「それともう一つ。被害者たちは拉致された順に、巡査長、巡査部長、上司、そして被疑者へと役割を変更させられました。しかし、諸橋茜とA氏については被疑者を経ることなく、刑が宣告されました。これはどういう理由なのか」

 上野は再びホワイトボードを振り返り、これまでの被害者たちの氏名を確認した。

 

 久保田春雄

 桑畑公一

 古関智也

 諸橋茜

 久宝凪子

 樺山則夫

 A氏

 

 上野が注目したのは久宝と樺山の二人だった。

「犯人は被害者たちを生き埋めにしましたが、運が良ければ……犯人の言葉を借りるなら、罪が許されれば助かることができる、という選択肢を与えました。とはいえ、これらは全て、犯人のコントロール下で行われていたこと。いわば被害者たちの生殺与奪の権利は、犯人が握っていたことになります。ところが、久宝さんと樺山さんだけは、犯人が意図していない理由で亡くなってしまいます。一人は行き過ぎた暴力の結果として。そしてもう一人、樺山さんはおそらく、その人物を死に追いやってしまった罪悪感に堪えかねて、自ら死を選んでしまったのではないかと考えられます」

 樺山も他の被害者たちと同様、ごく普通な人生を歩んできたサラリーマンだった。極限状態の中、古関には容赦なく暴行を加えていたとはいえ、少なくとも取調室内で、古関はまだ生きていた。彼を死に追いやったという実感は乏しかったことだろう。だが、久宝は目の前で亡くなった。自分が殺してしまったのだという罪の意識から逃れることはできなかったはずだ。

「この二人の死が、何か犯人の心境に変化を与えたとは考えられないでしょうか。だから、諸橋さんやA氏に罪の告白をさせることはやめ、ただちに判決に移った」

「それで終わりにしようと考えたということですか」

「確信はありません」

 峰岸の問いに上野は力なく頭を振った。

 上野が口にしたことは全て、憶測に過ぎない。茜とA氏に限っては、たまたま犯人の気まぐれで取り調べを行わなかっただけかもしれないのだ。

「ひょっとすると今頃、また新たな被害者が拉致されているかもしれません……」

 上野はそこではたと思い出した。

「そう言えば、A氏はどうなったのか、諸橋茜の証言から手がかりは?」

「ありません」

 門伝が厳しい顔つきになった。

 上野は腕時計に目を落とした。

 茜が発見されてからそろそろ四十八時間になろうとしている。

「もしA氏が抵抗を続けたとすれば、既に殺害されているかもしれません。しかし最終的には、諸橋茜と同じ選択肢を取ったとすれば、彼もまたどこかに埋められている可能性があります」

 全員がはっとした表情になる。

「これまでの被害者と同様ならば、少なくとも水と空気は確保されているかもしれません。暴行も受けていなければ、体力的にはまだしばらく生き延びられると考えていいでしょう」

 ただし、木箱が壊れて、土砂に埋もれていない限り、という条件はつくのだが。

「ただちに県内全域を捜索する必要があります」

「しかし、範囲が広すぎます」

 峰岸が途方に暮れたような表情を浮かべるのももっともだ。

 これまでの傾向では、人里からそう遠くない場所に埋められていると考えられるが、そんな場所は県内に無数に存在する。

「門伝、もう一度諸橋茜を聴取してきて。どんな些細なことでもいい。A氏が埋められている場所に繋がりそうなことを聞き出して。いまは彼女の供述に頼るしかない」

「わかりました」

 門伝が急いで部屋を出ていった。

「このあとのことですが、捜査員たちにはどこまで情報を開示しますか」

 峰岸の言葉に、上野はしばし考え込んだ。

 情報は知る人間が多ければ多いほど、外部に流出しやすくなる。

 犯人が警察の取り調べを模しているという情報は、まだ伏せておきたかった。

 ただでさえ今回の事件は『棺桶殺人事件』などと、週刊誌ではセンセーショナルに書き立てられていて、警察の捜査の遅れを指摘する声と共に、世間の関心を集めている最中だった。

 いずれはマスコミにも事実を明らかにしなくてはならないが、警察としてはもう少し犯人像やその目的が明確になってから、事実は公表したかった。

「いまのところ、事実を明らかにするのは捜査一課の人間だけにしてください」

「警視庁の連中には?」

 百武たちの存在をうっかり忘れていた。

「百武さんには私から説明します。ただし、諸橋茜の精神的動揺が激しいため、聴取は遅れているということにしようと思います」

 こちらが完全に優位に立ったことを確信できるまで、情報は握っておきたかった。

 

 

 事件の規模、その犯行の残忍性、そして未だ犯人に繋がる手がかりもない中、上野は一人、捜査幹部たちからつるし上げを食らうような格好となった。

 県警本部長、刑事部長、参事官、そして捜査一課長。

 彼らを前にして、上野には弁明の余地もなかった。

 唯一、幸運だったと言えることは、本部長が同席していたせいなのか、玉城から上野に対して直接、捜査指揮に対する言及がなかったことくらいだろう。

 緊急配備を敷いてA氏の捜索を行うにあたり、明日、捜査一課長らがマスコミに対して記者会見を開くという。そこで何を話して、何を話さぬべきなのか。その検討も重要な議題となった。

「警察関係者の可能性があるというのは本当なのか」

「いいえ、それはまだわかりません」

 本部長の問いに、上野が直接答える。

「犯人は一人なのか、複数なのか」

「我々としては、単独でも犯行は可能という見方を取っていますが、複数である可能性も排除しきれません」

 上野が質問に答えるたび、本部長の顔色がどんどん土色になっていった。

「では結局のところ、記者会見で話せることは、身元不明の被害者、A氏に関する情報提供の呼びかけと、SNSでの個人情報公開に注意を払うべきだという市民への警告だけ、ということのようですね」

 玉城の言葉はその場にいた幹部たちに発せられたものだったが、上野には自分に向けられた言葉のように感じられた。

 

 警察幹部への報告を終えた頃には、深夜近くになっていた。

 捜査本部へ戻るため、暗く長い廊下を歩いていると、ちょうど門伝と出くわした。

「いま峰岸さんにも報告を終えましたが」

 そう前置きして、門伝は改めて茜に聴取した結果を報告した。

「やはり、A氏の監禁場所について、彼女は手がかりとなる情報を持ってはいませんでした」

「わかった。ご苦労様。今夜は帰ってゆっくり休んで」

 上野は落胆する気持ちを堪え、門伝に労りの言葉をかけた。

「今夜は泊まります。どうせ帰っても数時間もしたらまた起きなきゃなりませんから」

 門伝があっさりと答える。

 二人は並んで廊下を歩き始めた。

「調査官、一ついいですか」

 上野は頷いた。

「私をまるで半人前みたいに扱うのはやめてもらえませんか。特に上司や同僚がいる前では」

「なんのことを言ってるの?」

「最初に諸橋茜の聴取に向かう時、言いましたよね。慎重にって」

「あれは別に半人前に扱ったわけじゃない。念には念を入れたかっただけのこと」

「じゃあ、私が女じゃなく、男だったとしても同じように声がけをしたと?」

 ああ、なるほど、そういうことか。上野は内心でため息を漏らした。

「いちいち目の前にいる捜査員が、男だとか女だとか、そんなことを区別して声をかけたりはしない。ただ、私はこの捜査に責任がある。万一に部下が失敗をしたとしても、それは部下にその仕事を任せた私の責任。だから細心の注意を払うよう部下には言葉をかけるし、そこには男も女も関係ない」

 それでも門伝はまだ何か言いたそうな顔をした。

「確かに、あなたを信頼しきれなかったことは認める。でも、私があなたたち峰岸班のメンバーと仕事をするようになって、まだ一ヵ月かそこらで信頼しろと言われても無理がある。あなただって、上司としての私の能力を信じ切ってはいないでしょう?」

 門伝は僅かに口元を歪めた。

 お互い、信頼を勝ち得るにはもう少し時間が必要だった。しかし、事件解決を優先する中で、そんな猶予はない。

「だけど……あなたが優秀な捜査員であるかどうかは、峰岸さんの態度を見ていればわかるはずだった。彼は何かあれば必ずあなたの意見に耳を傾ける。それは彼があなたの能力を高く買っている証拠。そこを信じ切れなかったのは私の落ち度でしょうね」

 上野はこちらから歩み寄る姿勢を見せたが、門伝は無言だった。二人の間の壁はまだ高そうだ。

 諦めて正面を向こうとした時、不意に門伝が口を開いた。

「そう言えば、噂で聞いたことがあるんですけど、調査官が若い頃、女はいいよな、いつでも泣けてって上司に言われて、男だっていつでも泣いていいんですよって言い返したって。それって本当の話ですか」

 突然の質問に、上野は小さく笑った。

「ああ、あれね。言われたことは本当。でも、皆が思ってるような武勇伝とはちょっと違う」

 上野は当時のことを思い出した。上野が三十代の頃のことだ。

「あれはひどい事件だったの。幼い子が犠牲になって、そういう時、捜査員はみんなショックを覚える。特に子供を持つ親の場合はね。私だけじゃなくみんな泣いてた。ただ一人、上司だけが泣いていなくて、その彼がぽつりと零したの。女はいいよな、人前で泣けてって。嫌な言い方じゃなかった。その人は年齢的にも、男は人前で涙を見せないものだと教育されて、育ってきた世代だった。だから、言ったの。男が人前で泣いたって、全然恥ずかしいことじゃないですよって。それから上司はしばらくどこかに消えて、戻ってきたときには目を真っ赤にしていた。その時思ったの。男は男でいろいろ大変だなって……」

「……なあんだ」

 薄暗い廊下に門伝の小さな笑い声が響いた。

 笑うと彼女は日本人形のように魅力的だった。

 

(つづく)