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「ただいま」
玄関を入ってすぐに、上野は自分の期待が萎んでいくのを感じた。急な呼び出しを受けて出かける前、夫に連絡し、今夜はすき焼きであることを伝えた。夫は市役所に勤務していて、ちょうど春の繁忙期を終えたところだった。今日は定時で上がれそうだと話していたので、帰ってから野菜を切ったり、割り下を準備したりするくらいはできるはずだ。
しかし玄関から居間に向かっても、すき焼きの香りがしない。遅くなっても夕食は家で食べると伝えておいたから、片づけてはいないはずだ。
「お帰り」
リビングのソファに座り、スマホをいじっていた夫の弦が顔を上げる。
上野は食卓に視線を走らせた。マクドナルドの袋がぽつんと載っている。
「どういうこと?」
「肉が冷凍庫に入っててさ」
夫によればこういうことだった。
彼が仕事から帰ってきていざ調理を始めようとすると、すき焼き用の肉が冷凍庫に入っていた。急いで解凍しようとしたが、電子レンジを使うとせっかくの良い肉を台無しにしてしまうかもしれない。
「それですき焼きはまた今度にして、マックになった」
「えっ、信じられない」
猿渡の呼び出しを受けて、急いでスーパーから戻ってきた時、家には息子の怜大がいた。買ってきた食材を冷蔵庫に入れておくよう言いつけておいたのだが、いつものごとく、生返事で面倒くさそうにしていたことを思い出した。
「ちゃんと冷蔵庫に入れておいてって念を押したのに」
思わず声を高くした上野に向かって、夫はしいっと人差し指を唇にあてた。
「失敗したことは本人が一番わかってるよ。そのマックもあいつのおごりだ。一日分のバイト代が全部吹っ飛んだんじゃないか」
夫の視線が息子の部屋の方を向いた。夕食が終わるといつも早々に自分の部屋に引きこもってしまう。今夜もその例にもれていない。
上野は小さくため息を漏らし、テーブルの上のマクドナルドの袋を手に取った。中にはすっかり冷めきったハンバーガーと、しなしなになったフライドポテトが入っている。
「事件?」
弦が冷蔵庫から缶ビールを取り出しながら振り返った。上野も飲みたかったが、このあと風呂に入るのでいまは我慢だ。
「そう、飯能市の」
「山林から遺体が発見されたあれか」
プシュッとプルタブが開いた音がする。
結婚以来、家で事件の話をすることはほとんどない。夫も積極的に関心を持ってくることはないが、妻がどの事件現場にいるのかくらいは、把握しておきたいだろう。
「すき焼きはその事件が解決してからでいいよ。どうせ一週間もすれば目星がつくんだろう」
「そう願いたいけど……」
昨今、事件解決のスピードは目覚ましい。科学捜査の進歩と防犯カメラの普及がその理由の大半を占めている。だが今回の事件は、防犯カメラの映像は期待できない。指紋やDNAなどの科学的証拠もいまのところ見つかっていなかった。
「猿渡さんに呼び出される時って、絶対一筋縄に事が運ばない時なのよね……。ほんと鬼門」
「猿なら鬼門じゃなく裏鬼門だろう」
「どういう意味?」
「古来、日本では方角に干支を当てはめる。鬼門の方角は北東、古くは丑寅と呼ばれ、対する西南は裏鬼門となり、未申と呼ばれてた」
缶ビールを飲みながら、猿のように顔を真っ赤にした弦が得意気に説明する。
「ふうん……」
どうやら手にした缶ビールは、それが最初の一杯ではなかったようだ。
市役所で働く夫も管理職になり、仕事のストレスを酒で紛らわせたいという気持ちは理解できる。しかし息子の怜大はこれからまだ大学受験を控えていて、夫には健康でいてもらわなければならなかった。
小言を言おうとして、思い直した。
またしばらく、家のことは後回しで事件解決に奔走しなくてはならない。今夜は目を瞑ることにした。
「すき焼きは早いうちに食べちゃって。野菜も悪くなっちゃうしね。それとあんまり飲み過ぎないでよ」
最後に夫に軽く釘を刺し、上野は浴室へ向かった。
洗面所の鏡に映った自分の姿を見て、今日は美容室へ行ったことを思い出した。
せっかく高いトリートメントでつやつやにしてもらった髪の毛を洗うのはもったいない。だが明日からは、のんびり風呂を楽しむ暇もなくなることだろう。
服を脱ぎ、洗面所の鏡に映る我が肉体を薄目に観察する。胸は重力に抗う術を知らぬかのように、見るたびに垂れ下がっていくばかりだ。腹のぜい肉は摘まんで上下に動かすと、面白いくらいにぷるんぷるんと揺れる。
恐る恐る体重計に乗った。
三ヵ月前に測った時より、五キロも増えている。
鯨井の体形をとやかく言っている場合ではなかった。
食は年々細くなり、脂っこいものも受け付けなくなっているというのに、体重の増加は止まらない。特に事件を担当している間は、食事の時間が不規則となることや、ストレスもあって過食に走ってしまう傾向があることは自覚していた。
ストレスで食が細くなる人間より、お前みたいなタイプの方がこの仕事には向いている。いつだったか、猿渡にそう褒められたことを思い出した。
浴槽の中で腹のぜい肉を摘まみながら、捜査幹部たちはみんな太っていることに気が付いた。
やっぱりいまの仕事は、健康的とは言い難いようだ。
風呂から上がると、夫は既に就寝していた。
テーブルの上にメモが載っている。
【ポテト、チンして食べな】
息子の字だ。ちらっと息子の部屋の方を窺う。自然と笑みが零れた。
「また太らせる気かい……」
独り言を呟きながら、ポテトを一本摘まむ。しなしなだが酒のあてとしては、塩味が効いていて悪くない。
日頃は憎まれ口ばかりの息子だが、肉を冷凍してしまった失敗を挽回しようと考えてくれたことは嬉しかった。
上野が弦と結婚したのは二十七歳の時だ。その翌年に怜大が生まれた。実を言うと、これはやや予定外のことだった。
有名な日本人メジャーリーガーほど具体的な人生設計を描いてきたわけではないが、何歳で結婚し、何歳で刑事になって、しばらく経験を積んでから子供を産もうという具合に決めていた。
とは言え、妊娠は嬉しい誤算だった。
いつの間にか刑事として一線で活躍しようという野心は萎み、できるだけ子供と一緒に過ごすにはどうするのが一番いいかと考えるようになった。
多くの女性がそうであるように、女性警察官にとっても、結婚、出産は、人生の大きなターニングポイントだ。働く部署によって違いはあるものの、上野がいた刑事課は、当直や急な呼び出しが多く、子育てをしながら以前のように働くことは厳しいと感じた。加えて、ちょうど警部補への昇任も決まり、これから責任も重くなるという頃だった。
いまは仕事より子供のことを最優先にしたい。上野は真剣に仕事を辞めようか悩んだ。
ひとまず退職は先延ばしにして、産休と育休を取って復職してみると、当直を免除してもらったり、保育園の送迎に支障のない職場に配置してもらったりするなど、当時としては最大限の配慮をしてもらうことができた。もちろん、そのことを不満に思う同僚がいたことも事実ではあるが。
未だに警察の働き方がブラックであることは否定しない。だが上野の体感としては、二〇〇〇年代に入ってから少しずつ、良い方向に変化し始めている。
理由の一つとして挙げられることは、全国の警察組織が人材確保に頭を悩ませていることだ。
埼玉県警に関しては、ここ十数年、ずっと志願者は減り続けている。それでいて、刑法犯認知件数が九年連続で全国ワースト一位という不名誉な記録を誇り、結果として、警察官一人当たりの負担人口は、十六年連続全国ワースト一位となってしまっている。
県警としては採用活動に取り組む一方、既存の警察官たちを引き留めておくために、働きやすさの改善に力を入れている。
上野としては、ありがたくその恩恵に与るつもりでいたのだが、思わぬところから、将来設計を変更せざるを得なくなってしまった。
それは、上野の人生の中で、なにをおいても守っていこうと考えていた息子の反乱だった。
あれは小学校へ入学して間もなくの頃だ。二人で買い物に出かけ、帰りのバスに乗った。バスはやや混んでいて、二人掛けの椅子は塞がっていた。息子と手を繋ぎ、上野はつり革に掴まった。
すると突然、息子が握っていた上野の手を乱暴に振り払おうとした。
「だめ。危ないからちゃんと手を握ってて」
なにが起こったのかと息子を見下ろすと、彼はぷいと顔を逸らし、上野から距離を置こうとしていた。
バスの前の方に、ランドセルを背負った息子と同じ年頃の男の子が立っていた。周囲に親らしき人物は見当たらない。一人で乗っているようだ。近くに座っていた女性が立ち上がり、その子に席を譲った。
「ありがとうございます」
その子はきちんと女性に礼を言い、席についた。
しっかりしている。
そう感心した途端に気が付いた。ああ、そうか。自分と同年代の男の子が一人でバスに乗っている姿を見て、息子は母親と一緒にいることが急に照れくさくなったようだ。こんなに小さくてもプライドは一人前なのだ。
その日は息子の意思を尊重することにした。
だがこれを境に、息子は少しずつ上野の側を離れるようになった。買い物に連れて行っても、以前ほどまとわりつくようなことはなく、家でもあまり話をしなくなった。
育児書によれば、男の子の方が女の子より先に親離れするとある。だが大抵は小学校高学年になってからで、小学校の低学年ではまだ早いと思っていた。
男の子なんてそんなものよ、と息子の同級生の母親と愚痴を零し合ったりもした。それでもまだ、家族での旅行は楽しみにしてくれているし、ディズニーランドでは一緒にアトラクションを楽しんだ。しかし乗り物に乗ってはしゃいでいる息子の横顔を見ながら、いつまで、この距離から息子の笑顔を見守れるのだろうという不安に襲われた。
以来、子離れという言葉が頭をちらつくようになる。
もしこの子が自分の側を離れていってしまったら、自分の生きがいはどこにあるのだろうか。
ぬるま湯のような警察官人生。これはこれで悪くはない。でも、本当にこれが望んだ人生だったのか。
上野が警察官を志したきっかけは、祖母の言葉だった。
「月子は刑事さんになるといいかもね」
祖母の家に泥棒が入ったと聞いて、誰よりも憤慨した上野に向かってかけられたものだ。
いまとなっては、本気の言葉だったかどうかもわからない。
しかし誰かのなにげないひと言が、その後の人生まで左右してしまうということはよくあることだ。もちろん、時にそれが呪縛となることもあるのだが。
もう一度、警察官としての将来を真剣に模索し始めた頃、猿渡から警部昇任の打診を受けた。
正直乗り気はしなかった。幹部警察官の働き方に魅力を覚えなかったからだ。最低でも二年毎に異動があり、部下と上司の板挟みとなり、組織そのものにも翻弄され、神経をすり減らすだけの仕事だと思っていた。男性警察官でさえ、敢えて昇任を避ける傾向にある中で、女性の上野がそんなハードな地位に就きたいとは思わない。
そもそも目指していたのは名刑事になることであって、管理職ではなかった。
それなのに――。
上野は当時のことを思い出して、洗面所へ向かった。
頼む。もう頼めるのはお前しかいないんだ。
あの猿渡に目の前で頭を下げられて断り切れなくなった。
当時、女性の幹部警察官登用に対して、幹部にはノルマが課せられていた。考えてみれば馬鹿馬鹿しい制度だ。数合わせで女性を登用したとしても、肝心の女性たちがそれほど昇任することを望んでいないという現実を無視して、うまくいくはずはなかった。
ほかの有力な女性警察官に断られた末、猿渡が最後にたどり着いたのが上野であることもわかっていた。
あの時、断っていれば、いまこんな苦労はしていないだろう。
一度、自分を徹底的に追い込んでみないか。そして行けるところまで行ってみないか。そこにどんな世界が広がっているのか、想像するだけでわくわくしてこないか。
猿渡にまんまと丸め込まれてしまった。
鏡の曇りをティッシュで拭うと、丸顔で、若い頃は愛嬌があると評された四十代の女の顔が浮かんだ。悪くない。美人ではないけれど、良い顔つきをしていると思う。
結局、誰になにを言われたかではない。決めたのは自分なのだ。
上野はこうして、新たな生きがいを、警察官として出世の階段を上ることに見出したのだった。