百武には、まだ重要参考人ではない、と答えはした。しかし深瀬多津子については、峰岸らから上がってくる報告を聞く限り、事件との関連を疑わざるを得ない。
深瀬は元々東京都の出身であったが、警察官だった夫と離婚したあと、さいたま市内で暮らしていた時期がある。
当時はまだホームヘルパーではなく、親戚が経営する飲食店にパート従業員として勤めていたという。
「その後、ヘルパーの資格を取り、東京へ越しました」
「深瀬さんは埼玉県内に土地勘があったということですね」
上野は峰岸に念を押した。
「はい。それも、単に暮らしていたからというだけではありません。ホームヘルパーとして働く傍ら、あるNPO法人にボランティアとして協力しています。そのNPO法人は障害を持つ人々に対し、様々な援助を行っていて、例えば旅行や登山、スポーツの際のサポートなども行っています。去年だけでも、武甲山と日和田山での登山に同行していました」
前者は秩父盆地の南側、後者は日高市に位置している。どちらも初心者向けのルートがあり、日帰り登山に人気のある山だ。
「さらに、およそ二年前、このNPO法人の主催でアメリカへ旅行した際も、深瀬さんはサポート役として帯同しています。アメリカでは登山やハイキングなどのほか、現地の障害者施設を見学に訪れたそうです。その時の写真も借りてきました」
上野は峰岸から差し出された資料を開いた。
「この端に写る白い帽子を被った女性が深瀬さんです」
見た目も服装も控えめな小柄な女性が、車いすに乗った数名の男女と一緒に写っている。その中には日本人もいれば海外の人々もいる。中の一人、黒人男性が乗っている車いすに上野は目を留めた。それは、今回の事件の犯人が、被害者たちを運搬するのに使ったとされる電動車いすと酷似していた。
「これは問題の電動車いすとは違うメーカーのものだそうですが、機能はほぼ同じとのことです」
NPO法人ではこの電動車いすに関心を持ち、実際に数台を購入している。
「深瀬さん本人がこの手の車いすを購入したかどうか、その点はまだわかっていませんが、存在を知っていたことは間違いありません」
上野は頷いた。
「くだんのNPO法人の関係者からは、もう一つ興味深い話も聞けました」
介護施設などで、体の不自由な人を車いすに乗せることを移乗介助と呼ぶ。これにはコツがあり、慣れれば、自分より体格の良い相手でも、一人の介護者で移乗させることができるという。
ヘルパーの研修用に作成された動画を峰岸が再生した。
ベッドに被介護者役の男性が座っている。介護者であるヘルパーは彼より小柄な女性だった。
解説のナレーションが流れる。
『患者様にはベッドに浅く腰を下ろしてもらいます。この状態から、右手を患者様の脇の下へ入れ、肩甲骨部分をサポートします。左手は患者様の骨盤の辺りをしっかりと支え、自分の体を密着させます。患者様には前傾姿勢を取っていただき、体重をこちらに預けてもらってください――』
女性の介護者はナレーション通りの動きで、患者役の男性を無事、車いすに座らせた。
「でもこれは、患者の協力があってできることではないんですか」
被害者たちは体の自由を奪われていたはずだ。そうなればこれほどたやすく事は運ばないのではないか。
「介護施設には当然、自分で四肢を動かすことの難しい患者もいるそうです。それでも、熟練の介護者になれば、相手を抱え上げて、車いすへ移乗させることも可能だそうです」
その動画も映し出される。
ヘルパーはまたしても小柄な女性で、被介護者はさっきの動画よりもさらに体格の良い男性だった。今度もヘルパーは、明らかに彼女より体重の重い患者を抱き上げ、車いすへ座らせることに成功した。
こうした介助動作は、看護や介護の現場で用いられ、ボディメカニクスと呼ばれている。関節、筋肉、そして骨などの本来の動きを利用することで、最小限の労力で被介護者を移動させたり、移乗させたりすることができるという。
「深瀬さんも当然、このボディメカニクスはマスターしていたということですね。そうなると、彼女のような小柄な女性であっても、一人で犯行は可能ということになる……」
だが、まだ決定打には欠ける。
深瀬には悪い評判が一つも聞こえてこないのだ。
近所の話、職場の話、どれを取っても彼女の人柄を褒めるものばかりだった。いつも明るく朗らかで、面倒見がよく、どんな頼みも嫌な顔一つせずに引き受けてくれる。
彼女と一緒にいると誰もが勇気づけられ、元気をもらえる、などなど。
当然、前科や何かの事件に関連したという情報もない。
そんな女性がある日突然、連続殺人犯になることなどあり得るのだろうか。
「元夫との離婚原因はわかってるんですか」
「浮気だったということです」
「深瀬さんに子供は?」
「います……いや、正確にはいました、ですね。名前は久美、亡くなっています、自殺したようです」
上野は眉を顰めた。
「自殺の原因は?」
「こちらです」
門伝が一枚の新聞の切り抜きのコピーを取り出した。
【マンションからの落下物が原因か 巻き込まれた女子中学生(13)重体】
「この事件があったのは二〇〇四年、さいたま市内の十四階建てマンションの上層階から投げ落とされた植木鉢が、たまたま下を通りかかった女子中学生の頭を直撃したというものです。病院に運ばれた時点で女子中学生は意識不明の重体でした。数日間の昏睡状態のあと、幸いにも意識を取り戻します。ですが脊椎を損傷していて、下半身不随となりました。この女子中学生の名前が長岡久美。長岡は深瀬さんの元夫の姓です」
久美は活発な少女だったという。部活は軟式テニス部に入っていた。
「懸命にリハビリに励んでいたそうですが、事故から二年後の二〇〇六年、自ら命を絶ちました」
子供の死は親にとって大きな心の傷になる。しかしそれが犯行の引き金になったとするなら、なぜ十八年も経ってから行動を起こしたのか。
「調査官、深瀬さんの名前を出した自分が申し上げるのもなんですが……」
傍らにいた天堂が控え目に口を開いた。
「ほかの被害者のSNSに、深瀬さんがアクセスしたという形跡はありません。彼女が一連の事件の犯人だとすると、なぜ桑畑さんの時だけ身元を偽らなかったのか。その点も謎です」
「深瀬さんはFacebook上で、何か桑畑さんに対して具体的なアクションは行っているんですか」
「はい。一件だけですが、桑畑さんの投稿に『いいね』をつけています」
それがあったからこそ、天堂は深瀬のFacebookに辿り着けたということだった。
「どんな投稿内容ですか」
「これです。桑畑さんが中学時代の同窓会に出席した時のものですね」
「同窓会……」
上野はもう一度新聞記事を読みなおした。
深瀬の娘の久美が事故に遭ったのが十三歳の時、その二年後に自殺したということは十五歳か。
「久美さんがもし生きていれば三十三歳……桑畑さんも三十三歳でしたね。ひょっとして、二人は中学の同級生だった可能性はありませんか」
峰岸の顔色が変わる。
「娘の自殺が何か関係していると思いますか」
「それはまだわからない……。ただ、深瀬さんが、桑畑さんのFacebookにアクセスしていたことを、単なる偶然だと見過ごすわけにはいかないでしょう」
もしも被害者の一人と、参考人の娘との間に繋がりがあったとするなら、そこに事件解決のヒントが隠されているように思えたのだ。
「いまはそこに期待しましょう」
2
〈ねえ、ほづみちゃん。さっきから気になっていたんだけど、あなたもしかして――〉
〈え、なんですか〉
〈……あ、ううん、なんでもない。忘れて〉
数日前、自宅まで送ってもらった後、深瀬を自宅へ招き入れた時のことだ。普段、滅多に人を呼ぶこともなく、天利以外の来客は久しぶりのことだった。
あの時、深瀬は何を言おうとしたのだろう。
もしかして彼女は気づいているのだろうか。
ほづみは太ももに置いた左手を強く握りしめた。
いいえ、そんなはずはない。大丈夫――。
「大丈夫?」
そんな声で、ほづみは我に返った。顔を上げると、傍らに天利が立っている。
「疲れた?」
相変わらずこちらを案じるような目で、見下ろしてくる。
彼の優しさは嬉しい。けれど、時にそれが重荷になっていることを彼は知らない。
「平気。映像が多くてちょっと戸惑ってるだけ」
ほづみが電動車いすを発見して以来、これまでの被害者たちの失踪現場近くの防犯カメラ映像が、改めて精査されることとなった。ほづみの仕事はそれらの映像のうち、映りがよくないものを、専用のソフトウェアで見やすく補正することだった。
「午後に正式な通達があると思うけど、連絡係を残して俺たちは引き揚げることになりそうだ」
「え、どうして?」
ほづみの声が思わず高くなった。
「映像の解析だけなら警視庁に戻ってからでもできるだろうって」
元々は、被害者の中に都内在住の古関智也が含まれていたことから、ほづみたち警視庁のSSBCチームに声がかかったのだ。
だが古関については、これ以上新しい手がかりは見つかりそうにない。警視庁としては今後も捜査協力は続けるが、ほづみたちが埼玉県警に常駐している必要性は薄まったと判断したようだ。
「でも、現場に近い方が仕事もやりやすいだろうって、百武管理官も話してたじゃないですか」
「うん、ただまあ、こっちは埼玉県警に居候の身だからな。ずっと会議室の一角を占拠してるのも肩身が狭いっていうか……」
天利はむしろ、引き揚げを歓迎しているような口ぶりだった。
「埼玉県警は犯人の目星がついているんでしょうか」
「参考人が見つかったって噂は聞いたけど、こっちに情報を出す気はないらしい。それで百武さんが上野調査官とやりあったって話だ」
「参考人……」
ほづみは無意識に車いすのアームレストを掴んだ。
「ところで、ほづみ」
天利が急に深刻な顔つきになり、辺りを憚るように声を落とした。
「次の診療予約、キャンセルしたんだって?」
「どうして知ってるの?」
「昨日、俺の携帯に鈴置先生から連絡があった」
ほづみは小さく唇を噛んだ。万が一の時のために、鈴置の病院には緊急連絡先を届けてある。本来は家族や親せきが望ましいが、両親を亡くし、親戚とも疎遠になっているほづみは、天利の携帯電話を緊急連絡先にしていた。
「仕事が忙しいのかって聞かれたから、簡単に事情は説明しておいたけど、通院が必要なことはチームのみんなも知ってる。一日くらい休んだって――」
「放っておいて」
「え?」
「子供じゃないの。もう病院にはいかない」
天利が硬直するのがわかった。いつもならここでほづみは笑顔を作る。そして決まってこういう。「ごめんなさい。少し疲れてるの」
でもそんな誤魔化しは今日でやめにする。
「私はもう平気。病気じゃない」
「……わかった、ごめん」
どうしていいかわからないように、天利がズボンのポケットに手を入れた。
「俺も鈴置先生も本気でほづみのことが心配なんだ。それだけはわかってくれないか」
懐柔。君のためを思って言ってるんだよ。
だがそれは、自分は思いやりのある優しい人物だということをアピールしたいだけだ。
「私、残っていいですか」
「ここに? いや、それは……百武さんがなんて言うか……」
「説得してください。この事件の捜査には私が必要なはずです。だから、警察職員である私をわざわざ埼玉県警まで連れてきた。違いますか」
「君はこの事件の捜査が始まってから、少し入れ込みすぎじゃないのかな」
「だって」
ほづみはいら立ちを隠さなかった。
「だって、罪を犯した人間はそれにふさわしい罰を受けるべきだもの!」
気が付けば強い調子で言いきっていた。
唖然とする天利と目が合った。はっとする。
「仕事に戻っていいですか」
ほづみは天利から顔を逸らし、モニターに視線を移した。
「わかった。百武さんには一応頼んでみるよ」
ほづみの強情さに呆れたように天利が呟いた。