プロローグ
「お前がやったんだよ。お前だよ、お前、お前、お前、お前以外にいないんだよ!」
ブチョウが喚いた。
ジュンサチョウの私は耳を塞いだ。
「ほら、言えよ、私は罪を犯しました」
「……おへは……なひも……やっへません……」
ブチョウの前に俯いて座っているヒギシャの男は、かろうじて聞きとれるかどうかの声で答えた。おそらく、俺はなにもやっていません、と言ったのだろう。前歯がなくなったせいで、うまく発音できないようだ。
「さっきから嘘ばっかついてんじゃねえ!」
ブチョウがヒギシャの髪の毛を鷲掴みにした。
「言え、この野郎、言えってんだよ」
ブチョウは喚き散らしながら、ヒギシャの顔面を何度も机に叩きつけた。繰り返し鈍い音が上がる。
ヒギシャはされるがまま、もう呻き声さえ漏らさなくなっていた。ブチョウがヒギシャの顔を持ち上げる。鼻が潰れて、鼻血がだらだらと垂れて、涙と涎でぐちゃぐちゃだった。鼻で呼吸するのが苦しいらしく、裂けた唇をぱくぱくさせている。
「ぼ、暴力はだめですよ」
たまらず私は声を挙げた。
「ああ? じゃあ、お前はどうやってこいつの口を割らせるって言うんだ?」
「そ、それは……」
私は目を逸らし、後ずさりした。だが背後は冷たいコンクリートの壁だ。四畳半ほどのスペースしかないトリシラベシツに逃げ場はなかった。
その時、またヒギシャの悲鳴が上がった。
トリシラベシツにいた四人目の人物が、ヒギシャの右手の人差し指と中指を握って、手の甲側へ強く捻ったのだ。その人物のことを私たちは、ジョウシと呼んでいた。
「吐きなさい。さもないとこの二本の指も折るよ」
初対面の時には、優しそうな女性に見えた。その彼女がまるで輩のような振る舞いで、ヒギシャに選択を迫っている。二本の指も、と言った通り、ヒギシャは数時間前に、ジョウシによって右手の親指と小指を折られたばかりだ。その二本の指は治療もされぬまま、およそ考えられない方向にだらりと曲がってぷらぷらしている。その周囲はどす黒く変色し、二倍以上に膨れ上がっていた。
「ほら、ほら、折れちゃうよ」
指を握られ、ヒギシャは咆哮にも近い声を発すると、最後の力を振り絞って滅茶苦茶に暴れだし、ジョウシを突き飛ばした。
きゃっという声と共に、ジョウシは床に尻もちをつく。
「てめえ、この野郎」
ブチョウが拳でヒギシャの横っ面を殴りつけた。その反動でヒギシャが床に倒れこむ。
「舐めた真似しやがって、おおっ?」
続いてブチョウは、ヒギシャの右手を足で踏みつけた。
ヒギシャの上げた声の恐ろしさに、私は耳を塞いだ。
なにも聞きたくない、なにも見たくない、ここにはいたくない。
トリシラベシツのすみっこで私はじっとしていた。
ブチョウがヒギシャの腹に蹴りを入れる。ヒギシャは身を守ろうと体を丸くした。ブチョウは構わず肩や胸、横腹に蹴りを入れ続けた。
ヒギシャが嘔吐した。嫌な臭いのする黄色い液体が床に飛び散った。つい一時間ほど前に昼食が与えられていたが、それはほとんど食べられなかったようだ。
吐き出すものがなくなっても、しばらくえずいていたヒギシャだったが、やがて動かなくなった。
ブチョウが舌打ちしながら、乱暴にヒギシャの髪を掴んで顔を上向かせた。白目を剥き、舌が口からだらりと飛び出している。
「ブ、ブチョウ……その人、死んだんじゃ……」
私がわななく声を漏らすと、ブチョウもさすがに焦ったのか、「おい、あんた、しっかりしろよ、おい」と声をかけながら、ヒギシャの顔を手で叩いた。
「……っ」
ヒギシャが呻いた。
「畜生、焦らせやがって」
ブチョウの口から安堵のため息が漏れる。同時に少し冷静さを取り戻したのか、これ以上の暴行はまずい、というような表情を浮かべた。
「続けなさい!」
ジョウシが喚いた。
「でもこいつ、死んじまいそうですよ」
「そうですよお、もう、やめましょう、こんなこと。ね、みんなで協力すれば――」
「いいから続けるの!」
ジョウシは私の訴えなど耳に入っていないかのようだった。
「もしもこいつが死んだとしても、それは罪の報いを受けたってことよ。そうでしょう?」
ジョウシの言葉にブチョウが頷いた。
間違っている。
でも私には、二人を説得する気力も勇気も残ってはいなかった。
ヒギシャのトリシラベが開始されて、もうすぐ四十八時間が経過する。窓のない部屋では正確な時間はわからない。だがおそらく、もうじき夜が明けるのだろう。そこがタイムリミットだった。
あともう少しだ。もう少しでこの地獄のような時間は終わりを迎える。
だがそのあとはどうなるのだろう。
ジョウシもブチョウも、そして私もただでは済まない。
次は私が裁きを受ける番だった。
私は抱え込んだ膝に顔を埋めて、泣き始めた。
「泣くな。イライラする。終わらせたけりゃ甘ったれてないで、私たちに協力しな!」
ジョウシの言葉は本来の彼女のものとは思えなかった。人は追い詰められると、理性など簡単に手放せるものなのだと、この時私は悟った。
私はのろのろと立ち上がると、横たわるヒギシャへ近づいた。
そうだ。終わらせなきゃいけない。そうすれば家に帰れるのだ。
怯えた瞳が私を見つめ返してきた。
やめてくれ、あんただけはそんなことはしないでくれ。
ヒギシャの心の叫びが聞こえるようだった。でも私はそれを無視した。
「罪を告白して」
ヒギシャの顔に絶望がよぎった。彼が首をゆっくり横に振った瞬間、私の靴のつま先はヒギシャの腹にめり込んでいた。
それを合図としたかのように、ブチョウとジョウシの暴行もエスカレートしていく。
もう誰も私たちを止める者はいなかった。
一人目
1
平日の昼間に、ゆっくり買い物できるのはいつ以来だろう。
上野月子は無意識に後頭部の髪を撫でながら、スーパーマーケットの肉売り場へ向かった。
朝一番で美容室へ行き、カットとヘアカラーをしてきてもらったばかりだ。
髪の毛はかなり傷んでいると指摘され、五千円もするトリートメントを奮発した。ここ数ヵ月、文字通りなりふり構わず仕事に励んできた自分へのご褒美だった。その効果はてきめんであり、モデルばりのさらさらした艶髪に生まれ変わった。
今朝の朝刊の折り込みチラシによれば、すき焼き用の牛肉が特売されているはずだった。ところがお目当ての特売品は既に売り切れてしまっていた。
出遅れた。仕方ない。今夜のメニューは変更しよう。
豚のヒレ肉が安売りされている。とんかつにするか。
今年で四十五歳になる上野には、ロース肉はそろそろ胃にもたれるようになった。
ヒレ肉を手に取りかけて、家にいる二人の男たちのことを思い出した。一人は夫で、もう一人は高二の息子だ。夫は上野より一つ年上で、同様に近頃は脂っこい食事を避け始めている。問題は息子の方だ。
高校生の男子の食欲はまさしくモンスター級で、食べた側から胃袋の中身が、どこか異次元空間にテレポートされるのではないかと、本気で疑いたくなるほどだった。
そんな息子の腹を満たすのは、ヒレではなく、ロースだろう。
自分や夫より、つい息子の方を優先してしまう時、母親としての自覚がこみ上げてきて安心する。
特売品の隣にあったロース肉に手を伸ばそうとして、スーパーの店員がバックヤードから出てきた。新たな商品を満載したワゴンを押して、牛肉の特売コーナーへ向かっている。
陳列を終えた店員が立ち去るのを待って、素早く牛肉を買い物カゴに入れた。一パック、いや息子のことを考えて、二パックにした。
今夜は数ヵ月ぶりに、家族三人で食卓を囲むのだ。豪勢にいこう。
再び、手は無意識に髪を撫でようとした。その時だった。
バッグに入れてあるスマホが震えているのがわかった。
嫌な予感がする。
一瞬ためらった。気が付かなかったふりをしようか。
だが着信はしつこい。根負けして、バッグからスマホを取り出した。
猿渡誠。
液晶画面に表示されたその名前を目にした途端、浮かれた気分はあっという間に吹き飛んでしまった。
どうか、面倒なことではありませんように。
だが猿渡から電話がある時はたいてい、いや十中八九面倒ごとを押し付けられる時と決まっている。
「はい、上野です」
「事件だ。すぐに本部まで来てくれ」
「ですが、あの――」
上野が最後まで言い終わる前に電話は切れた。
埼玉県警本部に上野が到着すると、刑事部捜査一課の筆頭調査官である鯨井が待っていた。五十代後半にしてすっかり頭は禿げあがり、腹回りには脂肪がたっぷりと蓄えられている。明らかに食事量が、運動量に見合っていないのだろう。
「猿渡さんからは事件だと聞きましたが、なにがあったんです?」
「新しい事件じゃない。こっちへ」
鯨井に廊下へ連れ出され、並んで歩き始めた。
「実は、鬼越がコレになった」
声を潜めながら、鯨井は右手で喉元を掻き切るような仕種をした。
「え、クビ?」
大抵のことには驚かない自信はあったが、さすがにこれは大きな声が出てしまった。幸い廊下には二人以外に人影はない。
「正確には指揮官を解任されたということになる」
鬼越というのは、捜査一課に四人いる調査官のうちの一人だ。調査官とは、複数の係を統括する管理職ポストのことで、その呼び名は各都道府県警察によって違う。警視庁では管理官、他の県警では調査官、あるいは指導官と呼ばれている。
ともかく、鬼越は現在、捜査一課の調査官として配下の班を従え、ある事件の捜査にあたっているはずだ。
「どうして、そんな?」
「詳しいことは中で猿渡さんが説明してくれる」
そう言って鯨井は、廊下の突き当たりにある会議室の前で足を止めた。ノックをする。
「入れ」
猿渡の声がした。
「失礼します」
鯨井に続いて、上野は入室した。
中には二人の人物が待ち構えていた。
一人は上野をここへ呼びつけた刑事部のナンバーツー、参事官の猿渡誠警視正。年齢は鯨井と同じく五十代後半だが、上背があり、がっしりとした体の上に、日に焼けた四角い顔が載っている。
そしてもう一人は玉城日菜子。この春に赴任してきた刑事部長だった。上野とは同年代だが、キャリアの彼女の階級は警視長。刑事部門のトップでもある。
「鬼越のことは聞いたか」
上野を見ながら猿渡が口を開いた。
「指揮官を解任されたということは……。なにがあったんでしょうか」
「上尾警察署長時代のパワハラについて内部告発があった」
「上尾警察署長の頃……、そんな過去の話をいまさらですか」
「過去だろうと現在進行形だろうと、告発があった以上、調査はしなくてはならないからな」
「ではまだ、パワハラをしたと確定したわけではないんですね?」
「そうだ」
それなら指揮官の職を解くのは、早計だったのではないだろうか。
上野はそう思ったが、これは心の中で呟くだけに留めておいた。
恐らく上層部は、鬼越の件がマスコミに漏れることを警戒しているのだろう。昔なら職は解かず、パワハラについては調査中という答えで乗り切れたが、昨今の風潮的にそうもいかなくなってきている。
「鬼越にはしばらく自宅待機を命じてある。今後の調査でパワハラがあったと正式に確認されるまでは、後任の人事も行われない。そこでお前に、先週発生した飯能市の事件を指揮してもらう」
飯能市の事件というのは、四日前、市内の山林で男性の遺体が見つかった事件のことだ。
驚きはなかった。鬼越が解任されたと聞き、この場に刑事部門のトップとナンバーツーが顔を揃えていることからも、用件はそれだろうと見当はついていた。
上野は現在、埼玉県警刑事部捜査一課に所属し、階級は警部、役職は調査官心得となっている。心得というのは、言い換えれば代理や補助という意味だ。本来その役職につくべき人員が不足している、あるいはいずれ近く、正式にその役職につく人物に、一時的に冠するものであることが多い。
上野の場合、両者のどちらの意味も含まれており、責任も権限も他の調査官と変わらなかった。だから鬼越が更迭されたことで、彼の役割が上野に回ってくることはなんら不思議なことではない。
ただし、上野は先週までほかの事件を担当していた。それが無事解決に至り、残っていた諸事を片づけて、ようやく休みに入ったところだった。むろん、捜査一課の調査官ポストに就いた時点で、ゆっくり休みが取れるとも思っていなかったが、ここまで急な呼び出しは初めてのことだ。
上野は気持ちを切り替えた。
「捜査はどこまで進んでいるんでしょうか」
「いまは被害者の交友関係を洗っている」
もし有力な被疑者が見つかっていれば、猿渡はそう答えるはずだ。つまり捜査はまだほとんど進んでいないということになる。