名誉男性、などなど思い出したくないものも多かった。

 たとえ女性同士でも、いや、女性同士だからこそ通じ合えないこともある。気軽に愚痴を零すこともできなかった。

 いまももっとも対立関係にあるのは、女性である玉城だ。彼女はどういうわけか上野を目の敵にしている。何か不興を買うような真似をしてしまったのだろうか。上野自身にはまったく心当たりがないことも、もやもやさせられる一因だ。

 実は特捜本部の予算の件は口実で、上野は織作と直接会って、捜査のストレスや玉城との関係性などいろいろ話したいことがあった。

 だがいざ会ってみると、敢えて口に出さずとも、目の前の織作は全て見通しているようだった。

「また何かあったら遠慮なく相談においで」

 別れ際、織作は再び豪快に笑うと、力強く上野の背中を叩いた。

 彼女は初めから、予算の件は口実で、上野がただ顔を見に来ただけだということを察していたのだろう。

 織作と会ったことで、少し気持ちは楽になった。だが、その効果も長くは続かなかった。

 久我山はまだご機嫌にしゃべっている。上野は適当に相槌を打ちながら、彼の立場を羨ましく思った。もちろん、警察署長には警察署長の苦労がある。部下が不祥事をしでかさないか、交通違反や刑法犯の検挙件数の数値目標をクリアできるかどうか。だが少なくとも、殺人事件を早期に解決しろというプレッシャーはない。

 久我山の機嫌の良さは、単に費用面の問題が解決したからといったことだけではなかった。頭痛の種となっていた特捜本部が、いよいよここを出ていくのだ。

 明日から特捜本部は、埼玉県警本部へ移される。三人の被害者の遺体は、それぞれ違う警察署の管轄で発見された。特捜本部の規模も格段に膨らみ、さすがに飯能警察署の講堂でも収容しきれなくなったからだ。

 加えて捜査本部長も、刑事部長から県警本部長へと格上げされる。いよいよ埼玉県警として、その威信をかけた捜査が始まるということだ。

 加えて、もっとも上野の胃をきりきりさせる事柄があった。

 明日からいよいよ警視庁が捜査に加わる。例の百武が率いる優秀なチームが乗り込んでくるのだ。

 さすがに捜査指揮権はまだ上野に残されたままだったが、もし百武のチームに事件を解決されてしまったら、また玉城にどんな嫌味を言われるのかわかったものではない。

 そこへ、猿渡や捜査一課長といったノンキャリの幹部たちからの、プレッシャーも、追い打ちをかける。

「警視庁と協力して事件を解決に導くというのはあくまで建前だ。絶対にうちが先に犯人を見つけろ」

 そんなことを思い出していると、無性にイライラが募ってきた。幹部用に割り当てられている控室で、上野は鞄の中を漁り、プロテインバーを探した。見つからない。

「しまった……」

 そうだった。最後の一本は昨夜ゆうべ食べてしまったのだ。コンビニへ買いに走る時間もない。

 上野は咄嗟に、ロッカーの中に鞄を叩きつけた。

 大きく肩で息をつく。落ち着こう。物に八つ当たりしても気分が楽になるわけではない。

 こういう時は腹式呼吸だと、以前に幹部研修で習ったことがある。鼻から大きく息を吸い、口からゆっくり吐き出す。

 だがまるで効果はなかった。

 ならばいよいよ最後の手段だ。

 女子トイレに入ると、ほかに人がいないことを確認して、個室の鍵を閉めた。

 水栓レバーを大の方へ回し、水を出しっぱなしにする。そして叫ぶ。何度も。腹の底から声を振り絞り悪態をついた。玉城へ、猿渡へ、百武へ、そして未だなんら手がかりを掴ませない犯人たちに向かって。

 しばらくして、一度レバーを戻す。呼吸を整えようとして、まだ叫び足りないと感じた。再びレバーを目いっぱい回し、叫ぶ。

 大きく肩で呼吸する。

 腕時計を見た。仕事に戻る時間だった。

 

 

 ほづみは直属の上司を通じて、正式に埼玉県警の事件に捜査協力するよう指示を受けた。てっきり警視庁内で作業を行うのだと思っていたが、埼玉県警本部の特捜本部に詰めるのだという。

 特捜本部に加わるのは初めての経験だ。ほづみは天利たちと、広い会議室の一角に陣取った。今日からここで、埼玉県警の捜査支援課と協力しながら捜査にあたる。

 まずはこれまでの事件の経緯について、百武から直接説明を受けた。

 木箱に閉じ込められ、地中に埋められていた被害者たち、いずれも暴行を受け、体内からは同じ成分の筋弛緩剤が検出されている。同一犯による連続殺人事件。

 緊張が高まってきた。

 ほづみたち警視庁のチームに与えられた役割は、三番目の被害者である古関智也が拉致されるまでの足取りを追うことだった。

 理由は彼が東京都在住だったことだ。

 集められた防犯カメラ映像を、改めてチェックしていく。どこかに見落としがあるのではないか。

 だが埼玉県警の捜査支援課も、すでに何重にも映像は見直しているはずだ。そう簡単に手がかりが見つかることなどないだろう。

 それでもほづみは映像に目を凝らし続けた。被害者の周辺に不審な人物は映っていないかどうか。仲間たちと一軒目の店に向かうところ、二軒目に向かうところ、仲間たちと別れ、数人の友人と渋谷駅へ向かう姿、いずれの映像にも、気になるような人物は映っていない。

 次に被害者が最後に目撃された、南栗橋駅の映像を呼び出した。駅前に設置された防犯カメラ映像は、深夜ということもあり、ソフトウェアで画像補正をかけても限界がある。

 それでも被害者が映っていれば、見落とすことなどありえなかった。背格好や服装、持ち物などの特徴は完璧に頭に入っている。

 誰も映っていない深夜の駅周辺の映像に、また欠伸が漏れそうになる。せっかくの大役を前に、昨夜ゆうべは早くベッドに入ったのだが、結局また、目を覚ましたのは朝の四時過ぎだった。

 眠気をこらえながら、映像を少し先まで早送りする。人影が現れた。手を止める。被害者ではない。

 ほづみはしばらくその人物の動きを観察して、隣に座る天利に声をかけた。

「天利さん、この映像を見てもらえますか」

「どうしました?」

 天利は改まった口調で、ほづみの方へ身を乗り出した。

「この映像に映っている人物ですけど、変じゃないですか」

「この車いすの人のこと……? 別におかしな点はないと思うけど……」

 天利は映像を見ながら首をひねる。

 ほづみが示した映像には、車いすで移動する男性と思われる人物が映っていた。

「映像が撮影された時間は深夜二時過ぎです。こんな時間に車いすに乗った人物が、どうして駅の周辺をうろついているんでしょう」

「それは……眠れなくて散歩してるだけじゃないのか」

「埼玉県警はこの人物のことは調べたんでしょうか」

「どうだろう。手元の資料にあったかな」

 天利は埼玉県警から渡された資料に目を通した。

「ああ、これだ。車いすに乗った人物が映像に映っている記録はあるよ。まだ身元はわかってないようだ……。何か目撃してくれてるといいけどな」

 天利は話題を打ち切ろうとした。

 違う。そういうことではないのだ。でも、自分が気づいたくらいのことなんて、捜査が本職の人たちはとっくに気づいているはずだ。いや、気づいていなければおかしい。

「どうかした?」

 天利は、ほづみの顔つきで何かを察したらしい。

「あの、この人、自分の意思で車いすを動かしているように見えないんです」

「え?」

「これは見た目の形状から、電動車いすだと思います。普通こういうタイプは手元のところに操作するレバーやボタンが付いているんです。ほら、ここの部分」

 ほづみは車いすのひじ掛け部分を拡大した。

「この映像だとわかりにくいですけど、突起物のようなものがついていて、これがおそらく操作レバーだと思います。でも、この人の手はレバーにかかっていません。というより映ってないんです」

 ほづみは問題の人物の映像を拡大し、限界まで補正をかけた。だが夜間であり、解像度も低いため、人相などの重要な情報は認識できない。

「上半身は何か黒い布のようなもので覆われているように見えます。手が映っていないのは、その布の中に隠されているからかもしれません」

「電動とはいえ、勝手に車いすが動いている……。それは確かに変だけど……」

 事件となんの関係が、と続けた天利に対し、ほづみは黙ってキーボードを操作し、画面に映る人物の幾つかの部分にポイントを当てた。これで対象者の身長が割り出せる。

「アームカバーに置かれた頭の位置と、布に覆われていない膝から足首までの長さによる推定ですが、この数値、被害者の古関さんの身長に近いと思いませんか」

 ほづみが画面に表示された数字を指し示すと、天利の顔色が変わった。

 

(つづく)