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翌朝、上野はむかむかする胃袋を抱えたまま、夫と息子の朝食を用意した。トーストと目玉焼き、そしてウィンナーを軽く炒めただけではあったが、主婦らしいことをしたことで気分は満たされた。
その一方、彼女自身は食欲がなかった。夫と息子が食事をする傍らでコーヒーに手を伸ばす。昨晩あれから、ポテトを一袋とハンバーガーを電子レンジで温めて食べた。事件のことをあれこれ思い巡らせているうち、食欲を抑えきれなくなってしまったのだ。ダイエットしなくてはならないのに。
自己嫌悪に襲われながら、続けざまに二杯、ブラックコーヒーを胃に流し込んだ。これは絶対によくない習慣だ。だがこれから始まる長い一日に備えるには、カフェインは絶対に必要だった。
「どうやら、お出迎えが到着したようだぞ」
ネクタイを締めながら、夫が窓越しに外の様子を窺った。
「え、もう?」
台所で洗い物を片付けていた上野は慌てて、夫の傍らに並んだ。
窓の外を見下ろすと、集合住宅に接する道路脇に、ハザードランプをたいた黒塗りのSUV車が停まっていた。傍らには天堂重光と、見知らぬ若い女性警察官が立っている。
「出世したなあ」
「やめてよ」
からかう夫の腕を軽く叩くと、大急ぎで身支度を始める。
埼玉県警では、運転手付きの車で送迎されるのは、捜査一課長以上だ。しかし今回、現場が交通の便の悪いところにあるため、特別に送迎車を用意してもらうことになった。
スラックスに足を通したところで、緊急事態に見舞われた。ウェストの肉がはみ出て、ボタンが閉まらない。
先日まで着ていたスーツは体に合っていたが、まだクリーニング店に預けたままだ。
確かクローゼットの奥に、もう一回り大きなサイズのスラックスをしまってあったはずだ。一年前、捜査一課の調査官心得となり、忙しさとストレスで、体重がマックスの値を更新してしまった時に購入したものだ。
こちらはちょうどいい。ただし、秋冬物なので多少生地が分厚いという欠点はあるが、そこは目を瞑るしかない。
「もう出るから、あとお願いね」
夫にそう声をかけ、トートバッグを肩にかけながら玄関へ向かう。その後ろから息子の声がした。
「車だけどさ、次はもっと離れたところに停めるよう言ってくれよ」
「どうして?」
「母親が黒塗りの車で送迎とか超格好悪い」
「むしろ名誉なことだと思いなさいよ」
息子は不貞腐れたように唇を窄めて、上野に背を向けた。
「次はない。送迎は今回だけだから。じゃあね、行ってきます」
返事はなかった。
まったく、可愛くない。
行ってきまーす、ともう一度声に出して、上野は玄関のドアを開けた。
このマンションを購入したのはおよそ十五年前のことだった。予算に見合う物件の中から、夫の職場に近いことに加えて、車で十分ほどのところに上野の両親が住んでいるという条件も、ここを購入した理由の一つだ。
県警の働き方改革の影響があったとはいえ、両親のサポートなしには、警察幹部という働き方を選択することは難しかっただろう。
さらにマンションには、上野たちと同年代の夫婦が多く居住していた。この十五年間でみな同じように年齢を重ね、子供たちも大きくなった。隣近所と頻繁に交流があるわけではなかったが、子供たちになにかあれば、自然と耳に入ってきた。干渉しすぎるでもなく、無関心すぎるでもなく、共働きの上野家としては、このマンションの暮らしを気に入っている。もっとも、配属によっては単身赴任を余儀なくされることもあり、上野はトータルで十年も暮らしてはいなかった。
マンションのガラス張りのエントランスドアを抜けると朝の心地よい陽光が顔に降り注ぐ中、上野はわずかに目を細めて、街路樹の下にいる天堂たちの方へ歩みを進めた。
「おはよう、天堂さん」
「おはようございます」
痩せた背の高いシルエットが、日陰から現れた。
「急な呼び出しで申し訳なかったわね」
「いいえ、またご一緒できて光栄です」
天堂との付き合いは、上野が初めて所轄の刑事課長を拝命した時から数えて、かれこれ七年になる。上野より一回り近く年上だが、強行犯係の刑事としては珍しく、実直で温厚な性格で、未熟な刑事課長だった上野を陰ながら支えてくれた。
「こっちは飯能署の真砂璃々亜巡査長、今日の運転係です」
天堂が傍らにいた女性警察官を振り返った。
「よろしく、真砂巡査長」
「は、はい、よろしくお願いいたします」
上野が声をかけると、真砂は緊張も露わに直立不動で声を張った。朝から元気一杯だ。
ショートカットで丸顔のとっつきやすそうな顔立ちをした真砂は、上野より身長は低いが控えめに言って肉付きが良い。ただし上野の場合と違って、真砂の体には張りがある。
学生時代は柔道でもやっていたのだろうか。腕回りが太く、紺色の上着がきつそうだ。
上野が真砂から関心を逸らした時、息子とその友人がマンションの敷地から出てきた。
「なあ、あれってお前のお母――」
「いいって」
そんな会話が聞こえてきた。
息子は友達の制服を引っ張りながら、急ぎ足で反対の方角へ歩き去った。
小さい頃に、母親の手を振り払った時からなにも変わっていない。
上野は苦笑を隠して、天堂たちに向き直った。
「じゃあ、行きましょうか」
ドアを開けてくれた真砂に礼を言って、上野は後部座席の奥に身を滑りこませた。
「天堂さんも後ろでレクをお願いします」
「わかりました」
天堂が上野の傍らに座り、真砂も運転席についた。
「それでは出発させていただきます」
真砂が畏まった声で告げて、車は走り出した。
現場はここから、車で一時間半ほどかかる。レクを受けるには十分すぎる時間だった。
天堂には昨日のうちに、特捜本部に入るよう頼んであった。峰岸からの報告では拾いきれなかった、さらに細かい捜査状況を把握してもらうためだ。
天堂は期待通り、上野が目を通しておくべき資料を揃えてファイルにまとめてくれていた。こういう事務的な処理能力の高さも、上野が天堂を買っている理由の一つだ。
さらに五十代半ばという年齢でありながら、IT関連にも強い。その昔、ウィンドウズ95の登場に熱狂したタイプだったらしい。
「AIなどの最新の技術はチンプンカンプンですがね」と謙遜するが、最近ようやく電子マネーの使い方を覚えた上野よりは、圧倒的にデジタル社会に順応している。
ファイルにざっと目を通す。昨日の峰岸の説明と大きな違いはない。どうやら隠されている事実はないようだ。時として現場は、捜査幹部に情報を隠すことがある。いちいち報告していられない、という理由もあるし、下手に捜査に干渉されたくない、という思惑もある。
特に峰岸とはまだ信頼関係を築けていない中で、向こうが全ての情報を上げてくるかどうか疑ってかからなければならなかった。だからこそ、天堂のような心を許せる部下が必要なのだ。
「今回の事件、天堂さんの考えを聞かせてもらえますか」
「犯人像を特定するには証拠が少なすぎますが」
そう前置きをして、天堂は話し始めた。
「犯人は複数、ひょっとすると指示役と実行役とにわかれているのかもしれません。少なくとも実行役の中に、土地勘のある者がいたことは間違いないでしょう」
埼玉県は東京都のベッドタウンとして、人口が急増する都市がある一方、郊外に行けば手つかずの自然が広がっている場所も多い。とはいえ、闇雲に死体を遺棄すればすぐに発見されてしまう危険もあった。まして今回は生き埋めにされている。場所の選定は重要だったはずだ。
上野は木箱にあったゴムホースと、飲料水についての見解も尋ねた。
「当初は殺意もなく、被害者を脅す目的だったという線も捨てきれません」
「その点は峰岸班長も同意見でした。被害者はよほどのトラブルを抱えていたということでしょうか」
「峰岸班の捜査もそこに重点を絞っているようです」
天堂の報告を聞きながら、上野は空腹を覚え始めた。
バッグを探り、中からチョコレート味のプロテインバーを取り出す。
「朝食を食べる時間がなくて」
天堂の視線を気にしながら、包みを開ける。
「天堂さんも食べます?」
予備としてバッグにはまだ二本入っている。
「いいえ、私は」
上野の食生活について、天堂はもういちいち驚きもしなかった。
プロテインバーを食べ終わった頃、車は山道に入った。カーブは比較的緩やかだが、道幅は狭く、真砂はスピードを落として慎重にハンドルを操っている。
現場へ続く道沿いには複数のキャンプ場が点在する。さらに現場を抜けて北上したところには登山口もある。週末や長期の休みの期間は人の目が多くある場所だと言えるだろう。
反対に平日は寂しい場所のようだ。上野は腕時計に視線を落とした。午前九時になるところだった。先ほどから一台も対向車とすれ違わない。
現場は車のナビゲーションシステムには登録されておらず、所有者の白金からはあらかじめ、目印となりそうなものを伝えられていた。
二つ目のキャンプ場の看板を過ぎたあと、川を渡っておよそ四百メートル走行すると二股にわかれた道が現われる。そこを左へ進む。あとは現場まで一本道だという。道は狭く、対向車が来たらすれ違うことは難しい。退避場所もなく、真砂には緊張の続く道のりだろう。
幸い、トラブルもなく現地に到着した。暇を見ては白金が手入れをしてきたらしく、土地は整地されていて、車を乗り入れる場所もあった。数日前の大雨の影響か、地面はまだぬかるんでいる。三人は用意してきた長靴に履き替えて、車を降りた。
木箱が埋まっていた箇所はぽっかり穴が空いて、わずかに雨水がたまっている。思っていたよりも穴は浅い。
「木箱の一部が壊れていたということですが、雨の影響でしょうか」
「そもそも強度に問題があったようです。蓋などは接着もされておらず、数枚の板が被せてあっただけだったとか」
上野と天堂は穴の周囲を観察しながら言葉をかわした。事件からすでに六日目。あれからまた少し雨が降ったりもして、穴は崩れかかっていた。
「巡査長、昨日見つけた動画を調査官にお見せしてくれ」
「は、はい」
興味深そうに穴をのぞき込んでいた真砂が、天堂の一声で弾かれたように車まで戻った。すぐに片手にタブレットを持って、後ろに泥を跳ね飛ばしながら駆けてくる。
天堂は苦笑を浮かべながら、上野に説明した。
「白金氏は、多い月には二、三回、動画撮影のために現場を訪れていたそうです」
「動画撮影ということは、ユーチューバーとかそういうことですか」
「白金氏曰く、動画の撮影はあくまで趣味の範疇だそうです。ただし、この場所の動画は再生数が伸びているようですね」
「こんななにもない山奥の動画が……」
「去年は現場から生配――これはテレビの生放送みたいなものだと思ってください――を何度か行っていたようです」
日頃、アウトドアにも動画配信というものにもなじみの薄い上野は、戸惑いながら天堂の話に耳を傾けていた。
そう言えば息子もいつだったか、ゲーム配信とかいう動画を見ていた。共通の話題がほしくて試しに視聴してみたが、他人がゲームをしながらただ騒いでいるだけにしか見えない動画のどこに、夢中になれる要素があるのか全く理解できなかった。
「最近の動画は素人の撮影とはいえ、レベルの高いものが多いですよ。編集も凝ってますしね。私もよく見ます。準備できたか」
天堂が真砂に振り向いた。
「は、はい。こちらが、白金氏の動画です。この場所で撮影されたものは七本確認できています。一番古いものがこれです」
真砂はタブレットの画面を上野の方へ傾け、動画を再生した。
現地までのドライブ映像を流しながら、白金がナレーションを被せていた。
山を買うに至った簡単な経緯のあと、いくつか候補地を回った結果、埼玉県の南西部に位置するこの場所を買うことに決めたと話している。決定するまで数回の下見を繰り返したこと、購入額は当初の予算より若干オーバーしたこと、それでも決め手となったのは、東京からのアクセスの良さ、近くを川が流れていることなど複数の理由を挙げる。
とりわけ重要だったのは、土地が道路に面していることだったという。その理由は建築基準法にあった。
「建物を建てるには、幅四メートル以上の道路に、二メートル以上接していなければなりません。白金氏は将来的に、何か小屋のようなものを作ろうと計画していたようですね」
天堂が補足した。
やがて映像は、見覚えのある景色に変わった。上野たちが通ってきた道だ。
「映像の中で、この土地の場所には言及しているの?」
真砂に尋ねた。
「い、いいえ、正式な場所はぼかしてあります。しかし、映像の中には案内標識や飲食店の看板などはそのまま映っているので、特定は難しくないかもしれません」
「じゃあ、犯人も動画を見て、この場所を見つけた可能性も考えられるということね?」
「えっと、この目撃者の方のチャンネルは登録者数がおよそ一万人。この動画自体は十万回近く再生されていますので……」
「十万回? 一人の会員が何回も視聴したということ?」
「いいえ、そうではなく、動画は登録しなくても、誰でも見ることができます」
緊張も手伝ってか、真砂の説明はまどろっこしい。それでも辛抱強く耳を傾けた。
登録者数は、動画で広告収入を得る際の指標の一つなのだという。登録者数が多ければそれだけ人気のチャンネルということになり、さらに大勢の視聴者を集めることもできるそうだ。
「登録者以外の誰が視聴したか調べる方法はないの?」
「あ、ええっと、どうでしょう。運営会社は動画の配信者に対して、解析レポートを公開しています。ですがそこでわかることは、視聴者の年齢や性別などの属性、アクセス時間、興味を持った動画といった内容で、個人の特定はできないようです」
「さらに付け加えると、アカウントを登録してログインした状態で視聴した場合、動画の運営会社には履歴が保管されますが、アカウントがなかったり、ログインせずに視聴したりした場合は、身元を特定するのは難しいのではないかと……」
真砂の説明を天堂が補った。
「仮に十万回のうち、一人が二回見たとしても五万人。運営会社ではIPリストも保管しているでしょうから、追跡は不可能ではありません……。ですが、海外からのアクセスやVPN経由、ネットカフェ、無料WiーFiなど、以前より身元をわかりづらくしてアクセスする手段は増えています」
いまの話の内容は半分も理解できなかったが、要するに追跡は不可能ではないが、簡単ではないということのようだ。
別の白金の動画が再生される。この場所を整地した時の記録だった。
余計な木々を伐採し、切り株を掘り起こし、雑草を刈り取り、小型重機を入れて整地した挙句、土壌改良まで行っていた。春になったら畑を作ると説明している。
「でも遺体が埋まっていた土地で暮らすのって、いやですよね……」
動画を眺めながら真砂が顔を顰めた。
「調査官、ちょっと」
天堂はなにか気が付いたように、木箱が埋まっていた穴の側に戻った。上野もついていく。
「地中に穴を掘るというのは想像以上に重労働です。バックホーなどの重機を使うのが一番手っ取り早いですが、見たところこの穴は、スコップによる手掘りと考えられます。ここは土壌改良されて土が柔らかくなっていた。だから手掘りするのも楽だったでしょう」
頷いた上野に天堂は続けた。
「必ずしも複数犯ではないかもしれません」
「被害者を薬で動けなくし、車でこの場所まで乗り入れたとするなら、確かに難しくはないでしょうが、被害者の体重は確か……」
上野は検視の内容を思い返した。
「六十キロ台後半。木箱の重さも合わされば七十キロを超える。それを一人で地中に埋めるのは難しいのでは?」
「木箱だけあらかじめ、地中に埋めておいたのかもしれません。木箱に使われたベニヤ板は厚さが四ミリ、一番大きなもので六十センチ四方だったと聞いています。それなら一枚あたり一キロにも満たない。普通乗用車にも積み込めて、一人で荷下ろしできます」
「犯人はここで木箱を組み立てたと?」
「強度についてさほど気にしていなかったようですからね。被害者を脅すのが目的だったとするなら、手っ取り早く箱を作って、閉じ込められればそれで良かったのかもしれません」
あとは薬で体を麻痺させられた被害者を引きずってきて木箱の中に落とし、上から蓋を閉め、土を被せる。
犯人が体の大きな男なら、さほど難しいことではないだろう。
天堂の仮説は一考の余地がありそうだ。あとで峰岸班と情報を共有することにしよう。
「そろそろ引き上げましょう」
一通り現場を見終わって、上野が車に戻りかけようとした時、上着のポケットの中でスマホが振動したのがわかった。
こんな場所でも電波はちゃんと届いているようだ。誰からの電話なのかちらりと確認する。
玉城刑事部長。
上野が直感的に嫌悪感を抱いたキャリアの女刑事部長が、いったいなんの用だろう。
上野は二、三秒逡巡し、スマホをポケットに戻した。
あとでなにか言われたら、着信には気が付かなかったと言い訳すればいい。